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2018-09

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新刊本?・・・「戦慄! ほんとうにあるのか“死語”の世界」



   
 上の写真は随分と前のもの・・・あとで北海道関係の話題が出て来るからここに再掲したまでのこと。これは北海道ではない、どこかのショッピングモールの「駅弁大集合」みたいな催しのときに買ったもののようだ(覚えていないや・笑)。   
  
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 先日、打合せのために出かけた際、昼食にはラーメンを食べた。家庭内でなく外食でラーメンを口にするのは本年2度目となる筈・・・ラーメンを食べる頻度はそれほどに少ない。   
   
 ラーメンを食べ終えたとき、隣にいた見知らぬ客から声を掛けられた:   
   
 「あなたもスープを残しますかぁ。お互い、中年も過ぎると健康が気になりますよね」   
   
 まあ、頷くことにしておいた。その客もスープを残していた。   
 でもね・・・「高齢者」カテゴリーに属するまでは「中年」だと思っているので、その人も、そして自分も「中年」だと思う・・・彼の言った「中年も過ぎると」との言葉はおそらく「中年世代も半ばを越すと・後半に突入すると=後期高齢者ならぬ後期中年オヤジになると」くらいの意味なのかな。   
   
 塩分摂取量その他を気に掛ける人はスープを残すのがよろしかろうと思うのだが、筆者の場合、そういうことはさほど気にはしていない(たとえば塩鮭などは、甘塩=薄塩タイプのものは気に入らず、焼いたときには切り身の腹側のあたりなどにブクブクと塩の塊が出来るような辛塩タイプ塩鮭でないと面白くない気分になる)。   
   
 では、なぜラーメンのスープを残したのか? 答えは簡単、「ラーメンのスープは飲んだりせずに残すもの」と、そのように教わって育ったからに過ぎない。   
 レンゲで3杯、4杯くらいはすする。そして大抵は美味いと思う。でも、麺や具を食べ終えたのち、どんぶりに残るスープを飲み干すことは基本的にはしない。これまでの人生を振り返ってラーメンのスープを飲み干したのはトータルで5回くらいかな、いずれも外食時。   
 家庭で食べるラーメンで、スープを飲み干したことはおそらく一度も無いだろう。まだ子供の頃、母親からは「どんな材料をつかって作られているか分からないからスープは飲まないように」と言われたことが始まり。この言葉は父親に対しても発せられたと思われる・・・父のラーメンの食べ方がどんなであるかは介護の食事でラーメンを用意したときに初めて気づいたのであるが、ごく当たり前のように父もスープを残すわけで・・・(笑)。   
 よそのどこかの国の食品・加工食品などと違って日本メーカーのラーメンに、或るいは日本のラーメン店が出す品に、妙な原材料が使われているとは思えないし、そして頻繁に食べるわけでもないから、気にする必要など無いのだろうけど。   
   
 ところで、現在、筆者の家庭では、ラーメン調理は次のようになっている・・・説明書にどう書かれていようとも、麺を茹でるために鍋で湯を沸かすのと同時並行で「やかん」でも湯を沸かす。スープの素(原液)はどんぶりに入れておき、そこに「やかん」の湯を注いで溶く(薄める)。麺を茹でた湯でスープを作ることはしない。今ではノンフライ麺・生麺のものしか調理しなくなっているが、もしも「乾燥油揚げ麺」であった場合には、麺を茹でた湯でスープを作れば相当に油っぽくなってしまい、筆者らにとっては「とても食べられたものではない」的なものとなるだろう。   
   
   
 しばらく前、「ラーメンのスープを飲み干したことは、このように(上述のように)少ない」旨を他人に話したらとても驚かれた。   
   
   
 筆者の場合、こういう「○○したことの回数は非常に少ない」とか「○○したことは無い」などの話をして他人から驚かれること、しばしばある。   
   
 「ドーナツ専門店に入ったことも、そこで買い物したこともない」・・・子供の頃だって、給食の揚げパンは嫌いなもののひとつであったし当然だ。   
   
 「ディスコに行ったことは無い」・・・あれの何が面白いのか想像がつかなかったし、また、残業漬けの日々で忙しかった。   
   
 「飲食店やアイスクリームショップなどの列に並んだことは無い・・・そうまでして食べたいとは思わない」・・・あ、これは嘘になるな・・・知人との飲食のとき、1回だけ列に並んで待ったことがあるな・・・大した待ち時間になるまいと思えたし、そして実際、5分くらいで済んだと記憶するが。   
   
