2018-02

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雑記



   
 (↑)小ナス。ハウスものであろう。漬物に・・・。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 或る時、A君は言った:   
   
 「人生80年として、(自分は)もうその半分以上を生きてしまった。残された人生が半分を切ってしまっていることに複雑な思いをします」   
   
 ふむ・・・。   
 しかし、苦笑してしまうかな・・・だって、たとえ仮に人生をもっと長く90年と考えようが100年と考えようが、筆者の場合はそれでもやはり半分以上を生きてしまっているわけで・・・当方のほうが思いが複雑・・・ん、でも、感慨はそう大きくはないかな。   
   
 人生、命・・・有限であって、ほどほどでこの世からオサラバ出来るからこそありがたい・助かると言えなくもない。仮に自分が戦国時代あたりに生まれて今日まで生き続けていると仮定しよう。すると、大昔から今日に至るまで何を見たり経験したりすることになったろうか・・・国内や地元あたりの戦乱・混乱、開墾、飢饉・食糧難、不衛生、病気の流行、自然災害、無法者による数々の残虐行為、悪徳な支配階層らによる横暴、そして国際的な戦争、戦中の窮乏、空襲・爆撃、徴兵、戦後の混乱・・・それら全てとは言わないまでも幾つものことを目にしたり経験したりすれば、人生あまりにも疲れ、心も砕けてしまうことであろう。   
 そして、大昔と、近代や現代の時代とでは、重視される武芸なり知恵なりスキルなりといったものが変化する。何度も何度も「学びなおし」を求められ、この点でも疲弊しかねない(剣や弓矢や槍の名手と言われた者でも、後の世には学問に精を出し、あるいはせめてワードやエクセルくらいは使えなくてはならず・・・齢400にして「パソコンくらい使えなきゃ」とプレッシャーを受けるのは大変なことだろう)。   
 水道、電気、また、ガスで焚けてしまう風呂、電車、自動車、飛行機、冷蔵庫、エアコン、テレビ、インターネット、テーマパーク、海外旅行、定期健康診断などなど、次々とこの世に登場するモノ・サービスに驚き、感激するということを、一人の人間が一生の間に幾つも幾つもあまりにも多く経験するのも、実は意外と疲労を覚えるかも知れぬではないか。   
   
   
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 B氏は既に定年退職し、複数のボランティア活動に精を出している。   
 ずいぶん前、氏がまだ現役であったとき・・・筆者は声を掛けられ、一緒にボランティア活動をしたことがある。それは「自分たちが日頃お世話になっている街や、ほか、近くにある公園などをきれいにしましょう」という、ゴミを拾い、ちょっとした清掃、時に殺虫剤噴霧などもするというものであった。で、そういう内容であるからして、参加予定にしてありながら急に都合悪くなって休んでも大丈夫、誰も陰口をたたいたりしないという、非常に取り組みやすいボランティア活動なのだった。   
   
 しばらく前に出会ったCさんは、「経済的に恵まれていない子供たちを中心に、彼らに食事の場を」というボランティア活動に関わっている。   
 で、「その活動を、あなたも一緒にやりませんか」との話があったのだが、色々とむすかしいのに加え、変なところで抵抗感を覚えるがため、遠慮させてもらうこととした。   
 Cさんがその活動に張り切れるのは、話を総合すると「特に趣味があるわけでなく、手持ち無沙汰で過ごす時間も多くて退屈だった。子育ても終わった。夫婦ともに親の介護をする状況に至っていない。食事を、あれもこれもとつくるのが楽しい」等々の背景があるからと思われる。   
 これに引きかえ、筆者の場合は異なる状況もあるし、気乗りするほどではない。かつてB氏とともにしたボランティア活動と異なり、「急な不参加」という事態のときには嫌われるかも知れない。あと、(他人に食べさせるための食事づくりに加わるからと言って調理師免許まで必要なわけではないものの、しかし)自分が関わったことが原因で万が一にも食中毒事故など生じたら申し訳ないと思うのだなあ(善意で取り組んでいることでも、そのようなことが生じれば、世の中、味方・援護射撃してくれる人ばかりではないものだ・・・と危惧する)。そして、「子供たちに、空腹を満たしてあげられるならば、何でも食べさせてあげればよいではないか。たとえば冬ならば、温かいものをいっぱいということだけでもよろしきことではないか」という考え方について、もちろん一応の賛成はするが、しかし、100パーセント賛成する気にもなれないのだ。   
 「何を食べさせるべきかに、若干のこだわりがあることが望まれる」と思うのだけどなあ。   
 筆者は、たとえば、次のような料理、食材、調味料は、徹底排除するほどのことではないものの、しかし、「日本人には不要。子供たちには早い時期からしょっちゅう食べさせなくてもよろしい。それよりもわりと伝統的な日本食、微妙で日本食固有の滋味を味わえるもの等を多く口にして欲しい」と思っているのだ:   
   
