2018-02

Latest Entries

雑記

   
 受け取る年賀状のなかには、ハンコ(四角いハンコ、角印)っぽい枠付きデザインで「謹賀新年」などと書かれているものがあったりする(お菓子、その他の食べ物でよくハンコ風に「謹製」とか「銘菓」、「風味絶佳」などとあるのと似たようなあんばいのデザイン)。   
   
 こういうデザインを使って年賀状に、しかし「謹賀新年」以外の言葉が、それも正月とどう関係があるのか不明な言葉がドデカく埋め込まれていたら愉快だろうなと思う。   
   
 やはり四字熟語として・・・例えば「臥薪嘗胆」、「捲土重来」などだったら?   
 年賀状を受け取った側としては「この人、左遷でもされたんだろうか?」などと思うだろうか。スポーツ選手などから受け取るものであった場合、「捲土重来」には「今年の大会では優勝してみせます」的なメッセージ性を持つかな。   
   
 「端麗辛口」だったら?  「何やねん、何が言いたい?」と思うだろうなあ。   
   
 「欣喜雀躍」・・・ 「何かよいことでもあったのかな?」と。   
   
 「面従腹背」・・・ 「うっ、怖いな、何か俺に言いたいことでもあるんか?」と。   
   
   
 ほか、「酒池肉林」、「隔靴掻痒」、「一蓮托生」とかであっても、おおいに困惑させられるであろうなあ。   
   
   
   
 冬のオリンピック・・・。   
 「 南 北 統 一 旗 」と呼ばれるあの旗を、筆者は「一連托生旗」と呼んでいる。その意味や、筆者の思うところについては書けば長くなるので省略する。   
   
   
 いちばん下に配置した写真は過去のものの再掲で、マゼールとNYPが某都市を訪問してコンサートを行なったときの模様を収録しているDVD。   
 公演後のステージ裏で、マゼールとコンサート・マスターは上機嫌。このDVDは一度しか観ていないので記憶にあいまいなところがあるが、彼ら、あたかも音楽の力が友好に寄与すると信じているかのような言葉も発し・・・。あれから歳月は過ぎ・・・某国と諸外国・世界との関係は・・・。   
 ま、そういうことにこだわると、昔、米国などからロシア/ソビエトにも足を伸ばして公演した音楽家・オーケストラをどう評価すべきかということにもなってしまうけど・・・。   
 このDVDには、NYP団員が現地の学生に対して行なったレッスンの様子なども収録されている。彼ら学生は、現在ではこの国のプロの(職業としての)オケ・メンバーになっているのだろうか・・・そして、オリンピックに際して演奏披露するメンバーに加わっていたりもするのだろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 近隣諸国のうち主として2つの国の要人・識者がしばしば「日本は歴史を直視しなさい/直視せよ」と発言する。そのとき自分はムッとするわけだが、それは言っている趣旨に対してであると同時に、「何だ、その命令口調は!」との感情が生まれるということでもある。   
 筆者の場合は、受けてしまった教育、身についてしまった偏見その他により、それら2つの国の民族・国民について「一部に優秀で教養・礼節などを備えている人がいることは頭では理解しているものの、しかし、一般的に見て彼らは、人間としてかなり劣る」という感覚に染まっている・・・で、「日本や日本人、日本の政治家などに向かって命令するとは何たる無礼!」と思ってしまうわけであるなあ。   
   
 オリンピック観戦などで某国に旅行する人の参考に:   
   
  http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/02/06/2018020601000.html   
   
   
 昔、まだ昭和や平成ひと桁の頃、海外出張のときの注意事項としてこんなことが言われた: 「ヨーロッパでは料理にオリーブ油が使われていることも珍しくない。ほどほどの量ならばともかく、たくさん摂取するとこれに慣れていない日本人は、旅行での疲れとも重なり、胃腸の調子を崩すことがあるので注意。中国では、面白がって庶民的な店で食事せぬこと・・・きれいな水が潤沢にあるわけではないので、前の人が食事した皿は洗われず紙で拭かれて次の客のもとに置かれる・・・病気がうつる可能性がある。安ホテルに泊まらないこと・・・ダニなどに食われることがある。韓国人には(ひとつのグラス・酒器にて)酒を回し飲み・やりとりする習慣があるが、やたらに応じないこと・・・肝炎などの病気をうつされる可能性がある」   
 上のURLの記事で触れられている内容もまた、困った問題だ。   
   
   
   
   
 このたびのオリンピックの開催国の側は、「オリンピックに際しては多数の日本人の観戦客や日本の首相がやって来ないと!」みたく考えたようだが、かなり肝心とも言える北側の最高権力者に対しては「南へやって来い」とは言わないのか? 日本の首相よりも、北側の権力者の方が「上」だと考えているのならばその理由を知りたいものだ。いや、単に「腫れ物にさわりたくない、対応には気をつけたい」のか、それとも「よろしき家柄の血筋を引く権力者なので、ついつい敬意を覚え、強いことを言えない」などということでもあったりするのか。   
   
