2008-08

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フランス作品も歌って“おった”

   
 とりあえず更新しておこう。   
   
 フォン・オッターがレコーディングしたフランス系作品。   
   
 ヴェルレーヌのわりと有名な詩にフォーレが曲を付けたものも収録されていて、ライナーノートには英独仏語で歌詞が示されている。しかし、日本語歌詞が欲しいという方もいらっしゃると思う・・・その気になれば堀口大学の詩集・著作集にあたってそれを参照しつつ鑑賞するテもある。堀口氏はこの作曲対象となった詩/ほぼ同範囲の詩を少なくとも二度以上にわたって訳詩しているのであるが、そのうちの「ヴェルレーヌ詩集」という表題のもと「やさしい歌」という題で訳詩しているものを参照するとよい。堀口氏の訳において「んー、この訳は適切かどうか」と首をひねるところも皆無ではない。が、しかし、鑑賞の手助けにはなってくれるはず。   
   
   
 CD収録のこのフォーレ作品の曲順に対応する堀口氏訳のタイトルは下記のとおりである:   
   
 1(トラック18)− 後光の中の   
   
 2(トラック19)− 黎明がひろがり   
   
 3(トラック20)− 白き月かげ   
   
 4(トラック21)− つれない世路を   
   
 5(トラック22)− 本当を言えば   
   
 6(トラック23)− 消え行く前に   
   
 7(トラック24)− それは夏の明るい・・・・・・   
   
 8(トラック25)− そうしましょうね?   
   
 9(トラック26)− 冬は終りに   
   
   

 このCDのジャケットは写真をモノクロ化したものが利用されているが、コントラスト加減もあってか何だか微妙に気味が悪い(これはもちろん筆者の個人的感想)。モノクロなのに、木の葉っぱを見ていると、なぜか田中一村(たなか いっそん)の絵を思い出してしまう。   
   
   
 写真左上の小野リサのCDは、こちらは歌曲でなくいわゆる「シャンソン」(ポピュラーの)をこの人ならではの形でアレンジして歌ったものだが、これについてはまたいずれ。   
   


ハイドンに 涼をたずねて 夏の宵

   
 タイトルの句(↑)において季語のダブリや矛盾があるかどうかイマイチの不安がある・・・が、確認する時間が無い。   
   
   (中略)   
   

 さて、セルの命日に何を聴くかであるが、しんみりというものでもなく、たとえばハイドンのシンフォニーならどうかと思ったりする。ソニーからリリースされている正規レコーディングのものや、また、目下のところソニーではCD化してくれていない曲目については United Archives が復刻してくれたものなど。第93番についてはかつて Virtuoso レーベルから出た3枚組商品に収録されたライヴ録音も良い・・・と思う。   
   
 下の写真は過去の使いまわし。セル指揮のものから。   
   



ゴロワノ府・・・という世界

   
 ゴロワノフ(ゴロヴァノフ)が指揮したものは過去、ちょっとだけ聴いたことがある。筆者個人としては受け入れにくいものを感じたが。   
 この指揮者の芸風や、それに関わる世評などについては説明を省略・・・これから初めて体験してみようと思う方はネットそのほかにおける事前チェックが欠かせない。   
   
   