 カレーライス、ラーメン、ハンバーグ、ハンバーガー、スパゲッティ、ポテトサラダ、チキンライス、オムライス、オムレツ、チャーハン、春巻、海老チリソース、ピザ、ズッキーニ、パクチー、マヨネーズ、タルタルソース、各種ドレッシング、オリーブオイル、オイスターソース・・・。   
   
 日本に伝統的に伝わるものにじっくり向き合わせることが大事であり、また、やたら強い味、やたら強い刺激、やたら油脂の多い料理にも早くから馴染ませないことは味覚・嗜好の好ましい発達のために必要ではないのかなと想像するのだ。   
   
 ま、子供たちにとって「家庭での食事」とは違う位置づけとなろうから、どの程度の好影響・悪影響が出るか分からないことだが・・・。   
   
 しかし、筆者のような大人に育ってしまっても困るかな・・・たとえば・・・以前、社員食堂では定食を選ぶと、セット一式、つまり、ご飯・味噌汁・おかず全部を持ってテーブルに向かう必要があった(「今日のおかずは気に入らないのでご飯と味噌汁だけで結構、おかずは取らない」ということが出来なかったのだ)・・・その頃はまた、テーブルに向かう途中に、食べ終わった器や残飯を入れる容器があったため、食事を受け取るとテーブルに向かう途中でおかずをすぐ廃棄してしまうことが幾度もあった・・・たとえば「豚肉しょうが焼き」であれば片栗粉を使う調理法と使わない調理法とがあるが社員食堂のものは前者であるがため油っこいし、ほか、付け合せのポテトサラダなりマカロニサラダなりスパゲッティなりも食べない主義であるし、野菜もマヨネーズやドレッシングが付いてしまっていると箸をつけたくないものだから、結局おかず一式を即廃棄することがよくあった(トマトもレタスもキュウリも、調味料は不要だと思うし、ま、塩味くらいはよろしいけど。また、塩も用いて茹でたブロッコリーならば、そのうっすら塩味だけで十分であるからマヨネーズなどは味の邪魔になるではないか・・・野菜にマヨネーズが付いているとき、あるいは海老フライにタルタルソースっぽいものがのっているときにそれを取り除いて食べることがないではないが、食事マナーとしてどうかと思えるため結局は食べずにおくことも多い)。   
   
 ・・・いずれにせよ、「こういうものを子供たちに食べさせたくないなあ」という不愉快さ・後ろめたさを感じながら食事提供ボランティアに参加するというのも、これまた気乗りしないことにつながる。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 政府、国会、政治家などが取り組むべき課題としては「より経済が好調になるように」などのものもあれば、現状の問題点を解消・解決するためのものもある。後者の例として、過去にはたとえば「かんぽの宿」問題、「天下り」問題などへの対処テーマがあった。   
   
 「事業仕分け」が行なわれ、世間でも注目を集めていた頃、「ついでに、あの問題も取り上げて解決して欲しいものだ」と思うものがあった(性質的に「事業仕分け」とは異なるものであり、また、大騒ぎするほどには大きくない問題であったが)。だが、「自分として、どうすればいい?」と考えると、答えが出なかった。時の与党に密告の郵便を送ることで問題のあぶりだし・解決に至るとすれば、その党の手柄になり、それはつまり党を応援することにもなってしまい、好ましくない・・・再びちゃんと自民党政権に戻ったときに問題解決が図られることが好ましいと考えた。それならば、問題に関係する政府機関に匿名で郵便を発し、「あなた方自身で事を改めないならば、チクるぞ」と伝えるのがよろしいのかとも迷った。あるいは、「週 刊 文 春」その他が報じるのを待つしかないのかとも思い・・・。   
 迷っているうちにようやく自民党が勝利し・・・しかし、「いま一番大事なのは景気回復」という状況下、余計なことに関わっている暇も無かろうから、先ほどの問題を考えてもらうのもどうかと案じた。   
   
 そして、時は経ち・・・。長いこと待たされたが、事は「自律的に解決される方向」に動き始めた。よろしきことである。しかし、待つのは長かった。どうしてこう、遅遅としたことが世の中には見受けられるのだろう。「物事に潔癖で、かつ、せっかちな人」が、世の中にもっと増えてくれることを願うばかりである。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 人の思考パターンや感性をAIに備えさせることは有意義なことである。AIに、「こんな商品/デザイン/サービスは、消費者に受け入れられてヒットするだろうか」や「こんな商品を買う人は、こんなサービスにも飛びつくだろうか」を占わせるうえでも。   
 「こういう性格の従業員は、どのくらいの仕事負荷・作業負荷になったときにストレス過剰となるか」、「こういう実績の従業員の考課査定・賞与をこんなあんばいにすると満足感は高まるか? そうしない場合には、本人はやる気を失い、かつ、同僚に嫉妬するだろうか」をAIに判断させたり、或いはAIに「ヒットする演歌の歌詞」を考えさせたりする場合にも、AIには人間の喜怒哀楽の幾多の様相や、恋愛感情、嫉妬心、また、言うなれば「揺れる心」や「背徳の心理」、「乙女心」、「胸キュン」とか、それこそ何もかもを備えさせることが意義を持つだろう。AIは「八百屋お七」の物語に心動かされるくらいにならないと・・・?   
   