 日本の首相はオリンピックに出向くという。10億円をタダ取りさせたままにせぬよう更に努力する機会と考えているのだろうが、ああいう人種の嘘つきにどこまでエネルギーを費やして付き合うか、対処法を考え直すことも大切ではないのか。(「努力」の約束では不十分であったと筆者は考えるが、その「努力」すらも怠る・話を変な方向へ持っていく有様に呆れる。)   
   
 「インディアン、嘘つかない。○○人、嘘つくね」   
   
   
   
 衣食足りて礼節を知る、との言葉がある。   
 北の某国では飢えに苦しむ民も多いと窺えるが、しかし、最高権力者は、その体型から察するに食事・栄養は十分に足りているであろう(油っぽいジャンクフードと、糖分たっぷりの清涼飲料水ばかりを摂って肥満になったみたいなケースには当たらないものと思うし、また、いわゆる“むくみデブ”の類には見えず、一応は健康が保たれた状況であるかに見える)。   
 衣食足りているのに、礼節というものを一片たりとも感じさせられないのは不思議なことだ。過去の「人道的見地からの食糧その他の支援」などに鑑みれば、人民を代表して世界に向けての感謝・へりくだり等々を示してもよさそうなのに、我々にはそれが感じられず、つまり、三代目にして、かつ三男坊ともなると、世界の中のKY的な存在という姿はますますはっきりと現れ、ともかく可愛くなく映るばかりだ。そして、 racketeering rocket-man's country に対して諸外国は不愉快きわまりない感情を抱くばかりとなっている。   
   
 実るほど こうべを垂れる 稲穂かな   
   
 肥ゆるほど 礼を失する ○○○○○   
   
 上の最後の個所には人名または国名が入るのではないかと思う人がいるやも知れないが違う、それではちょっと文芸っぽくならないし下品にもなる(笑)・・・正解は省略。   
   


 

雑記

   
 人気ある女優さんが、いわば「子供を持たない生き方を選んだ理由」みたいなことを述べたとかで、世間では何かと話題になっている模様・・・。それについては筆者、具体的な内容を知らない。   
  
 筆者自身の場合、「子供を持たずに生きてしまったことに、不安は無いですか?」と尋ねられたことは数回ある。いずれも女性からである。男性からは単に「子供を持とうと思わなかったのは何故ですか?」と訊かれることと対比すると、女性はまず、子供を持たないことに関しては「その状況・理由うんぬん」よりも「将来不安の認識」に感心が向かうのか・・・いや、実は遠回しに理由を探っているかも知れぬけど。ま、素直に、「将来不安」、「子を持たない状態のままでその人にやって来る老後への不安」が質問の主題であるものと解することとしよう。   
   
 書きたいことをちょっと先送りして、まず言ってしまいたいことは・・・。   
 人には固定観念があって「子供がいる=自分は子供よりも先に衰えて先に死ぬ=子供が自分を看取ってくれる筈だ」と考えがちだ。或いは「自分は配偶者よりも先に衰えて先に死ぬ=配偶者が自分を看取ってくれる筈だ」と考えがちだ。が、必ずそのシナリオどおりになるとは限らない。大切に育てた子供らが(不慮の事故そのほかにより)先に世を去り、そして愛する夫なり妻なりも先に世を去り、気づいてみれば自分ひとりで寂しい老後を過ごし、そして孤独死という形で最後を迎えるかも知れない・・・はあ、何とも強烈・ニヒルに過ぎる仮想をするものだと呆れられるかも知れないけど、しかし、子供を、或いは配偶者を、不死身の存在/自分よりも後まで生きる存在、頼りになる保険のように考えることには誤りがあろうというものだ(もちろん、シナリオどおりに事が進んでいくケースも多かろう)。   
   
   
 子供を持たずに生きていこうとの選択を筆者が最初に思い定めたのは小学生のときであった。   
 それには理由があったのだが、その後に於いてはさらに、自分の気性・考え方その他に照らして、「自分の場合には、やはり、子供を持たぬのが正解」と結論づける理由がどんどん増えていった。   
 それらの理由をもしも自分が見出しておらず子供を持つに至っていたならば、子供のしつけへの目配り・関与、遊び・レジャーの相手、進路への口出し等々にそれだけ時間とエネルギーを使うこととなり、さすれば「満足いくだけ仕事にエネルギー注入できずに不完全燃焼感覚で落ち着かなくなってしまう自分」、「仕事上で考え抜く、調べ尽くす、リスクを洗い出す、良いアイデア・対処改善策・改革案を生み出すこと等を納得いくレベルまで出来ずに悶々とする自分」、「子供から“何かと人生訓を垂れる、うざったい父親”と思われる自分」というものになり、自分で自分がやりきれない思いをし、また、もしかすると我が子に暴力を振るうような者となっていたかも知れぬなあ。   
 「子供は親とは別個独立の存在なのだ、自分の考え・価値観を押し付けてはいけないのだ」とはよく言われているけれども、その考えを自分は呑み込めないと思うのだ。その点からしても、子供を持たなかったことは正解ではあるまいか。   
   