 「マクドナルドの店は、これまでに行ったことある店舗はすべて覚えている(日本国内の店舗について)・・・それほど少ない回数しか行っていないのだから」・・・森永ラブやベッカーズの店のほうが利用回数は多かったろうな。   
   
 「回転寿司の店は、これまでに3回しか行ったことがない(だいたい21歳と23歳のとき: つまり、30年以上も前)」・・・いまどきの回転寿司の味がどんなであるか知らないが、昔、筆者が寄ったことある店のものは美味しくなかったなあ。   
   
   
   
 さあ、そんな筆者なのであるが、逆に「○○したことあるんだよ」と言って意外な顔をされたことがある。それは例えば、   
   
 「東京ディズニーランドに行ったことがある」   
   
というものである。この言葉に対する反応が大きくて、「そんなにウケないでくれよ!」と言いたいくらいのこともあった・・・筆者のルックスや日頃の行動その他と、すごく不釣合いだからだろう。   
   
 あれはまだ昭和の時代・・・もう会社員になっていたが、合コンなどを企画することの好きな知人に無理やり同行させられた・・・男女計6人でディズニーランドへ出かけることになったのだ。   
   
 悪い思い出ではないなあ・・・それはさておき、筆者はこのとき、それまでに経験したことのない、不思議な感覚に襲われた・・・「この感覚は何だろう?」と自分にしばらく問い続け、そしてようやく、頭の中で「まとめ・総括」が出来た:   
   
 「ここには、俺の居場所は無いということだな、つまり」   
   
 ああいう遊園地やテーマパークは、楽しめない・気分が乗らないのだなあ。もちろん、ディズニーランド側には一切の責任・問題は無いし、すべて筆者の側の感覚・嗜好の問題だ。   
   
 いま、もしもディズニーランドに、「101匹ニャンちゃん猫カフェ」とか「アナと雪の女王コスプレ居酒屋」などあったりしたら、ひょっとすると筆者も楽しめるかも知れぬが、前者はともかくとしても、後者のごときものをあのディズニーが企画するとは思えないし・・・。   
   
 ついでに言えば、アメリカのユニヴァーサル・スタジオにも行ったことがある。そんなには映画を見ない筆者は、ここでも楽しめなかった。これまた、同施設の側に責任があるわけではない。あそこに行った日、空気はかなり乾燥していて筆者の鼻はちょっと具合がよろしくなかった・・・さらに、あれはチュロスであろうか、その匂いが漂って来て、鼻の調子はさらに悪くなったように思えた。   
   
   
 いつであったか、「ドン・キホーテで買い物したことがある」と言ったときも、これまた他人から驚かれたなあ・・・買ったのは酒とかだけど。   
   
   
 ・・・・・・・   
   
   
 さて、北海道に行ったことは・・・これまた無いのである。   
   
 北海道出身の或る知人からはたまに「松前漬を家庭でつくるためのセット」とか「かに寿司」、「きんき寿司」などを頂戴する・・・彼からはもう幾度も「一度は北海道を旅行するといいよ!」などと言われているのだが。   
 そういう言葉を冬の時期に言われたこともあって、筆者は、   
   
 「寒い季節はダメだよねー、避けるべきだよね。下着もわざわざ長袖のシャツを用意したりズボン下(冬用の)を用意したりしないと厳しそうだし」   
   
と言った。   
 すると、相手は驚いた顔をした。   
 そして会話を続けてお互いの理解が進んだのはこういうことだ・・・彼にとって、冬場などに長袖シャツの下着その他を身に着けることは常識であるのに対し、筆者は真冬であろうとそのようなものは身につけない・・・「下着のシャツは季節を問わず半袖でなくてはならない、そうでなくては寒がり体質みたくて気恥ずかしいではないか」という感覚が宿っている。さらに、自転車やバイクで風を切る場合は別として、徒歩で行動する場合に手袋をするなど、みっともないことと思えて出来っこしない(軟弱者との烙印を押される格好・振る舞いだ)。   
   
