2017-10

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雑記



   
 小学校のとき、或る日の授業で先生は児童らに向かってこう問うた:   
   
 「キュウキュウシャは、漢字でどう書くでしょうか?」   
   
  ア:急救車    イ:救急車   
   
   
 そして、「急いで救ってくれるわけではないんですよ。正解は・・・です、面白いですね(=変ですね)。覚えておきましょう」と言った。   
   
 はて、説明として適切なのか、中途半端ではないかとも思えるわけであるが・・・。   
   
 そして、子供の頃の筆者はこんな光景を思い描いて漢字の順番を記憶することにしたのであった: 「救急車が現場に到着すると先ずは“救う”ための基本的処置をし(止血とか)、それが済んだあとに患者を“急いで”病院へ連れて行くというシーン」・・・これは、救急車のスタッフが実際に行なっていることと、そう大きな違いは無いのではないかと今なお思っているけど。   
   
 のちになってみると、救急とは、「急、すなわち急を要する状況なり、急に生じてしまったマズイ状況なりから救う」ということなのだなと思ったわけであるが、これは「救急」を縦書きしたうえで漢文の返り点を付ければ分かりやすいものの、しかし、小学生に対してはちょっと説明が面倒である・・・それで、先生としては先ほどのように言って覚えこませようとしたのだろう。   
   
   
   
 「絶体絶命」という言葉は、なぜ「絶対」でなく「絶体」と書くのかという説明はおいておくとして、これまた昔々に「間違えないように」と覚えこまされた・・・誰もが同じだろう。で、新聞社・出版社の人たちならば絶体に、いやいや「絶対」に間違うことはないものと思われるのだが・・・。   
   
 冒頭の画像は某経済誌に関わるもの。ネット上に上段のような記載があるのだが、新聞広告でもまた同様のものが見受けられた・・・この新聞広告を目にして「あれれ?」と思った。   
 しかし、同時に下段のような記載もちゃんと見受けられるから、記者・校正担当者らの「(文字遣いの)記憶違い」というよりは「ミス」なのであろう・・・漢字変換するときに「ゼッタイゼツメイ」という単位で変換せずに「ゼッタイ」で区切って変換してしまった等が原因か。   
   
   
   
 ところで、神戸というと・・・古い歌謡曲で「そして神戸」というのを思い出す。歌詞中に「・・・うまい(上手い)嘘のつける・・・」という個所があったなあ。   
   
 これもまた神戸に縁のある問題・・・JA全農兵庫が直営レストランにて「但馬牛フィレ肉」を「神戸牛フィレ肉」であると偽って客に提供していたとのことである。これはミスでなく偽りであったということで:   
   
  https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22621970U7A021C1AC1000/?dg=1   
   
   
   
 いろいろな偽装その他の諸問題について、マスコミにも責任は無いのか?   
 「偽装」とか「虚偽」、「横領」、「会計不正」とか「粉飾決算」・・・これら漢語や堅苦しい語、専門用語、法律用語などだけを使って報じていると、世間一般には「悪いことをしたら、罪を問われるばかりでなく恥ずかしい目にあう」という意識が育ちにくいのではないか。   
   
 で、ここは思い切って、たとえば偽装などを報じる記事見出しにあっては「インチキ表示」などの言葉を使うのもインパクトがあってよろしいのではなかろうか。   
   
 もしも、或る日、日経新聞その他をめくるとこんな記事見出しがあったりしたらどうだろうか:   
   
 「○○食品、“国産原材料100パーセント”は嘘っぱち表記。10年前からデタラメを続ける」   
   
 「○○製作所、従業員に のべ3000時間のタダ働きを強要」   
   
 「○○商事で財務部長がネコババ  被害額は3億円あまり」   
   
 「○○省幹部が袖の下  ガッポリ1億円をポッケに」   
   
 「“秘書が勝手に”と オトボケの○○議員、一転して謝罪会見」   
   
 「ボッタクリ3社について消費者庁が注意喚起」   
   
 「○○産業、前期決算で どんぶり勘定の疑い」   
   
 「○○機械、株式公開に際して受注残をでっち上げした疑い」   
   
 「○○建設ほか、10件以上の公共工事入札でツルんだか」   
   
   
 ・・・なんか、スポーツ新聞っぽいかな(笑)。しかし、諸方面に「やたらなことをしでかすと、こんな具合に報じられちゃうのかあ。いま一度、襟を正し、そしてガバナンスほか、しっかりせねば」と思わせる効果は小さくなかろうに。でも、こんな感じの記事見出しでは「うちの新聞の品格が疑われる」、「ひとたびこのような記事見出しを使って報じたりすれば、今後は当該企業などから広告掲載をしてもらえない」などの懸念も出て来ようし・・・実現はむずかしいかな。   
   

雑記



   
 「ねっ、皆さん、もうこんな政治にはノーを突きつけましょうよっ!」   
   
 ・・・選挙の街頭演説で、まだ30代とおぼしき候補者が訴える。   
   
 上のようなセリフは、そうだなあ、候補者(演説する人物)が40代後半くらいから上であれば特に違和感・抵抗感は無いのであるが、それよりも若い場合には、少なくとも筆者はそこに不快なもの・生意気なものを感じる。   
   
