2017-10

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雑記



   
 国内盤のクラシック音楽CD商品としては9月7日に「ドイツ・グラモフォン ベスト100」シリーズと、そして「ソニー・クラシカル名盤コレクション1000」の第3回発売分50タイトルが登場した(同シリーズ第4回発売分は9月21日)。   
   
 「過去に蓄積した遺産を使っての商売」と揶揄することも不可能ではないけれども、それはロックでもジャズでも数多く見受けられることで、むしろ「淘汰されずに聴き続けられる音楽遺産がこれほど存在していること」を喜ぶべきであろう。   
   
 というわけで、ソニーの商品からはバーンスタイン指揮NYPによるドヴォルザーク第7番ほか、また、ホルヘ・ボレット(ボレ)の1974年カーネギー・ホール・ライヴ(2枚組)などを購入。(バーンスタインにドヴォ7のレコーディングがあるとは知らなかった。)   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 歌手の 南 こ う せ つ 氏の、平仮名で表記された「こうせつ」の部分はおそらく本名では漢字表記なのだろうけど、それは「巧拙」ではなかろうし、「ご高説」の「高説」でもあるまいし、はて一体・・・という疑問があった場合、ネット検索なども出来なかった昔であれば調べる作業は大変であったが、今では簡単にチェック・確認が出来てしまう。今さらながら、便利であるなあと思う。   
   
 さて、この人の歌った「神田川」の歌詞については昔からいろいろ考えてしまうのだ。   
   
 筆者、銭湯に行ったことは数えるほどしかないのであるが、その脱衣所に掛け時計があったことは何となく記憶に留まっている。牛乳・コーヒー牛乳などを売っていたことも。しかし、浴場から見える位置に時計があったかどうか、それが記憶に無い。   
 「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言われるかも知れないが、そうでもない。   
 「神田川」の歌では、二人して同じタイミングで風呂から上がろう(一緒に帰路につこう)と申し合わせているが、この約束は具体的にはやはり「じゃあ、今から30分後に風呂を出よう」とか「40分後」とかとなるであろう。浴場から時計が見えるのであれば、この約束を守ることは実に容易なことの筈。それなのに入浴が長引いて約束を守れないのはどうかしている。   
 浴場からは時計が見えないということであれば、自分の感覚を頼りに「だいたい何分経過したな」と気にしながら入浴することになろう。いつもいつも入浴が長引いてしまうとなれば、その人の時間感覚にはどこかおかしいところがあるのだろう。   
   
 歌詞の具合からすると、先に風呂を出た側は約束を守っていて、べつに自分が早過ぎたわけではないものと想像される。そういう状況で、相手から「冷たいね」って言われても、かえって何かムカッと来ないのだろうか? どうして次のような反応にならないのか:   
   
 「あたし、こういう人の相手するの、ほんと疲れる! 時間にルーズなのを先ず直してよね。いつも同じことの繰り返しで・・・直せないの? 反省とか出来ない人なの? 相手に迷惑がかかるのが分からないの? こういう場合に「冷たいね」って言うなんて、おかしいでしょ、KYっぽくもあるでしょ。今度から、銭湯にはひとりで来る。さもなければ別々に帰ればいいじゃん。・・・でも、あたしたち、残念だけど、お別れしたほうがいいのかもね」   
   
とか。気が短かすぎ・短絡的か?(笑)   
   
 相手のやさしさを、なぜ、どのように怖いと感じたのか。   
 あなたは、みずからの落ち度(長湯で相手を待たせる)を棚にあげて、というか、そんな落ち度に少しも気づかずにいて、それだからまた反省もしない様子であって、つまりはそういうどこか欠落している・抜けている・自分中心的っぽいところがあるのよね。だから、あなたのことをダメと切り捨てたくもあるけど、それなのに、あなたはしれっとして、確かにこちらに対して本心から「冷たいね」って気遣ってくれる。あなたには腹が立つわ、でも、このアンバランスとやさしさ・・・アンバランスだからなおのこと「やさしさ」が際立って感じられてしまう・・・あなたのそのやさしい部分をしっかり受け止めなければいけないと思わされてしまう・・・あなたから離れていくことには気後れもし、結局ズルズルとあなたと一緒にい続けることになりそう・・・あなたのやさしさの発揮・表出の仕方には、あたしの気を引き続けてしまうものがあるの、そこに怖いものがあるわ。   
   
   
 この曲の歌詞の解釈については以前にネットで調べたことがあって、様々な解釈がされている。それらを読むと面白かった。   
 なお、上では、筆者、この歌詞は「女の側の気持ちを歌ったもの」と解しているが(ゆえに、歌詞冒頭の「あなた」は男を指すものと解する)、逆に「男の側の歌」」であるとする解釈も存在する・・・「~かしら」という言い回しは男も使わないことはないので、そのような解釈を否定する根拠にはなるまい。   
   
   
 やはり 南 こ う せ つ 氏が歌った「赤ちょうちん」に関して、キャベツをかじるという行為・動作がどういうものか、昔々はまったく分からなかった。   
 キャベツというものは、ロールキャベツを別とすれば、千切りにして(もちろん生で)食べるものとばかり思っていたからである。千切りしたものを食べるのを「かじる」とは表現するまい・・・。   
 大人になって、モツ焼きの店で、数センチ角ほどに手でちぎったキャベツが添え物みたくして出て来たとき、「ああ、キャベツをかじるというのは、こういう具合にしたものを食べることか」と理解した・・・「いや、違うだろ、丸いままのキャベツをかじるんだよ、リンゴの丸かじりと同じ!」という意見もあるか?   
   
