2017-07

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解答は、最初には言えぬふぁ

   
 クイズ・・・以下の5つについて、どういう人物かを知っていますか?   
 4問正解なら素晴らしいです。5問すべてを答えられる人は多分いないと思います。   
   
   
 1) イ・ボミ   
   
 2) キム・デジュン   
   
 3) ノ・ムヒョン   
   
 4) ケイ・ウンスク   
   
 5) ム・ツェンスク   
   
   
 解答は省略します。ただ、ブログ記事の末尾に関連話題を載せます。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
    
 以下、いつもながらの「とりとめのない」・「理路整然としない」書き方になっているが・・・。   
   
   
 たとえば中学校時代までの学業成績・素行などを以って、その人のその後について「勉学の出来は? きちんとした行動が出来るか? 人間性のあんばいは?」等々を予測することが可能かと言えば、それは、あまり容易ではなかろうと思っている。高校進学したあとにそれまでとは打って変わって勉強に励んだら見違えるほどに学業成績が伸びるなどということもあるだろうし。   
   
 同様に、高校時代までの状況でその人の将来をどうこう占って何かを決め付けることも難しいものがあろう。   
   
 そしてまた、出身大学のランクやネームヴァリューで人を評価するのもどうかと感じる。   
   
 さらに、社会人/職業人になってしまうと、それまでの「カリキュラムとして存在し規定されたお勉強」の内容とは異なることに対する適応力や好奇心、そこでの成果が求められる・・・すると「学生時代はデキる人だったのに仕事人としてはちょっと」な人も出て来るし、逆に「学業成績は芳しくなかったのに、仕事での挑戦意欲は旺盛で、成果も立派」という人も見受けられるようになる。   
   
   
 或る人物が問題発言をしでかして、それに関して「あの人は○○大学の出身。やっぱり、あの程度の大学の卒業生は大したことない、ダメだな」といった趣旨のことを言った人が身近にいたのであるが、この決め付けもまた適当ではあるまいと感じる。ほぼ誰もが文句をつけることがなかろうと思われる学校歴(学歴というより学校歴)を備えた人物でも問題発言をして世間を騒がせる事例がある。   
   
   
 「Fランク大学」なる言葉を最近知り、また、偏差値40くらいに達していなくても合格・入学が出来てしまう大学が存在することを知ったのもそう昔のことではない。さきほど上で述べたような考え方からすると、「たとえ高校までの学業成績がちっとも振るわなかったとしても大学では伸びることもある」ということとなり、そういう生徒を受け入れる大学もまたあってよろしいと言えそうだ。   
   
 だが、しかし、何か釈然としないものも・・・。   
   
 やがてはサラリーマンとして働くことを思い描く高校生は、そしてその親たちは、次のようなことを念頭に置いているだろう:   
   
 「(どこまでも純粋な職能給制度・歩合給制度・成果主義型報酬制度である場合を別として)本人が就職して組み込まれることとなる給与体系としては“高校卒よりも大学卒のほうが有利で、生涯賃金から見ても同様”というケースが多かろう」   
   
 で、その観点からのみ大学進学を望むことにもなろうけど、これは常に正しい結果につながるものなのだろうか。高校までの成績の如何によらず、大学での学業に意欲を燃やし続けることが出来るのならば喜ばしいと思えるが、もしもそうでないとしたら・・・。   
   
 経済的ゆとりのある家庭の子や、学業とアルバイトとの両立が出来る子、奨学金給付を受けられる子など、つまり、旧来型・従来型の大学進学者である場合には、大学での学業にちっとも熱意を見せないまま何となく卒業に至るというパターンでも構わないのかも知れない。   
   
 しかし、いま議論されている高等教育の無償化が現実のものとなった場合、大学進学者の質・意欲・ポテンシャルが気になるところである・・・大学全入時代とも言える環境下、大学進学者の全員に対して「見込まれる効果、費用対効果のほど等を予測するなどのことも無しに、無償教育を提供する必要があるのか?」という問題が浮かび上がることであろう・・・「この者に、無償教育を敢えて提供すべきなのか」の判断の線引きが必要ではないかという議論が生まれるのではないか。   
 で、「無償化する以上は、そういう議論はやはり必要。そして、線引きは必要だろうな」と、筆者は思ってしまうのである。   
   