 さて、気の迷いでモーツァルトの「レクイエム」( Kv. 626 )を買ってしまった。   
   
 で・・・感想は一言では言いにくい。   
 「楽しめた」という感想を述べてもまったく嘘にはならないが、もしもこのCDがもっと高価だったりしたら、あるいは、この演奏を通常料金のコンサートで聴かされたら、釈然としない感想を抱くであろうなあ・・・「すっかり違うものを聴かされてしまったな」という思いがぐっと浮上し、全体的感想は「不満」か「呆然」というものとして総括されてしまうことだろう。が、幸いにしてこのCDは安く、気楽な冒険を楽しむことが可能だ・・・もしも気に入ったら何度も繰り返し鑑賞してその洗礼を受けてしまうことだって不可能でないかも知れぬ。   
 これから初めてモツレクを聴くという人にはおすすめしにくい。ベームであれカラヤンであれ、あるいはホグウッドのものであれ、評価を得てきたモツレクの演奏によって獲得したイメージを大切に守りつつ、でも、たまには冒険や新体験をしてみたいという人には良いかも知れない。  
 ジュスマイヤー版と言ってよかろうが、独自アレンジメントが加わっている。しかし、綾なす音楽(いや、綾なす音楽というよりも築かれる音楽という感じに近い)が、「ここもあそこも普通と違う姿」で立ち現われるところに大きな特徴と、そして問題がある。   
 「自分の死に際してはフォーレのレクイエムを聴きながら昇天/成仏したい、さもなくばモツレクを」なんて既に思い定めている人は、そのフォーレクなりモツレクなりについてはきちんとCDを指定しておく/演奏者を指定しておくことの大切さを思い知ることであろう。   
 けれども、このモツレクに力強く存在する特異なものがなかなかに凄いし、ちょっと代替性のないところは貴重と言えなくもない。   
   
   
 筆者的には、この演奏に対しては総じて否定的な感想を持つ。しかし、「大仰だったり粗かったりするようでいながら、繊細な着眼点を見せることもある」とか「テンポ変化や休止のあんばいに、うむ、これはいいかなみたく感じられるところがある」などの感想を持ったのも事実である・・・どの聴き手からも賛成を得られるかどうかはきわめて微妙そうだが。やはりどうしたって「違う音楽」が生み出されていくから。   
 もっと美しく演奏されるべきであろうにそうでなかったりするところなどは(たとえば「ベネディクトゥス (Benedictus) 」における音楽の構築)、その「美しくなさ加減」が筆者にとってはかえって新鮮でこの演奏の独自の魅力のように感じられてしまうのだけれども、腹立たしい思いをする人のほうが多いかなあ。   
 「妙なるラッパの (Tuba minum) 」におけるバス歌手(セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・クラソフスキーと読めばよいのか)の歌いっぷりにはハマリそうで怖い。   
   
   
  Archipel レーベルのCD。   
 1951年録音とのことで当然に音質的限界はあるが、ヒストリカルものに慣れている人には聴きづらくないと思う。   
   
   


雑記

   
 昔々のそのまた昔、しっかりと意識され明確に提唱された和音は、たとえばハ長調における「ド」にからんだものとしては「ドミソの和音」のみであった。しかし、「音の重なり合いや次なる進行への示唆の有りようには、奥深い神秘と果てしない可能性があろう」との予感は多くの音楽家たちの間にあった。   
   
 そうこうするうち、いろいろな和音の可能性が声高に論議されるようになった。   
 代表的にハ長調の「ド」との関係で言えば、「どんな構成の和音が考えられるか、ドを使うでなく、ミを使うでなく、どんなものがあるだろう?」と、議論は繰り返された。   
 当時の合言葉は「ドでなく、ミでなく、何(なん)としよ?」というものであったが、この合言葉とその結論は今日、「ドミナント・コード」という定義語にその名残りをとどめている。   
   
 ・・・というのは、まったくの大嘘であるから(飲み込んだ鵜(う)が難儀するゆえ「うなぎ」という名前が付いたという落語のネタと同じようなもの)、きれいさっぱり忘れていただきたい。   
   
   

 夏場はどうしたって食欲減退するというか、あっさりしたものを食べたいと思うものだ。   
 毎日そういうことではいけないだろうけど、時にはそういう自分の感覚・欲求に正直に従ってもよいではないか。カロリー低めということは、体の発熱も少なくて済むだろうし・・・。   
   
 冷奴(ひややっこ)だけで夕食を済ませたってよいではないか・・・などと思った。女房もだいたい似たような気分であったのだな、夕食はもう何とかいうスープだけで十分、それだったら最高とかなんとか言っていた。   
 特に何を食べようとのプランもないまま街を歩いて、とりあえず酒だけの店へ。   
   
