2017-06

Latest Entries

台風一家、怪奇月食・・・



   
 (↑)季節の花、コスモス。   
   
   
   
   
 ・・・「え? さては写真を選び間違えたな」とお思いであろうが、単なる冗談に過ぎない。   
   
 ごくたまに顔を出す居酒屋で一緒になる常連さんが「俺は花の名前をよく知らない」と言うものだから、筆者は次のように応じた:   
   
 「僕もダメなんですよ。このまえ“このチューリップ、きれいだね”と言ったら、“それはヒマワリだよ”って言われましたからね。ほんと、区別がつかなくて」   
   
 相手は唖然とした。で、近くにいた別の客もこちらの顔を覗きこんでいた。もちろん冗談だったのだ・・・。   
   
   
 でも、花の区別が出来るということは、ものの形その他の違いを認識できるという能力の問題であろう。とすれば、人によりその能力に優劣があって不思議は無かろう。   
   
 モーツァルトの音楽もチャイコフスキーの音楽も、あるいはドビュッシーやマーラーも、どれも同じに聞こえるという人がいても、これまた不思議でないかも知れない。「まさか」と思うが、しかし、絶対にありえぬことではないように思う。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 冗談として相手を唖然とさせる・戸惑わせるのには、変わった言葉、古めかしい言葉を使うのも面白い。   
   
 「おっ、ありがとう」と言うときに、「かたじけない」と言うなど。   
   
 それに対し、「この案件、最優先で急いでやってくれ」と言いたいとき、「いの一番で処理してくれ」と言うのは、これはよろしくなさそうだ。相手があまりに若い人だと意味を理解してくれないようだし、もうちょっと年代が上だと、一瞬の困惑・思考停止を経たあとに趣旨を理解するではあろうけど、しかし、「オヤジギャグ以上にダサい感じの、古めかし過ぎる表現」と受け止められることであろうなあ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 例の曲をカラオケで歌う人がいて、そのとき「フォーチュン・クッキーって、何なんだろうね」と尋ねられたから説明することがあった。   
   
 気になったのは、英和辞典ではどういう訳語が使われているだろうかということ。あとで調べたら或る辞書には「占いせんべい」とあった・・・心の中で「うーん」と唸ってしまった。   
   
 そしてまた思ったのは、日本人が作る歌謡曲・J-POPであるならば「茶柱が立つ」という表現が使われた歌詞があっても不思議は無いのにな、ということである。しかし、仮に若手アイドル歌手が次のように歌うとする:   
   
   いま、あなたに心ときめいているの   
   
   でも、この気持ち、伝わってないみたい   
   
   不安なの   
   
   でも今朝、茶柱が立ったのよ   
   
   きっと、きっと、いいことあるわ   
   
   
 ・・・ヘタクソな歌詞例で申し訳ないが、ともかくこれではヒットするとは思えず、何が決定的にマズイかと言えば「茶柱が立つ」という表現が入っていることだろう。ペットボトル飲料としてなら日本茶はまだまだ頑張っているのであるが、それでも日本茶を飲むシーンには少なくともオシャレ感が欠けるようにも思われ、ま、日本茶が不憫にも思えて来る。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 打上げ花火を目の前にしても写真を撮ることをしないから「変わっている」と言われたりするが、「今この瞬間に見て、そして楽しめばそれでいいじゃないか」くらいに思っている。   
 皆既月食も写真におさめなかった・・・歩いている途中でチラチラと目にしただけで、ゆっくり見ることもしなかった。

   
   
 かつて「淡々と無感動に生きている」と評されたことがあって、そのとき「ああ、そうかもな」と思った。   
   
 オリンピックの試合その他のスポーツを観戦した人が「勇気と感動をもらえました」と感想を述べることがあったりするが、「その種の感想を持つことは自分にはありえないだろうなあ」と思うのだ・・・「勇気までも?」とか思う。   
 音楽についても同様の感想を漏らす人がいるが、音楽好きの筆者でもそのような感想を抱くことはこれまた無かろうと思っている。   
   
 過日ブラジルで行なわれたサッカーのワールド・カップの試合・・・テレビのニュース番組では、サッカー・ファンが集まるカフェらしきところ(日本国内)の様子を映し、たぶん中継スタッフが客に「今日これからの試合では日本チームが勝つと思いますか?」と尋ねたであろう、客のひとりは「2-0で日本が勝ちます」とキッパリと喋っていた。   
 で、思ったのだ・・・「この人は何かしら戦力分析をしたうえでこのように予言しているのか? それとも夢・希望の類なのか? なぜこうも自信を持って発言し、また、サッカーにそうも熱くなるのか?」   
 こう思ったことを次の日あたりに知人に話したら、「では、あなたは日本はこれから何勝すると思っているのか?」と逆に訊かれたのでこう答えた: 「1勝も出来ないのではないか・・・もちろん戦力分析などしたうえでのことではない、サッカーのことなどろくに承知していないのだし。そしてまた、1勝もしないであろうチームを敢えて応援するようなことは、自分はしない。試合の中継も見ない」と。   
   
 ところで、筆者は「サッカーは日本人向きではない」とも思っている。体格・体力の観点から日本人が上位を目指すことが難しいと言っているのでない。   
 ゴールを決めると、「やったぜ! 上手いだろ! 強いだろ!」的に腰を突き出して走り回ったりするけれども、ああいう姿は美しくないと思うのだ。静かにしているか、さもなくば控えめなガッツ・ポーズをとるくらいでいられないのか? なぜ、ああまで感情表出しようとするのか?・・・きわめて日本人的でないように感じる。   
 大相撲で勝った力士が、あれと同様に腰を突き出して土俵上を歩き回ったとしたらおそらくは「品位を欠く」と評されることであろう。   
 「サッカーに於けるあのポーズは世界標準なのだ、よその国の選手だって皆やっている」との意見もあろうが、日本人が他国人と同じに振舞わなくてはならないと決まっているわけではない・・・もっと言えば、日本人だけはああいうポーズをとらないというのでもよろしいではないか、いや、とらないのがよろしいと思っている。日本人ならば「日本人は別格なのだ」という誇り・矜持のようなものを持ってもおかしくない・・・いずれの国民も民族もそのような矜持を持って然るべきではあるまいか。   
   
 では、日本に於けるサッカーの流行は好ましくないとも思っているのか? そういうことはない。   
 野球の場合には、攻撃に回ると、打席に立っている選手、その次に打順が回ってくる選手あたりを除くと、体を休めている状態になる。対してサッカーは「常時」に近いくらい動き回る。小学校くらいから体育の授業やクラブ活動でサッカーが盛んになっていることは、そういう「動き続ける」能力・気力を育てるうえで意義が大きいと思うのだ。将来の、「もしも」の有事・戦時の際、そういう基本姿勢が身についていることは大事だと思う。たとえば戦争となれば、いつ休憩をとれるかも分からない状況になろうし、長距離ミサイルの応酬などの戦闘状況でなく、歩兵などとして地上戦に加わる場合には一人でも多く敵を倒すこと、敵陣を一歩でも深く侵攻していくことが求められるであろう(「敵陣」とは、日本の領土が敵に占拠されてしまっている場合のその地域などを想定しているのであり、日本が侵略戦争を仕掛ける場面を想定しているわけではない)・・・サッカーを通じて持久力・根性を涵養することは意義深いことと、そのように思っている。   
   

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://szelldocs.blog9.fc2.com/tb.php/752-0cf151e2

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。