 街を歩く人々、或いは演説に聞き入る人々の中にはこの候補者よりも上の世代も多い。そういう上の世代も含めた人々に訴えかけるに際し、「ねっ」は少し馴れ馴れしくて乱暴で、失礼ではあるまいか。そして最後の「よっ」も印象を悪くするのではないか。   
   
   
 某党の代表が、大阪弁のイントネーションをわりとにじませて話す。これもまた、東日本の人間には少なからず抵抗感を覚えさせるのではあるまいか。   
 東京などの人間の言葉遣い・話し方について大阪の人が「冷淡で、覚めすぎた感じがする。スカしている・インテリぶっている感じがして気に入らない。かしこまりすぎている。よそしよそしい」などと感じるであろうその一方で、大阪・関西などの言葉は東京の人間にとっては「くだけ過ぎて、馴れ馴れしい感じがしてイヤだ」とか、もっと極端な場合には「下心を持って擦り寄って来る感じがして警戒感を抱きたくなる」みたいに感じられる場合もあるように思う。   
 言葉は、話す本人が想像していないような印象を誰彼に与えてしまうことがある・・・本人がせっかく素晴らしい人物であってもだ・・・本人・他者の双方にとって困った問題だ。政治家の演説の場合、「大事なのは政策や主張であって、ルックスも、ヴォキャブラリーやアクセントやイントネーションも関係ない」とする意見にもそれなりの正しさはあるが、しかし、その正論(めいたもの)はなかなか通用しきるものではない。   
   
   
   
   
 昔々の学生時代・・・。大阪出身で東京の大学に入って来たA君は筆者に言った:   
   
 「東京の人って、親子で話すときも標準語なんだね。驚いた」   
   
 ・・・なこと言われたって、標準語しか知らないのだから仕方ないではないか。友人どうしなどで、ときに冗談・遊びっぽく多少のエセ関西弁など使ってみることもありはするが、親子の会話などでそれをする人はいるまい。   
   
   
 やはり関西出身のB君も、こう言ったことがある:   
   
 「東京の人って、ゼミで議論が白熱しても、ずーっと標準語のままだね(=標準語のままで議論を続けるね)」   
   
 ・・・だからぁ、標準語しか知らないんだってば。仮に、まじめな議論が闘わされている最中にわざわざ大阪弁で何か喋ったりすれば「貴様、何をふざけているんだ!」と、ひんしゅくを買うことであろう。しかしながら、たとえば東北出身の人が、或いは四国や九州の出身の人が標準語での対話に難儀やまどろっこしさを感じてついついそれぞれのお国言葉を発したとする・・・すると東京の人間は「ん、今の言葉は・・・ああ、たぶんこういう意味なのだろうな」としばし思いをめぐらすことがあっても、嫌な気持ちを抱きにくい(たとえ、言葉・表現・音の面白さに笑いを浮かべても)・・・そこに朴訥なもの、のんびりしたもの、剛毅なもの等々を感じたりしつつ、でも、不快な性質の感情は出て来ないのだ。この、言葉における「東京VS大阪/関西」の対立の構図が、どのようにして生成されてしまったのかは興味深いテーマである。   
   
 異なる言語圏の言葉、アクセント、イントネーション等は、いろいろと難しい問題を生じうる。   
   
   
 会社に入って何年も経っていない若かった頃・・・何の会話をしていたときであったかな、大阪出身の同期C君に対して「こんな場面では、大阪の人は・・・ってセリフを発するんでしょ?」と尋ねたことがある。   
 C君は「そんな言い方はしない。言うとすれば・・・とかだね」と応じた。   
 しかし、D君が使ったことあるセリフが記憶に残っていたから筆者は「D君がそういう表現を使っていたことあるんだよなあ」と言った。   
 するとC君は「あ、あいつは和歌山県の出身で大学が大阪・・・あいつは大阪弁をマスターしきれていない」と言った。むずかしいもんだなあ、と思った。   
 関西その他の言葉遣いの違いは、自分には判別がむずかしかったりする。   
   
   
 「がぎぐげご(ガギグゲゴ)」の音を、普通のというか硬い濁音で発する場合と、鼻濁音で発する場合と、筆者などは使い分けるけれども、大阪出身の人だと使い分けずに前者の発声パターンのみで押し通すことが見受けられるようだ。   
   
 「ところが、蛾が飛んできて・・・」などと言う場合、「蛾」だけは硬い濁音、それ以外の2つの「が」は鼻濁音とするのが筆者の発声である。しかし、この鼻濁音を大阪の人が聞くと「うっ、スカした感じがして、嫌らしくて、虫唾が走る」とすら感じるケースもあるようだ。しかし、上の言葉の3つの「が」をすべて硬い濁音にて話されると、筆者などは「ちょっと耳が痛くなる感じがする」という場合も・・・で、美しい女性がそういう発声するのを耳にすると、少なからず残念に感じたりもしてしまうのだ・・・本人に悪気は無いのに。   
   