   
 外国人と英語で話すことがあっても社内では誰かから感心されることもないが、居酒屋などで他の外国人客との間でそういうことがあると、時に「英語を使えていいですね」と言われることがあったりする。(仕事上の定型的・事務的な会話と違って、むしろ日常会話・雑談ぽいものに苦手意識を持っているくらいだし、居酒屋でやりとりする英会話は大した内容のものでないのだけど。)   
 こんなときいつも自分は、その昔に或る先生から教わったことを思い出すのだ・・・外国語を理解可能なことは決して良いこととは言えない、たとえば戦場で敵兵と1対1で向き合ったとする・・・殺すか殺されるかの場面である・・・相手は自国語で「自分には3歳と1歳になる幼な子がいる、自分が死ぬことあればその子らと母親は今後に大変な人生を送ることとなろう。撃たないでくれ、俺を逃してくれ」と言ったとする・・・その言葉を理解できたなら相手を殺すことに躊躇を覚えるであろう、しかし次の瞬間、隠れていた相手の仲間の兵士が発砲してこちらが殺されてしまうかも知れないし、捕虜になってしまうかも知れない・・・だが、相手の言葉をまったく理解できなければ迷うことなく殺すことができる・・・戦場の兵士として「一人でも多く敵兵を倒す」ことが正解であるとするならば、このケースでは外国語を理解できない者のほうがきちんと職責を果たせるのだ。   
 で、これは自分の側が子供を持つかどうかということと関係ない問題のように思われようけど、筆者の中では違うのだ。ずっとずっと若い頃には、「たとえばアメリカとソビエトとの間で戦争になるようなことも、ひょっとしたらあるかも知れないなあ、そのときには日本人の自分もまた戦争に駆り出されるやも知れない」との漠然とした不安を持つことがあった。戦争、戦地で戦うという状況・・・子供を持つ身であれば、戦地にて「生きて帰りたい」との思いはどれほど強くなることであろうか・・・子供を持つがゆえに命を惜しむ・弱くなる・踏み切れない・臆病になるかも知れない自分を想像するのはイヤであった・・・べつにやたらと死に急ぐとか、犬死するとか、そんなことが良いとは思わぬが、「国の勝利のためには命を惜しむべからず」とか「敵兵を一人でも多く死なすべし」、「敵陣に一歩でも深く踏み入るべし」といった気持ちは肝要だと信じていたし、今でも「日本人ならばそうあらねばならない」と思っている。  
   
   
 或る時、職場の若い女性から、最初に書いたように「子供を持たずに生きてしまったことに、不安は無いですか?」と訊かれたとき、それに即したライフプランは中学生か高校生くらいのときに描いたものに修正をかけつつ続いているから不安など無いと答えた。   
 子供を持たない選択をした理由も訊かれた・・・その種の質問には昔から「子供が、それも小学生以下に見受けられることの多い、うるさくて聞き分けもないガキが嫌いなのでね、どうしても子供嫌いになっちゃって」などと簡単に答えることが多いのであるが、このときは時間にゆとりがあって、上に述べたことのほか、実に様々のことを話そうかという気になった・・・でも、それは控えたのだ・・・理由をあれもこれもと並べ出すと10やそこらでは終わらない・・・こちらの考えるところをたっぷり聞かせたりすれば、予定調和的な人生行路(子育てもまた思い通りにいくような人生)から外れることを恐れそうな彼女だと子供を生む・育てることに臆病になる・警戒を持つかも知れないであろうと、そんな気がしたのであった(日本の少子高齢化がますます進んでしまうではないか)。   
   
   
 ふと思い出したのだが・・・。   
 会社に入ってしばらくした頃、出入りの「保険のオバチャン」がいわゆる“おすすめの保険プラン”なるものを示して寄越したことがあるのだが、そこにあった、いわば人のライフステージ・モデルみたいなものを見ながら筆者はこう応じた: 「あ、これは、わたしには適用できないモデル・ケースですね。人はそれぞれで、生き方は一様ではないんですよ。 え? は? まさかまさか、自分が恋に落ちるようなことがあっても20代で結婚することはありえません・・・結婚と住宅ローンが弱味となって会社からの配属変更・転勤を受け入れざるをえなくなることもありえますからね(その頃、自分は事務系職種でありながらも時折は営業方面にも関与することがあり、いずれ営業系に配属変更される可能性もありうるかと警戒感を持っていた)。配偶者というものは、30も過ぎてから、ハートが火照ることもなく冷静に相手を判断・選択できる年頃になってから選ぶことにします。それに・・・子供ナシの人生を想定しています」みたいなことを言ったなあ。結局は保険契約に至らなかったけど、この某Y生命(今では某MY生命となった)のオバチャンは筆者が絵を好きなことを覚えていたようで・・・それから何年かのち、菱田春草のカレンダー(でも、会社の広告用の品)を貰ったなあ(昭和の時代)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 5日の東京の株式市場は大きく値を下げた。   
 年初に相当部分を利益確定売りして資金を遊ばせていたので、「絶好の買い場が来たな!」と思った。   
   