 「日本と日本経済を担う人材の育成という点で高等教育は重要である」、「貧困の世代間連鎖を防ぐうえでも、すべての子に無償の高等教育のチャンスを」との考え方もあろうけど、しかし、本人の質・意欲・ポテンシャルを考慮せずに無償教育を提供する、さらには「押し付け」に近い形で大学進学へ誘導するというのも、どうかなあ。   
 また、就きたい職業によっては、大学教育が役に立たず(その職業に関係する授業を提供しているわけでもない)、大学時代が「時間のムダ」になるということだってある(「旬(しゅん)」のうちにプロ入りしてしまった方が得かも知れないスポーツ選手や、また、職業によっては早々に弟子入り・修行してしまった方がよさそうなケースとか)。   .
   
   
 さらにまた、今ある大学のすべて、そこに設置された学部すべてが存続し続ける必要があるのかとの疑問も筆者にはある。子供の数が減っていく状況下、今後の大学進学希望者の推移にもよるが、大学・学部も少しばかり淘汰されることがあっても仕方あるまいと思うのだ。間違っても、高等教育の無償化の一環として「存続の危機に陥った大学を公費などで支援する」みたいなことがあってはならないように思える。   
   
   
 筆者が高校生であったとき、早々に理工系を目指す決意をした友人たちは、研究者の道を選ぼうと考える者はもちろんのこと、そうでなく企業(主にメーカー)の技術系サラリーマンを目指すつもりの者も、漠然と大学院まで進むことを思い描いているように見受けられた・・・「高校を卒業したら大学へ進学。そのあとに大学院」という将来設計(像)ということになる。   
 自分の場合、文系というか社会科学系へ進学することを決めるまでに、あらかじめ大学での講義科目はどういうあんばいになっているかをチェックし、履修を求められる科目とその講義内容を説明する資料(シラバス、講義要綱)に目を通した。   
 しばらく前に目にした新聞記事によれば、ノーベル賞科学者の或る先生は、物理を学びたくて進学した大学において、教養科目として憲法、心理学などなどまで学ばされるのを不満に感じたそうである。(そういう立派な先生と対比するのは失礼なことではあるが)筆者の場合、高校生の段階で「うわっ、大学では教養科目としてこんなものも受講せねばならないのか」と知り、少なからずゲンナリしたのであった・・・その科目とは例えば西洋社会思想とか科学発達史、心理学、また、経済学でも活用されることは無いのではないかと思われるテーマを扱う数学などなど。科目には一定の選択余地・選択幅はあるにしても、しかし、好奇心をそそられない科目も幾つかは選ばざるを得ないことに気持ちが暗くなった。「大学に入っても体育の授業があるのかよ、もう18歳になったら要らないんじゃないか? ほー、音楽の科目もあるのか・・・大学だと、まさか中学時代みたく人前で歌を歌わされるとかリコーダー演奏させられるわけでもなかろうし・・・何? ふむふむ、もしもこの説明のように内容が音楽史と音楽理論ならば悪くないな、ちゃんと単位取得することは可能であろう」などと思ったり・・・。しかし、「専門科目だけを履修するわけにはいかぬのか?」という疑問が浮かび、すると今度は、「高校卒のままで就職することとして、しかし、仕事をしながら、この専門科目の講義科目リストを参考にしつつテキストを揃えて独学を進めていくことでも一定の意義はあるだろう」とも考えた・・・それを担任の先生に話したら学歴社会という現実を理由に「その考え方は間違っているし、親も反対するであろう。普通に大学進学すればよいではないか。そうでないと後悔する」と一蹴されてしまった。もちろん先生の意見は正しかったわけで、高校卒で就職していたならば後悔したことだろうと思う。(とは言え、大学の教養科目で教わったことが役に立っているような気はしないけれども。)   
   
 が、しかし、こうも思うのだ:   
   
 「現在の学歴偏重社会・学校歴社会に修正を及ばすような何らかの力や意識変化があってもよいのではないか。そしてまた、高校卒業者が入学する学校でありながらも、しかし現在の大学の教養科目を削り去って専門科目ばかりをみっちり教えるような機関へのニーズが高まり、そこへの進学希望者がグンと増えるような時代が到来してもよいのではないか」   
   