   
 グーグル (Google) 、ガガーリン、ミヒャエル・ギーレン、ゲルギエフ、グレン・グールドなどにあるガギグゲゴは、筆者の場合、すべて硬い濁音で発音する。   
   
 ワルター(ヴァルター)・ギーゼキング、ジョン・オグドン、キング牧師などについては、ギーゼキングのギは硬い濁音であるが、ほか、いずれのグの音も鼻濁音。   
   
 「フーガの技法」、「前奏曲とフーガ」のガは硬い濁音。   
   
 「風雅を感じさせる画法」・・・風雅の「雅」は鼻濁音、「画法」の「画」は硬い濁音。   
   
 「テンペラ画」の「画」は硬い濁音、「抽象画」の「画」は鼻濁音。   
   
 「画廊」の「画」は硬い濁音、「城代家老(じょうだいがろう)」の「が」の音は鼻濁音・・・「城代家老なんて言葉、あんた、日常で使っているの?」という質問はナシということで願いたい。   
   
 「弦楽器」・・・弦のゲは硬い濁音、楽器のガは鼻濁音。   
   
 「ガット弦」・・・ガもゲも硬い濁音。   
   
 「ギンギラギンにさりげなく」・・・「げ」のみが鼻濁音。   
   
 ・・・かな、自分の場合は。しかし、それが正解なのかどうか。   
   
   
 「このハゲ! 違うだろ!」と言うとする。「ハゲ」という語のゲは、普通であれば鼻濁音であるが、しかし、仮に、罵るために大声でこのようなセリフを口にするとなれば硬い濁音になってしまうだろう。「違うだろ」の「が」の音も同様。同じ言葉であっても、鼻濁音だったりそうでなかったりということがありうる。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 NHKの「ねほりん ぱほりん」のあの音楽を、ようやくちゃんと歌える(口ずさめる)ようになった。別の、民放での或る天気予報で昔から聞き馴染んでいた音楽が頭に焼きついているため、歌おうにも混乱しやすくて仕方なかったのだ。   
    
 それとは別の意味で、NHKの、オンデマンド・サービスを紹介するときに流れる音楽も歌いにくい・覚えにくいと感じていたのだが、これもようやく歌えるようになった。   
   
 これもまた別の意味で、「ネスカフェ・アンバサダー」という、メロディ付きのごく短いフレーズも、きちんとCMのとおりに口ずさめるようになるのに少々の時間を要したっけ。   
   
   
 ・・・ま、何の得にもならぬけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 冒頭の写真はカブ(蕪)。包丁が小さいわけではなく、カブが大きいのだ。ひとつは煮て、もうひとつは浅漬けに。   
   
 下のは早摘みの洋梨・・・ではなくて、ハヤトウリと呼ばれる瓜。浅漬けに。   
   
 漬物好きオヤジの、ちょっとした息抜き遊び。   
   



或る謝罪会見(要旨)


   
 昨日、オーディオ製品専業の新興ベンチャー企業○○社は謝罪記者会見を開き、○○○○社長が挨拶した。要旨は以下のとおり。  
   
   
 当社製造のポータブル・スピーカー・システムの一部製品シリーズにつきまして、性能・スペック表示に虚偽・偽装がありますことが判明しました。ここに深くお詫び申し上げます。   
 カタログその他にて周波数特性を60ヘルツから20,000ヘルツと表記しておりましたが、実際には60ヘルツから19,000ヘルツであり、性能を実際よりも優れているかのように表示しておりました。   
 このたびの衆議院議員選挙の選挙活動中の候補者のひとりから、「演説にあたって、マイクを通して拡声させている自分の声がおかしく聞こえる。自分の声はもっと美声のはずである。このスピーカー・システムのせいで選挙に落ちたら一体どうしてくれるのか」とのご意見をたまわり、当社にて精査しましたところ、先ほど申しあげましたような虚偽表示があることを発見いたした次第であります。   
   
 次に、当社製造の車載用アナログ・レコード・プレーヤーにつきましてもまた、性能・スペックに虚偽・偽装がありました。   
 カタログその他にて、当社の自動車走行テスト・コースにおける走行中の最大ワウ・フラッターを0.3パーセントと表記しておりましたが、実際には0.4パーセント程度でありました。   
   
 以上に関しまして、消費者・ユーザー・取扱店ほか関係者の皆様に多大なご迷惑をお掛けしましたことを、心よりお詫び申し上げます。  
   
 製品の安全性には何ら問題ないものと考えますが、このたびの事態につきまして深く反省いたしております。   
   
 かくなるうえは、わたくし、責任をとって社長の職を辞するとともに、切腹をもってお詫びするしかないとの結論に達しました。これまでのご愛顧につきまして、心より御礼申し上げます。   
   
   
 ・・・以上、架空の記者会見であった。   
   

公職一代男・・・好色選挙法・・・

   
 (↑)今回タイトルに特別の意味は無い。   
   
   
    