 大きく下げるときが来たなら買おうと思っていた候補銘柄は20ちょっとあった。でも、その大半はこの5日において「さほどには下げていない」、あるいは「むしろ少しばかり値を上げているものすらもある」という具合で・・・人々が「好評価」する対象銘柄は共通するものがあるらしく(笑)。  
 ま、それでも、「よろしき水準まで値を下げたかな」と思えるものも見つけられたから、自分にこう言い聞かせながら結構な買い付けを行なった: 「業績は絶好調または好調か? 今後の事業年度にても好調の持続が見込まれるか? 好調を阻むような要因は何がありうるか? ビジネスのタネがよろしきものか? たとえその会社の株価が低迷するなどして塩漬け状態を選択しても構わないほど、強くあり続ける会社で将来に希望を寄せ続けられるか?」   
   
 資金投入は中途半端に終わったが、しかし、6日以降もまた市場が下げ続けるならば、さらなる追加物色が出来る自由があるわけで、この「中途半端」をそう残念がることはない。   
   

雑記

   
 先週の何晩かはNHK-FMで、日本の幾つかのオーケストラのライヴ録音を聴くことが出来た。神奈川フィル、東響、その他のもの。   
 それらの演奏内容のずべてについて、必ずしも気に入った・しっくり来たわけではなかったのだが、でも、番組の企画そのものはとてもよいと思った。   
   
 放送内容をあらかじめ知っていたわけではない。何かのテレビ番組を見ていて「ほかに面白いものはないか・・・ん、ところで、FM放送では何をやっているのかな」と注意を向けたとき、たまたま上のような番組に気づいたのであった。   
 でも、FM放送の番組内容を前週くらいに知ることが出来ればよいなあ。NHKのサイトにて確認する習慣をつければよろしいのかも知れないが、そのように「自発的に」する気にはなれない。が、しかし、「あなたの関心ジャンルやキーワードを登録していただければメールでお知らせするサービス」みたいなシステム導入を希望するわけではない・・・NHKがその種のサービスを実施すれば、「各種サービスの充実に努めており」という口実のもと放送受信料の引き下げ実施時期がいっそう遅れるかも知れないので。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 某チョコレート会社による「日本は、義理チョコをやめよう。」とのアピール広告に関しては前回も書いたが、またどこか他の会社なり団体なりがこんな広告を打ち出さないかなと、ちらと思う:   
   
 「日本は、学校給食の牛乳をやめよう。」   
   
みたいなもの。   
   
 筆者らが育った時代と違って今は学校給食も「ご飯もの」が多くなっていることであるし、にもかかわらず牛乳を組み合わせることが続けば日本人の味覚を、献立/食べ物の組み合わせの感覚を、おかしなものにしてしまうのではないかと懸念する。新潟県であったかな、そういう観点から牛乳の扱いに工夫しているところもあるではないか。   
   
 子供たちに牛乳を飲ませることでタンパク質やカルシウムなどの摂取が効率的に可能となっているにしても、他の代替的な食材や料理の再検討があってよいのではないかと思う。   
 牛乳を摂る習慣が無くなると、乳製品の風味に親しめずそれを嫌う人が増えるとの意見もあるかも知れない・・・でも、(大昔の、ごく一部のやんごとなき人たちがチーズを食することもあったとはいえ)牛乳、チーズ、バター、クリームって、日本人の伝統的な食品であったわけでもなかろうし、そんなに「日本人、みんながそれらを好き!」ということでなくてもよろしいではないか。牛にせよ山羊などにせよ、それらの乳は要するに「四足動物の子育て液」であり、人間が懸命に摂取しなくてもなあと思う。   
   
 「でも、そうすると、ピザとかグラタンとかに親しめない人だって増えるかもよ?」・・・それのどこが問題なのか、ゆっくり考え直すべきであろう・・・これらのものは本来、日本人にとってエキゾチックというか、違和感ある料理であった筈のもので、今日ここまで普及したからと言って今後もそのままでなくてはならないわけでもない。日常的に存在している必要はなかろう。ワインのつまみも、チーズが好きならばそれを選べばよろしいだけで、ほかのものだってよろしい筈だ。   
   
