2017-08

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 2020年東京オリンピックの関係・・・「新国立競技場の建設費が膨らみそうであるが、さて世論はどうなのか」ということが関心事になったとき、筆者はこう思った: 「文化、芸術、伝統芸能を支援しようとする動きは低調である一方、しかし、スポーツ関係にカネを振り向けることには甘くなっているのが今の日本の流れではあるまいか・・・ゆえに、賛成と黙認と無関心をバックにして贅沢な、そして建設コスト内訳の精査すらもズサンな建設事業が進むことであろうなあ」と。   
   
 が、世論は、「建設費は高すぎる、見直すべきである」というものであった。ちょっとばかり感心した。   
   
 次の関心事は、計画見直しでどのような新プランが出て来るかである。民間資金ではなく公的資金で用意する「ハコモノ」にあっては、(その適正規模については話したいことがあまりにも多くあるので端折るとして)運営維持、光熱費、定期的メンテナンスや大修繕にカネがかからぬようなもの、清掃作業にあたってもゴンドラで簡単・低コストで済んでしまうくらいの単純形状の建物であること、その施設に配属された公務員が自分自身で担当するかそれとも外注に出すかはともかくとして手入れの必要な庭園などの付帯設備は小規模にしておくことが無難なこと等、筆者、いろいろと思ったりするのである・・・間違っても、「或る建築家の代表作たりうるもの」とか「前例の無いユニークな建造物であること」などに重きを置いてはならない・・・それらはもう時代遅れの発想ではあるまいか・・・用地の広さと形状が許すのであれば、既存の建造物の設計図/プランをほぼそのまま拝借ということがあってもよいではないか(設計図面などに関わる著作権上の問題はクリアする必要がある)。   
   
 スポーツの意義を考えたとき、競技場には華美に過ぎるもの、機能性を越えてしまう要素、また、芸術的意味合いを含みすぎる要素などは必要なかろうと筆者は感じる。レガシーとして誇れるようなものである必要はなかろうと思う。   
 IOCの考え方に向き合うにあたって神経過敏と感じられるようなものが窺えるけれども、これはどうなのだろう。そもそもスポーツはそれほどに「別格で神聖なほどに崇高」なものではなかろうにと思うし、また、たとえば開催候補地に名乗りをあげる段にあっても各国・各都市は「オリンピック開催地に選んでくれと頭を下げるつもりはない。うちらの国/都市でオリンピック開催してやってもいいぜ、だから一応は立候補しとくわい、会場準備その他、あまりうるさい注文をつけて寄越すことがあれば、話をおりるからな」みたいなスタンスに切り替わってもよいのになと、筆者は心ひそかにそう思う・・・むこう何回かのオリンピックは、世界からの、いや日本とかを巻き込まないEUの支援のもとギリシャにやらせておけばあの国の経済復興にも寄与しうるのではないか・・・いや、分からぬが。   
   
 スポーツの意義は、国民の体力・体格の向上、精神力の涵養、そして、チーム・スポーツにおける自己犠牲の精神を育める点などにあろうかと思う。これにより、健康長寿であるとか、出来るだけ(介護などの)世話にならずに老後を過ごす等のことが実現するし、そしてまた、万一の災害や戦争の際に力を発揮できることになる。   
 オリンピックであれ世界選手権、国体などなどであれ金メダルなどを獲得したり優勝したりする選手(やチーム)、また、惜しくもそれを逃す選手の活躍を目にして次々とそれに若い世代が続く・・・「僕はこの競技が得意」、「わたしはこの種目に夢中になれる」、「わたしが狙えるのはこれしかない、これ一本にすべてを賭ける」という思いで精進を重ねる。その間に、多くの国民の体力その他は総じて向上していくのである(ただし、学校の先生方のあいだにあっては、「特に運動部の顧問になってからは残業も多くなっていて大変で」と嘆くケースが珍しくなさそうで、この場合、「わたしの役割は自分の担当するクラブや所属する生徒を優勝させることではない」と割り切ることも必要なのかも知れない・・・「如何にして生徒たちの体力と精神力を高めてお国のために役立ちうる人材に育て上げていくかがテーマなのである」というように、ライン/レベル/目標の見直しが求められるか・・・頂点を目指すような生徒がいる場合には別扱いも必要になろうけれども)。   
 
 「陸上競技ならともかく、卓球やカーリングのごとき競技種目では有事の際の戦闘能力の向上につながるまい」という意見は、これはおかしい。それらのスポーツにあっても基礎体力の向上のために各種の、そして過酷なトレーニングが行なわれているはずである・・・そこには大きな意義がある。   
 卓球でもテニスでも、あるいはバレーボールやバドミントンでも、サーヴやレシーヴの上手さ・的確さというものが、有事に際してどれほどに役立ってくれるかは疑問である・・・でも、よいではないか、トレーニングも含めて、スポーツ/競技を通じて体力や持久力が、そして根性や「諦めない心」「ベストを追求する習性」などなどが存分に備わっていくことが大事なのだ。   
 野球のケースで言えば、監督の指示がある場合であれそうでないときであれ、「実に危うげのない、カッチリした送りバントを淡々とこなす」とか、「役割をしっかりとわきまえた犠牲フライを打ち上げる」とかいう場合の、その「技術力」はもちろん大したものであるのだけれども、本当に意味があるのは、邪念や迷いを持つことなくそういうバント/打撃を実行出来るか、自己犠牲を果たせるかどうかではないか・・・それが出来ないようであれば、有事、それも特に切羽つまった状況下において、やはり行動や決意に躊躇が生まれるのではないか・・・「戦場での決闘」とか、あるいは「特攻」とか「人間魚雷」とか、そういうものを前提にした話はしたくないけれども、しかし、スポーツによって培われるものが真に輝くときはいつか、そして、安穏とした状況下に生まれて暮らして死を迎えるというサイクルのなかで贅沢な競技場において競い合うことが意義のすべてなのか等々考えると、ま、思いはいろいろに及ぶのである。   
   
  

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