   
   
 今年は、しかし、「もしかすると北海道に行かなくてはならないかな」と思ったときがある。   
   
 ずいぶん前から、或る人物のアパート(賃貸マンション)経営のお手伝いをしているのだけれども、それら物件は東京・神奈川に集中している。経営はすこぶる順調である。また、しばらく前には一部の土地を売却することもしている。すると、現金資産/金融資産の絶対額もウェイトも大きくなる。   
 賃貸物件が地理的に集中していることに関してリスク分散を図るべきか、現金資産ほかトータルの資産からした相続税対策の見直しをどうすべきか・・・。   
 こういうニーズに適合させるよう、日本各地の(それなり以上に活況を呈する都市の)賃貸マンションなどを、部屋単位で、もしくは1棟まるごとで買うプランというものが、世の中、組まれたりするのだ。関連の情報は豊富にあり、また仲介者もいるのだが(不動産業界関係者のほか税理士も関わったりする)、札幌所在の物件も検討対象になりつつあった。   
 話が進めば筆者も北海道まで同行を求められるかなという気がしていた。   
   
 北海道であの地震があった翌日、お世話している方の息子の奥さん(賃貸物件の収支管理などの事務をはじめ、実質的な管理を任されている)から電話があり、「北海道の話は、今からでも撤回できますか?」と問われた。   
 筆者は「撤回も何も、これっぽっちも具体的な話は進めていませんよ。現時点でどんな物件がありそうなのかのリストを(あなたに)お見せしただけですから。もともと、わたしの仕事が落ちつく11月頃になってから動き始めようということはお義父さまに話してありましたし」と応じた。   
   
 もしも地震のタイミングが半年とか1年とか向こう先であったとしたら・・・地震保険の保険金の額/水準の問題もあるほか、周辺一帯の舗装道路・各種インフラの復旧のあんばいによっては賃貸物件の魅力度・家賃水準にも影響しかねないし。リスク分散を図るつもりが逆効果になってしまっていたかも知れない。   
   
 が、しかし、東京・首都圏だって、今後どのような災害(地震に限らず)に見舞われるか分からないし。   
   
 日本列島に暮らすということは、そう何から何まで安心で心地よいとは言い切れないもの・・・であるなあ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 先日の日経新聞土曜版においては、家庭での書籍収納のコツに関する話題が載っていた。   
   
 それで思い出したことがある。   
 あれは・・・何年も前になるだろうか、床屋さんの順番待ちで腰掛けているときだったと思うが・・・手近にあった雑誌かムック本に目を通していたら・・・どこかの家庭での書籍収納スペースが紹介されていた・・・ほぼ壁一面が本棚になっており、収容力に優れていて結構なことだと感じた。そして「子供の本も含め、家族の本はすべてここに集めて収納」といった文章が添えられていた。  
 で、「この家に暮らす人たちはどんな本を持っている・読んでいるのかな?」と気になるから写真に目を凝らした・・・「ははん、絵本かあ・・・この辺の棚のものはすべて、まだ幼い子のためのものなのだな」と思い・・・そして、それ以外の本はというと、相当数のコミック本、そして筆者にはよく分からないのだがゲーム攻略本かな(?)と思える本、若干の写真集・・・それがすべてであった。   
 意外に思ったと言うより、驚いたのは、単行本または文庫本の小説や随筆集、新書、ビジネス書、仕事関連の実務書のようなもの、テキスト類(若い人でも中年世代でも手放さずに持っているもの・改訂版が出たら買いなおすようなもの)、国語辞典・英和辞典のようなリファレンスブックなどは1冊も見当たらないという点であった。   
 「家族の本はすべてここに集めて収納」という紹介の言葉は、実は正確ではなかったのかも知れない。しかし、もしも、この写真に写っていたのが本当に「家族の本すべて」であるとするなら、やはり驚くべきことのように思う。   
   