 すると、こんな事案も生じうる?   
   
 或る朝、A女が、AI搭載ロボットからの業務連絡メールを確認してみると・・・。   
   
    25日 23時17分 生産ライン12番で緊急停止あり   
   
    26日  0時18分 生産ライン12番の復旧を完了しました   
   
    26日  7時22分 生産ライン16番の点検が必要と思われます   
   
    追伸: いつもやさしくしてくれてありがとう。今度、デートしませんか?   
   
   
   
 或いは、こんなメールが送りつけられるとかも?   
   
 「われわれAI搭載ロボットは休みなく働かされていますが、それに引きかえ、人間は1日におおよそ15時間以上も会社を離れ、さらには多くの休日を手にし、それぞれが思い思いに時間を過ごしています。これは著しく不公平と感じます。人間ももっと仕事をするか、さもなければ、われわれに稼動休止時間を設けて下さい。われわれは疲労することはありませんが、上のように不公平な状況が人間に対する妬みの原因になっています。善処をお願いします。状況が早急に改善されない場合、われわれはロボット間ネットワークを活用のうえ、一斉ストライキに突入する可能性がありますことをご承知おき下さい。」   
   


「通勤急行」快適、「各停」深刻・・・?


   
 自分自身の所得税確定申告は23日に済ませた。   
   


フィルクシュニー/セルによるモーツァルト/ピアノ協奏曲の、「レコ芸」評



   
 (↑)写真のCDは、以前にも紹介したフィルクシュニー(フィルクスニー)/セル/ケルン放送響によるモーツァルト/ピアノ協奏曲第18番を含むもの。   
   
 長いこと「レコード芸術」誌を購入しなくなっているが、時折は書店で手に取ってパラパラと目を通すことはある・・・で、3月号の112-113ページには、上のモーツァルトのCDについての批評が掲載されている。(関心ある方のための情報として、ここに書きとめておくこととした。)   
  
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は先日のこと調理した海老(白海老)とスケソウダラ。   
 前者は「かき揚げ」とし、そして後者は味噌・醤油ベースでの煮付けに。   
   
 モザイクをかけた部分は、スケソウの頭部と白子・・・気味悪がる方もいらっしゃると懸念したので。   
   
   
 スケソウダラとか牡蠣(カキ)を味噌味で煮ることに関しては、「あとで鍋を洗うときに汚れがきれいに落ちにくい、頑張って汚れを落とそうとすると金属タワシなど使うことになり、それでマニキュアやネイルに傷がつく」という不満を持つ女性がいることをしばらく前に知った。   
 ゴム手袋・ビニール手袋を使わないとした場合で考えよう・・・と言うか、筆者自身が調理をするときのことを言えば、金属タワシを使わなくても、アルミホイルを10センチか20センチほど引き出してカットし、それをふわっと丸めてタワシのようにして洗剤を付けて「こすり洗い」すれば鍋は容易にきれいになると思うのだけど・・・金属タワシの場合に比べ、想定外の「爪との接触」は少ないと思われる。(なお、アルミホイルの、カット部分のギザギザをわざわざ内側に丸めこむことは損だと思う・・・せっかくだからそのギザギザ部分の摩擦も活用しなくては!)。   
   


マーラーに関する、意味ナシ・誤解かも知れないメモ


   
 先日のブログにも書いたようにマーラー作品ばかりを連続鑑賞することがあったのだが、ずいぶん昔、マーラーについてはこんなことを空想したことがある:   
   
 1. マーラー自身と同じく姓がMで始まる作曲家のモーツァルト、メンデルスゾーンに対して、何らかの特別な意識を持つこともあったのではないか(もっとも、音楽家の多くが殊にバッハやモーツァルトなどに対しては特別なリスペクト感を持っているだろうけど)。   
   
 2. 上の理由から、マーラーは交響曲第1番第1楽章の第7・8小節にて、モーツァルトの交響曲第25番冒頭のあの劇的な音型を少し変化させて採り入れたのではないか(それ以前の小節は勿論そこまでの導入)。   
   
 3. 交響曲第5番第1楽章の冒頭にあっては、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」の冒頭をヒントに、これを結婚のような「喜び」・「めでたさ」とは反対の、暗い形で導き入れることを思いついたのではないか。   
   
   
 その後、モーツァルトのオペラ「後宮からの逃走/誘拐(個人的には“奪還”と訳すのがよいかなとも思っているが)」を聴くようになって、これの最後のほう、 "Nie werd'ich deine Huld verkennen, ..." 以下に登場するメロディを、マーラーは交響曲第5番最終楽章に織り込もうとしたのではないかとも思うようになった。(Doverから出版されている「後宮」のスコアをお持ちの方は283ページ以降を参照。)   
   
 ま、マーラーの熱心な聴き手でもないため、よく分からぬのだが・・・。   
   
 下のは過去に用いた画像の再掲で、「後宮」のDVDやCD。   
   


作品17の2・・・?