 乳製品アレルギーにならないためには日常的にそれらを摂らせるのがよろしいとの見解も、もしかするとあるのかも知れない。だとするなら、200ミリリットルを単位として飲ませるのでなく100ミリとかではどうなのか? 既にアレルギーを持っている子供たちにとっても、飲まされる量は200ミリよりも100ミリのほうがアレルギー症状で大変な思いをする危険性が減るかも知れない? 子供たちにそれ以上を飲ませたいと考える親は、あとはそれぞれに家庭にて飲ませることを考えればよろしいのではないか。   
   
 なお、以上に関して、医学的・栄養学的に正しい見方なのか、筆者は分からない。また、親戚その他に乳業・酪農関係に従事する者がいないため自由な発言をしたが、上のような考えはそれら産業にはマイナスの影響となりうるかな・・・かと言って、それら産業が何が何でも守られねばならないとも思えない。   
   
   
   
 それにしても、いまどきの学校給食は「おいしい」、或いは「べつに不味いことはない」ものであるらしく、よろしきことであるなあ。   
   
 昔、筆者などが子供の頃は、パンは「ふっくら」・「しっとり」も感じられぬもの、そして、一緒に出されるおかずは「不味い肉じゃが風の煮物」、「不味いワンタンスープ」、「不味い肉もやしスープ」、「不味い鶏肉炒め」、「不味い焼きそば」、「不味いポテトサラダ」、「不味いスパゲティ(トマトケチャップ風味)」、「不味いカレーうどん」といった具合・・・パンと焼きそばというように「炭水化物セット」になっていることもあったが、その点は、連日のことでないから文句をつけることではあるまい。給食関係の予算の都合もあったろうから美味しさの追求などしていられなかったろうけど、それにしても、上のように、料理名をいちいち「不味い○○」と呼びたくなるようなものばかりであった。あんなものが調理関係の人件費・光熱費を使ってまで用意されていたのだからなあ・・・むしろ、剣先スルメ(今では値段も高くなってしまったが)、イワシ丸干し・メザシ、ゆで卵、トマトなどばかりを食べさせられたほうが幸せだったろうと思う。    
   
 過日、漁の最中に日本に漂着してしまった某・民主主義人民共和国の漁師たちにはどのような食事が提供されたのだろう・・・やはり、昔のあの給食よりは美味いものだったろうと想像するが。   
   

雑記


   
 どこの家庭でも、「これ、要らないから処分してしまおうか。もったいないけどなあ・・・ええい、でも、捨ててしまおう」ということになる食品、食器、道具類というものが出て来るものと思う。   
   
 「自分のうちでは食べないけど、でも、世間の人たちは大抵は喜んで食べる」という品の場合、鮮度が落ちてしまわないうちに速やかに決断してご近所の方に差し上げるということもあろう。   
 近所というほどではないのだけれどもお付き合いのある農家の方に、上のような事情で何かを届けることがときどきある。すると何日かして野菜その他を頂戴することになる。野菜の値段が高くなっている時期であろうとそうでなかろうと、ありがたいことである。   
 その、頂いたものが入っている袋がマクドナルドのものであることが非常に多くて、これ、ちょっと意外な気がする。筆者にはこんな固定観念があるのだ: 「農家の方々は自分たちと同じように食事内容が保守的で米飯が主体であり、もちろん麺類も食べるであろうけど、しかし、パンやハンバーガーなどは食べたいと思わない。家族の中に10代くらいまでの子供がいるならばともかく、そうでなければハンバーガーショップで買い物したり、ベーカリーレストランで食事する等のことはない」・・・どうも、この固定観念には誤りがあるのかなあ(笑)。   
   
   
   
 さて、しかし、「うちでは要らないけど、かといって、よそ様に差し上げても喜んでもらえないかも知れない。ありがた迷惑になるかも知れない」と懸念される品物は結局は廃棄処分の方向を考える。ただ、保存のきく食品(缶詰・瓶詰・レトルト食品その他)であれば、災害時の非常食糧としては活用可能と考えて適当な環境下で保管することも少なくない。   
   
   
 或るとき、バザーのイベントへの品物提供を求めるチラシが配られた。「ちょうど処分を考えていた食器セット(未使用)や、缶詰などの食品があるから、これはよろしい機会ではないか」という考えに至った。   
 が、チラシには気になる記載が・・・「品物それぞれには、提供者(協力出品者)の住所・氏名を書いた紙片を添えよ」というのである。この趣旨は、近所の方に確認したところ、「バザーで売れ残ったら提供者に突き返す」ということなのだそうだ。   
 それじゃあ、売れ残った場合、いろいろな人の手垢がついているかも知れない品が戻されるというわけだよなあ・・・それを洗って再び保管するか、あるいはやっぱり廃棄処分する手間を負うわけで、それならば、わざわざバザーに商品提供する(えっちらおっちら運ぶ)ステップを踏まないほうが楽というものである。で、バザーへの提供はやめてしまった。   
   