 軽く飲むと食欲が出てしまって(ごくごく軽いつまみに付いていたクレソンがまた実に美味かった)、そのあと結局は焼肉屋に入ってしまった。   
 こちらは肉はほどほどにしてチゲ鍋(キムチチゲ)や何種類かのキムチほかをつついてビール・・・。メニュー上はライスは付かないはずなのだが、サービスとのことで出てきたライスも平らげてしまった。   
   
   
 食事も終えて帰って、さてこれから風呂に入ろうというときになってもいっこうに汗がとまらないのであった。これはチゲや四川料理などのあとにはよくあること・・・超ぬるま湯に入ったが、そのあとも清涼飲料水のガブ飲みであった。   
   
   

 ジン・トニックとかトニック・ウォーターなんていう言葉の中にある「トニック」は "tonic" と綴る。   
 「トーン」( "tone" )と「トニック」、それに「チューン」( "tune" )の語は、おそらく語源に共通性があるなり互いに派生関係があるなりするだろうと、ちゃんと調べてはいないがそのように想像する。   
 「トーン」の語は数多くの意味があって、よく知られている意味は「音、楽音、色調、語調」などであろうが、しかし、ほかに「肉体もしくは精神の正常なる状態」っぽい意味もあるから、「トニック」もまた「強壮剤」などを意味する言葉として使われるのであろう。   
   
 「トーン」は「トニック」と変じても、やはり音楽上、この語単独でも、さらにはまた「トニック・コード」、「ダイアトニック」、「ペンタトニック」、「ヘキサトニック」などの形で現われる。   
   
 三 菱 電 機 はオーディオ製品のブランドとして「 ダ イ ヤ ト ー ン」なる言葉を用いていたが(今日でも同社系のブランドとして使われているが)、これはたぶん 三 菱 のあの「ひし形」にちなんでのダイヤモンドという言葉と、音響製品らしく「トーン」の語とを合体させたのだろうと想像する。音楽用語の「ダイアトニック」とか「ダイアトニック・コード」などの言葉から持ってきたのではあるまいと想像する。   
 CDのレーベルには「ペンタトーン・クラシックス」というのもあるなあ・・・ペンタトニックとは言っていないところがミソであろう。   
   
   

 今日はアメリカ音楽・・・。ダイアモンドの作品を聴いた。   
   
 写真の上段はニューヨーク・フィルハーモニックの "An American Celebration" のセットより(このセット発売当時は「現存作曲家」であったが、2005年に亡くなっている)。   
 下段はナクソス盤。   
   


エピソード

   
 まずはグーグルのブック検索( http://books.google.com/books?hl=ja )で、 "Can't Help Singing: The Life of Eileen Farrell" というタイトルの本を探してみよう・・・。これは、ソプラノ歌手アイリーン・ファーレルの著書。   
   
 ブラウザ上でこの本のページへ移動できたら、画面右下の検索ボックスに "szell" と打ち込んで検索をかけると同書の88ページなどが検索結果に現われることだろう。それをクリックして88ページ、そしてさらに次の89ページへ読み進むと面白いエピソードが・・・。   
   
 或る音楽祭/コンサートの終了後のパーティの席で、酔ったオーマンディはジョークを連発していたようなのだが・・・やがてファーレルに向かってこう言った:「あなた、体重どれくらい?」   
   
 これは、やっぱ、いかんだろうなあ。   
 が、しかし、ファーレルも切り返した・・・(具体的には検索結果の「本」のほうを)。   
   
   

 このあとセルについても語られている。それはセル/クリーヴランド管とのヴェルディ/「レクイエム」のリハーサルの日のこと。   
 セル/クリーヴランド管はこの曲を何度かコンサートにかけている。たとえば1957年のコンサートでは歌手の顔ぶれはアイリーン・ファーレル、ネル・ランキン、リチャード・タッカー、ニコラ・モスコーナだったようだ。ファーレル自身がこの本で語っている歌手の顔ぶれではモスコーナのかわりにジョージ・ロンドンの名があがっていて上と食い違いがあるのだが、これはファーレルの記憶違いかも知れないし、あるいは上とは別のときのリハーサル模様なのかも知れない。しかし、いずれにせよ、セルをめぐる記憶までは間違っていないだろう・・・。   
   