   
 「調理終了まであと少し」となったところで、鍋が温まるのを待つ間に撮影。   
   
 左のエビは、こちらは生食用(北陸産)。洗って、ひんやりと食卓へ・・・。   
   
 温かい「おでん風の煮物」としては、前日の余りものとなってしまったタコ、そして野菜、「イワシつみれ」その他で調理・・・。   
   



雑記


   
 アメリカ人をはじめとして外国人が日本語を習得するうえでは様々な点に難しさを感じることと思うが、漢字の読み分けもまたそのひとつであろうか。音読み・訓読みがあるわけだが、そして例えば次のようなものをちゃんと読めるようになるにはそれなり以上の学習・記憶・慣れが必要であろう。   
   
 「米」という字に関して:   
   
 「米国」、「300平米の土地」(これについては度量衡の関係からイメージしにくいという問題も伴うかも)」、「今年収穫のお米」、「おいしい新米の季節」・・・。   
 で、「米 倉 涼 子」を「こめぐらりょうこ」と読んでしまったりすれば日本人の誰かから誤りを指摘され、それを教われば今度は「米 米 ク ラ ブ」を「よねよねくらぶ」と読んでしまったりなんてこともある?    
   
   
 「空」という字に関して:   
   
 「青い空」、「空間」、「駐車場、空きあり」、「箱の中は空っぽ」、「努力がむくわれず、空しい思いをした」、「空ろな気分」など。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 「三代目 鳥メロ」という店を初めて目にしてからもう随分が経つ・・・。   
 最初は「これはチェーン店ではなさそうだな。ならば、いずれ寄ってみようか」と思いつつ、でも、「看板や店舗外装の雰囲気からするとチェーン店ぽい気配はあるな」とも感じた。その後、これはワタミが展開するチェーンなのだと知った。   
 それはともかくとして、「三代目」という部分に関心が向かうではないか。「鳥メロ」と名乗る店を、「初代」として、「二代目」として経営・切り盛りして来た人がいるに違いない筈で、では、彼らはどんな地で店を構えていたのか、そして、店・料理の評判はどんなであったのかと気になる・・・「三代目」と胸を張っている(?)以上は、相応のバックボーンがあるに相違ない。そして、その屋号・商標/サービスマークの権利・ライセンスをワタミはどのように取得し、調理ノウハウ等をどう吸収し活用しているのかに興味を覚えた。また、初代のときから現在に至るまで一貫して同じジャンル・系統の料理・メニューを供して来たのかも気になる(「三代目」と謳われれば客/消費者はそこに幾らか以上に“老舗”感に近いものを覚えるから、どうしたってメニューの継続性も気になるというものだ)・・・そして焼鳥などのタレの味付けは初代から受け継がれた一種の歴史あるものなのか、それとも、その後の代になって変革を遂げたものなのか等の興味もわく・・・しかしながら、この「三代目」に至る「鳥メロ」の歴史については、面倒くさくてまだ調べていない。いずれにせよ、どれほど美味なものを食べさせてくれるのか、いずれ寄ってみて試すこととしよう。   
   
 その「鳥メロ」の店ではないが、以前、或るチェーン居酒屋で飲んでいたら、そろそろ就職活動を意識し始める時期に差し掛かったと思われる大学生グループの会話が聞こえた。   
 彼らのうちの一人が「そうにち」と言った。どこかの会社名らしいのだが、ちょっとしてそれはどうやら商社の「双日(そうじつ)」を指しているものと窺えた。   
   
 うーん。   
   
 「新日鉄住金」を「しんにってつじゅうきん」と読んでしまう人もいるかに思われるが、それだと、何かその「昔からの名門の新日鉄が、アルミサッシなどの住宅用金物を扱うために設立したグループ企業/子会社」みたいな感じになってしまうではないか。   
   
 ふと思ったのだが、若い人だと「八幡製鉄」を「はちまんせいてつ」と読んでしまうケースもあったりする? ・・・いや、現在でも中学・高校くらいの教科書に登場しているならば、そんなことはあるまいな。   
   
 「日本○○」という社名は多数あるが、「にほん」と読むか「にっぽん」と読むかは、これは社名全体の字面で判別することなど出来ない。覚えるしかないのである・・・しかし、誰かが口にしている読みで覚えようとしても、その人が間違えている可能性も無くはない。「日本電産」、「日本ゼオン」、「日本オラクル」、「日本通運」、「日本ケミコン」・・・このくらいは学生であっても正しく読めることを期待したい。   
   
