FC2ブログ

2018-03

Latest Entries

バッハは作曲しなかった「マダイ受難曲」?




   
 (↑)某日のこと、某スーパーマーケットの鮮魚売り場で見つけた品。トレーに乗せられラップされたその上のラベルには・・・これは「マダイ(真鯛)」を意味するのであろう、千葉県産の天然の。   
 しかし、この魚は「チダイ」と思え・・・ま、「美味ならばよろしいのだし」と思って買い求めた(値段もリーズナブルであったし)・・・実際、チダイはそれなりに価値ある魚なのだ。(また、調理済み弁当その他においては、焼いてしまってあると判別しづらいので「鯛」として用いられているケースも少なくないとの話も聞く。)   
   
 さて、これが本当に「チダイ」であるとして・・・いや、調理して口に運んでみたところ「マダイ」でなく「チダイ」と思えたが、味は普通に大丈夫、おいしかった・・・問題はスーパー側/鮮魚担当者が「これはマダイなのだ」と信じて仕入れた・販売したか否かであろうかなあ。つまり、「チダイなんだけど、お客さんに対してそう表示してもイマイチ売れ行きがよろしくないのでマダイと銘打とう!」みたいな、もしもそんな動機があったとしたならばそれはよろしくないことだ・・・そして、その点にこそ筆者の関心がある。スーパーの担当者がトーシローであるとも思えぬし、この業界の人たちの感覚や良心、行動を知るうえでも興味深い事例である。   
   
   
   
 鯛という名前を持った魚のあれこれ、また白身魚の塩焼き等を、もしも「風味が物足りない」・「バサバサしている」みたいに感じるときでも、ケース・バイ・ケースでさらに「ポン酢しょうゆ」もしくはオリーブ油、各種ドレッシングを垂らして賞味する工夫をすれば、大抵どの場合でもそれなりに満足いく味わいになるものだろう・・・尤も、筆者はオリーブ油などを好まないけど。   
   
   
   
 いま、消費者は物価に対して極度に敏感であるとされ、例えば食品を例にとれば食品メーカーも、またスーパーその他の販売店も値上げには慎重にならざるをえないと言われている。で、価格を据え置きつつパッケージに収めるものの数量・重量を減らして実質値上げを図る工夫が始まっている・・・とニュースなどは報じているけれども、いま始まったことではないよなあ。   
 庭にやって来る野良猫または近所の飼い猫のために、いつでも最低でもチクワやハム、焼豚くらいは用意しておこうということをしている・・・だって、「こうして寄り道するのは、何かのおやつにありつけるかも知れないからさ!」という彼ら猫たちのの期待を裏切るのは心苦しいとの感覚があるから。ほか、うどん・冷麦・そうめん等を食べるときは少し余分に茹でておき、彼らのためのものも用意しておくのが習慣・・・猫は、かつおだしを含んだ「つゆ」を伴ったそれらの麺を大抵は上手にすするのだ・・・あまり塩分を摂らせてはいけないとは聞くが、ま、大した塩分量にはなるまい。   
 で、ずいぶん前の或るとき、筆者自身がチクワを猫に与えようとした・・・手につかんだチクワがフニャッと、わりと歪むように感じた・・・「ん?」と思ってチクワを見ると、チクワの穴がどうも大きいのだよなあ・・・これは「材料(費)その他の削減のための手段だな」と思った。穴径を1ミリ広げるとどれだけ材料(費)を削減できるか、そしてまた加熱調理を完了するまでの消費エネルギーをどれだけ削減可能であるか、商品100個詰ダンボールの重量・配送コストをどれだけ削減できるか・・・少年少女よ、学校の勉強など意味がない、円周率の扱い方や熱・カロリーのことを知っても意味がないなどと思わないで、将来の仕事に役立てるためにも勉学を怠らないでくれたまえ・・・たとえば経営学や、あるいは(簿記などで)原価計算・原価管理を学ぶそれ以前に、頭の片隅に備えておいて損しない知恵でもあろう(本当か?・笑)。   
   


季節の歌(?)をば2首


   
  もろともに   
  国会審議に   
  気を揉みて   
  眺むる空の   
  春霞かな   
   
   
   
  「盛り」よりも   
  「つけとろ(T)」「パスタ(P)」   
  「ペンネ(P)」との   
  言葉を耳に   
  春雨サラダ   
   
   
   
 この期末(3月)が、やたら多忙になっており・・・もうすぐ落ち着つくであろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 「俺、ちょっとコンビニに寄りたいけど、いいかな?」と、一緒にいたA君に言った。しかし、そのすぐあと、店に入ることもせずに「やめとこ。いいや、いいや」と言った。   
 A君からは「どうしたんですか?」と訊かれたけれども、理由は説明しなかった。   
   
 このコンビニには、目つきがよろしくないばかりか、客に話しかけるときの声質や喋り方が気に食わない男性スタッフがいるのだけれども、この日、その男がレジを担当しているのがドア越しに見えたのだ。だから買い物するのをやめた。品揃えなどはしっかり充実していて好ましい店なのに・・・。   
   
   
   
 「コンビニはどこが気に入りですか?」と尋ねられることがたまにある。   
 ずっと以前はセブンであった。しかし、店内に流れる音楽(テレビCMでも使われている)が自分の好みには合わないため、セブンにはなるべく寄らないようになった。   
   