 はて、この写真を目にした頃、電子書籍がどのくらい普及・浸透していたか疑問に思うのだけど、もしも「小説もビジネス書も辞書類もぜーんぶ電子書籍を利用。辞書は電子辞書も持っているし」というのであれば或る程度まで理解も出来る・・・けど、そこまできれいに、潔癖症のように紙媒体の本を追いやる・絞る生活って実現可能なことなのだろうか。   
 筆者ももう長年、「読み終えた本は、手もとに残すものを厳選する。それ以外は、とっておきたいページだけを破ってそれのみを保管。本を捨てる・人にあげることに躊躇しない」のスタイルを貫いているが、それでも相当数の本が手もとに置かれることになる。   
   
   
 だが、実際、世代が若いほど「本を読まない生活」を送っているように思える。   
 まあ、何でもがむしゃらに読めばよいというものでもなかろうし、「学ぶ」・「知る」という目的を果たすためにはテレビやネットを活用する(映像・音声レクチャー・文章)というパターンもあってよいわけだが。   
   
 しかし、学問をする・知識を得る・仕事をマスターするうえで、大量の文章を読んで理解するというプロセスは多くの場合に必要だろう。若いうちに、遅くとも中学生あたり以降は、たくさんの文章を、本を、次から次へと読む修練が必要ではないのかな・・・それにはどんな本が相応しいか、意見の割れるところであろうが、極端なことを言ってしまえば文章量が多くさえあればどんな本でも、べつに小説や岩波新書や中公新書などでなくても、また、「実録! 人は死んでも霊魂は残る!」とか「ナスカ平原と宇宙人」、「君はピラミッド・パワーを知っているか」みたいな本だって、ちっとも構わないのかも知れない・・・先ずとりあえずの第一歩として本に集中する習慣を身につけることが出来るならば。   
   
 「コミック本にもいろいろあって、あれで小説と同じようなファンタジーも味わえるし、人間の心のあやも理解できるようになるし、経済学や経営学、哲学や心理学をシンプルに教えてくれるものもあるんだよ・・・コミックを馬鹿にしてはいけない」との意見もあろうけど、でも、コミック・マンガに出現する文字数・文章量はあまりにも少ない・・・つまり、描けることに限界があり過ぎるのと同時に、やはり文章を読む修練には不足するであろう(そして、学問に関するコミックに関して言えば、コミックの形に縮約して表現するまでの段階でコミック作者らによる解釈フィルターがかかっていて、原作を読むのとは違いが生じうる・・・これは見落とせない問題だ)。   
   
   
 会社では、仕事を進めるうえで必要な知識を得てもらうために配属初年度から数百ページの本、ものによっては1000ページ超えするような本などを何冊も読んでもらう必要があるわけだが(経理関連部署の場合。これは何も最近のことでなく、30年以上も前であっても同様であった)、いつの頃からか、「え? 読めそうもありません」的な表情をする若手が増えるようになった。(こう書くと「そんなに本を読む必要があるの? 話を盛ってるでしょ?」との疑問を持つ若者がいるかも知れないが、これは本当だ・・・そのくらいに勉強しないと、企業会計、税務、国際税務、タックス・プランニング、ファイナンス、退職年金制度、事業企画立案、企業買収、その他もろもろについて確かな理解をすることが出来ないし、また、公認会計士や国税局/税務署と対等な議論を進めることも出来なくなる・・・それは、企業の大きな利益喪失・利益逸失・儲け損ない等につながりかねないのだ・・・営業部門をはじめとする各部署が努力して手にしたビジネスの果実を、ほんのちょっとしたことでゴソッと失いかねないケースだってある。)   
 それほどに勉強しなくてはならないが、ちゃんと真剣に学んでくれれば、学生時代の専攻が政治学であろうとバイオであろうと数学であろうと、ちゃんとこの方面の仕事の知識・スキルを備えてもらうことが出来る。そして、よく聞かれる言葉であるが、「給料をもらいながら勉強させてもらえる・自分の商品価値を高めることが出来る」という、こんな有難いことはないものと、特に新人の人たちには理解してもらいたく思う。   
   