   
 ギフトで頂く品、商店街などの抽選で当選して頂く品、コンビニで買い物した折りに抽選くじを引いたことで頂戴する品・・・いろいろの中には、やはり「うちでは食べない・利用しない品」も出て来てしまう。   
 揚げ物に使った油は再利用しない(一度の利用で廃棄)という仕方をしてはいても、しかし、まとまった量のサラダ油を頂いた場合にはいつまで経ってもそれを使い切れないということもある。揚げ物・炒め物などをする頻度が少ないからである。自治体が「使用済み食用油の回収をします」などと住民に告知するが、それを見て「未使用・未開封の食用油でも構わないのでしょうか?」と問い合わせた経験のある家庭は、うちも含め、珍しいかも知れぬが。   
   
 缶詰入りのスープのセットも廃棄処分したことがある。1缶だけは開けて賞味したのであるが誰の口にも合わず、災害時のための非常食糧として保管することになったが、そのうちに賞味期限も到来し、さて、「処分するにしても缶を開けてその中身をどうするか」という問題が生まれた・・・キッチンから下水に流せば排水管・下水管に余計な油脂などを付着させることになろうし、かつ、下水を相当に汚すことにもなる。生ごみに大量の液体を混入させるのも気が進まない。「じゃあ、俺が、庭の土を掘ってそこへ廃棄してやるわい」ということに・・・そうすれば草木の栄養にもなるかなと思ったが、しかし待てよ、スープには塩分などもそれなり以上に含まれていようし、うーん・・・で、草木の根が吸いそうもない場所に、土を深めに掘って捨てることとなったのである。が、面倒はそれだけでなかった・・・空き缶も、それなりには洗浄することとなるわけで、このとき、手指が油っぽくなってしまい、つまらぬ思いをしてしまった。   
   
 コンビニの抽選で例えばコンビーフ缶を頂いたこともあるが、うちではコンビーフを好む人はいない。野菜サラダにのせて食べることもしないし、コロッケに混ぜてしまうというアイデアもこれまた難しい(筆者が「コロッケを喜んで食べない人間、たとえ手作りコロッケであっても1個くらいしか食べるつもりはない人間」であるから)、で、このコンビーフ缶も非常用食糧となった。   
   
   
   
 ・・・と、そんなことがこれまでにあったのだが、しばらく前、子供たちに食事提供するボランティア活動をしている人と縁を持つ機会を得たのである。(上のコンビーフはちょっと時間経過してしまっているからこれは除外して)多少の缶詰、乾燥食品、ジュースなどを喜んで受け取ってもらうことが出来た。このような活用手段は既にそれなりに広がっているとは聞くが、食品の有効な利用が出来ること等、よろしきものと感じた。ほんとうは勿論、子供たちが皆、相応の豊かさを手にすることが出来るのが望ましいのだけれども。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 某チョコレート会社が新聞広告にて「日本は、義理チョコをやめよう。」と訴えている。この会社の品は、義理チョコもしくはそれへのお返しとしても利用されはするが、しかし、販売のメインはやはり相応程度以上の価格帯のセットではあるまいか・・・つまり、みずからの主張でみずからが損をするその度合いはそう大きくないのかも知れない・・・でも、個人的には、上のアピールを勇気あるものと好感を覚える。   
   
 義理チョコのお返しをする側も、結構たいへんだったりするし。   
   
 昔、ホワイトデーに、天地無用というか「ちゃんと上下を保って運ぶこと」が望ましいものを選んでしまったことがある。それを幾つも入れた手提げ袋を満員電車の網棚にうまく載せられず「しまった、別のありきたりのものを選ぶべきだった」と後悔した。   
   
   
 バレンタイン、クリスマス、ハロウィーンなどでの購買・消費、あと、「恵方巻を食べようよ」のアピールとか、人々に余計な消費を誘うイベント・行事にはちょっとばかり問題点を感じる。   
 だが、「みんなして、浮かれたりせず、地味に過ごそうぜ」ということになると、経済にとって小さからぬ影響も出るであろうなあ・・・仮に「クリスマス・プレゼント」、「クリスマス・ケーキ」などなどの言葉が死語になる時代が来たら大変だな。恵方巻くらいのものにしたって、コンビニその他の売上げ、製造請負業者の業績に影響が生じることであろう。   
   

「巧言冷食、すくなし仁」


   
 或る人の、のたまわく、「巧言冷食、すくなし仁」。   
   
 (↑)解釈: 「お帰りなさーい、お疲れさまでしたぁ・・・今夜の夕食はあなたの好物の鶏の唐揚げとシューマイよ!」と、うまい言葉を発するも、しかし、それらはいずれも冷食(冷凍食品)をチンしただけのもので、このようなものを食卓に並べるとは真心に欠ける者のすることである。   
   