 かわってファミマをよく利用するようになった。Tポイントカードは持ってはいても持ち歩かないのであるが、顔なじみになった店主が「Tポイントカードを提示してもらえればポイントが貯まってお得なんですよ、是非そうして下さい」と言った。或るとき、別の店で大きな買い物をすることがあってTポイントカードを持ち歩いていた。その帰り、ファミマに寄ったので「そうだ!」と思い、そのカードを提示した。が、若いレジ係の男がカード・リーダーに読ませてこちらに返して寄越す動作が遅くて、こちらとしては「その都度このようなロスタイムを生じるようではかなわん」と思い、その後はこのカードはやはり常時携帯することをしなくなった。それにしても、毎度レジ係から「Tポイントカードをお持ちですか?」と訊かれるのを鬱陶しく感じ・・・レジ・カウンターの前にステッカーか何かで「お持ちでしたら会計時にご提示ください」などと表示するだけにしておいてくれたらなあ。   
 過日のこと、やはりファミマで買い物したときは、1つのレジにつき5人くらいが順番待ちするような状況になっていた。筆者は急いでいたためちょっとだけイライラ気分をもって列に並んだのだが、こんな状況下にあってもレジ担当者はレジ処理するときにそれぞれの客にチキンの揚げ物だか「焼きとり」だかを「如何ですか?」と勧めているのであった・・・で、実際に、買い物客のひとりはそれに反応してチキンの何だかを注文した。レジ担当者としては「をしっ、売上をちょっとアップ出来たもんね!」と思ったであろうけど、が、筆者は心の中でこう叫んだ: 「混雑しているのにさあ・・・ったく、マニュアルどおりということなのか、それとも店主からの指示なのか知らないけど、こんなときはより迅速に客をさばくことに気を遣えよ。この店の売上なんて俺には興味ないんだし、客の時間を犠牲にして稼ごうという根性を捨てろよな。順番待ちが解消されることが一番大事なんだよ!」と。で、ファミマを敬遠すべきかなとも思うようになり・・・。   
   
 あらためてセブンによく寄るようになった。どうも最近は、店内にあの好きでない曲が流れていないことも多いようで、「これはよい変化だな、セブンをまたよく利用しよう」と思った。nanacoのカードはいつも持ち歩いているから、これで支払うとレジ担当者とのカードの受け渡しをしなくても済み、速い。   
 カードの受け渡しをしないということは、少しばかり清潔感もあってよろしいし・・・と喜んでいたら・・・先日は、筆者の前の客がレジ脇のチキン唐揚げだかを注文し、レジ係は手を洗ってからそれを処理した・・・それはよいのだが、次に筆者のレジを済ませ、こちらはレジ袋を受け取ったら何か妙な感触が・・・袋の提げ手のところに揚げ物の油が付いていたのだ・・・家に帰ってから確認すると袋の中の商品にも油が。うーん、揚げ物を扱う前に手を洗うことは勿論よろしいのだけど、「手に油が付着してしまったような場合は、遅くとも次の客の相手をする前には手を拭くなり、もう一度洗うなりしろよな」と思った・・・そこまでは(常識的に過ぎるので)マニュアルに書かれていないだろうけど。   
   
 コンビニで扱う品にも、介護のための食事づくりに役立つものが色々とある。主にセブンで調達できる。そういう食事づくりをするときに酒を口にすることが珍しくないから、ちょっとした「つまみ」も一緒に買いたいが、筆者の気に入りの或る品がセブンでは扱っていない・・・ファミマやローソンにはある。したがって複数の店に寄ってしまうことがある。しかし、近くのローソンは、気のせいか店頭陳列する品の種類や数量を絞っているか、さもなければ仕入段階でも絞っている感じがある・・・これは売れ残りリスクを恐れ、堅実な店舗経営を目指しているようにも推測される・・・が、こちらは、コンビニ各店の健全経営とか利益極大化とか、いっさい関心が無いし、「客である当方にとって都合よく品揃えされているか」が大事なのだ・・・このローソンには殆ど寄らなくなってしまったなあ。   
   
 最近はドラッグストアの品揃え・価格に魅力を覚えたりもする・・・が、寄ることある店は、毎度毎度「ポイントカードをお持ちですか? (お持ちでないなら)作りましょうか?」と言われるため、これがまた鬱陶しいなあ。   
   
 店の側も商売するうえで悩ましいことが多々あろうけど、客の側だって悩ましいと感じることがあったりするのだ。   
   

雑記



   
 暖かさをよく感じられるようにもなって来た。しかし、北海道や東北、北陸などではまだまだ寒さが厳しいのだろうなあ・・・。   
   
 上の駅弁は、べつに北海道で買い求めたわけではない・・・或る休日の外出途上に「さて、遅めの昼食をどこで食べようか」と頭の片隅で思案していた・・・或る店でこの弁当が目にとまり、「では、これを家で食べることにしようか」となったまで。   
   
 淡めの味付けには好感を持てた。しかし、気のせいだろうか、「鮭」以外の具では素材の風味が印象にとどまりにくく、その点を残念に感じた。また、「ご飯」が自分の好みに合うものでなくて。うーん、勿論あくまで「個人的感想・評価」に過ぎないのであるが、満足度は100点満点中で70点くらいか。決して悪くないのだけれども、「もう一度食べたいか」と問われたら、「一応イエス。でも、別の、まだ未体験の駅弁が同時に目に入ったならそちらを選ぶであろうか」みたいな感じか。微妙なところである・・・でも、決して不満いっぱいな品ではなかった。   
 筆者としては珍しいことに(休日とはいえ)夕刻前にビールを口にしながらこの弁当を食した・・・ヴォリューム・量はちょうどよろしいと感じたが、もしもビールと一緒にでなかったら、或いはまた大食漢の人にとっては、少しばかり物足りなさを覚えるかも知れない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 先日はまたも、たまたまなのだがNHKのコント番組「LIFEうんぬん」を見てしまった。   
   
 他のことをしながらテレビに目を向けていたので、「しっかり見入る」という状況でなかった・・・そのせいか、実に、番組全体を通じて筆者が「笑った」のは3回か4回くらいではなかったかな。それにしても、笑いをもって気分転換を図ろうとするならば、自分にとっては効率が悪いなと感じた。   
   
 ファミレスがらみの人間自販機(飲み物製造マシン搭載人間)のコントでは、筆者は一度も笑わなかったと思う。このコントにおいて、笑いをとろうとする企図はちゃんと感じられたのだが、でも、こちらとしては「それほど愉快なのかい?」との疑問が・・・。   
   
