2017-10

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官房長官の必要性について

   
 ガックリと来ることはしばしばある。その一例・・・。   
   
 何かの打合せがあると作られる議事録・・・。そのスタイルは昔のものとはかなり違って来てはいるが、若い人にとっての一種の訓練の意味合いもあって今なお盛んに作られ、会議の翌日や翌々日あたりには出席した者や準オブザーバー役のもとに送りつけられる。   
 そういう議事録を斜め読みするわけだが、「ありゃ、この議事録を書いた彼/彼女は、会議で話された事柄・内容をろくに理解できていないのだなあ。新入社員でなく、すでに入社○年目だろ、大丈夫かいな」と感じることがよくある。期待を寄せていた若手がそういう議事録を書いていると、何かこうガックリ来てしまう。   
   
 たとえば経理マンの場合。成長していく過程では、いろいろな知識やセンス、調べた上でさらによく考える習慣、税務上で(簡単に言えば税金計算の関係で)疑義が生じる可能性を想像してみる習慣などなどを身につける必要がある。知識についてはここでは何も説明するまいが、センスということでは、一例をあげれば、簿記上で言われるところの、そしてどのテキストでも扱われているであろう「取引」を含め、或る企業行動や事象を会計的にどう認識すべきかということが、わざわざ思考するというよりも体が自然反射するように、漠然とした問題意識としてでもよいからパッと頭の中に浮かんで来なくてはいけないと思うのだ・・・まったく目新しい事象に対しても、たとえば「何かしらの費用と負債が財務諸表に反映されるようにしなくては何だか気持ち悪いよな、正しくないよな」みたいな感覚がすぐさま沸いて来るみたいな。   
 さらには、自社、子会社のA社、企業グループ外のB社、C社などを巻き込んだプロジェクトや取引が進もうとしているとき、自社の会計処理ばかりでなく、その他の会社が採るであろう会計処理や、連結決算でどういう作業が見込まれるかなどもすぐに念頭に浮かばなくてはいけない。また、互いの取引がどういう法律関係にあるか、B社が倒産したらどういう問題が生じてどういう対応が必要になるか等の問題にも考えが及ばねばならない。さらにさらに言えば、これは経理マンの職務範囲でなく通常は文書・法務部門の扱い範囲になろうが、B社がこちらのライバル企業に買収されたときにこちらのビジネスを邪魔される可能性を封じておく必要があるか否かなどにも思いを馳せたいところではある。言わば、高所から眺める、鳥瞰することが自然に出来なくてはならない。そのように成長していくことは、人によっては長い道のりであるかも知れないが、避けて通れない精進の道だろう。しかし、物事を、断片的にでなく全貌を把握しよう・考えよう、先々までを時系列とともに思い描こう・見通していこうなどなどの心がけを持っていれば、いずれはそういう鳥瞰が自然に出来るようになるだろうと期待する。   
   
   
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 駅からの案内図(地図)なんてものがある。   
 JR○○駅の南口を出てからの案内図となると、それは多くの場合、南方向を上にして描かれる(しかし、ごくごく限られた経験から言えば、城下町や門前町などで育った人たちが描く案内図は、駅なんぞよりもまずは地域の主役たる城/城跡、寺を含んだ地域全体を頭の中で展開させるからか、あくまでも北方向を上にして描かれていることも少なくないかも知れない)。   
   
 しかし、筆者は、地図の類は、北方向が上になって描かれていないと嫌なのだ。   
 少なくとも日本ではそれが常識だと言いたいわけではない。「今回の目的地に行くのは、今回これ1回限りだぞ、そこに辿り着いて、そして帰って来れれば、それでいいじゃないか。南が上でもいいじゃないか」と割り切ればまた別の考え方も出来るのだろうけど、しかし、やはり筆者は、目的地が市内のどの辺りに所在するのかで記憶したいと望むのだ。あるいはもっと範囲を広げて、東京都なら東京都のどの鉄道のどちら側にあって、○○駅の南南東のこの辺なのだなと、そういう把握をしたいのだ。そのためには、北方向が上になっている案内図を見せられるのが都合よい。   
   
 方向オンチの人がいる。なぜ方向オンチになるのか分からない。想像するに、地図を(その地図はやはり北方向を上にして描かれているのが良いと思うのだけど)頭の中に描いたうえで自分が今どこに居るのか、どちら方向に進んでいるのかを認識出来ていないのではあるまいか。街で道を尋ねられたときに「ああ、この人は地図を手にしていながらも、ここまで逆方向に歩いて来たのだな。それにしても、真夏でもないのだから、太陽を見上げればおおよそ自分が進んでいる方角も分かろうになあ」と思ったことも何度かある。   
 だが、不思議に思う・・・。思い描いた地図上に自分を置くことをしないのなら、「今、自分はどこにいるのか分からない」という不安に襲われないのだろうか。あるいは、もしかすると、「自分を地図の中に置いたりなんかしないよ。だって自分がこの世界の主役でしょ。このまま進んで行けば景色は変わり、目印となる建物・施設・店が眼前に現れたなら、そのときそれを頼りに地図を眺めなおせばよい」という感覚なのだろうか。   
   
 今ふと思い浮かんだのは歌川広重の「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」という浮世絵である。そこに飛ぶ鷲のようにして、街を、地域を観望するようなもう一人の自分を、必ずしもすべての人が持っているわけではないのかも知れないなあ。   
   
 ・・・などと思う自分にも苦手なことがある。   
 初めての場所にクルマで出掛ける場合、事前に地図帳(ロード・アトラス)を眺め、道路がどんな具合に走り巡っているかを把握することは普通のことだ。そして、「ああ、こう走って、この交差点を左折して・・・」みたくルートを記憶にとどめる。   
 さて、いざ出掛けて行って・・・。途中、カーナビに目をやったりすると妙な感覚を味わうことがある(これは社用車の場合であって、自家用車にはカーナビは不要と思っているから付けていない)。基本として進行方向を上にして道路などを表示させるのがカーナビの目的にかなっていると思うのだけど、しかし、そういう画面に目をやると、あらかじめ眺めておいた地図の記憶がグシャグシャに壊れてしまいそうな不安を覚える。   
   
 そういえば、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本があった。読んでみようと思いながら、結局はまだ読んでいないなあ。   
   
   
 さて、今回ブログ記事タイトルとは無関係なことを書いているように思われるだろうけど、タイトルを打つときに誤変換などあったようだ。   
 正しくは「観望・鳥瞰の必要性について」であった。   
   

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クラシカルな某

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