2017-08

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人の感覚いろいろ(その7)

   
 「よりによって、どうしてこういう場所で居酒屋を始めたのかな」と思えるところに、その居酒屋はある。東京ではない或る地方都市。まるっきり住宅街で、街路灯が少なすぎで暗いばかりの道路、そして店が居並んでいたりもしない所・・・。   
   
 知人に連れられて寄ったのがきっかけであるが、寄るのは月に2回くらい(筆者、このところあまり飲み歩いていないし・・・)。   
   
 外観が居酒屋っぽくなくて、初めて目にする人は「街の食堂かな、いや、屋号からすればこれはやはり居酒屋なんだろうな」と思うであろう。固定客・常連客が殆ど。でも、食堂と見なしても間違いではないかな、メニューに無くてもカツ丼・肉野菜炒め・オムレツなど頼めば出してくれるらしく、それで酒・ビールを飲んでいるお爺さんもいる。   
   
 或る先生(高校の先生)について、また、或る、広い意味での飲食店の元経営者に関して、「ちと、人間としてどうかなあ」っぽい呆れるような行動・感覚に関わる噂話など二人して話していたときがあったのだが・・・話の輪には別のテーブルの客たちがどんどん加わって来たり・・・「俺は(話題のその人物とは)同じ町内会/町会だよ」、「同じ学校の卒業生、向こうは1年後輩だね」とか・・・何かこう、東京では信じられないような実に「世間は狭いんだよ」的な話の展開であり、そして、「あのうちの人たちはみんなこれこれしかじかの問題があって」とか「あのうちの先代の○○さん、知ってる? こんなことがあって・・・」とか。良きにつけ、悪しきにつけ、皆さん土地に根ざして、また、濃密なコミュニティで生きているんだなあと思った。東京と違って地域の結びつきが濃厚なのだろうし、また、学校の数も少ないし、当然の帰結なのか。   
  
   
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 東京ではない某県に所在する事業所で・・・雑談中に「(自分は)同窓会に出席したことはない。ひとつの場所で生まれ育ち、そして、小中学校の時期に転校を経験したこともないから同級生と仲良く過ごし続けたけれども(相手によっては通算9年だよなあ)、そもそも同窓会が企画されたことがこれまでに通算2回だけである。将来もまた同窓会に参加する気は無いなあ。自治体主催の成人式にも出席しなかったなあ」という話をしたら、しっかりと意外な顔をされた。   
   
 都会、それも東京だと、23区内であれ多摩地域であれ、そして少なくとも筆者の世代だと(もちろん60歳までまだ大分ある・笑)、「中学校を卒業して高校進学したら、それまでの友人関係は(望むと望まざるとに関係なく)疎遠になり、間もなく終わってしまう」、そしてまた「大学進学とともに高校時代の友人ともまた疎遠になって終りを迎える」のは珍しいことではなかろう、それが普通で常識的なことだとまで言い切るつもりは無いが。  
   
 日本全体を見たとき・・・育った家庭が商売・農業・漁業などを営んでいて、なおかつそれを引き継ぐ人たちの場合には、成人してからの日々の生活も、また、仕事(すなわち経済活動)も、「生まれ育った地」に根ざすのは当然として、郷土愛も自ずと育まれるやすいかなと思う。それに対し、東京にて「将来はサラリーマンがいいな」とか「サラリーマンだろうな、ほかに思い浮かばないし」などと考えながら育つ人間の場合、民間企業では転勤も覚悟しなくてはならないし、たとえ東京本社勤務が続くとしても、東京という街の都市機能を活用し尽くすことを考えれば少しでも利便性の高い地へ移り住んでいきたいなどと考えるケースも多かろうし、その結果、生まれ育った地をいわば「自分にとっては仮の住みか」のように見なす感覚が膨らみやすいか、どうだろう。   
   
 原発事故の関係で「生まれ育った故郷を離れざるを得ない」という方たちが感じる苦しみ・戸惑い・不安などのうちの一部分が、実は筆者には分かりにくかったりする。   
 新しい土地へ移り、そこで新しい仕事に就かねばならないということへの不安については分かる・・・というより、筆者なりに想像できるつもりではある・・・それは想像すればするほど「大きな不安に違いない」と確信するに至る。また、子供たちが転校を経験する場合に抱えるであろうストレスその他も、筆者には転校経験が無いが、それでも想像できるような気はする。しかし、「生まれ育った地を離れること」自体を嫌がる気持ち、つまり「この地をやっぱり離れたくないんだ」、「この地に暮らし続け、そしてこの地に葬られたい」、「仮にこの地を離れることがあっても、必ず戻りたいんだ、戻ってみせるぞ」といった感覚が、やはりどうしても分からない。(これを読んで気を悪くされる方がいらっしゃるかも知れないが、筆者、何かしらの悪意を持って書いているわけではない・・・たまたま、上のような自分の感覚と向き合うことがあり、「分からないものは分からない」と、ここに書くのである。しかし、それでももちろん、生まれ育った地に「暮らし続けたい」・「戻りたい」という願いが叶えられますようにと、筆者は祈る・・・人々の、ちっとも傲慢だったり自分勝手だったり理不尽だったりするわけでない、そしてとりわけ、よくありがちな願い事であるならば、それらのすべてが叶えば良いのにと思うから。)   
   