 胃カメラ検査を受けている最中の父親に向かって娘が彼氏のことで云々のコント、それから「マッチ売りの少女」をアレンジしてのコントでは、筆者も笑いを発するところがあった。   
 しかし、前者のような「思いどおりに意思疎通を図れない困った状況、はがゆい環境、そして、それが招く誤解」というアイデアを用いたコントは、はるか昔、何かで目にしたことあるような気も・・・べつに盗用とか言うつもりはないのだが、パターン的に「ふむ、こういうアイデアでのコントはありがちだぞ、この先の展開も見透かせるぞ」と感じてしまい、声を立てて笑うほどにならず、ちょっと軽く「フフフ」と笑う程度だったか。   
 後者のマッチ売りストーリーでも、やはり笑いはごく軽くであった。ゲスト出演のようにして登場した若い女優さんのファンの方がその演技、表情、セリフの調子などを楽しむためのもの・・・みたくも感じたかな。コントの「シナリオや制作アイデアの面」で評価しようとするとき、これを秀逸と評せるのかと疑問を覚えた。   
   
   
 この「LIFEうんぬん」の番組では、以前、実際のオーケストラの協力を得てベートーヴェンの第5シンフォニーを演奏しながらのものがあったと記憶する。コントの内容は忘れてしまったが。   
 あのとき思ったのは、クラシックのオケ作品を利用してこんなコントが出来ぬかというもの:   
   
 曲が、クライマックスを経て派手なエンディングへ至る・・・しかし、曲は一向に終わらない・・・終わるかと思えば更に更にしつこく派手なエンディングが続く・・・それは、たとえば次のそれぞれの曲の「エンディング部分を上手に結合」していくことで可能になるのではないか: 「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲、ブラームス/交響曲第1番第4楽章、そしてまたベートーヴェン/交響曲第5番第4楽章、チャイコフスキー第4番第4楽章などなど。そして、コント中、聴衆のひとりは、さきほどからフライング・ブラボーとフライング拍手をしたがっており、また、立ち上がるタイミングを窺うことすらもしているのに、しかし、そのタイミングを見つけられずに地団太を踏むみたいなコント・・・しかし・・・クラシック音楽ファンであればこのコントを愉快がるであろうけど(同時に、その聴衆役に向けての冷ややかな笑いも伴う)、クラシック音楽ファン以外にとってはそれほど面白くないと感じるであろうか(さもなければ「そうそう、クラシック音楽って、こういうふうに大袈裟なエンディングがしつこく続くんだよねー」の感想に終わってしまうだけ?)。   
 尤も、このようなコントに出演協力して演奏するオケ・メンバーは少なからず疲れそうだが。   
 そして、上のように既存の作品をつぎはぎして利用することは著作者人格権/同一性保持権との兼ね合いで問題ありとの意見も生まれようか(たとえ、昔々の作品でもあり、一種の、許容・黙認されそうな編曲行為類似のことと受け止めるにしても、コントのネタとすることを目的としてそのようなことをするのはどうかという気はするし)。となれば、誰かにオリジナル作品を作曲依頼する等の手段が適当かも知れぬ。が、しかし、そういうことやオケへの演奏依頼などによって、番組制作コストは小さからぬものにもなりえ、もともと「NHKがこの種のコント番組を制作・放送する必要性」について疑問を持つ筆者としては、ちと、思いは複雑なものとなる。   
   
 今ちょうど将棋への関心が高まっている時期であるから、これにからめてのコントなどもあってよろしいのではないか。対戦する二人の棋士のうちの一方は「超・先読みの達人」と評される人物という設定・・・その人物は、対戦が始まって4手か5手あたりで天井を睨んで長考した末・・・絶望的に「はあ」と溜息をつき、そして「負けました」と挨拶して勝負が終わるみたいな。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下のは、読みかけの文庫と新書。   
 山口瞳のエッセイをまとめて読むのは30年ぶりくらいか。   
 新書のほうは、(べつにハーバードという言葉に惹かれて買ったわけではないが)アメリカ人などが日本のどういう特質に注目するのか・有意なポイントを見出すのかについて改めて考えさせられ、面白い。   
   


雑記

   
 或る女性が発した言葉の要旨:   
   
 「バレンタイン・デーのチョコレートは自分のためにも買う。そして食べる。そのせいなのか、さらに太る。ホワイト・デーにお返しのチョコレートや菓子を貰う。当然それを食べるので、ますます太りそう。わたしは水を飲むだけでも太ってしまう体質のように思える。夜遅くに食べたり飲んだりするのを控えても効果はないみたいだし。塩分/ナトリウムを摂り過ぎるとそれがまた水を体内に取り込んでしまうらしいから塩分摂取にも気をつけているのにそれでも太る。(自分と違って)東京で生まれ育った人は、男女ともに、体型がスリムな人が多いように思えるけれども、何が理由なのだろう」   
   
 さあ、いったい「太る原因」がどこにあるのか、食生活、運動量、体質その他を観察・チェックしてみないと何とも断じることは難しいかなあ。   
   
   
 筆者の場合、「気に入らぬものは食べない」、「多忙のときは昼食を抜くこともする」等のことがあって、その後の食事ではしばしば「まとめてドカ食い」するし、また、「腹八分目では満足できない、腹十分目をもって良しとする」という食事方針であり、ほか、夜遅くの飲酒、寝がけのビール飲みも珍しくないけれども、太りはしない。遺伝的な体質もあろうけど、甘いもの・油脂の多いものはあまり摂らない(魚の脂は気にせず摂る)、活発に体を動かすという生活が効果を発揮しているのだろうか・・・しかし、人間は小太り気味であるほうが長寿につながり、闘病生活・入院生活・寝たきり生活になっても痩せ細りにくくて有利であるとも聞くから、どういう体型が理想なのか一概に言えたものではなかろうに。   
   
