2017-05

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雑感

   
 昔々にはEL&Pの「展覧会の絵」を幾度も聴いたものだけれども、今あらためて聴くと、自分にとっては「あまり刺激的でなく面白くないかな、かつて感じたものは何だったのだろう」との思いに至ってしまう。大いに工夫も創造もされていることは分かるが、やはりどこか、オリジナル作品の上で踊っているのみという印象を受けてしまう・・・それが悪いというわけではないけれども物足りなさは否めず、「もっと」があって欲しくなってしまう。   
 クラシック音楽を他ジャンルのスタイルに移し入れてもどこかに無理が生じたりすることは珍しくないように思う。ホルストの「惑星」から「ジュピター/木星」を用いて歌詞を乗せたものがJ-POPで随分とヒットしたけれども、「うーん、良いかどうか・・・微妙だな」と感じたものである。   
 ベートーヴェンの「悲愴」ソナタの第2楽章を利用したポピュラー・ミュージックは幾つかあると思うが、それらのケースはわりと成功しているか・・・しかし、その成功とは「うまく利用した」に過ぎないことのように思え、何かしら「発展形」のようなものを感じるかというとそれは無く・・・メロディが、ポピュラー・ミュージックが扱うテーマやムードに合いやすく、容易に転用できることからウケのよい作品にはなるが、結局のところベートーヴェンに「おんぶに抱っこ」状態なのだと言えようか。きっと今後も、忘れた頃になるとベートーヴェンのこの作品に依存した新作のポピュラー・ミュージックが登場して来るのではあるまいか。   
 ジャック・ルーシェによるバッハのジャズ演奏は、あれは今もって色褪せないと思えるのだが、これはバッハ作品のどういう特質・汎用性ゆえであるのか・・・。   
   
   
 先日の或る晩、テレビではモーツァルト/「2台のピアノのための協奏曲」(K.365)のライヴ映像が流れていた。演奏はチック・コリア、小曽根真、尾高忠明/N響。   
   
 この曲、筆者自身は稀にしか聴かない・・・と言うか、もうずいぶんと聴いていない。ただ、ピアノ・パートに関してはカザドゥジュ(カサドシュ)夫妻がセルと、あるいはオーマンディとともにレコーディングしたもののその演奏ぶりが記憶にとどまってはいる(CDは現在はソニーからリリースされている)。   
   
 モーツァルトの協奏曲に関しては、カザドゥジュやカーゾンの演奏を通じて自分のなかに形成されてしまった「モーツァルト的な質感、フォルム、愉悦、イントネーション、テイスト」というものがあることも手伝って、テレビで流れた演奏では何個所にも違和感を覚えてしまった。   
 当然ながらそれは「ありゃ、モーツァルトにジャズのテイストが」という、残念さに近い違和感が主なものであったが、同時にやはり「ピアノに関して、こちらが(好き勝手に)求めるデリカシー、抑揚のあんばい、音の太さ・細さ・響きのほど良い加減が期待どおりには実現されていない」という狭量な感想に至ったわけである。   
 しかし、さらに、これまた同時に、「モーツァルトが生きていたら、これはこれで面白がるかも知れぬ」とも思った。すると、こんなふうにも思ったのであった・・・「チック・コリアは、こちらが勝手に抱いてしまっているものと共通しそうな“モーツァルト的なるもの”の枠組みに収まろう・それに寄り添おうとする気持ちが幾分か以上に強いようであるが、今回のような2人の(顔ぶれの)ピアニストの共演という場ではもっと挑戦的であってもよいのか」と・・・。   
   
 はあ、以上、わがままな感想であるなあ。   
 演奏後の拍手のあんばいは微妙なものになるであろうと予想したのであるが、しかしそうはならず盛大なものとなったので意外な気がした・・・固定観念に縛られないクラシック音楽ファンが多くいて、そしてまた少なからぬ人数のジャズ・ファンも聴きに行っていたのであろうか。   
   
 そのあとに演奏されたエルガーの「エニグマ」は、「ちょっとだけ立派に・豪勢に過ぎるかな」とは思えたものの、堪能しきれる演奏であった。バルビローリの残したレコーデイングを久々にまた聴こう・・・このところまた音楽鑑賞に時間を割きにくくなってはいるが。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
   
 居酒屋での雑談の最中に「 F I F A をめぐる疑惑って、あれはどういうことなの?」と尋ねられたことがある。   
   
 筆者、こういう問題についてはテレビのニュースではもちろん聞くわけだけれども、新聞記事を前にしたときには「しっかり読む」のではなく「斜め読みする」という具合なので(新聞を読むにも記事テーマに応じた時間配分は大切だ)、上の問いにもごく大雑把に答えるにとどめた。すると相手は、   
   
 「ああ、そういうことなわけか・・・こういうことって、子供には話せないよね」との返事・・・。   
   
 そこで筆者、「え? むしろ、よく解説してあげるべきことでしょ」と応じたのであった。   
   
   
 子供に教えてはいけないことなど、そう多くあるものではない。サンタクロースからのプレゼントの実体/実態などのことは、これは幼い子供の夢との関係もあるから教えてあげる時期を選ぶべきではあろうけど。しかし、子供の側の理解力にも配慮しつつ、冒頭のようなことや、また、たとえば次のようなことは小学校高学年くらいの子供に対してであれば説明してあげればよろしいではないかと考える:   
   