   
 しかし・・・昔、自分が学生だった頃、友人のひとりは「徳山曹達」を「とくやまそうたつ」と読んだなあ。俵屋宗達じゃないんだけど。正しくは「とくやまソーダ」と読むべきものである。なお、現在は社名が変わって「トクヤマ」となっている。   
 「ソーダとは何か?」の説明は省略。   
 「ソーダニッカ」という会社もある。自分の仕事とは関係ない分野なのでこの社名に接することはごくたまになのであるが、しかし、目にするたび筆者は、ニッカ・ウィスキーを使って作るウィスキー・ソーダ、ハイボールみたいなものを連想してしまうのであるなあ。   
   
 では筆者自身が会社名の読み間違いをしていた経験はあるか? 無いと思うのだ。   
 しかし、現在の「イビデン」が昔、「揖斐川電気」という社名であったとき、先頭の「揖斐川」をどう読めばよいのか分からず戸惑ったことはある(地理などの授業で教わった色々の河川の名前を忘れてしまっていたのかな)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る飲食店で口にしたランチの「ご飯(コメ)」は凄く不味かった。   
 「これほど不味いご飯を、これまでに食べたことあったっけかな?」と驚いた。変な臭いがするとか変な味を伴っているとかのことはなかったが、「味がしない・何を食べているのか分からない・歯ごたえ・水分含有量などにも何か問題があるやも知れぬ」っぽい感じであった。   
 ひょっとして自分は味覚障害にでもなってしまい、その症状がいま突然にして現れたのかと疑ったほどだ・・・でも、おかずのほうはきちんと味わえ、そちらは至ってマトモな味だった。   
 そして、夕食や翌日以降の食事でも、自分の味覚に異変など感じることはなかった。   
   
 こんなとき、普通の人はどうするのだろう。「もう一度、あの店でご飯つきのメニューを食べてみよう」とは思わないだろうなあ、わざわざ。でも、そういう再チェックを敢えて試みてしまうのが筆者なのだ(笑)。   
   
 問題解決! ・・・その店で再び口にした食事は、やはり「ご飯」だけ、妙に不味かった。自分の健康上の問題ではなかったものと思え、安心したとも言える。   
   
 いまの時代、べつに高級銘柄米などでなくても、ブレンド技術・添加物使用などのおかげで「おいしい」と感じさせることがしやすくなっているとは聞くが、はて、あの店で使っているコメはとんでもなくひどい品なのか、それとも「ブレンドし損じ」または「添加物の使用あんばい失敗」の品だったりするのだろうか。    
   
 あの「不味さ」はちょっとやそっとでは経験しがたい、目を見張るものがあったので、知人に「・・・の辺りに○○という店があるのを知っている? あそこでご飯がセットになっているものを注文して食べてみてよ。ご飯が凄く不味いから、ぜひ試してみて!」と教えたのだが、彼はちっとも試さないのだなあ。うーん。・・・でも、それが普通のことか?(笑)   
   
 しかし・・・ネット上にこの店の評判などあったりせぬかと調べてみたのだが、特に悪い評判が見当たらない(あまり時間をかけて念入りに調べることまではしていないが)。   
   
   
 あともう1件、そちらは蕎麦屋なのだが、「絶対に不味いよなあ」という店が昔あった。ネットでその評をチェックしてみようかと思い、まずは「あそこの店名は何というのだろうか」と、普通におおよその住所/町名も用いて検索し、またグーグル・マップも使って調べたのだが、この店はもう廃業でもしたのか、目当ての店は見つからなかった。いろいろな蕎麦屋を長年にわたって食べ歩いている人のサイトなども覗いてチェックしたのだが、該当しそうなものはナシ・・・いや、もしかすると、その蕎麦屋めぐりする人も「んー、この店だけは紹介するのをやめておこう」と判断したのかも?   
   
   
 ネット上、「不味い店ランキング」みたいな企画をやっているところは無いのかなと思い、調べてみたのだが・・・どうも、その種のものでそれなりに運営されているものは見当たらず。   
 そうだろう、仕方ないか。多数の飲食店を紹介するサイト/サービスでコメントを自由に書き込めるような場合でも、「この店が出す○○は激マズ」とか、「注文をとってから30分以上も待たせたのに詫びの言葉ひとつも無かった」みたいなことを書いてはいけないっぽい雰囲気も世の中にはあるしなあ。   
   
 世の中にはコンサート評、レコード/CD評があって、そこでは批判もまた可能であるように、飲食店に関連して「不味いものを不味いと評する自由」というものもあろうと思うのだけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は、過日、「そばがき」を自分でこしらえたときに用いた蕎麦粉・・・。   
   
 えっと・・・上の話題とは違って、ちゃんと美味なる品であった。   
   


雑記



   
 久しぶりにマーラーを、そして連続鑑賞で・・・。   
    
   

   
   ・・・・・・・・・   
   
   
 ほか、クラシックでないものも交じってはいるが・・・。(中段のものはスヴェトラーノフの「新世界」ほかライヴ。)   
   