   
 東京育ちの人間にスリム体型が多いかどうか(他の道府県の場合との相対比較で)知らぬが、ま、スリムと評すべきかヒョロヒョロと評すべきかはともかく、親や大人から「育ち盛りなのだから/若いのだから、どんどん食べなさい、ほら、もっともっと食べなさい」みたく言われるケースが少なく、結果として食べ過ぎの食習慣に陥りにくいのではないかという気はする・・・勤め人の家庭が多く、農家や漁師の家、自分の土地で農作物を収穫する家などは少ないから、「食べ物」=「どこかで買って来るか、たまたま貰い物として得るもの」であり、つまり、どんどん食べたり漬物にしたり乾物にしないと捨てるばかりのことになってしまって無駄になるみたいな、食べ物が豊富にあって余剰が生じるから子供などにも無理やりにでも食べさせたがるという環境・状況にはなりにくい。   
 ほか、家の手伝いなどで畑仕事をする、収穫物ほか重たい荷物を運ぶという経験が少ない、野山を駆け巡るような遊び・体験が少ない等々で、ガッチリ体型になりにくいばかりか、体の成長としては「上へヒョロヒョロ伸びるばかり」になりがちとか、そんなこともあるやも知れない。   
 さらに、主に大人になってからの違いではあろうが、東京では徒歩移動・自転車利用の多い生活になるというのもカロリー消費の面で影響するのではないか。   
   
 加えてもうひとつ、「太るまい、太ってはいけない、太ってはおしまい」という、気合・警戒心・恐怖心・強迫観念が東京育ちの人間には強く働いているかも知れないか。   
 筆者の子供の頃を思えば、肥満体型の同級生は周囲からちょっと避けられるところがあった。太っていても運動神経がよく、また速く走れる場合は別として、そうでない場合、体育の授業でも、遊びでも、サッカー・野球・バレーボール・バスケットボールなどでチーム編成するときに「肥満のあいつがこちらのチームに加わるとそれだけ不利になるから、こちら側メンバーとして採りたくないな」と、排除することを言う友人も少なからずいたのである。なお、筆者はそんなことを言わなかったし、むしろ「たかがサッカーじゃないか、勝ち負けなんてどうでもいいじゃないか。(体育の授業である場合に)体育の成績評価だって、チームの勝ち負けどうこうよりもそれぞれの生徒/個人の技術、機転が利くかどうかなどで決まるんだろうし。チーム・メンバーにこだわる必要は無いじゃないか」と思い、上のような排除的な意見には反対した。   
 が、しかし、「太ってしまうと、仲間はずれにされかねない、陰口を言われるのではないか」との警戒を持つ人もまた少なくないのではないか(実際、本人がいないところでは「あの肥満児」、「あのブタ」という言い方をする子供もいたし)。このような警戒が、人間の体の摩訶不思議なメカニズムによって、ホルモン分泌、食欲、小腸での栄養吸収、基礎代謝などなどに影響していそうな気もしないではない・・・また、拒食症に発展するケースだってあったりせぬか、どうだろう。   
 ただ、しかし、これと同様のことは東京以外の他の地域では見受けられないのか、そしてまた、東京ならばどの世代にも共通することであるのか(或いは、筆者個人の狭い体験に過ぎないことなのか)、それは知らないが。   
   
   
   
 地方から東京に出て来た人が口にした言葉で印象に残っているものとしては次のようなものがある:   
   
 「ラッシュアワーの電車の混雑が凄い」   
 ・・・ま、混雑は有名であるが、初めて経験する人は大変なようだ。学生時代の友人はこんな経験もしている:「電車の左側ドアから乗った。その2つか3つ先の駅で降りるつもりでいた。その駅が近づくと車内アナウンスで右ドアが開くのだと聞いたが、右ドアのほうへと移動するのが難しくて降りることが出来なかった。さらに先の駅で降りて引き返す羽目になった」   
 ほか、乗ろうとしていた電車が駅ホームに到着するとその混雑が凄くて、「何かのイベントがあるのか、それとも事故でもあってこの車両が混んでいるのかと思い、一応その電車には乗らずに次の電車を選ぶことに決めた。次の電車も変わらぬ混雑であった。いったい、上流(電車がやって来る方面のこと・笑)にはどれだけの人が住んでいるのだろうかと思った」とかのケースも。「折りたたみ傘でないタイプの傘を持って乗ったら、降りるときにはそれが折れ曲がっていた(この事例は「しょっちゅう」はあるまいなあ)」、「剣道の道具一式の荷物を持って電車に乗り込もうとしたが、車内の混雑が激しいため遠慮して電車に乗るのを諦め、ずいぶんあとの電車に乗ることにした」等。   
   
   
 「東京に畑は無いと、先生から教わったことがあるけれども、東京にもちゃんと畑があるのを見て驚いた」   
 ・・・先生、まさか社会科、日本の地理の授業で言ったわけではなかろうけど、嘘は困ります(笑)。東京には空が無いとの、そんな文学作品はあったけど。   
 ま、地方にある広大な畑・農場と比べると見劣りするものが多かろうけど、畑もちゃんとある。   
 「東京の畑で採れた農作物」というと美味しくなさそうと思う人もいるかも知れないが、美味しい品はちゃんと美味しい。しかし、農業への取り組みに真剣さが薄いように思われるケースも無くはない・・・農業を続けて来た家でも、今の世代は「これまでに土地を切り売りしたことで手にした豊富な現預金を相続しており遊んでいても暮らしていける」、「サラリーマンとしての収入、アパート経営の収入で暮らしている」等のこともあったりするし、すると畑の仕事については、「その収穫物を自分たちで食べるためとするほか、ついでに産直販売する程度に」とか、「土地を畑として利用している・農業をしているという体裁を維持するために(固定資産税その他に影響する)」とかのパターンもあるのだ。   
   

冬の五輪・・・カーリソグ女子の活躍その他

   
 (↑)上のタイトル、おかしな部分にお気づきだろうか?   
   