   
 ・入札その他をめぐる談合、あるいはヤミカルテルなどはなぜ起こるか、それで得する人、世の中が被るデメリット、そして、制裁のあり方   
   
 ・カルテルとは何か   
   
 ・独占、寡占、財閥、コンツェルン   
   
 ・買い叩き、また、不公正な取引方法とされる事柄   
   
 ・政治とカネの問題   
   
 ・贈収賄   
   
 ・ウラ金をつくる企業は、そのウラ金をどう作り、どう使っているのか   
   
 ・タックス・ヘイブンとは何か   
   
 ・産地偽装ほか虚偽表示の問題、誇大広告の問題など   
   
 ・ドーピング、八百長試合   
   
   
 つまり、世の中の仕組みや、ありうる弊害、また、「いけないとされていること」とか「大人の事情」とか「キタナイ行為」などなど、そういうものを教えて何が悪いのかと、筆者は思うのである。もちろん教えるに際しては「なぜ、それがよろしくないのか」等を丁寧に話してあげなくてはいけないし、そして「君自身はどう感じ、どう思うか」と問い、考えさせること、正義感を育むことが必要であろう。間違っても、時期尚早に不健全な免疫を得させてはなるまい。   
 もっとも、これらの話を出来ないという大人も実は相当数いるかも知れない(自身がその実態をよく知らないからとか、あるいは、自身がまさにそれらにタッチしているがために後ろめたくて子供に話す気になれないとか・・・)。   
 ああ、そうだ、以前、社員食堂でのランチタイムのとき、テレビでは水道メーターをめぐる談合事件を報じることがあった・・・筆者が思わず「この業界、何度目だよ!」と独り言っぽく言ったら「えっ、そうなの?」的な表情をした人がいた・・・これにはこちらが驚いてしまい、この種の事件はすぐに忘れ去られてしまうものなのかと意外に思ってしまった。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
      
 「情けは人のためならず」・・・この言葉を品詞分解するとして、「なら」の部分は動詞なのか助動詞なのかを子供に答えさせるというのは、それなりに意味のあることである。   
   
 で、ついでに・・・筆者的には「ついでに」なのではあるが、人によっては「ちっとも“ついでに”ではないじゃないか」と思うかも知れないけれども・・・「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉をめぐって子供と一緒に話し合うことがあってよろしかろう。それはつまり、「健全な精神」と「健全な肉体」とはどういう関係にあると思うか、これらは数学的な意味での十分条件、必要条件の関係にあてはめられるのか?   
 ・・・と、ここまでは昔々、保健の授業の際に先生が上の言葉を黒板に大書したときに筆者の頭に浮かんだ疑問であり、そのとき自分は「健全な精神と健全な肉体とは、実は無関係ではないのか。こんな標語めいたもの、馬鹿馬鹿しい、たわけたことを教えられても困る」と感じたものであった。その後になって、上の言葉には或る由来があって、それが実は歪められて今日に伝わっていることを知ったのである・・・ま、ともかく、「健全な肉体を持っていないと、健全な精神は宿りえない」などと理解する必要は全然ないのだ。そう見てくると、スポーツ選手がドラッグ類に手を染めようと、賭博にのめりこもうと、あるいはドーピングしようと、八百長ゲームをしようと、もうそんなことはちっとも驚くことでないとスンナリ理解できるではないか。この「スンナリ理解」の感覚を子供にも植え付けつつ、体力増進・運動能力向上とはまた別個に、いや並行的にかな、精神修養の意義、社会のルールを遵守し不正に走らないことの大切さを説くことが必要であろうかと思う。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 以前、テレビ番組の芸能人インタビューをたまたま目にしたたときのこと、若い女優さんであったかと思うが「この業界に入るときには両親から反対されました」と言っていた。   
 インタビューアーが「それはどうしてでしょう?」と問うと、その返事は「分からないですけど、この業界、男女間のスキャンダルとか、いろいろあるからよくないと思ったのではないでしょうか」というものであった。   
   
 確かにそういう理由も十分ありえようし、比較的若い世代の親御さんであれば反対理由はそういうことや人気商売ゆえの不安定さ等の問題に尽きるかも知れないが、しかし、或る年代までは「芸能方面の職」(の社会的地位)への偏見がしっかり残り続けているからではないかと思うのである。   
 それは、天覧歌舞伎よりも前のこと、長い過去を思いながら我々が歌舞伎役者を見ることに通じる。能とは異なり、町人階級にとっての歌舞伎の、その役者に対する視線・・・その延長上で芸能人を見ている向きは、筆者も含めて今日なお一定数以上はいるものと思う。   
   
 しかし、そういう問題を離れても、かなりの芸能人嫌いであるなあ、自分は。   
 そして、議員や知事の選挙戦に芸能人が出ることに関して、それを推薦したり支持したりする政党の問題以前に、何か表現しにくいような抵抗を覚えてしまう。   
   


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