   
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 「睡眠サイクル」と呼べばよいのか、寝入ったあとに睡眠は深まり、やがて眠りの浅いレム睡眠が訪れる・・・再び眠りは深まり、その後また浅い眠りに・・・そういう繰り返しの周期は、自分の場合には、ずっと前から2時間周期であった。何かの物音、気配の変化で目が覚めるとか、あるいは、懸念事項などあって自然に目が醒めてしまうという場合、時計を見ると、入眠したであろう時刻から2時間、4時間を経たときなどであった・・・それはそれは、ものの見事に120分プラスマイナス10分くらいといった具合。ゆえに、寝る時間を惜しむ筆者の場合には、3時間とか5時間の睡眠を計画するよりも2時間・4時間で済ますほうが「寝覚めスッキリで満足感もそれなりに」ということになる・・・「なる」というよりも、そういう状況がずーっと「続いていた」。   
   
 介護の関係で「徹夜まがい」のことをする日が多くなったことが何か影響したのか、それとも歳のせいみたいなことがあるのか・・・今年の1月になって、自分の睡眠周期がどうやら120分周期でなく90分周期に変わってしまったらしいことに気づいた。そして、今度もまた、面白いくらいにほぼジャスト90分・・・「時の刻み」の単位として、「1分」という長さや60進法も、キリのよい「90分」や「120分」などの長さも、人間の都合・習慣・思いつきで定まったもののように見えながら、不思議な気持ちにさせられる。   
   
   
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 「地域の祭りが無いのは寂しい。祭りをやろう、それを続けていこう」と、町会長さんが言い出した。「金魚すくい」などの企画も提案されたり・・・。   
   
 子持ちでもない自分としては、あまり乗り気になれないなあ・・・などと考えていたら、「地域の文化祭めいたものもやりましょう、大人向けの講演会などを」という話も出て、講師を呼ぶことになった。   
   
 ところが、その講師からドタキャンの連絡が。   
 で、「あなたが何か喋ってくれ、テーマは何でもよい」と要請され、演題・テーマとして「日本人の、運命感と運命の受容姿勢は如何なるものか・・・旧約聖書のヨブ記、シベリウス/交響曲第4番、佐村河内守/交響曲第1番は、日本人にとってどのように理解しやすく、理解しにくく、あるいは、理解したつもりに陥りやすいのか」みたいなことを話すことになった・・・しかし、テーマが荒唐無稽というか無謀というか、うまく話をまとめていけなかったり、その他のこともあって苦悶。   
   
 ・・・と、以上のことは或る晩に、いや、或る明け方に見た夢の内容。決して悪夢に類するものではないが、講演原稿を打ち直すときに次々とタイプミスを繰り返したり、そのうちには話そうとしてしていた論理・展開を忘れてしまいそうで焦りを感じたりと、ちっとも心地よい夢ではなかった。   
   
 睡眠サイクルが変わったのと同時にどうも、レム睡眠時に見るとされる夢が、目が覚めても記憶にとどまっているケースが増えた。   
 子供の頃のこと、「夢というものは、あなたの未来を予言するものです。または、あなたの隠れた願望・欲求を映し出したものです。枕元にノートを置いて、夢の内容を記録してみましょう」みたいなことを何かで読んだことがあり(当時も今も、そのような説を100パーセント信じているわけではない)、しかし、見た夢を覚えていなくてノートに書き留めることがろくに出来なかった筆者は「俺はバカなのかなあ」と思ったこともあるのだけど、しかし、夢を見ること自体、実はあまり心地よくないのではないか・・・「目が覚めたときに覚えていないだけで、誰もが、睡眠中に盛んに夢を見ているのだよ」との話すら、今のように睡眠サイクルが変化するまであまり本気にしていなかった。   
   
   
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 昨年暮れのこと、大掃除とは別に、しまいっぱなしであった古いものなどの廃棄処分もした。アルコールでなく水銀を使った温度計(体温計でなく気温を測るもの)も出て来て処分・・・。   
   
 テレビのニュースや天気予報で「暦の上では春ではありますが云々」という決まり文句が今日もなお使われていて、それにケチをつけるつもりはなく、むしろ「いろいろな意味で良い事だ」と考え続けている。しかし・・・夏に「今日も暑さは厳しく、水銀柱は午前中からグングンと上がって云々」という言い回しに接することが無くなって来たなあ(この場合の水銀柱は気圧関係でなく温度関係)。   
   
 決まった言い回しと言えば・・・「消費者の財布の紐は固く/財布の紐がゆるみ」というのが、新聞やテレビのニュースで今なお使われているのは、よく考えてみると不思議である。   
   
 だってさ・・・あなたの財布に紐は付いていますか?(笑・ただし、アクセサリーやストラップを付けている場合のその紐などは除く。)   
   
 上のような表現に、子供たちは「意味不明」なものを感じることであろう。しかし、この調子でいくと、21世紀末になっても「財布の紐は云々」という表現は残るか・・・でも、それも、一種の文化、言葉の遺産として受け止められるか・・・そう思うと、自分はこの表現を笑いつつも、「消え去ってもらうことがあっては惜しいな。せせっかくだからこのまま残って欲しい」と思ってしまう。   
   

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クラシカルな某

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