 「それでは、あらためて○○日に伺わさせていただきます・・・あれっ、伺わせていただきます・・・あれっ」   
   
 ・・・これは昨年であったか、某社の、配属後まもない新入社員が発した言葉。   
   
 これに対して筆者は「うーん・・・ “伺います” でいいんじゃないのかな」と声を掛けたが。   
 「・・・させていただきます」という言い回しは鬱陶しい・バカ丁寧とする見方も多いようだから上のように意見してみたのである。しかし、この意見が的確なのか、自分でも実はあまり自信が無い。   
   
 言葉遣い、敬語の扱い(尊敬・謙譲・丁寧など)は社会人の基本とはされているが、慣れるのに大変かも知れないし、多少は時間が掛かるのも致し方あるまい。態度や言葉遣いに乱暴さ・いい加減さなどを感じさせない限り、そして、まじめさ・誠意を感じさせてくれるようであれば、明らかに変な敬語でも気分を害さずに見守ってあげたく思う。   
   
 「後日に、自分でなく、代わりに同僚などを寄越すつもりだ」という場合であれば「(わたくしは参れませんので/わたくしの代わりとして)山田を伺わせます/伺わさせます」という言い回しになるだろうか・・・。   
   
   
   
 或るドラッグストアでペットボトル飲料を買い物したときのこと・・・レジで釣銭を渡して寄越すときに、   
   
 「レシートと、お釣り22円でございませ」   
   
と言われたのである。レジ係は20代前半と思われる女性。   
   
 語尾は「ございます」でなく「ございませ」と聞こえた。自分の聞き違いだったと思うことにした。   
   
 ところが、である・・・それからしばらくして、コンビニで釣銭をもらうときに、やっぱりこの「ございませ」という言い回しに出くわしたのであった。   
   
 なぜ、こういう言い回しが生まれるのか? 「いらっしゃいませ」という定型的な言葉があるから(ほかにもまた「ご覧下さいませ」等の言葉もあるし)、客に向けての言葉の末尾は「ませ」としておくべきものという感覚が生まれてしまったのだろうか・・・分からない。   
   
   
 何かと批判が向けられる、飲食店における接客係の言葉・・・受けたオーダーを復唱するにあたり:   
   
 「はい、和風ハンバーグとライスのセットをおひとつ、照り焼きチキンとライスのセットをおひとつですね・・・ご注文のほう、こちらでよろしかったでしょうか?」   
   
 このうち「ご注文のほう」は、筆者はそれほど気にならない・・・「ご注文につきましては」という意味と解するし、気になるとすれば、「シンプルに“ご注文は”で十分ではないのか、そして“ほう”という個所に少しだけ投げやり感が漂わなくもないな」という感じかなあ。しかし、「よろしかったでしょうか?」という具合に、「よろしかった」という過去形にするところには抵抗がある・・・「お客様のオーダーについてわたしが理解したこと、合ってました?」という感じで過去形になるのだろうか・・・それじゃあ、このように訊かれた客の側は「ピンポーン!」とでも応じるのが適当なのか。    
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 企業が来春卒業予定者に内定を出しているが、採用計画と「内定出し数」との関係が興味深いことになっている:   
   
   
  https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22258040T11C17A0X11000/?dg=1   
   
   
 企業は、内定を出すにあたっては「よその会社に逃げられないように」と、あれこれの策を講じる。内定者研修旅行(宿泊を伴ったり)に連れて行って、つまりは拘束してしまうなどもそのひとつ。こんなものでも、会社の費用負担は結構なものになるのだ。   
 そして、過剰に採用すれば、採用後の人件費もかさむ。教育コストも勿論ではあるが、借り上げ社宅その他の費用も増えるし、あと、最近は若者の「クルマ離れ現象」もあって学生時代に運転免許を取得していない者も多くいるから、彼らに教習所通いさせて免許を取らせる費用の負担もまた増している(運転免許ナシでは国内各地での営業活動にも海外駐在にも差し支える)。「入社して2、3年のうちに退職・転職などしてくれるなよ」とは、人事・採用部門の人間でなくても思う。   
 多めに採用しても、実際に過剰感が生じるようであれば次年度の採用数を少し抑制すれば済むのだけど・・・。   
   
 アベノミクスの功罪がいろいろ言われるが、しかし、学生にしてみれば「入りたい企業に入りやすくなっている状況」は悪いことであろう筈がない。   
   

雑記



   
   
 或る居酒屋にて・・・。   
 ときに顔を合わせて話を交わすことあるAさんが言った:   
   
 「あ・・・今日はサンマの塩焼きも注文しようかなあ。でも1尾まるまる食べきるのは苦しいかなあ」   
   
 Aさんは少し前に手術をし、まだ「元気いっぱい・完全回復」の状態でない・・・サンマの脂に対して胃・内臓がどう反応するか等を警戒して上のように言ったものと思う。   
   
 こちらは先刻からサンマを注文しようと思っていた。で、ふたりで申し合わせて、筆者は1尾および半分を、Aさんは半分を食べるということで店主に説明してオーダーすることとした(店としてはキリよく計2尾を売る/焼くのが都合よろしいし、ま、個人経営の小規模居酒屋ではこういう融通がきく・・・それが好ましい)。    
   
 Aさんいわく:   
   