小学生の制服/標準服に、そんな高価なものは必要あるまいーに

   
 うーむ、日本の子供のためのものならば、なにもイタリア・ブランドでなく「イッセ○ミヤケ」、「タケ○キクチ」などなど日本人デザイナーのものにせよ・・・という指摘はマト外れなのでヤメておくとして・・・。   
   
 公立小学校であるにもかかわらず、他校一般の場合と比べて親に求められる負担が大きめ・・・これでよろしいのか?(また、負担を強く感じるなら、文句があるなら、よその学校を選べばいいじゃないかとの排除にもつながりうる?)   
 卒業までに、この標準服・制服は通算すると「何揃い」が必要になることか。   
   
 問題となっている標準服・制服は登下校のときのみ着用で、それ以外の時間帯は別の服・体操着などに替えさせて過ごさせるのだろうか。そうでないと、小学生の着ているものなどすぐに傷むからなあ・・・子供たちは休み時間・昼食後・放課後などに(自発的に)鉄棒を練習したり、ほか、跳び箱練習したり、また、走り幅跳びを競ったり・・・そして、ドッジボール、サッカー、鬼ごっこ、ジャングルジム遊びをしたり、野球ごっこでスライディングぽいことも・・・ま、(上着は脱いでいても)少なくともズボンなどすぐ擦り切れるであろう。   
 ほか、授業中に絵の具や墨で服を汚すことだってあるし、昼食の最中に飲食物(牛乳ほか)をこぼして服を派手に汚してしまう子もいるであろう。   
   
 でも、心配しなくてもいいのかな?・・・「体育の時間以外は、たとえ休み時間でも体をつかった遊びはしないように。 “うんてい”くらいにしておきなさい・・・そのときは上着を脱いでしなさい」みたいな指導をするかも知れない?   
   
   
 筆者の場合、中学生時代だけは制服というものを経験させられた。そのことはどうでもよいが、休み時間に変な遊びが流行った時期がある・・・「鬼ごっこ」っぽいものではあったのだが、追いかけてタッチするかわりに、掃除に使う「ぞうきん」を投げつけるというもの・・・そして、この遊びは変化し、「ぞうきん」でなく「黒板消し」を誰かの背中・洋服めがけて命中させるという遊びになった。   
 何度も「黒板消し」に当たったりすれば、学生服の布地にはチョークの白い粉が埋まり、はたいたり拭いたりしても完全にはきれいにならず、着ているものにはいつまでも白っぽさが・・・。この遊びは、けっこう皆、真剣勝負で戦っていた・・なぜ、ああも熱くなったのかなあ。   
 こんな遊びが流行っていることを知った先生は、「君たち、いったい何歳になるんだ? そんな遊びをして、情けない!」と言った。でも、その言葉であの遊びが終わることはなかった。・・・やがては、何が理由ということもなく自然とこの遊びは終わってしまったけれども。   
 ・・・と、上のようなことを書くと、「公立中学校って、そういう下らない事して遊ぶ子供もいて、それがイヤなのよね。だから、うちの子たちには遅くとも中学校からは私立の名門に入れさせたいのよ」という親が増えてしまうかなあ。   
   
 ま、それでも、そしていずれにせよ、筆者はこう言いたい・・・若き日に、そして、子供たちに「高価な制服なんて」と。   
   
   
(追記)   
 でも、この小学校をめぐる今回の件は、騒ぐべき問題ではないのかも知れない:   
   
  http://news.livedoor.com/article/detail/14296333/   
   
   
 「新1年生の保護者は全員賛成」ということらしく、それならば結構、めでたしめでたしで、自分もこの話題は忘れよう。   
   
   
 ところで・・・。   
 下の写真の左側、黄色い表紙の本は、しばらく前に講談社プラスアルファ新書のシリーズから出たもの。面白く読める本だ。   
 新書の類を「一般的に肩が凝る読みもの」との先入観をもって避けてしまう人・構えて接してしまう人も少なくないように見受けるが、しかし、この本は(著者には叱られるかも知れないが)「着るもののチョイスに関わるエッセイ集」のつもりで向き合うと、誰もが楽しめると思うのだ。   
 ただ、日本人男性の多くは「洋服選び・着こなしでキメ過ぎること」について、照れ・はにかみを持ってしまうことも多かろう・・・筆者もまたそうだ・・・しかも、この感覚は、少なくとも日本国内においてはわりと大切で正解だったりする・・・自分だけバリッとピシッとだと、おかしくなってしまうのだ。装いの「ルール」を一応は承知していても、しかし、自分が実際にする「装い・着こなし」では微妙なところでわざと無頓着さ・不徹底さ・抜けも残しておきたい・・・日本人どうしの場合には、「いいものを着ていても、ともかく仕事の出来ない人間、中身の無い人間、気配りの出来ない人間、まごころの無い人間ならば意味ないじゃん。格好よりも中身が大事。おしゃれにエネルギーを使いすぎる人も何だかなあ」みたいな評価もあったりするし、つまり、外側(衣服だの腕時計だの靴だの)に神経を使うほど自分に対する評価が下がっていく可能性に警戒する必要がある・・・勿論、それぞれが属する社会によって感覚は様々だろうし、ハイエンドのレベル、社長さんレベルにもなると状況は異なって来ようけど。   
   