 リハーサルにおいてファーレルはセルの言葉と態度に激怒してしまった(具体的な経緯については検索結果の「本」のほうを)・・・彼女はそのあと、昼食の約束をしていた友人ビバリー・シルズの家へと向かった。   
 シルズの側は、子供たちにこんなふうに言い聞かせて世話を焼いたりしていた:「お昼に立派な婦人がやって来るのよ。あなたたちもきちんとしたお洋服で支度しなくちゃね、それから、お行儀よくしてないといけませんよ」。   
 そしてシルズらは揃って家の前でお出迎え。そこにファーレルの乗ったタクシーが到着するわけだが、タクシーに乗っているうちに彼女の頭の中はもうすっかり怒りで一杯になっていた・・・。   
 タクシーを降りるなり発したファーレルの言葉、そして動作、また、それを目にしてしまった子供たちの様子などを想像すると、コミカルなドラマの一場面のようで面白い。   
   
 このセルとの件では、セルの言葉に対してファーレルが発した言葉のほうがむしろ適切でなかったように思えぬでもない。しかし・・・セルの声質(金切り声っぽかったりも)や、射抜くような目つきとともに勝ち誇ったような表情で言葉を発していたかも知れない様子などを想像すると、ファーレルとしてもカチンと来てしまうところがあったのかなと思ってしまう。   
   
   

追記(25日):   
 ブログをお読みいただいた方から(学生さん?)、上の「・・・タクシーに乗っているうちに彼女の頭の中はもうすっかり怒りで一杯になっていた・・・」の個所につきまして、なぜそういう訳・解釈になるかとのお尋ねをいただきましたが、次のように説明させていただきます:   
 まず基本的に、著作権・翻訳権の問題がありますので「ピタリ寄り添うような翻訳」をあえて避けております。また、せっかく書籍が表示されるのですから、ちらとでも「いっそ本を買っちまおうか」と思った人のその気持ちを殺いでしまうような手取り足取りの翻訳を控えています(笑)   
 さて・・・。 "steam" は「プンプンの怒り・憤怒」くらいの意味ととらえました。 "good" は「ハンパじゃない、かなりの」くらいの感覚ととらえました。それから、 to 不定詞は、今日のカリキュラムではどのような用語で教えられているかまったく分かりませんが、結果を表す不定詞であるものととらえました。お示しいただいた訳案とまったく逆の訳となりますが、ファーレルがタクシーのドアを乱暴に閉めながら「くそったれがっ!」と口走り、そのあともセルのことを思い出しつつ悪態をついたことなど考え合わせますと、わたくしとしては、現在のところやはり上のような解釈を採らせていただきます。もちろん、ネイティヴではございませんしプロの翻訳家でもありませんので、「上の解釈をもって絶対の正解」と頑張って主張するつもりはございません。   
 いずれにしましても、問合せ・コメントいただきましたことには感謝申し上げます。   
   
   

日本の夏、「緊張」の夏。そして、夏に聴いてもハルトマン。



   
 地球温暖化というか気温上昇があった場合の、健康に影響しうる問題のひとつ:   
   
  http://www.asahi.com/health/news/TKY200807210273.html   
   
   
 国家的規模の医療費の問題などなどはおいておくとして、水分不足の生活には気をつけねば。   
   
 マラリア流行のリスクより大きいとは書かれているが、マラリアの心配は無用と言っているわけではない。   
 それで思い出したのが・・・上の写真は以前に用いたものの使いまわし。   
 念のため言っておくが、筆者のコレクションではない・・・(笑)   
 なお、レコード盤上とジャケットとで「マラリヤ」と「マラリア」という具合に表記に相違がある。   
   
   