 「あなた、魚をずいぶん食べますね。この前も大きなイワシ、一度に2尾を食べて・・・」   
   
 確かに。   
 あのときは、品書きに「イワシ刺身」とあったのでそれを注文したのだが、店主が「いま2尾が残っているので・・・2尾注文してくれると全部きれいに売り切りになるから(=完売できるから)食べちゃってくれたら感謝です」と言った。しかし、イワシというものは、塩焼きの場合に比べて刺身だと、2尾ではちょっとその脂っぽさに飽きてしまう感じになる。カウンター越しに見せてもらったイワシはしっかりと大きく、だから、2尾とも塩焼きにしてもらって食べた。(筆者の場合、塩焼きならば昔から、大サイズなら2尾、中サイズなら3尾を食べるのはごく当たり前のことなのである。)   
   
   
   
 職場の昼休みに、「お互い、認知機能がしっかりしているか試そう」ということになって、たとえば動物や花の名前を1分間に幾つ言えるか等の挑戦クイズみたいなことをすることがあったが、筆者に向けられた質問は「昨日の食事内容は? おとといの食事内容は?」というものであった。   
 そうして、夕食に魚ばかり食べていることから・・・「肉は食べないのか?」、「肉に比べて魚だと家計の食費支出が高くなりがちではないか」等の話へと・・・。   
 もしも高級魚ばかり食べていれば肉よりも高くつくかも知れないが、しかし、肉だって高いものもあろうしなあ。   
 肉食もするけど、世間の人が「時々の贅沢」として食べているレベルの高価な肉を筆者が口にする機会は稀であるから、結局トータルで見れば世間一般並のエンゲル係数になっているのではあるまいか(ただ、酒関連の支出は間違いなくかなり大きいかな・笑・・・ん、いや、高級ワインをジャンジャン飲んでいる人たちほどではない筈だ)。   
   
 「タンパク質を効率的にたくさん摂取するためには肉類が好都合である、それが長寿につながる」とも言われているが、自分としては、どうしても肉と同時摂取してしまいがちな脂を警戒する。油脂の摂取はほどほどにしたいと思うのだ(オリーブオイルは体によいのだと聞かされてもそんなこと関係ない・信じないからわざわざ味噌汁にオリーブオイルを垂らして飲むなどということはしないし、背脂ギットギトのラーメンは生涯それを食べようとは思わないであろう)。   
 魚を中心にした食生活であっても、その魚をたくさん食べればそれなり以上にタンパク質を摂れるだろうし、そして何より「自分が食べたいものを食べる生活」を送りたい。なお、魚の脂は、食べていて「しつこい」と感じない範囲で気にせず摂っている・・・べつにDHAの積極摂取などを心がけようとまでは考えていない。   
   
 それから・・・長寿というものを、実は自分はさほど望んでいないかも知れない・・・この問題は、自分の心とじっくりと向き合わないと本心がどうであるのか判じがたいのであるが。   
 しかし、ただ単に「長寿」でありさえすれば喜ばしいなどとは、自分には思えない。自分自身にとっては、良いほうから順に「健康長寿」、「健康短命」、「不健康短命」、「不健康長寿」という具合に並べたいかな。いや、仮に世の中に飽きてしまうとか失望するとかいうことがあったりすれば、「長寿」よりも「ほどほどのところでこの世からサヨナラしたい」とすら思うかも知れない・・・どうだろう。   
   
   
 話を少し戻して・・・。   
 肉食が長寿につながるとの説が正しいにしても、体が糖尿病、動脈硬化その他の問題を抱えていない等の条件が満たされていることも大切であろうと思う。「肉はガッツリ食べていますよ。暴飲暴食が得意技なんです。酒・タバコもハンパないっす」という人が長寿を実現できるものか疑問に思う。   
   
 タンパク質を摂取できる食材について、それらを高級な順番に並べると「肉、魚、乳製品、卵、豆類(豆腐なども含む)」みたく感じている人が少なくなさそうに思える。つまり、ステーキ・すき焼き・豚肉しょうが焼き・ローストチキンなどの肉料理が最上等であり、いろいろの魚の刺身とか、アジやサンマの塩焼き等はそれよりも少し劣る。チーズたっぷり贅沢なピザは次順位であって・・・そして豆腐や納豆、枝豆などに至っては最低ランクみたいな感覚を無意識に抱いている人が少なくないのでは?   
 ただ、これは、グラム当たり市場価格や、食事の主役となりやすいかどうか等によって形成された「価値に関わる固定観念」に過ぎない・・・のではないか。世の中の有り様によっては、「何と言っても最高級の食べ物は豆腐だね。豚や牛なんて、そんな獣の肉を食べてちゃいけないよ。牛さんから牛乳を横取りして飲むなんていう意地悪をしちゃいけないよ」みたいな発想・感覚も生まれないとは限らない・・・だろう。   
   