 「カーリング」という語の、「ン」(ん)を、わざと「ソ」(そ)に替えてしまってあるのだ。   
   
   
 「ああ、“ん”じゃなかったんだね! “そ”だねー」と感じていただきたい。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 例によって、オリンピック関係のテレビ番組を「意図して観る」ということは無かった。ニュース番組の中にて試合・競技の状況を目にするに過ぎなかったのであるが、それでも自分には十分であったかな・・・スピード・スケートなどについては「おお、立派な成果だなあ」と感心もしたし。   
   
 改めて思うのは、自分という人間は、チーム・スポーツよりも、個人競技のほうに関心が向かうということであるなあ。リレー的なものもよいのではあるが、しかし、野球、サッカー、バレーボールのようなものになると、ぐっと関心が薄れるかな・・・尤も、球技への関心が低めというのもあるかな、最たる例としては、卓球に微塵も感心を持てないし。   
   
 学生時代、卓球部の練習を見ていたら、そこに何か形容しがたい「暗いもの」を感じ、その感覚がいまだに尾を引いているのかも知れない(昔、タモリさんが「卓球は・・・」と発言して社会に一種の衝撃(?)を与えたが、あれには、自分が抱いてきた感覚を再認識するような気持ちにさせられた)。   
 あと、体育館のステージ/壇(朝礼・終業式などで校長先生などが挨拶したりする場所)で、演劇クラブの部員が芝居の稽古などしている様子も、あの当時、「彼ら、何が面白くてあんなことやってるんだろう」と疑問を覚えながら眺めていたなあ。   
   
 話を戻し・・・。   
 個人競技であっても、それはシンプルな「競い/戦い/闘い」でないと、どうも興味を持てない。スピードを競うもののほか、フェンシング、剣道、柔道、レスリングなどがよい(オリンピック種目であろうとなかろうと)。   
 フィギュア・スケートとかシンクロナイズド・スイミングなど、演技の要素が加わるものについてはまた関心が湧きにくい。音楽が好きでもバレエを観る気にはなれないことと、もしかするとどこかに共通点があるやも知れない(バレエ音楽が嫌いなわけではない)。正月の「ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート」のテレビ番組でも、バレエ映像が流れると何か残念というか「こういうのは観たくないんだよねー」的な思いをする・・・「やめてくれ」とまでは思わないけど。   
 ストリート・ダンスに一生懸命になる若者がいるけれども、その気持ちもまた理解できない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 この日本で、日々、目にする外国人がますます増えているように感じる。永住権ある外国人のほか、不法滞在の状況になっている外国人も含め、いったい、それぞれ、どれほど多くの外国人がどういう条件で暮らし、仕事をしているのか・・・専門家でもないから詳しい状況・データを知らないが。   
   
 それにひきかえ、日本人については少子高齢化の流れ・・・。   
 いずれ何世代か先になると、この日本国内において、こんな迫害・いじめを受ける日本人の子供も出て来る?: 「おまえ、日本人のクセに生意気なんだよ・・・お前なんか、親にも、爺さん・婆さんにも、中国人やフィリピン人がいないんだろ・・・日本人の血しか引いてないなんて、もろに少数民族じゃん! ダサイな! 少数民族は日本列島から出てけば?」とか。   
   
 たいへんな社会になりかねないなあ。子供たちばかりでなく、大人の日本人もまた脅威を覚える時代が来るのか。   
   
 日本にやって来て稼ぐ外国人は多い。或る時期になると帰国しなくてはならなかったりするが、そうせずに日本に留まったまま働き続けたいと考えるケースも多かろう。それが女性である場合、日本人男性と結婚に至ることあればラッキーであるが、しかし、そのほかに「偽装結婚」という手段もまた世の中には横行し、そして時々はそれが発覚し、報道されることもある。歓楽街などで酒を飲むことある人ならば、そういう偽装結婚の噂を耳にすること、時々あるのではないか。困ったことである。(なお、筆者が飲むことある店は、そういう街中にありつつも、ごく普通の業態の店である・・・が、男性客が飲みに連れ歩く外国人女性などをめぐって・それを契機として、いろいろな噂が飛び交うものなのだ(その内容が真実であるのか嘘であるのかまでは知らないが)。)   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 スナックなどの飲食店が集まる地域で、女性を対象に求人広告チラシが配られていたりする。職種としてはフロアレディ、宴会コンパニオンなどなど・・・その中には「税金のことなど、丁寧に説明いたします」という文句も入っていたりする。これは、よいと思うのだ。   
 しかし、「税金、マイナンバーのことで不安がある方はご相談ください。いっさい気にせずに働けます」との文章が入っているケースがあるのを知り、これにはとても興味を覚えるなあ。「いっさい気にせずに」とは、具体的にどういうことなのか? 事業者側としては、実際にはAさんに給料を支払いながらも、他のBさん(同僚)・Cさん(事業者の妻)・Dさん(全然関係ないが名義貸しに応じる女性)などに支払ったこととして経理処理したり給与支払報告書・源泉徴収票を作るなどするのだろうか・・・不可能ではなかろうが、それなりに金額がまとまって来ると対応しきれまい。となれば、事業者側としてはいわゆる「売上除外」などをしつつ、Aさんへの給料も帳簿を通さずに支払うのだろうか・・・やりやすく、また、手っ取り早い方法かも知れないが、しかし、結局は「所得隠し」・「脱税」につながっていくことであろう。諸々の経理処理や事務に税理士、社会保険労務士などが関与している場合にはそのような不正は生じるまいとは思うのであるが、それでも上のチラシは気になるから、時間のあるときにでも税務署へ持参し、「これ、どういうことなんでしょうねえ、お分かりになるようでしたら勉強のため教えてもらいたい」と訊いてみたい気もする。    
   
 世の中には中国語っぽい発音を伴いながら「マッサージ、どうですかー? かわいい子、いるよ」と声掛けする女性がいるけれども、彼女ら、そして、その「かわいい子」らは、税金関係、どうしているのだろうと気にもなる。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る個人経営の居酒屋では昨夏あたりから人手不足に苦慮している。   
   
 しばらく前に寄ったとき・・・。   
 出された料理に添えられた「かいわれ大根」を見て、「あれっ?」と思った。   
 かいわれ大根でも、コマツナの「つまみ菜」でも、葉に黒ずんだところがあったり、成長不良っぽいものがあったりなどするものだが、それは普通、取り去られて処分される・・・だろう。   
 しかし、この居酒屋で出されたとき、かいわれ大根のどれもこれも、ひとつ残らずが黒かったり、茶色かったりしているのだ。それを食べる気にはなれなかったので、残した。   
 しばらくして、忙しくしていた店主がこちらと話を交わしに顔を出した。かいわれ大根が食べられずに残っているのに気づき、そして、事の次第にも気づき・・・。   
 何が起きていたのかというと、かいわれ大根の選別を終えたのち、捨てるべきものを入れたボウルからアルバイト・スタッフが誤って皿に盛り付けて客(筆者)に出したということで・・・。困ったことだ。いくらアルバイトでも、盛り付け時点で「こんなもの、お客さんに出して大丈夫なんだろうか」との疑問を感じなかったのか。洗い作業を選別の前・後どちらでしているのか知らぬが、このとき出されたものはまた洗いもされていなかったり?   
   