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   

 「不慣れ」っぽい感じでガードマン・交通整理員をしている人たちを多く見かける。これは、経験の浅い人が多いということだろうか。   
 どう「不慣れ」なのかというと、工事現場なり危険個所なりに近づいていこうとしている歩行者・自転車・自動車にすぐに気づかないとか・・・工事の作業のほうに見入っていたり、感心しないケースではケータイでメールのチェックに懸命になっていたり。それから、女性ガードマンも時折いるけれども若い男女のガードマンが2人して楽しそうにおしゃべりに夢中になっていたりとか。また、近づいていく自動車に何か指示しようというときの「立ち位置」「踏み出し位置」がちょっと危ない場合もあるなあ(轢かれかねないぞ、というくらい危険なことも)。   
   
 2年ほど前に某事業所へ出張したときのこと。そこからさらに車で出かける必要が生じたが、あいにくその日は社用車両に余裕が無くてレンタカーを利用した。   
 途中で道路工事の現場にさしかかった。ガードマンの指示にしたがって停車。彼はこちらのドア/窓に寄ってきて、あの、夜ならば赤色灯がともるであろう棒を振りながら、前方の道路へは進めないので左折してくれと言った。最後に、進路を再び示すべく棒を大きく振り回したのだが、その棒をこちらの車の窓枠に見事にぶつけた。パカーンと、いい音がした。こちらも昔々は剣道をやっていたので、どうもああいう動作に対しては相手の目線とともに前後一連の動き(それはストップモーションのように見える)を観察してしまう・・・このときの棒の動きはもう、呆れるほどの完全なる不注意。腰に力が入ってないからああもなるのだろうか。   
 社用車両ならべつに気にしないが、レンタカーだったから念のため車に傷がつかなかったかチェックしたけど、いやあ、あんなふうに棒をぶち当てられたのは初めてのこと。   
   
 とりわけ今時分の季節ともなれば屋外・炎天下での仕事はたいへんだろうけれども、正確に安全に、そして緊張感・集中力も失わずに仕事を進めていただきたいと思う。(安全というのはもちろん、歩行者ら誘導対象となる者の安全はもちろん、みずからの安全についても。)   
   
   

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   

 先日はデュティユーの音楽を幾つか聴いたのだが、このフランスの作曲家の名前は Dutilleux と綴る。   
 フランス語は付け焼刃的な勉強をしただけだが、それにしても、このようにL(エル)の文字が2つ並んでいてそれでも「ユー」と発音するということに強い抵抗感を覚える。そういうルールだから仕方ないけど。これに対して、作曲家・指揮者の Boulez の発音は「ブレーズ(ブーレーズ)」である・・・ Dutilleux のようにご丁寧にL(エル)が2つ並んだらやっぱり「デュティルー」と、しかも「ルー」を強く強く発音したい気持ちが抑えられない。   
   
 「蝶々」の意味のフランス語「パピヨン」も、綴りは papillon なんだよなあ。   
   
 以前に何度か寄ったことがあるだけのことだし、誰かと出くわすこともなかろうから名前を出しても平気だろうが、東京の某所に Pot-Bouille という名前の飲食店があった(今もあるだろうと思う)。これなど、やはり「ポ・ブイユ」と発音するのだろう。初回訪れたときは、そういう発音なのだろうと考え出したらなぜか気持ちがムズムズしてしまった・・・内臓などを素材にした肉料理は美味であったかと、おぼろげながらそんなふうに記憶するのだが、それにしてもあのときの(店名の発音をめぐって)不思議に落ち着けなかったときの気分が頭の中に残っている。   
   
 ハルトマンの作品なども聴いた。   
 ハルトマンはドイツの作曲家。綴りは Hartmann である。これ、フランスであったならばありえないかも知れない綴りのパターンを含んでいそうだが、それでもフランス人がこれを発音しようとすれば「アールマン」または「アルマン」となりそうな気がする。こういう具合に、Hを発音しないというフランス語のルールも何だか面白くない。先頭に堂々と存在しているHを発音しないという態度!・・・まるで、オフィスや店舗の床にゴミが落ちていても拾おうとしない従業員の態度・根性みたいではないか。いや、そのように思うのは誤りだな。べつに精神・心の問題ではなく言語・発音のルールなわけで・・・。   
   
   


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