2017-06

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「酒好き」なれども「ワイン好き」になれなくて・・・そして・・・



   
 よその、某社の社員食堂で昼食の列に並んだときのこと・・・。   
 その会社には、以前にはよく顔を合わせて話も弾ませたことあるAさんがいるのだが、気づけば長いご無沙汰続きとなっていた。この日、列に並んだ筆者の3人ほど後ろにAさんがいて、筆者はそれに気づかなかったが、Aさんのほうはこちらの姿を目にして「おっ、山田(仮名)が来てるじゃないか。久しぶりだなあ。食事しながらちょっと話そう」と思ったらしい。   
   
 順番が巡ってきて筆者はカウンターで食事を受け取ったが、その日はあまりにも多くの用件を片付けなくてはならなかったことから、実にスピーディに食事を済ませた。作法というものを無視してしまうと、まずは味噌汁を一気飲みしてしまい(笑)、そのあとは、ご飯は「握りずし」大の1.5倍くらいずつをパクパク食べていく等々で、ま、「味わい」は無視での特急スピードの食事というのも可能である・・・と言うか、そうしなくてはならないときもあったりする。   
   
 Aさんの側は、自分の食事を手にしたあと筆者がついたテーブルめがけて歩を進めたが、途中で「あっ、いけねえ。慌てていて箸を取るのを忘れた」と気づいてカウンターに戻った。そして、箸を手にすると、筆者がいる筈のテーブルに向かった・・・が、このとき既に筆者が食事を終えてテーブルから立ち去りかけていたのを見て唖然としたらしい。   
   
   
 筆者が、何かしら急がねばならない理由があって早食いするとき、「急がなくちゃ=戦い」のイメージゆえに、頭の中では「戦うに時宜あり」という言葉が響いていることがしばしばある・・・これは旧約聖書の「伝道者の書」第3章の第8節に見られる言葉である・・・本来、食事を急ぐことに結びつく言葉ではないのだけど。   
   
 では、筆者はキリスト教その他の信者であるのかというと、そういうことは全くない。   
   
   
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 冒頭の写真の背景に用いているのは、先週の日経新聞の記事から。   
   
 筆者があまりワインを口にしたがらない理由は幾つもあるのだが、そのひとつとして(それはまた決して小さくはない理由として)特に赤ワインを目にしたときにキリストの言葉が思い浮かぶことが挙げられる・・・新約聖書の「マタイ伝」第26章26-28節・・・パンやワインについてキリスト自身の肉体と血であると言っている個所。そして、この、パンとワインが、今日のキリスト教関係者たちによっても同じ意義・比喩として扱われている。   
 筆者としては、赤ワインの赤い色はまさしく血液を連想してしまって気持ち悪くなるということはないし、よって、それゆえにワインを避けたがるわけではない。出来る限り宗教関係とは距離を置きたいと思って生きて来たがため、ワインを口にすることが即、どこか僅かな部分で自分がキリスト教に染まるような気がしてしまい、それが愉快でないのだ。   
 キリストが述べた言葉・行為が、今日において、少なくとも一人の人間をワイン・ファンにさせない手助けをしている・・・。なお、もちろん、キリストの時代に於ける一般的な食事内容やワインの在り方と、今日の、日本に於けるワインの楽しみ方とに大きな違いがあろうが、しかし、この違いは、「ワインを目にしたときの筆者の感覚」を補正するうえで何らの意味も持たない。   
   
   
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 それでも、しかし、聖書(旧約聖書・新約聖書)の類を手もとに置き、いつでも参照できるようにしておくことの意義・必要性については今さら説明するまでもなかろう。   
 また、今後の日本が、東南アジアでもマレーシアのような国、また、中東・アラブばかりかアフリカなどとの関係を深めていくにつれ、自分も含めて多くの日本人がイスラムの宗教・文化に関心を寄せることとなろう。そういう動き・対応をさらに早める意味でも、2020年オリンピックは、実はトルコで開催されるほうがよかったと筆者は思うのである(長期的視野に立って)・・・イスラムにはイスラムの、素敵で、ゆかしき「(お)もてなし」もあろう筈で、ま、それはともかくとしても、薄っぺらでない文化や流儀は、敬意を払うに値するものがあろうと信じる。  
   
 筆者個人的には、時間があるならば(「宗教」とは異なるが)「日本書紀」、それから「論語」や孟子やその他いろいろのことをしっかり学びなおしたいと思っているけれども。そしてまた、アフリカといえばイスラム教という見方・決め付け方が多かろうけれども、アニミズムのようなものもしっかり残っているのではないかとも想像し、そういうものにも興味を抱いてしまいそうな気もする。   
   
   
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 聖書、また、聖書の範囲を越えてのキリスト教に関わる知識も、あるいはギリシャ神話、北欧神話、グリム童話などなども、音楽や絵画を出来るだけしっかり楽しむうえでも役立つ、あるいは必須だったりもするのは言うまでもない。多くの場合、作品の解説にあたれば済むであろうけれども、時間的に許されれば自身で勉強しておきたいと思うのが自然であろう。   
 たとえば「この絵のなかに描かれている天秤(てんびん)は何を意味しているのだろう?」とか、「R.シュトラウスの歌曲のタイトルにもなっている“東方の三博士”とは何なのだ?」とかが疑問として残ったまま鑑賞するのは気持ち悪い、落ち着かないというものだ。「イスカリオテのユダ」と、ヘンデルの「マカベウスのユダ」とは違うんだなとか、山口県の湯田温泉はそれらとは全然関係ないんだなとか・・・(笑)。画家ダリの作品にもあるアントニウスと、マーラーの「子供の不思議な角笛」にある「パドヴァのアントニウス」とは違うんだなとか・・・。とはいえ、さらに「シベリウスのどんな曲にいきなり出会っても大丈夫なようにフィンランドの伝説などもしっかり勉強しておこう。ロシア音楽についても守備を固めるべくロシアの文化に関わる知識を仕入れておこう」などと思い始めたら、それこそ大変な勉強をキリ無く続けることになってしまうが。   
   
   
 写真中の本のうち、左のは聖書ではないが、右のは手持ちのものから。   
   
 英語版の聖書はいろいろあって次々と揃えるのは楽しい・・・日本で出版されている日本語版聖書よりも安いので気軽に何冊も買い求められるし、何かの折にこれまた気軽に誰かに差し上げることも出来る(筆者の場合、自分がキリスト教徒であると誤解されるのを恐れて、他人に差し上げることは稀であるが)。英語版の場合、NASB、NIV、CEV、NKJV、KJVなどあれこれある・・・これらのうち「どれが好ましい」という意見など、筆者が言えようはずもない。最近の研究成果を踏まえての(英語での)記述であるかどうか、英語圏で一番読まれているのはどれであるか等、チョイス上、気にとめておきたい事もある・・・しかし、そういう点、筆者はここでコメント・深入りしたくないし、出来ない。  
 KJVことキング・ジェームズ・ヴァージョンは古めかしい語も使われていて読みにくいが、しかし、ひとたび慣れてしまえば日本の古典文学よりもすんなり読める・・・で、そうなると、読んでいて結構気持ちよく・・・それがゆえに自分がキリスト教徒になってしまいそうで不安になる(笑)・・・うーん、でも、趣味人向けというか、ハッタリかませて引用するのにはよいかも知れないが、さあ、それを目にした現代の若年層の英語ネイティヴの側が瞬時に理解できるかどうか不安も残る。最近の聖書研究に照らしてもまったく問題点の無い記述/英語になっているかどうかということは気にもなるが、これは筆者ごときがどうこう言える問題ではない。   
   

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