2017-10

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南海ホークス・・・いや、「難解に放句す」みたいな歌詞/詩?



   
 (↑)タイトル中の「南海ホークスって、それ何?」という人も、もしかするといるかも知れないけど、ま、西鉄ライオンズ、国鉄スワローズとか、その種のチーム名である(余計わからなくなってしまうか?)。   
   
   
 さて・・・。   
   
 親の介護をしつつ夜中を過ごすとき、空き時間は実際のところ十分にあるのに、どうも音楽を聴く気分にはなかなか至りにくく(また、ヘッドホンで音楽に集中してしまうと、呼ばれてもすぐ気づきにくいことがありえ、よろしくないし)、「ならば映画鑑賞はどうか?」と思いついた・・・映画だと、筆者の場合、気持ち的に距離をおいて、突き放した感じで向き合える。   
   
 達也・・・じゃなかった、TSUTAYAだな・・・あそこに寄るついでがあるというから「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」と、それと「たんぽぽ」のDVDを借りるように頼んだのだが、前者はレンタル品が用意されていなかったようで、これはとても残念であった。   
 懐かしき「世界の料理ショー」というテレビ番組は販売用のDVD商品が出ているが、しかし、購入したいとまでは思わないためレンタル品があるのか気になっていて、別の日に自分もTSUTAYAに出向いたが、少なくともその店舗には見当たらなかった。これまた残念。   
   
   
 写真を撮りなおす時間が無く、冒頭のは過去の画像の使いまわし(1年以上前の)であるが、コンセルトヘボウ管アンソロジーの1960年代のボックス中「CD10(10枚目)」にはブリテン作曲の「イリュミナシオン」が収録されており、夜中にこれを聴いた・・・指揮が故サー・コリン・デイヴィスであるから・・・「故」と付すことになってしまったのだなあ。   
   
 ピーター・ピアーズ/コリン・デイヴィス/コンセルトヘボウ管による1966年2月のライヴ・・・このときが、このオケのコンサートでのコリン・デイヴィス初登場だったらしい。   
   
 この作品・・・曲や個所によっては「歌手のパートをそっくり取り除いてしまうと、自分はもっと楽しめるのに」と思ってしまうところもありはする・・・筆者自身の、この曲への適性欠如を示すものであろう。しかし、曲全体の、音楽面での7割か8割くらいは機嫌よく楽しめている。   
 しかしまた・・・この作品はランボーの詩によっているのだが、さあ、その詩が難解。いつの日にか、「きっちり、しっくりと」すべてを呑みこみ、すべてに頷き、そして楽しみきることが可能なときはやって来るのだろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 たとえばセルのような、既に亡くなっている人の演奏のあれこれを聴こうとする・録音をコレクションすることに関して、「それは決して無意味ではないにせよ、ちょっと寂しい趣味ではないか?」と思う人がいても、やはり不思議でないような気もする。   
   
 いや、実際、1980年前後のあたりとか、また、それ以降にもしばしば、上のように自問自答したことさえある・・・そしてまた、このようにも思い続けて来た:「(こうして生きている自分と)同時代を生きる、今を活躍中の指揮者・演奏家のなかに、かたときも目を離せないような存在を見出すことにもっと真剣になろうではないか」と。個々のアーティストの優劣とかそういう問題ではなく、その演奏を聴いて肌が合う、(コンサートでなく録音の場合には)おのずと幾度も聴き返して向き合おうと思ってしまう」みたいな、そういうアーティストを自分も求めて来た。   
 1980年以降しばらくについては、その候補としては、指揮者であるならばたとえばハイティンク、コリン・デイヴィス、サヴァリッシュ、チェリビダッケなど・・・やはりクラシック音楽を趣味とする親しい友人からは「ショルティが合うのでは? え? 違うの? うーん」と、意外そうな顔をされたことがあるけれども、そう、ショルティではこちらの嗜好に合わなかったりした。   
 再現芸術であるところの「演奏」は、造形・構築・硬柔・生命感・リズム感・歌・気品、その他いろいろがミックスされたその末のものを楽しむものである・・・結果が正反対でも「ハマってしまう」ものはあるし、近似のものであっても「違うんだよ、何かが」と、気持ち悪さを覚えてしまうものがあったりする・・・あらためて言うまでもなく趣味嗜好のマッチングは「難しい」のだ(セルを好みながらもバルビローリを聴きたい晩もあったりするわけだし)・・・その友人は、こちらがハイティンクやコリン・デイヴィスの名をあげたとき、「どうしてそういうパッとしない指揮者を選ぶかなー?」みたいな言葉を発した。しかし・・・あの頃、「パッとしない存在」などでは全然なかった筈だけど・・・。エディト・ピヒト=アクセンフェルト(ピアニスト、チェンバリスト)の或るコンサートで感激したことを次の日に彼に話したら、これまたやはり「どうしてそういう地味なものに足を運ぶんだ?」っぽい言葉が返って来たことも。   
 (なお、チェリビダッケについては、その後、「(このように変化を遂げるに至った)その演奏に対して、もちろん敬意を払うけれども、自分には分りにくい・納得しにくい・楽しめない」みたいな感想を持ってしまって、急速に関心が薄れてしまった。)   
   
 1980年代も中盤以降はバブル経済が進んで仕事量に押し潰されそうになったり、その後もいろいろせわしく過ごしたり・・・思いっきり端折った言い方をすれば、クラシック音楽の趣味のうちオーケストラものに関してはセルを中心に置いて音楽を楽しむことが習慣化してしまったかな。   
   
 しかし、サー・コリン・デイヴィスの演奏については、周回遅れになってもいずれはきちんと聴きこまねばならないものと感じているのである。   
 最後になってしまったが、氏のご冥福をお祈りしたい。   
   

   
 (画像追加)   
 ブログ画像庫にある、過去に使ったものから・・・せっかくなので(↓)   
   

コメント

コメントをありがとうございました

 或るひとりの演奏家/指揮者が諸々の、幾多の音楽作品をどのように紹介・解釈して聴かせてくれるか・・・そういうことに興味が向かいがちなわたくしでありますため、ピヒト=アクセンフェルトさんも、デイヴィスさんも、また多くの演奏家たちがわたくしにとっては常に一種の「先生」であり「導き手」です。   
   
 ピヒト=アクセンフェルトさんの演奏は、石橋メモリアル・ホールにても聴きました。まったく別のコンサートの折りに席によっては残響音過多なホールかなと思いこんでしまっていたのですが、当日はちょうど良かったです。   
 ステージに登場するときの、あるいは袖に引き下がるときの姿・歩みなども含め、「これがドイツのご婦人の、そしてバッハに向き合う人の、簡素・謙虚・清廉な挙措の美しさというものか」と感じた記憶もあります。   
   
 デイヴィスさんの活躍はマルチに近いものですね。ご指摘のシベリウスのほかには古典派作品の演奏を改めて聴きなおしたいのですが、ほかにはベルリオーズ、それにオペラを、と今は考えています。

エディト・ピヒト=アクセンフェルトさんは美しい方でしたね。一度だけですが、石橋メモリアルホールで拝聴仕りました。「ピヒト先生」と世に隠れて呼んでいます。
私も、サー・コリン・デイヴィスをちゃんと聴かなければいけないな、と思っているところです。何しろ、持っているのは「魔笛」だけ。確か、シベリウスsが廉価でありましたよね。

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