   
 「現代では仏教の僧侶もまた肉や魚を食べているケースが多かろう」と言われることがあるが、実際の状況を筆者は知らない。でも、僧侶がそのような食生活をしていてもべつに構わないのではないかと感じる・・・僧侶の役割は、仏教思想や慈悲の心などの普及や、感服させられるような法話ができること等ではないかな・・・一般人の側の受け止めとしては。   
 (ただ、もしもお坊さんがこんなことを口走ったら、たまげてしまうだろうなあ: 「ステーキはレアで食べたいね、あの赤い色も食欲をそそって最高!」とか、「エビの踊り食いが好物でねえ」、「今度の冬の五輪は見に行こうかな、犬や猫も一度は食べてみたいんだよな」、「ジビエにハマッちゃって・・・猟師さんに頼んで鹿肉を時々届けてもらうんだよ、ステーキにすると美味いんだ、これが」等々・・・。)   
 では、昔々の僧侶の食生活はどうだったのか? イノシシその他の獣、魚(海や人里から離れている地域ならば干物、また、フナ、ウグイ、アユ、イワナ、ワカサギとか?)、ウナギ、ドジョウ、貝類、雀や鳩その他の鳥類、卵などを一切食べずに過ごしたのか、それとも、時折は食すこともあったのか・・・。   
   
 「こんにちは、和尚さん。きょうは食べ物をお持ちしましたので召し上がって下さい。うちの裏山で自然薯(じねんじょ)を採って来たんですよ。あと、鯉の切り身も少々。精をつけて下さいまし」・・・なんてこともあったりはしなかったのか。   
   
 或いは、豆類などを中心とした、それこそ質素な食生活に徹していたのだろうか・・・とすれば、「肉食で長寿が実現する」と主張する人たちから見れば「まったく推奨できない食生活」であろう。   
   
 肉食した僧と、そういうことはしなかった僧・・・それぞれの食生活と寿命との関係は興味深いテーマのように思える。   
   
 空海の生涯は61年・・・この時代の人としては長寿ではないのか。   
   
 親鸞の生涯は90年。   
   
 蓮如が84年。   
   
 栄西が74年。   
   
 夢窓疎石が76年。   
   
 沢庵和尚が72年。   
   
 いろいろ大胆であったことが知られる一休宗純の生涯は87年。   
   
 ほか、昔の、僧侶ばかりでなく人々が、玄米・雑穀・発酵食品など、体に良いものを現代の我々よりも多く摂取していたとするならば、それもまた忘れてならないことかも知れない。   
   
   
   

 冒頭の写真は過去のものの使いまわし・・・高野豆腐、タケノコ、いんげんを煮付けたもの。豆腐の栄養を摂れるわけだが、「卵とじ」にすればさらに栄養価が高くなる。   
   

雑記



   
 「パスワードをどう設定すべきか、多数のパスワードを覚えておくことは可能か、紙などにメモ書きしておくとするならば安全なやり方としてどのようなものがあるか」については時々考えることがあり、以前にもブログ記事として書いたことがある。   
   
 今回、「パスワードは出来るだけ長くする。複数のWEBサイト/サービスで同じものを使いまわさない。記憶するのでなく紙にメモする。そのメモは、2つの紙片をつなぎあわせて読むようにするなどの面倒は避ける。紛失に備えて2枚用意し、手帳に、自宅の本棚の本の間などに保管する」という場合を考えてみた。   
   
 まず、小学校、中学校などの同級生のうち、印象によく残っていてフルネームも思い出せる者を何人もピックアップする。自分とは違う苗字の者を選ぶのが、多少はよろしいか。それが例えば「内田 与三郎」、「薮中 伝次郎」であるとする。   
   
 どこかのサイトで使うパスワードとしては、 "uchidaABCD1234567" を設定するものと仮定する。   
   
 また別のサイトで使うパスワードとしては、 "XYZyabunaka7654321" を設定するものと仮定する。   
   
   
 これらのパスワードを紙にメモ書きするにあたってはそれぞれ次のように表記する:   
   
   与三郎52jnD3pABCD1234567nv    
   
   36qIwXYZ伝次郎765432189kk5r    
   
   
 どうだろうか。   
   
 以上。   
   
   
   
   
 ・・・と、これで締めくくってはイケナイな(笑)。   
 上のパスワード・メモでは、文字列中に初めて登場・出現する2つの数字(2つセットの数字)は次の意味を持つ・・・。   
 ひとつめの数字は、2つセットの数字のあとに続く文字何個ぶんが「無意味で余計なもの」であるかを示す。   
 ふたつめの数字は、文字列の最後の文字何個ぶんが「無意味で余計なもの」であるかを示す。   
 言うまでもないが、これら2つセットの数字自体もパスワードを構成するものではない。   
   
 ただ、しかし、ひとつのパスワードが他人によって見破られた場合、「ははーん、最初に登場する2つの数字はこういう意味なのだな・・・すると、この世の中にある苗字をローマ字表記して埋め込んで幾通りものパスワードを試せば他のサイトにもログイン出来るだろうな」という想像はついてしまう。しかし、現実にそれで何度もの不正ログインを試みる人はどれだけいるだろうか。   
 いや、しかし、職場の引き出しの中など、あちらにもこちらにもメモ保管するのは慎むべきであろうなあ。   
   