 ・・・と、まあ、そんな奥さんが世の中にどれくらい居るのか知らぬが。ただ、揚げ物をカラッと、というか、食感よく仕上げるためのコツ幾つかのうちの只のひとつも心得ていない人の揚げるものを食べさせられるくらいなら、冷凍モノの唐揚げのほうが優れているということは言えるのかも知れない。   
   
   
 ・・・・・・・・   
   
   
 年が明けてちょっとした頃のこと・・・。   
 知人のAさんがスマホ内に保存された写真を見せてくれた。   
   
 「うちの娘・・・正月に帰省したときの写真・・・今年、大学を卒業して○○社に就職することになりまして」   
   
 たいへん嬉しそうであった。こちらも「あれ、べっぴんさんなんだね」と、少し古めかしい言葉をかけた・・・ここで、冗談でも「お父さんにあまり似なくて良かったね」などと言ってはいけない・・・ま、仮に言ってもAさんはむしろ笑いこけるであろうけど。   
   
 「実物はねえ、運動ばっかりやってたから色が黒い。勉強なんてろくにしてないんじゃないかな」   
   
 この「実物はねえ」というのは、「実際はねえ」という言い方をするほうが適当ではないかと思えたが、そこがまたAさんらしくてよいなあ。ま、それよりも、あれからもう何年も経っているのだなと、月日の過ぎることの速さを思った。   
   
 この娘さんと面識は無い。彼女はまだ高校生の頃に「将来は介護の仕事か、さもなければ保育の仕事に就きたい」との希望を持っていた。父親であるAさんが「そういう進路選択でよいのだろうか」と迷いを持ち、それについて筆者とも話を交わすことがあった。そのとき筆者は、それら職種の処遇などを懸念し(それはまた本人が「将来」において後悔するやも知れないとの懸念もあり)、反対意見を口にした。結局、彼女はAさんの説得に耳を傾け、でも自分の信じる/思うところもあって、或る地方大学の、ちょっとありきたりでない学部(しかし介護・保育などとは無関係)に進学した。筆者は漠然と「卒業を迎えるまでに、いや、就職活動をするようになる時期までに、日本が力強く景気回復するといいのにな」と思った・・・筆者の子供ではないけれども、しかし自分の発言が間接的にでも影響したかも知れぬことのその展開・行く末に恐れを覚えたのだ。   
   
   
 就職氷河期の頃、大学生の子供を持つ親から「どこの会社を狙うべきか/どこか穴場はないか」と話しかけられることが何度かあり、筆者は、たとえば某大手企業の有力子会社を幾つかとか、ほか、「生え抜き職員が出世させてもらえる可能性はほぼ無かろうけど、一部の人しか知らない或る団体・組織」などの名前を挙げることがあった。前者は、子会社とはいえそれなりに定評あるところなのであるが、筆者自身、いろいろな企業のグループ経営戦略などを研究している中で再認識させられた魅力的な企業などだった。また、後者の団体・組織は(いずれも就活学生もその親も注目しそうになく、そればかりか、中には、残念ながら一部の公務員やその家族を除けばろくに知られていないのではないかと想像されるところもある)、勤める最初からもう出世に限界点がつけられてしまうとはいえ、「とりあえず正規労働の安定した職」、「理不尽に解雇される危険性が小さい、安定した身分」を手に入れられることにメリットがあり(就職氷河期というものも一種の世代のリスクであり、そこでは妥協と見極めも大事だ)、しかし、仕事としてはかなり暇であることが想像されるがゆえ、もしもオフタイムに資格試験の勉強をする等の心づもりがあるならば自らのキャリアアップを図って転職・独立につなげていくことも十分に可能ではないかと思えたのである。   
 ま、でも、筆者の考えることって、他の人たちとはかなり異なるからなあ・・・上のようなアイデアは聞き入れてくれなかった・・・しかし、その結果、ご子息たちの今は芳しくないことになっている。これまた随分と前のこと、或る人から「息子は銀行を目指すらしい、メガバンクって、どこが一番いいんだろ?」と訊かれたことがあって、「銀行のことは分からないからなあ・・・もしも自分なら農林中金を目指したい。あと、業界は異なるけどリース会社に面白そうなところがあるよ、・・・とか」と言ったら「それは何?」という顔をされることがあったな。   
   
   
 さて・・・冒頭の娘さんであるが、彼女が今、この春からの進路をどう感じているかを知らないが、希望に燃えていることを祈るばかりである。就職する予定の○○社は、「女性が活躍できる会社ランキング」とか「女性が働きやすい会社ランキング」などにはおそらく登場しないところではあるが、全体的によろしいイメージを筆者は持っているし、何より成長力が予見され、活気に満ちた企業と映る。いま、もしも自分が若くて、これから就職活動する身ならちょっと羨ましく思うかも知れない・・・でも、自分の場合、「配属は事務系と約束していただけますか?」とこだわるであろうから、ああいう会社では合格・内定などいただけないであろうなあ。   
   