 専門学校、職業訓練校、ビジネススクール、短期大学などのいずれと対比すればよいのか分からないが、「専門科目教育に特化した学校」は意義深いように思う。3年制くらいにして、大学院レベルの授業内容を少し取り込むのもよいかも知れない。   
   
 「教養科目は重要であり、幅広い教養を身につける必要があるのだ」との反論はあろうけど、「特にエリートを目指したいわけではなく、しかし、ただ、凡人ながらも一定レベル以上の知識や技能を備えた“組織の歯車”ではありたい」と願った昔の自分と同じような若者が現代にもいるのであれば、そのニーズに合致するのではあるまいか。   
   
 それでも「深い教養を備えていないと、AI時代に生き残れるサラリーマンにはなれまい」との反論があったりするやも知れない・・・うーん、もしかするとその通りなのか・・・すると、現状のような大学に進学するのを標準みたいにとらえ、教養科目カリキュラムもまた現状維持(または、更なる拡充)が適当ということになるのか。   
   
 しかし、また、大学には多くの公費が振り向けられている。大学では研究者・教員の人件費も発生する・・・学生にとって単に「教養」の位置づけとなるに過ぎない科目を教える先生の数は、日本全国で相当なものになろう。そういう先生をあっちの大学、こっちの大学も抱え・・・それぞれの大学で教養科目を整理・縮減したり、先生には複数学部の講義を兼務してもらう体制にしたりなどして「人減らし」を図る・人件費圧縮する等のことを進めてもらうことがないままで高等教育の無償化を実施していくことには大きな抵抗感を覚えてしまう。   
   
   
   
   
 ところで・・・。   
   
 子供たちの教育、また子供の養育にかかる経済的負担を社会全体で支えていくことに関し、その範囲や程度をどうすべきかを考えるにあたっては、その親たちにもしっかりと目を向けるべきであろう。   
 子供を持つ親の中で、「中間層」と言えるクラスの収入や家計支出の状況がどうであるかを知らないし、そしてまた、それよりも少し下位レベルだとどんな具合か等も知らない・・・しかしながら、決して貧困層とは呼べないであろう親たちの、その支出・消費行動や、また、貯蓄についての感覚に疑問も感じるのである。   
   
 親自身が衣類その他に、また食生活に、住居やクルマ、レジャーなどに大き過ぎる支出をしていたりせぬか。或いは、子供たちに、高価に過ぎると思われる衣料品・靴などを与えたり、スマホのようなものでも上級モデルを持たせたりしていないか。   
 果たして、そういう親たちの支出行動は適切と言えるのだろうか。(七五三や入学式/入園式などで、子供のために「それなり」以上の衣類など用意する気持ちは理解出来るけど・・・でも、冷めた目で見れば「ほんとうはあまり意味が無いんだけどね」的なことにもなろうけど。)   
 また、遊園地やテーマパークに子供たちを定期的に(毎年1回とかそれ以上とか)連れていく必要がどうしてあるのか。   
 子供のうちから(特に幼いうちから)あちこちへの、宿泊も伴うような旅行に連れて行く必要があるのか・・・子供の年齢にもよるが、彼らにとって「思い出」となってくれるものか怪しかったりもしよう。(孫の顔を見たがる親のもとまで子供を連れて行くというのは、これは理解できるけど。)   
   
 世の中には、持っているカネの使い道が見つからなくて困るというくらいのリッチ層もいると同時に、また、そこまでではなくても豊かな暮らしを満喫している人たちが山ほどいる。でも、自身がその域に到達していないのならば、それはそれで仕方ないし、ごく常識的に「つつましい生活」をすればよい筈なのである。   
 ところが、「リッチな人たちと同じような、あるいは、それに近い消費行動をしたい」との欲求があるせいなのか、過剰な支出行動に出ている親たちが実は少なくないのではないかと想像する。つまりは背伸びをして家計上の無理を生み、そうでありながら「子育てはカネがかかる、社会全体で支援を」と主張するのであれば、これには賛同することが出来ない。「贅沢をする余裕があったら、それはそれで嬉しいけど、でも、“贅沢しなくちゃいけない”などというルールはこの世に無いし、また、企業がささやく“自分へのご褒美”などという文句に安易にそそのかされての消費行動も慎むのが賢い消費者」と思って生きることが正しかろう。   
 また、ブランドものの買い漁り癖をもつ人や、買いもの依存症の人も世の中にはいるが、それらの真似をするのも馬鹿げていることだ。    
   