   
 「最近の学生さんほか若いスタッフはねえ、料理について、コツとかそういうレベルのことでなく、ともかく家庭で(基本的なことを)何も教わっていない。お母さんも外で働く人が増えたせいなのか。いろいろおかしなことになっている」とは、別の居酒屋さんで聞いたこと。   
 モヤシのヒゲ(ヒゲ根)について「何が何でも取り去るという、そこまでの必要はない」とする意見の人もいるだろうけど、普通は取り去るものだろう、面倒であっても・・・これは食感・風味にも響くことだ。それを知らない若者が珍しくないのだという。   
 ほか、大根や長芋などをおろした経験のない若い人も多いらしい。ま、日本人の食事も多様化しているので、家庭によっては「うちの食事は基本はイタリアンなので、大根おろし・長芋とろろは子供にも食べさせていない・その調理を子供に任せたことがない」というケースもあったりはするのか。    
 セロリ、パセリ、青ジソなどは残留農薬に警戒して「しっかり気味に洗う/水にひたす」ことをしたいのに、仕入れて来たものを洗わずに使おうとする若い人も珍しくないようであり・・・。   
   
 まあ、親としては、「子供に料理・家事のことを教えるより、ほかのことに集中させたい」と考えるのかも知れないし、それには必ずしも反対しないけれども、しかし、では、子供たちは本当に「意味あること」に集中しているのかどうかと気にもなる。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 「もやし」は、価格が安いこともあってであろう、軽視されがち、そして、ぞんざいな扱いを受けがちな食材と思われる。でも、少しでも美味しく食べる工夫はされるべきであろう。とは言え、自分自身、さして好きではないのだけど。   
 早朝のこと・・・それは八百屋さんでなく、もしかすると「もやし」専門業者なのではないかなと感じてしまうのだけど、軽トラックが「もやし」の大袋を届けて回るのを目にすることがある・・・シャッターの閉まった中華料理店の前などにドサッと届けているのだ。会社の始業時間が9時だからといって「8か8時半くらいにオフィスに着けばいいや」と考えて出勤している人は目にしないかも知れない(7時か7時半くらいにはもうデスクに向かっているような人だと出勤途上に目にすることがあったりすると思うのだけど)。その「もやし」の配達の仕方が乱暴なのだなあ、まるでゴミを投棄するような感じ・・・買い手のみならず、売る側も「もやし」を軽視しているのであろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 時差出勤というか、朝のとても早いうちに仕事をスタートする人はまだまだ少数派のように思える。でも、増えて欲しくはない。サマータイム制にもあまり賛成しない。そういうことが常識化・一般化するにつれ、早朝の電車も道路も混雑したりするであろうし、また、他部署・他社の人が「もしかするとあの人、もう会社に出て来ているかな」と電話を掛けて来るなんてことにもなり、本来は仕事集中・能率化を目指して早朝出社・執務する意義・メリットが減じられてしまうかも知れぬ。   
 早朝の電車に乗っていると、ちょっと面白いことに感じ入ったりすることもある。釣りに出向く姿の人がいたり(東京湾? 千葉?)。あと、電車が一緒だからお互いに顔だけは知っていても、ふとした偶然で、先方が警察官であると知ったこともあった・・・「ああ、早番シフトもやっぱりあるんだなあ(当然とは言えようけど)」と認識を新たにしたり・・・。   
 子供時代の同級生の或る男について、或るとき「あいつ、ちっとも姿を見ないよなあ。生きてるのか?」との噂が立ったことがある。そんな噂が生まれるのは、要するに皆が朝早くに行動を始めないからなのだ。筆者、彼には朝に何度も会っている。元気にしている・・・白髪は目立つけど。彼は勤務医をしていて、仕事柄であろう、だいたい6時前後に自宅脇の駐車場からクルマで出勤する・・・その時間にはまだ寝ているという人、まだ朝食を食べているような人にとって、彼のことは「あの人は今・・・」的な存在になってしまうのかな?   
 オフィス街に隣接する或るパン屋さん・・・あ、このパン屋さんはもう廃業してしまったかと思われるけど。朝、その店では、焼き上がったパンを店内に並べつつ、しかし不衛生にも同時並行的に店内の掃除をし・・・そしてまた入口ドアを開けて外に玄関マットを敷くのだけれども冬はビル風が強く吹き、この玄関マットから舞い上がったホコリは店内へと流れ込む・・・そのホコリは、店の前の通りを歩く者にはしっかりと見えるのだ。「自分はもともとパンは好きでないけど、この店のパンは絶対に食べまい」と思ったものだ。あるとき、取引先の外国人が来社して数日にわたって会議することあったのだが、最終日には時間的余裕が無くなるから(=主として外国人側が考える交渉戦術でもある)その昼食は社内でサンドイッチなどで済ませましょうということになった・・・あのパン屋さんで買って来るということを女性社員から聞き、自分は、前日までは昼食に付き合っていたけれどもその日は席を外すことにした(ま、クロワッサン、菓子パンなどと違ってサンドイッチはラッピングされているものだろうけど、やはりイヤだなと思えるではないか・・・)。   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 「就職や結婚に際しての身上調査は必要なのか否か」という話題が出ることがあった。   
   