   
 ここでまたランダムにあれこれと思いを巡らしてしまうことがあるのだ。   
   
 介護の職、保育の職の処遇については、かつて筆者が考えた状況とは違って改善が進む動きが見越される。それがどの程度のものになっていくかは不明ではあるが、しかし、それを見る彼女がいつの日か「やっぱり、最初に自分が考えた道を進めばよかった」と悔やむ日が来たりせぬか。   
 と同時にまた、介護ニーズはまだまだ増大していくものとは思うのだが、保育士ほか保育関連の人材ニーズがいつまで伸び続けるかという点に筆者はやはり疑問を持ちもする。出生率・出生数が伸びず、いや、結局は減り続けるのであれば、いま考えられているような保育所の設置増や保育士の確保努力・処遇改善ということが最終的には誤りだったと言われる日が訪れることもあったりするのではないか。子供の数が減っていくばかりであるならば、保育士を終身雇用・長期雇用することは雇用サイドの重荷になりかねない(それは国民・自治体住民の、税などを通じての余計な負担ともなりうるか)。諸制度・社会情勢のあり方がどう変わっていくか占いにくいが、状況によっては、「日本の財政負担を伴いつつ日本人の保育士が面倒をみる対象は中国人をはじめとする移民の乳幼児たちがメインに」的なパターンにもなりかねないか。それでもよいのか等、筆者は憂うのだ。   
   
 日本人の子供の数が減り続けるならば、いずれ学校の先生も余るであろう。保育士もまたそれと同じことになるのでないかという気もするのだ・・・とするならば、冒頭の彼女にはやはり、過去に思い描いたことをきれいに忘れ去ってもらって、今春からの新しい人生を精一杯がんばって、そして弾み続けて欲しく思う。   
   
   
 それにつけても、子供の数が減るというのは、今後いろいろと劇的なことに至りうるであろうなあ。   
 今や自治体職員の採用試験(公務員試験)で合格しても3割とか6割とかが辞退したりもする時代になっているが、これは、ま、市区町村役場でなく都道府県庁の職員の場合に「親元で暮らせない任地になるかも知れない」、「希望する土地に暮らして通勤できないかも知れない」との考えから来る結果だったりもしよう。東京都職員採用試験に合格しても「ん、待てよ、勤務地が伊豆諸島になる可能性もあるのだろうか・・・念のため再確認しよう」と不安になって、でも、いまの若い人たちにとって電話で大人と会話することは「怖い」ことだったりするから、そのくらいなら既に内定をもらっている民間企業に就職するほうを選ぶかも知れぬか。   
   
 「子供たちはスポーツであれ、音楽であれ、その他の部活・習い事であれ、一生懸命になりすぎてはいけない。それらについての才能など、大抵の人には備わっていないのだ。手堅くきちんと勉強し、そして、アカ学生の真似をして政治に関心を寄せたりせず、宗教に関わることもせず、堅実な人生を歩むべし」というのが、筆者が若い人に寄せる思いである。でも、子供の数が減っていく時代になると、「勉強していようと、そうでなかろうと、どこでもわりと簡単に採用してくれるもんね」という時代がやって来るのかなあ・・・いずれ求人広告で「財務省、上級職員の欠員募集!」、「外務省、欠員を至急募集! 語学力不問、国内限定勤務OK」、「警察庁、幹部募集、前科3犯まで可」、「自衛隊員急募、万一の有事の際も休暇取得OK!」みたいなものも出て来たりする?   
   

寒い、寒い、今年の冬は



   
 このところ寒い。歳のせいなどで寒がりになってしまったわけではないと思うのだ・・・天気予報でも、また周囲の人たちも、「寒い」と言っているのだから。   
   
   
 昔、昭和50年代の後半くらいだったかな、或る時期、サントリーは「ウィスキーのお湯割り」をしきりに推奨していたように記憶する・・・外タレさんまでも使い、そして冊子も配布して・・・それをふと思い出し、このところ、ウィスキーお湯割りも楽しむようになっている・・・でも、お湯割はそれほど好きではないからメインは日本酒のお燗ということになる(お湯割り・ホットウィスキーに合うウィスキーの銘柄は、バーボンやジャパニーズ、アイリッシュのものでは見つけるのが難しくないがスコッチでは限られるのではないかな)。   
   
   
 冒頭のは床暖房のコントロール・パネル。例年だと「強・中・弱」の「弱」で作動させているが、ここ最近は「中」または、ときに「強」のことが多くなっている。    
   

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。