 自宅に同級生名簿などを保管している場合、或いは、その同級生から何かの挨拶状なり年賀状なりが送られて来たりする場合、家族が上のパスワードを解読してしまう可能性は高まるかな。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 世の中、ものを作るための素材には金属やプラスチック、カーボン、セラミックなどなどあるが、木であることが魅力的なものというのもあるし、ウィスキー樽をはじめ、「木でなくてはならない」というものもある。   
   
 このたびは鉄鋼メーカーが作るアルミ製材について大問題が報じられるに至った。   
 東洋ゴム工業の免振ゴム問題、三菱自動車、日産自動車・・・そして神戸製鋼所。日本のエンジニア(或いはもしかするとそれに近い事務系・販売系スタッフも関与しているのか知らないが)は、どうしてこのように不真面目に、「嘘も方便」的なことをやらかすようになってしまったのか。   
 「嘘も方便みたいな方向へなびくのは、どちらかと言えば理系人間よりも文系人間に多い」と思って来た自分としては、ちょっと意外に思ってしまう。   
 「文系人間というのはインチキな人間がわりと交じっている。理系の人間は学生時代に“実験を何度くり返しても教科書どおりの結果が出ないんだよなあ”などと言いながらコツコツと徹夜までして実験してレポート作成に追われ、そうして真面目さも培われていくが、他方、文系人間は科目選択して時間割を作るにあたって週休2日制・3日制を実現するような点をわりと重視しながら学生生活を送ったりするので、いつの間にか楽なほう、楽なほうを指向するようになってしまう(勿論、すべてがそんな人たちだと言うつもりはないが、自分や周囲の友人にはそういう週休重視姿勢があった)」という見方も筆者はしている。   
   
   
 ところで、企業に就職する文系人間が関与する仕事領域では、粉飾決算、会社の金の使い込み、着服・横領、談合などにつながりかねない部分が多数ある。チェック体制、監査体制をあれこれ緻密に作り上げても、またコンプライアンス教育などをしても、不正などを防ぎ切ることは非常に難しいものと筆者は考えている・・・「発覚までに時間がかかる不正」というのもあって、これは結果的には「不正の感知」が出来たということにはなるが、でも、時間がかかるのは望ましくなく、いや、先ず、不正が起きないようにしなくてはならない。   
 そこで大事なのが「頭の出来のよい人も大切ではあるが、心の有り様の正しき人を選ぶ目が必要」ということではないかと思っている。が、就職したあとに各人の生活環境はいろいろに変わりうる・・・借金、生活苦、ギャンブルへの目覚め、男に貢ぎたくなる等々が契機となって何らかの不正に手を染めることになるかも知れない・・・依然として、不正を起こさせない仕組みを完成度の高いものに仕上げる努力は欠かせない。悩ましく難しいことではあるけど。   
   
   
 ああ、それにしてもこの度のアルミ製材の件は、日本のモノ作り、日本製品への信頼を、小さからず揺るがしてしまうものと言えるであろう。悲しいことだ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 日経新聞(紙媒体)の購読料が上がることになったが、ま、仕方ないのかな。   
   
 新聞について、紙媒体のものの価格設定、電子版サービスの料金設定をそれぞれどうすべきか、また、両者の金額比をどうすべきかは、新聞社経営にとって最重要テーマであると同時に読者それぞれに様々な意見があることだろう。   
   
 「もう紙媒体のものは要らないんじゃ? 電子版のみにして紙・印刷・流通のコストというものを無くし、そして、電子版を廉価な料金でサービス提供してもらったほうがありがたい」という意見の人(特に若い人)もいたりしようが、それでは多くの読者が困るだろう・・・ネット利用が苦手な高齢者などもいるし、そしてまた、紙媒体ならではの利便性が無くなっては困る。   
 紙媒体であれば多数の記事見出しを一瞥して把握しやすいこと言うまでもないが、ほか、切り抜きして保管するにも紙媒体は都合がよい。   
 「電子版の新聞でも、その新聞社サイトが提供するクリッピング・サービスを活用すれば後で読み直せる」との意見もあろうけど、しかし、過去記事を見るのにいちいちWEBサイトにアクセスしなくてはならないのが手間な時もありうる。ほか、自分が利用している接続環境にトラブルが生じた場合や、PCやスマホが故障した場合、WEBサイト上で何かトラブルが起きて(サーバー・ダウン、サイバー・テロ攻撃の標的になった等のケースを含む)サービスが一時的にでも利用不可になる場合も困る。     
 また、A新聞、雑誌B、雑誌C、専門誌Dなどなどの記事を、テーマが同じであるならば一緒にファイリングしたり「封筒詰め」したりする人は多い筈だ。すると、切り抜くことの出来る紙媒体が都合よろしい。「そのようなニーズがあるにしても、どれもこれもが電子版であるならばそれをプリンター印刷すればよいではないか」との意見もあろうが、印刷作業って案外と億劫ではないか。   
 「いやいや、むしろ紙媒体の記事の切り抜きこそ億劫」との主張もありえようか・・・しかし、そう言う人は、切り抜き作業にわざわざハサミやカッターを使っているのではないか。秘書が社長や偉い人のために切り抜き作業する場合であればまだしも、自分のために切り抜き作業するのであれば定規を当てて紙を引き裂けば「切り抜き」が出来てしまう・・・そのあと記事の年月日を書き入れればよい。   
 筆者、仕事とは無関係に、企業の謝罪広告を切り抜いて集めるいうことも昔からしている・・・もともとは「対外的謝罪」の文章例をストックするつもりであったのだが、いつの間にか惰性のようになり、続いてしまっている。すべてを切り抜くわけではないが、たとえば「天然トラフグ料理と謳っていましたが、実は養殖トラフグまたはゴマフグでした。ごめんなさい」みたいなものとか。こういう切り抜きについては、定規すらも当てずに手だけで切り抜いている。他の記事についてだって、そういう切り抜き方法で実は十分なことが多かろう。   
   