   
 しばらく前、A君は若手の部下B君に対して「この本を読んでマスターするように」と命じたようなのだが、そのA君が休暇をとっているとき・・・B君から、筆者との雑談中にこう質問された: 「この本はぜんぶ読まなくてはいけないのでしょうか?」・・・その本は昔々に筆者も読み切った本の改訂新版であり、筆者にしてみれば、いわば「勝手知ったる」な本である・・・筆者はパラパラとめくりながら「ここは読まなくて大丈夫」、「ここは読むべきだが後回しにしても大丈夫」という章・項目に2種類のカラーの付箋を貼った。   
 その付箋の貼られた本を戻されたB君はホッとした表情を浮かべた・・・彼が何を思ったか、筆者はピンと来た・・・彼は「この付箋の付いたところだけを読めば済むのだな」と想像したに違いないのだ(笑)・・・筆者が付箋の意味を説明したら彼の表情は曇った・・・もちろん「付箋の意味はそういうことだけど、あくまで俺の考えであるから、そのとおりでよいかどうかはちゃんとA君の確認をとること!」とも伝えたけど。   
   
 本を読むことを「しんどい」・「億劫」と感じる若者が多いまま・・・困ったことだなあ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 ちょっと前にブログ記事にて取り上げた「いきものがかり」のDVDについて、これを観たことを若い女性社員にちょっと話したら、「それ(2010年ライヴ)よりも翌年のもののほうが内容がいいですよ」と伝えられ、そしてその2011年のDVDを貸してくれた。  
   
 2010年のでも2011年のでも、「すべての曲について(例外なく)安定した歌唱が実現されている」というわけではない・・・ように感じる。ステージ上を走り回るのを控えるなどすれば、その最中やその後の歌唱の安定のためにも好ましかろうと思ったりもしたが、しかし、このジャンルの音楽の場合、ライヴ、それも大型ライヴともなれば、一種のショー、そしてファン・サービスの要素を取り入れることが非常に重要だから仕方あるまい・・・もし仮に直立不動のままで歌い続けられたらファンは大いに不満であろう。   
   
 個人的には、2010年のほうに収録されている「コイスルオトメ」、「月とあたしと冷蔵庫」、「SAKURA」、「雪やまぬ夜二人」、「タユムコトナキナガレノナカデ」などが2011年のほうでは歌われていない点もあって、前者の2010年のDVDのほうが楽しめる内容と感じた(が、しかし、「雪やまぬ夜二人」のような曲は青空のもとで歌われてもちょっと・・・な感じもするし、2011年のほうのプログラムはプログラムでまた練られたところもあるから、簡単に優劣をつけるのもおかしなことになろう・・・以上、優劣でなく好みの問題だ)。   
   
 このグループは路上ライヴなども繰り返していたと聞くが、その時代の歌唱・演奏レベルがどんなであったか、もちろん筆者は知らない。しかし、想像する限りでは、十分に鑑賞に堪えるもの、それ以上のものであったろう。   
   
   
 さて、しかし・・・世の中、路上ライヴ、多いよなあ。   
 鑑賞に堪えられる演奏は、まあ、或る程度までよろしい。でも、「音楽を聴きたくない人」とか「音楽好きだけど、そのジャンルの音楽は聴きたくない人」もいる・・・聴かずにおくためには通行者の側が耳をふさがなくてはいけないというこの不合理、力の不均衡をどうするか・・・たとえどんな名歌手であろうと、やたらに音楽を流すことは問題含みなところがあること、否定は出来まい。   
   
 「ひでえ音痴だなあ・・・そこでライヴやっててもスカウトされる可能性はゼロだろうなあ」、「ストレス発散のために歌っているならばカラオケボックスとかにこもって歌えば」、「そのラップ・ミュージックは、センス悪いってもんだろ」、「基本、声に魅力が無いよなあ」などなど思わされる路上ライヴも、時折あるのだよなあ。ま、彼らとしては、アピールしたいのは必ずしも自身の「歌唱」でないかも知れない・・・作詞の能力、作曲のセンス等々だったり・・・とすれば、路上ライヴはやはり「将来の仕事をつかむ手立て」として意味あるのだろう。   
   

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