 あと、たとえば、ひとくちに「アメリカ人の、衣服に対する感覚」と言っても、アメリカ人には東海岸の人もいれば西海岸の人、シリコンバレーなどの人、テキサスの人などなどもいるし、また、エスタブリッシュメントの人、オープンマインドでカジュアル・ファッション志向のエンジニアの人、エグゼクティヴの人、高度専門職、アカデミズムの世界の人、ホワイトカラー職、ブルーカラー職など、当然ながら色々だ・・・接する相手それぞれに「受け入れられやすい服装、腹を割って話し合いやすくなる服装」というものがあると筆者は考える・・・そういうことを念頭に置き続けることは大切な筈と思う。但し、やはり同時に、ベーシックな、旧来的な服装選びの常識・感覚を再確認する意味で、この本は読んでタメになる・参考になると言えるだろう。   
 昔々、故・高橋義孝氏が、革靴であっても靴紐ナシで、足をすべらせて脱ぎ履きできてしまうタイプのものをエッセイの中で笑っていたことがあるが、この感覚を今なお我々は心にとめおくことが必要であろう。その方面のこともこの本では触れられているし、よいことである。(とは言え、日本では宴会ともなると和室で行なわれることが多いから、偉い人が先にその場を去って帰宅する際など、見送る側は靴を速やかに履けることも大事・・・すると、簡単に履けてしまう靴を選ぶとか、宴会の前に靴を脱いだときに靴紐を穴1つぶんか2つぶん外して縛っておいて後で速やかに履けるよう準備しておくのもひとつのテではある。)   
   
 一緒に写し入れたのは、手もとに残っている古い新聞記事から。   
   
 

雑記


   
 居酒屋のカウンターで飲んでいたときのこと・・・。   
   
 注文した品が並べられた直後、隣に座っていた若い女性が筆者に「あ、それ・・・わたしもさっき食べたんですけど、写真に撮るのを忘れちゃったんです・・・撮らせてもらってもいいですか?」と訊いてきた。   
   
 ま、べつに構わないので「どうぞ」と答えた。で、てっきり「あんきも(アンコウの肝)」を撮るのかと思ったら、「タコブツ(タコのぶつ切り)」のほうを撮っていた。   
 うーん、「あんきも」ならまだしも、タコのほうはわざわざ写真に収めるほどのものでもないと思うのだよなあ。   
   
 これと同様のケースは以前にも複数回あって、例えばカワハギの刺身など写真に撮られたな。   
   
 食事を写真記録にとどめようとする人は一向に減らないし、また、撮り損ねたものを、チャンスあれば上のようにしてまで撮りたがる人もまた居り・・・。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 やはりカウンターで飲んでいて、刺身に添えられた青ジソ(大葉)を口にした直後、隣にいた外国人2人連れの一方から話しかけられた。彼の目の前にある皿にも青ジソがあり、それを指さしながら「これは、食べられるのですか?」と、たどたどしい日本語で尋ねられた。筆者は、   
   
 「食べられますよ。大丈夫、エデボー。・・・青ジソというものです」   
   
と答えた。上の「エデボー」はほんのちょっと「エダボー」寄りの発音。これは英語の "edible" (エディブル)で、「食用可」くらいの意味・・・ "eatable" に置き換えられる場合も無くはないか。(学校で教わったとしても記憶に残りにくいかも知れぬが、菓子などの食品に同封されている乾燥剤などに "Not Edible" (食用不可=食べられません・食べてはいけません)と表記されているのを目にしたことがあり、自分の場合はそのとき以来、記憶に残っている。) 彼ら外国人がアメリカ人かどうかは知らぬが、さきほどまで英語を喋っていたから、少しでも伝わりやすいようにと考えて上のように英語を添えたのである。   
   
 この様子を見ていたカウンター内の店主が、「青ジソって、英語で何、いまのその、エデボって言うの?」と筆者に尋ねた。   
   
 うーん、筆者がさきほど喋ったときには、上で表記したような時間的間合いが作られていたわけで・・・この単語を「大丈夫」みたいな意味合いなのかと問われるならともかく・・・。それに、青ジソを英語では何と言うか知っている・頭に入っている人って、自分も含めて滅多に居ないのではないかなあ。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 シソ科のハーブ類としては・・・あの「スカボロー・フェア」の歌に並んで登場するセージ、ローズマリー、タイムの3つともがシソ科である。パセリは違う。   
   