 現代では、そういう調査はすたれる方向にあると思う。いや、既に「すたれた」と言ってよいのかも知れない。   
 筆者などは、しかし、人の流入が盛んな都会では、今なお、身上調査、出自の確認みたいなことは一定の意義があるとは思っているのだが(異論・反対意見の多いことも承知はしているが)。   
   
    
 近所の若い女性に関して、「身上調査のため話を聞かせてくれ」と求められたことがあったのは10年ほど前であったか。   
   
 「どんな人って・・・普通じゃないですかね、挨拶も普通、明るそうだし、気持ちいい印象を受けますよ」みたく答えたかな。   
   
 過去に聞いた話では、身上調査で評判を尋ねる場合は、すぐ隣の家でなく、1軒をおいてか、或いは何軒か離れた家でというのが習わしなのだとか。世の中、すぐ隣の家どうしは仲が悪い・嫉妬が生まれる等々のケースも珍しくないから、デタラメの悪評がついてしまうことにもなりかねないし、そうするとまた就職であれ結婚であれ「めでたしめでたし」の結果にならず、何か気持ちの悪い結末になりがちなのだとか。また、万が一にも、調査された側が「興信所が何を報告したか」を察知する・教えられるようなことがあった場合、内容にデタラメなものを含んでいれば訴えられる・どなりこまれる等のことにもなりかねない・・・だから、調査内容は「無難なものになること」が暗に期待されているのかも知れない。   
   
   
 デタラメ・嘘の中傷をされたらかなわないだろうなあ・・・たとえば:   
   
 「ああ、お隣のお嬢さんですか? そうですねえ、お年頃で、あれだけ綺麗だから、おモテになるみたいですよ。深夜とか、いろんな男性からクルマで送ってもらって。たくさんの男の人と、とっかえひっかえに楽しく遊べて、若いっていいことですわねえ、オホホホ」   
   
などと言われたら、就職でも結婚でも、困るよなあ。   
   
   
 しかし、現代ではもう、誰彼の先祖の、いや、自分自身の先祖の、江戸時代における身分はどうであったかくらいの調べ方も知らない人は珍しくなく、また、それに興味を持つこと・確認しようとすることは「罪悪ですらある」との見方もあったり。   
   
 ま、「氏(うじ)よりは育ち」との諺があり、関西のカルタではこれは「う」の項にもなっている。関西のほうが、また、歴史の古い土地のほうが、氏・家柄・門地などについついこだわってしまう傾向があるやも知れないなあ。   
   
   
 学生時代、喫茶店の会計でも、飲み会の会計でも、「俺、きょう、カネをあまり持ってないんだ・・・貸してくれないか/立て替えておいてくれないか」と言い、しかし、後日、ぜんぜん返して来ようとしないという、そんな評がいくつもある男がいた。   
 当人は「カネを払わずに済んだ。ラッキー! あとは、返さないで日を過ごしているうちにいずれ卒業だし」みたく思ったのではなかろうか。しかし、周囲は彼から離れ、「ああいう具合にカネのことがきちんと出来ないのもまた、ひとつの“育ちの悪さ”なのだ」と見限るようになった・・・。   
   
   
 氏・育ち・・・どういう要素にどの程度、目を向ける必要があるのか、むずかしい・悩ましいことだ。   
   

フォスターも、バルトークも、それは作曲しなかった・・・


   
 フォスターも作曲することはなかった「おお、ズサンな」・・・。   
 働き方改革、裁量労働制・・・。集計データのチェック・扱いにズサンさがあると感じてしまうのは普通のことだろう。   
 個人的には、裁量労働制が拡大していくことに反対ではない。しかし、厄介な問題としては、「仕事は会社でしかしたくない。だから、食事しながら・酒を飲みながら・爪を切りながら・風呂に入りながら仕事の想を練る・アイデアをまとめるようなことは嫌い」という人が多過ぎるなど、いろいろあるのだ。小説を読んだり映画を観たりするから考え事が出来にくくなってしまう・・・音楽鑑賞を趣味にせよ、そうすれば趣味を楽しむと同時に考え事をするのがかなり容易になる。やれ芥川賞・直木賞の発表があったからといって、やたらと小説なんぞにうつつを抜かすな、多少とも文芸的なものを読みたいのならば短編小説やエッセイ、俳句などに接するだけにして、自由時間のより多くを仕事関連の思考に振り向けよ、と考えるのだが。   
   
 職場の休憩コーナーに置かれた雑誌のあれこれに目を通すことがある。先日は、(週刊誌でなく月刊誌の)「文芸春秋(「芸」の文字は正しくは旧字)」の一部記事をパラパラと読んだあと、それを元の場所に戻した。   
 すると、ほかの人から「(この雑誌に掲載された)芥川賞作品とか、読んだんですか?」と尋ねられた。いやいや、そうでなく、政治や教育に関わる記事に目を通したのだ。   
 文学賞を受けた小説ほか、評判になったものも含めて、読まないなあ。あの「火花」だって、読んではいない。ずっとずっと前に「小説を読むことに時間を割くまい」と心に決めたのだ。その決意が、ときに揺るがされることがある。随分と前になってしまうが、カズオ・イシグロ氏の作品を読んだときがそうだった。しかし、「これでまた小説を読むことに時間を割くようになってしまうと、それと引き換えに音楽鑑賞時間を削らなければ仕事のことを考える時間が不足しかねないな」と危惧し、そして冷静に、再び小説との決別に踏み切ることとなった。音楽を聴きながら考え事をするのはさほど難しくないが、本などで文字を追いながら別テーマの考え事をするのはたいへん困難なことだ。   
   
   
   
 オケコンならぬ「オワコン」?   
 ○○慰安婦の問題は、まだ終わっていないと感じる・・・先方が約束どおりの努力を徹底的に進めて「然るべきところ」に到達するまでは終わらないのだ。終わりを迎えていない責任は先方のみにあるし、ちゃんとすればめでたく終わる・・・終わるのだ、「終わり」はあるのだ。にもかかわらず大統領が「日本は“終わった”と言ってはならぬ」というのは、その無理解ぶりに呆れるし、このままの状況では日本に新しい諺として「嘘つきは泥棒と○○人のはじまり」というものが生まれるぞ・・・。   
   