   
 子供の頃、友達と野球遊びをするにはまず公園に向かったが、他のグループに先を越されて場所が埋まっている場合には近所の畑の脇の空地へ向かい、そこで遊んだ。   
 たまに、畑では農薬散布がされた。直前になると農家のおじさんが「これから農薬を撒くから、みんな、危険だから他所へ行け」と声を掛けた。   
 そしてまた、筆者の家では、農家の方その他から「(出荷用ではない)自家消費用の農薬不使用、または、農薬は1回だけ使用」の野菜・果物を頂戴することがしばしばあった。   
 そんなわけだから、筆者の頭には「農薬は怖い」という固定観念が今なおこびりついており、現代の農薬の安全性についていくら話を聞かされてもなかなかこの感覚は拭い去れない(もちろん、農薬散布時の危険と残留農薬の危険性とを同列にして恐れているわけではない)。   
   
 そういう農薬への警戒と、そして昔の日本の古典的な有機肥料のことなどあって、昔は、野菜は食べる前・調理する前にほんとうにしっかり洗ったものである。台所用中性洗剤を使って洗うことも半ば常識のようになっていた。   
   
 空地で遊ぶついでに、横の畑の野菜のあれこれを見て回ることもあった。キャベツには蝶々か何かの卵や幼虫がついていたり・・・「ははあ、こういうことがあるから農薬も必要なんだな」などと思った。   
   
 修学旅行のとき、おかずのひとつにキャベツの千切りがあったのだが、その中に緑色の幼虫が見えた。向かいに座っていた先生にそれを見せたら、静かな声で「食べずに残しなさい」と言われた。さあ、そのあと先生は皆に「キャベツは食べずにおくこと」と指示するかと思ったら、何もしなかった。しかし、先生自身はやはりキャベツをしっかり残した。   
   
 大人になってからのことであるが、白菜のキムチの作り方を知ったとき(根元の株の部分から葉を切り離さずにおく)、はて、白菜を育てるときには農薬は使われないのかどうか、また、漬ける前の準備でどのくらいきれいに洗うのかなど気になった。もちろん、日本の国内外においてどのようなタイプの肥料が使われるかも気になるわけだが。   
 近所の農家から白菜を買うことがあったとき(自宅でキムチを漬けることはしない、浅漬けや水炊きの具に使う)、農薬を使っているかどうかを尋ねたら、使っているとの返事であった(たまに葉に虫食い穴があったりするが、農薬を使わなければあれはもっとひどいことになるのではないか)。すると、やはり、多くのキムチ漬の商品について、漬ける前にどのくらいしっかり洗浄されているか気にはなる・・・ゆえに、キムチをそれほど頻繁には食べない。   
   
 ところで、野菜などが無農薬栽培だと安心かというと、必ずしもそうではないらしい。   
 農家の方の自家消費用ということで無農薬栽培されたセロリを喜んで食べていた時期もある。最近は市販のセロリを食べることになるが、よく洗うことを守っている(当然、皮/筋を取り去るが)。しかし、セロリもまた頻繁には食べないことにしている。さあ、しかし、無農薬でセロリを育てると、セロリ自体は菌類に抵抗するための物質を一生懸命に作り出し、これが人間にとって害をもたらしうるのだという。厄介なことであるなあ。   
   
 ともかく、食べる前・調理する前によく洗うことについては、これが間違いにつながることはあるまいと考える。   
   
 しかるに・・・。   
 しばらく前に寄ったモツ焼き・焼鳥の店では・・・キャベツを洗わずにちぎっていた。「ふむ、先にちぎり、あとから洗うという仕方なのかな」と思って眺めていたら、洗うことはせずそのまま客に出していた。   
 上とは別の店であるが・・・鶏モモ肉とネギを交互の順に刺した焼鳥があるが、これに使うネギについて、仕入れて来たまま洗わずに(さりとて、いちばん表の皮を剥くこともせずに)そのまま輪切りして串刺しするのだと言っていた。「ネギにいろんな人の手が触れていても、どうせ焼くのだから衛生上問題はない」という判断なのだ。まあ、衛生上はそうかも知れないが・・・ネギはああいう風味と成分であるから農薬不使用のケースも多いのかどうか筆者よく知らないが、しかし、何か考える前にごく自然に「とりあえずは洗う」という気持ち・感覚は普通には備わっていないのか。筆者が神経質なのであろうか。   
   

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