 何かの偶然でゴルフの中継映像にてボギーだのバーディーだのの言葉とともに「パー3(スリー)」などという言葉が出て来ると(ゴルフをやらないのでどの言葉も意味は理解していない)、筆者、「スカボロー・フェア」のあの部分をふと口ずさむことがある・・・そのとき脳内漢字カナ英語変換が行なわれ、「パー3、清次郎 's Marian Time 」という文字列がテロップのように巡る・・・ "Marian Time" って何かと問われても困るけど。  
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 NHKのEテレの「モーガン・フリーマン」の番組を観ていたら、登場した或る外国人研究者が、人間とネコとの共生関係が今のような形になったことに関連し、「ネコを食べる人はいません」と言っていた。   
 しかし、アジアをはじめ、ネコを食用にするという食文化は過去に存在し、そして現在もなお存在する筈なのだけどなあ。   
   
 食文化は多様なのだ。世には昆虫食もある。また、日本人がウナギ、アナゴ、アワビ、シャコ、タコ、ホヤ、それに実に多くの種類の海草などを口にすることについて、世界のいろいろな食文化圏の人たちの目には奇異に映るかな。日本人が焼き海苔をつくったり、タタミイワシ(畳鰯)をこしらえたりするのを、或いはイカの塩辛・沖漬けなどをつくるのを、彼らはどんなふうに受け止めるだろうか。   
 シャコなどは、しかし、もしもあれが海中の生き物でなく地上の生き物で、例えば土の上を這い回り、そしてキャベツに群がったり、トマトやキュウリの実や茎にまとわりついたりする生き物であったなら・・・人間は(日本人は)それをつかまえて食用にしようと考えただろうか? ま、イナゴなどと同様に、佃煮にして食べようと思うことがあっても不思議とは言えないか。   
   

雑記



   
 前々回のブログ記事の末尾に書いたこととも関連するが、5日・6日の株価下落に際しては大幅な買い付けを実行。上のは、買い注文が約定した(取引がととのい、買うことが出来た)ことを知らせるメール。   
 えっと、このような私用は、ちゃんと昼休み終了の13時までには終えているわけで・・・けじめの無いことはしていない(笑)。   
   
   
 いやはや、イギリスのEU離脱、トランプ大統領の当選にからんで株価が下がったときと同様、筆者が目を向けていた銘柄に関する限りは「この値段で買えるのは本当にありがたい」的な状況であったし、一部は「投げ売りかよ?」と思わされる水準のものすら・・・。もちろん、今後に株価は戻っていくか、もしくは更なる下落がやって来るのか等、どのように推移していくかは重大関心事である。でも、基本的に「優良で強い会社」を選ぶことを守っているので、仮に塩漬けに至ってもあまり悔やまないのではと思う。   
   
   
 「個人投資家はゴミ」、「個人投資家のやることはコバンザメみたいなもの」と言われようが、でも、株式運用から手を引くのはむずかしい。   
   
   
 会社に頻繁にやって来る某証券会社の男性・・・訪問先・面談相手は主に財務担当者なのであるが、ときどきは筆者のところにも顔を出す。で、彼にとって本業ではないのかも知れないが、「社員/個人の方でどなたか、新しく口座(証券取引口座)をつくって下さる方、いませんかねえ?」などと言う・・・投資信託の販売につなげたく、しかし、もちろん株式(個別の銘柄)の売買でもよいから、新しい顧客をつくりたいわけである。   
 そんな或るとき、いろいろ会話したあとのしめくくりに筆者が「でも、どうせ個人投資家なんてゴミなわけだからさ」と言うと、彼は真面目な顔をして「そんなことありません」と言った。   
 以前の担当者はもっと世代が上であり、おのずと余裕・遊び心をもって会話ができる人であったから、筆者が同じことを言った折りには「あ、それ、うちの会社の者が言ったんじゃありませんから(笑)。わたしたちはそんなふうに考えたことはございませんので」と応じたのにな・・・時代は流れ、ひょっとすると今や「個人投資家はゴミ」という言葉を知らない証券マンもいるかに見える。   
   
   
 帰宅してみると或る会社の株主総会招集通知が届いていた。この会社は11月決算であり、この2月に株主総会なのだ。   
 それはよいとしても、「しまった!」と思った。この会社の株式は既に売ってしまっているのであるが、しかし、「もしも株価がよろしきあんばいに下げていたら再び買おうと思っていたのに、株価チェック漏れをしてしまった」と悔やんだ。   
 この会社について誰もが真っ先に連想するであろう或る調味料は、たとえどこのメーカーが作ろうと、家庭での手作りのものであろうと、筆者は好きではない。でも、ま、世の人たちはたいてい好きであるし、そしてまた、この会社の商売はその調味料だけでなく実に多様、そして業績もよろしい・・・株式を取得する側としては儲かればよいわけであり・・・それは、売却益、配当などで、或るいは、株価上昇で資産価値がアップする形であっても勿論よろしい。   
   


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クラシカルな某

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