2017-11

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 仮名であるが、柏原 哲三郎(かしわばら てつさぶろう)という名の人物がいるとする。   
   
 この人物が米国に駐在するとして、現地のアメリカ人にこの名前を正しく覚えてもらう・正しく発音してもらうというのは、やはり難しくもあったりするだろう。   
   
 「俺のことはファースト・ネームでテツサブロウと呼んでくれ」と言っても、それすら覚えてもらいにくい・発音してもらいにくいことだろう・・・というわけで、合理的妥協として「んじゃ、ま、テツサブロウに近い音を持つ、米国でお馴染みの名前を活用することとして・・・そうだ、テッド( Ted )と呼んでくれよ」みたいなことになる・・・決して珍しいケースではあるまい。   
   
 米国駐在を終えて日本に戻って来ると、そういう人の名刺の裏面のローマ字/英語表記に "Ted Kashiwabara" とあったりすることもまた、よくあることだ。   
   
 それは、よいと思うのだ。   
   
 鉄男、哲三郎などの名前の人が "Ted" を選ぶ、そう呼んでもらおうと考える感覚は理解できる。しかし、ときどきだけど、たとえばの話として、「ナントカ 茂(しげる)」という名前の人の名刺の裏面のファースト・ネームが "William" ("Billy") やら "Jack" とか "Fred" 等々になっていることもある。   
 これが、筆者にはどうも腑に落ちないというか、いや、大きな違和感を覚えてしまうのだなあ。「俺の名前はシゲルだけど、ちょい発音してもらいにくそうだね・・・じゃあ、ウィリアムと呼んでくれ」・・・おかしいじゃないか、やっぱり変だよ、と思う・・・ブッシュという「姓」があるが、この語を「名」としても使うこととして、「茂」からの連想として「俺のことはブッシュと呼んでくれ」みたいな意味上の連鎖・関わりが窺えるならばまだしも。   
    
 子につける名はインターナショナルなものとしておこう・・・そういう発想を持つ親もいる。たとえば「譲二(じょうじ)」、「えりか」、「えり/恵理/絵理」などなどの命名の何割かは、そのようなインターナショナル意識を伴っているであろうと想像する・・・ George, Erica, Elly などに通じる。   
 「伊作」という名もあったりするが、これなどは字面では極めて日本的でありながら、しかし聖書(アブラハムとイサク)はもちろん、イツァーク、アイザックとも通じるわけで、何か凄いなと思ったりする。命名された本人が長じてそれを気に入らないという場合は、これはまたかなり深刻なこととなりうるかと懸念するけれども。   
   
   
 冒頭の写真は日経新聞の2つの記事から。   
   
 詩、詩歌・・・「詩子(うたこ)」という名がある。   
 「音楽が好きな子になるように」と思った父は、「詩(らら)」と名づけたというが、ちょい飛躍がある、その飛躍が、良い意味で洒落ているように思った・・・皮肉・冗談は一切なく、筆者には「良い」と感じられる。(ずっと前から有名なゴルファーなのだろうけど、ゴルフに縁遠い筆者は今頃になって知った。)   
   
   
 日経新聞にはしばらく前から、子供(いや、青年層も含みうるだろうが)に向けて、世にある仕事のいろいろを紹介するコーナーがある。分かってもらいやすいもの、また、子供たちが既に「世の中にはこういう仕事もあるよね」と承知・察知しているものばかりを紹介・説明してもしょうがないのではないかな・・・などと、筆者は思い続けていた。最近は、しかし、必ずしもそういう傾向にあるわけではないかな、などと感じるようにもなったが。   
   
 そのうち、いずれかの回では「組合専従」などの職種も登場するのかな、どうだろう・・・筆者としては、そういう関係者が子供たちにどのようなメッセージを伝えるか、関心がある。   
   
 「ティーンエイジャーのうちに、早いうちに、自分が目指す道を確定する」ことを推奨する人たちも多くいるが、それは果たして良いことなのか。いや、良いことだとしても、若者にそれ以外の成長を辿ってもらうことも勿論悪いことではないだろう・・・と同時に、「世の中には面白いことが一杯転がっている。あまり自分の歩む道を固定しなくても、そして、どこかの会社に就職しても、それぞれの会社の中にはこれまた面白い仕事があれこれあるようだし・・・」などと思ってもらうこと、感づいてもらうことも大切だろう。そうでないと、企業は人材確保に難を覚える事態にもなりうる(日本は人口減社会へと突入し、市場・商売を海外に求めるゆえ、日本企業はあまり多くの日本人社員を必要としなくなるとの意見もありはするけれども)。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・    
   
    
 酒を飲みながらの気楽な場でこう言われたことがある・・・「もしもあんたに子供がいたら、子供の側は大変だろうね・・・勉強しろしろってうるさいだろうし、体罰容認派だし、(某JRの)日勤教育賛成派みたいな人だし・・・」。   
   
 と、すかさず、それに反論してくれる人がいて、「そんなことはないですよね。むしろ勉強のことなど子供本人まかせ、という感じになるのでは?」と言ってくれる人がいた。   
   
 前者の意見はほぼ100パーセント誤解に基づくものであり、後者がほぼ正しい。箸のあげおろし・使い方であるとか、「傘をそのように振り回して遊ぶな」、「刃物を誰かに手渡すときはこういう向きで」などに始まって、勉強以前に山ほど教えなくてはならない・注意しなくてはならない作法や、人への接し方を形作る根本の発想を植えつける必要があろうと思う。   
 「トビウオを食べるときは、ちゃんと骨を取り除けろ。面倒くさいからと言って飲み込むのはいけない・・・嘘つきは泥棒の始まりという言葉があるがそれと似たようなもので、ひとつひとつの骨をきちんと取り除くことを嫌がる、それが手際よく出来ないような人間は、長丁場の仕事、面倒を伴う仕事のときにインチキや手抜きをするようになる。職人でもエンジニアでも事務屋でも営業マンでも、そういうのはダメだ」ということも教え諭さなくてはならない(冗談)。   
 と同時に、自分自身の勉強し直しの意味もこめて、子と一緒に「論語」を読む時間も確保しなくてはいけない・・・子が「息子」でなく「娘」であった場合には、その子が長じて「君死に給ふことなかれ」のごときものを書くようなな人間に育ってもらっては困る・・・筆者は20代の頃、たとえばそんなふうなことを考えて、子を持つことは大変なことと思い、そして大いに恐れたものだ。   
   
   
 しかし、このように恐れ、そして子を持つに至らなかったことは、自分の場合には、別の意味で正解であったと今、あらためて思う。   
   
 (・・・次回以降に続く)   
   

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