 子育て支援は、親たちの贅沢・遊び等を応援するためのものではない。そういうことは、ま、ちょっと語弊はあるが、とりあえず二の次、三の次でもよろしい筈のものだろうし、いや、「どうでもよろしいこと」なのかも知れない。   
   
   
   
 とんでもなく極端な架空の話として、たとえばこう告白されたとしよう・・・「年収400万円の世帯です。息子を将来は一流の寿司職人か、一流のシェフにしたいと考えています。子供には小さいうちから第一級の料理だけに触れてもらいたいと考えていますから、私たち家族の食卓はいつも豪華ですよ。ほら、ワインをよく知るには一流とされるワインだけを飲むようにしなくてはいけないという言葉もあるそうですから、それと同じことです。家計の支出はハンパではないですよ。だから子育て支援は欠かせない制度ですし、今以上のものを望みます」と。   
 これには返す言葉を見つけられないであろう。繰り返すが、これは極端な、そして架空の話である。でもね・・・それよりずっと低いレベルでありながら、何か「求め過ぎ」なものも世の中にはあるように感じられはする。   
   
   
 「世の中、上を見たらキリが無い・・・それを悟ることが大事。自分よりも上位のクラスの人たちと同じでありたいとの感覚を捨て、自分らしい歩み方をしなくては」と、そう心に言い聞かせることは大事であろうし、常識ではないのか・・・本来であれば青年期くらいからそれが出来ている筈であり、「身の丈に合った」とか「身の程をわきまえて」ということを肝に銘じているべきであろう。   
   
 遊園地やテーマパークなどについては企業が福利厚生の一環として「何とかパスポート」を従業員とその家族のために確保している例は珍しくなかろうし、それを利用する限りはそれほどの負担を伴わずに家族で遊べることになる・・・そういう場合の遊園地行きは、ま、合理的なものと言えそうではある。しかし、そういうものが用意されていない場合には、無理をしてまで子供を連れて遊びに行く必要など無かろうと思うのだ・・・子供からせがまれたら「それよりも・・・本を読みなさい/勉強しなさい/おのずと体も鍛えられるような遊びをしなさい/もっと上手に・安全に自転車に乗れるように練習しなさい」等と言って違うことを提案するのもよろしかろう。子供の将来の長い人生ではコツコツ長丁場の勉強や研究や仕事にあたるケースもあることを考えれば、しょっちゅう大きなレジャー/気分転換をはさむことが適当なのか甚だ疑問に思う。子供の教育の仕方としてこれが適当かどうか、子供がひねくれたりせぬか、それは知らぬが。   
   
 子供が何か、その家庭にとっては贅沢とも言えるようなことを望んだとする。しかし、その望みの内容は、他の家の子供にとっては常識であるとする。でも、他の家の子供と同じであらねばならないこともあるまいと思う。「あんなもの買わなくてもいい」、「あんなところ、行かなくても」、「よそのうちは、よそのうち。うちは、うち。自分は自分でしょ。何かで遊ぶことよりも、自分自身のために勉強しなさい。本を読みたければ、それだけはお小遣いとは別で買ってあげるからね」みたいな対応があっても、それはおかしくないと思う。   
 他の子供と同じでなくては子供が「いじめ」にあうかも・・・そういう不安は確かにあるかも知れない・・・これは重要なことであるにもかかわらず、この問題を回避する名案を筆者は思いつかない・・・申し訳ないことであるが。でも、遊園地行きでも、子連れでの海外旅行でも、高価な子供用衣料品でも、そんなものを、どの親もが求めたうえで「さらなる子育て支援を」などと主張されたら、国民それぞれに、たまったものではないのである。   
 遊園地・テーマパークなどによってはリピーターが生まれる。そして、子供の頃や若い頃にそこに親しんだ者は、自身が成長し子を持つようになってからも今度はみずからの子供を連れてそこを訪れたりしているようだ・・・キリが無い・・・一般庶民がそういう習性を、遺伝子のように世代を超えて持ってしまってよいのだろうか・・・。   
   