 基本的に、もう、あんなこと(事実かどうか知らぬ)は歴史の中で扱う対象から外してしまってもよろしきことだろう。○○慰安婦というテーマは、オワコンみたいなものではあるまいか。   
   
 昔の日本の歴史の中で、貧困・経済的困窮などを理由として子供を間引きする、娘を遊郭に売り渡す、或いは女性みずからの選択で遊女になる等の事例があったようだけれども、今日、大半の日本人は(研究者を除いて)その詳細を知ろう・学ぼうとまでは思わない。日本人一般にとり、過去の話、忘却のかなたへと流されてしまった話・・・みたいなものかな。   
 そういうことと比較してみると、なぜ、われわれ日本人一般が、日本人でもない朝鮮女性のことにまで心を配る必要があるのか疑問だ・・・その必要は無いだろう。普通の日本人は、朝鮮人の人権や悲しみ等々にまでいちいち関心を向ける気など有していない。   
   
 朝鮮女性の中にも不幸があったかとは思いはする。彼女らが親その他を恨む気持ちも、われわれは察することは出来る・・・しかし、彼女ら、恨んでも恨んでも心は晴れないことであろう・・・そして、恨みの言葉を世間に向けて漏らしても、社会の中で首尾よく名誉回復を遂げることは出来まい・・・そこで歯ぎしりするだろうけど、しかし、だからと言って、「八つ当たりする相手」を探す努力と工夫を重ね、たかりをしても、きっと、幸せにはなるまい・・・謝罪をしつこく求めても、それはかなわぬことだ・・・われわれは、「もはや顧慮するつもりもなく、今後の世代に語る必要も無きこと」と感じているのだから。彼ら・彼女らに賢明さがあれば、そのへんを容易に理解し、悟りに至り、もっと心安らかになれるし、周囲もまた未来志向の国交につなげていけるものと思うのだが。(なお、さきの大戦で、日本が近隣諸国・世界に多大な迷惑を及ぼしたということまで否定する意味ではない。)   
   

雑記



   
 新潟県魚沼産のコシヒカリが、2017年産のものでは「特A」ランクにならず、その下の「A」ランクになってしまったという。   
   
 「コメといえば、やはり新潟のものが一番、そして魚沼だよねえ」・・・その意見は正しいのかも知れないし、寿司屋さんほか、プロの世界ではそういうこだわりを貫いているところも多くあるだろう、きっと。   
   
 しかし、一般家庭での日常的なご飯に関して、この種のこだわりを徹底・堅持しているケースはさほど多くなかろうと想像する。   
 筆者の場合、家庭で利用しているコメとしては或る農家からの直接購入品がある・・・新潟からのものではないが、割安感もあるのにとても美味しいと感じる。   
 ほか、米穀店やスーパーで購入されるものもありはする。どこの産地のものを買い求めるかは固定化している。(ずいぶん前のことにはなるが、幾つかの県の産のコメをしばしば食す機会があり、それらは「悪くないけどイマイチかなー」と感じ、以来、それら地域のものを絶対に避けるとともに、選ぶ対象を絞ってしまったわけである。)   
 でも、人それぞれコメの好みとしてコシヒカリのようなものが好きな人、ササニシキのようなものが好きな人などに分かれもするし、「美味いコメ」の基準は画一的なものではあるまい。また、炊飯にあたっての水量の加減などをコメごとに微調整するのが得意な人もいるであろうし、ま・・・。   
   
 冒頭の写真はイメージ・・・というか、過去のものの再掲。(ひょっとすると若い人は驚くかも知れないが、コメはポリ袋に入れられて流通・売買されると限ったものではない・・・紙袋がイイ!)   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 オフィス内でデスクに向かって仕事する際は、イスに座っているよりも「立ち姿勢」でいるのがよろしいのだよ・・・以前、そんな提言がされ、そして実際にそういう執務スタイルが導入されている職場もある。   
   
 この意見には、必ずしも賛成できない。歩き回るのと違って、移動せずにじっと立ちっぱなしでいることが苦痛と感じる人は少なくあるまい・・・腰に負担感を覚えるのではないか、膝に不快感が出やしないか、足裏に異様に汗をかくであろう等々、筆者やその周囲の人たちそれぞれに、「立ち姿勢」で過ごし続けることについては「どうもなあ・・・本当にいいの? 自分の場合は御免だね」との懐疑があったりする。適度に脚を開いて立ち、また、背筋の伸ばし方や、上半身の傾斜のさせ方などに気を配ることをすれば、幾つかの症状パターンは解消されるのかも知れないが、それでも症状改善に関して個人差も出るのではなかろうか。   
 デパートの店員さんのようにあまりウロウロすることなく立ち続けている人、スーパーのレジ係をしている人、外科手術に携わる医師・医療関係スタッフなどに、「立ち続けていることは快適ですか?」とアンケートして集計すれば、それは同時に、上のような疑問に対する答えともなりうるのではないか。    
   
   
 こんな記事/話題が:   
   
  https://www.businessinsider.jp/post-162997   
   
   
 昔ながらに、普通に「腰掛けてお仕事」でよろしいではないかと自分は思い続けている。   
 で、ずーっと座りっぱなしは体に良くないとされる。しかし、この問題はこんなことで簡単に解決されるであろう、例えば・・・複雑だったり厄介だったりする考え事のときには立ち上がり、ちょっと歩き回りながら窓の外を眺めるとか、考え事のついでに職場の本棚に最近どんな本が加わったかに目をやるとか、誰彼の仕事の進捗状況を観察するとか。デスクの上にたまった「ゴミ分別前のペーパー類など」を自分自身でゴミ整理箱のところまで運ぶとか、コーヒー・サーバーのところまで行って新しいコーヒーを注ぐとかいうのでも、「歩く」という行為につながる。以上は、自分が若いときから今に至るまで日々、実際にやって来たことに過ぎない。   
 しかし、世の中、「どうして?」と疑問に思えるほどに歩くのが嫌いな人もいたりするけど。   
   

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。