   
   
 今のうちに、「子育て支援」やそれに類する表現のほかに「子育て世代向けレジャー・お遊び支援」等の言葉も時々は交えつつ国民に賛否を問う・国会審議するなどしてはどうなのかとも思ったりする・・・以前に野党が「戦争法案」などという言い換えをしたのに比べればずっと穏当なレベルの皮肉に済んでいるであろう。   
   
   
   
 今の時代、クレジットカード利用、割賦購入、カードローンなどについて、人々の抵抗感が薄れていることも気がかりな点である。   
 筆者らの世代だと、わりと、「借金しての買い物は気持ち悪い」とか「支払うべきものは一度にきれいに支払ってしまわないと気持ち悪い」といった感覚が染みついているが、もう少し若い世代から下の世代にはそういう感覚が薄そうに見える。住宅ローンは別として、また、クレジットカード利用についても「預金残高は十分にあるし、現金支払いだって可能だけど、単にポイント目当てでクレジットカード決済にしているだけ」というのならばそれはよろしかろう。しかし、そうでなく、今後の給料・ボーナスを当てにしてクレジットカード利用するということであれば、どこかで「体質改善」がされるべきであろう。   
 親のカードのその家族カードを持たされて育った子はカード利用に慣れっこになってしまうということもあるかも知れないな(筆者らの世代だとそういうふうに育っている人はかなり少なかったであろうし、就職して2、3年したあたりになって「海外出張時には必須であるから」ということでクレジットカード申込したような例が多かろうと思うのだ)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   

 「忖度(そんたく)なんて言葉、知っていましたか?」と訊かれたことがあったけれども、もちろん知っていたし、この言葉を自分で使うこともこれまでの人生で1回か2回くらいはあったように思う。ただ、そうやって使ったときには、「通じにくい言葉であるかも知れない」と、ちらっと思ったような気もする。   
 「勘案する」、「斟酌する」、「おもんぱかる」、「顧慮する」などの語は、「忖度する」に比べればずっとよく知られていると思うが、でも、文章中でなく会話の中で使うと、相手がほんの一瞬だけ「脳内漢字変換」に手間取るような表情・様子になったり・・・。   
   
 以前、A君が、部下の作った連絡文書の原稿をチェックしながら、「この部分、もっと平易な表現に出来ないの? 分かりやすい言葉を使うことが大事だ」と指導していたが、それを聞いて筆者は思った:   
   
 「その“平易”という言葉が、そもそも平易じゃないじゃないか」   
   
 筆者も「平易」という言葉はよく使うけど。ともかく、このときは「自分も言葉選びには注意しないとな」と、プチ反省したのであった。   
   
   
   
 洒落・ダジャレを考えることの好きな人の多くは、何かの言葉に接したとき、無意識にその言葉のアクセントを変えることも含めて「同音異義語」や「近い音の言葉」を探す習性を持っているものと想像する。ほか、言葉を変なところで区切ってみたりということも。   
 で、さきほどの「忖度なんて言葉、知っていましたか?」の問いに対して、筆者は次のように応じたのであった:   
   
 「山田さんのお宅を、山田宅と言ったりするけど、それと同じだねえ・・・(ソンタクとは)ソフトバンクの社長のお宅の意味!」   
   
   
 でも、「忖度」はドイツ語の Sonntag にちょっと似ているし、 Sonnentag にも似ているな・・・先日来、そう思っている。   
   
   
  接待は  ゴルフを所望と  忖度す   
  おぬしも供(とも)せよ  次の Sonntag    
   
 歌意: 当社取引先のあの方は、(宴会などの接待ではなくて)接待ゴルフをご所望であるように思われる。こんどの日曜日ということでスケジュールするつもりであるから、お前も一緒に来てプレーに参加しろよ。   
   
   
 下のは、オペラのDVD。   
   
 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」。この「ムツェンスク」の部分、変な区切り方をして「ム・ツェンスク」と読むと、なにやら韓国の人の名前のように感じられてしまう。   
   
 これらのオペラ2作品、内容/ストーリーには暗いものがあり・・・。特に「ムツェンスク・・・」のほうはあまりにも。テレビドラマ、いや、歌舞伎にも仕立てられそうなストーリーか?   
   


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