 なお、日経新聞にはリクエストしたいことがある。   
 新聞記事の活字サイズは、昔よりも大きくなった。段階的に「読みやすいよう、文字を大きくする」という一種の改良というか「やさしさ」の実践がされて来たのだ。新聞社側としては「活字を大きくしても、提供する情報量が減らないように」との配慮・工夫もしているだろうが、しかし、活字サイズを大きくしたり行間を広くとったりすれば必然的に「ページを埋めている活字数」も少なくなり、やはり情報提供の分量は減ってしまう。   
 そこで、思い切って活字サイズを現在よりも小さくするという「逆もどり」をやってくれないかなあ。すべての記事でなくてもよいから。あと、日曜版におけるライフスタイル提案みたいな記事は要らないような気もするし、写真が占める割合も多すぎるように感じる。以上の代わりに、今よりも、少しだけでも記事量・情報量を増やせるではないか、それが自分にとってはありがたい。   
 ああ、しかし、「老眼鏡、作り直さなくちゃいけなくなる」、「かろうじて老眼鏡ナシでも読めたのに活字が小さくなると困るな」、「新聞だって、雑誌っぽい話題・写真が載っているのが楽しいんだよ」みたいな反論もありえようなあ。また、小さい文字を読むのが億劫になって、結果として紙媒体の新聞の読者が減るということになると、新聞社は困るか。   
   
   
   
 さて、新聞の購読料の話ではなくて・・・。   
 それにしても・・・しばらく前に「NHKが放送受信料を下げるのでは?」との期待が生まれたものの、しかし、そういう話題は立ち消えてしまった。放送局建物の建て替え、ネット同時配信などの話が出て来る中、もう受信料値下げの可能性は無いということなのかな。   
 9日晩に、NHK総合テレビ(地上波)で「LIFE!」という番組をたまたま見てしまった・・・この種の娯楽番組をNHKが制作する必要があるのかという疑問は以前からあるが、このたびは、歌舞伎役者とタレントの両者を宙吊りまでさせるコントなどもあり、そういうものも含めて番組づくりの費用に無駄なもの・過剰なもの等あったりせぬのか、コツコツとでも支出抑制を進める気持ちは無いのだろうかと、個人的にはそんな疑いの念を持った。   
   

雑記



   
 (↑)おでん風の鍋物のための材料の一部。   
   
   
 自分が調理作業するとき、何かを包丁で切ったりしながらプリンセスプリンセスの "Diamonds" をハミングしたり歌ったりして調子をあげることなどあるのだが、以前、「おでん」をつくるときには「つみれ」のパッケージを開きながら 岩 崎 宏 美 の「 す み れ 色 の 涙 」の出だしを「つみれって・・・」と替え歌して口ずさむことがあったな。   
   
   
 ところで・・・。   
   
 或る若者の、昔からの友人がラーメン店を開業した。そこで若者は「それじゃあ、一度、食べに行ってあげようか」と店を訪れたところが、店の外にまで先客が何人かおり・・・並んで待つ気にもならないから食べずに帰ったそうである。   
 で、翌日あたりにそのラーメン店主に上の旨を伝えると、相手は「待ってればよかったのに・・・たかが30分くらいのことでしょ。美味いのを食わせてやったのに」みたいな返事をし、しかもその言い方が高飛車のような、生意気のような感じでたいそう気分が悪かったとのことである。   
   
 うーむ、分かるような気がする。世間に「たかがラーメン、されどラーメン」と言う人たちは多いが、筆者は「たかがラーメン。以上、終わり」とのみ思っているし、並んでまで食べたいとは思わない・・・並んだ末に食べるラーメンに、赤身部分よりも脂身のほうが多いようなチャーシューが乗っていたりすると「うっ、このチャーシューは食べ残そう」と思うだろうし、何となく食欲(ラーメン全体に及ぶ食欲)も少し減じてしまうことであろう。   
 ラーメンのスープというものも、「こういう味でなくてはならぬ、そこから少しでもズレたらもうダメなんだ・・・俺が客に出したいものとは違ってしまうんだ。このちじれ麺にはこのスープ!」というこだわりを持ち、その味を毎日々々コンスタントに安定的に作り出すのは容易なことではなかろうけど、しかし、こちらの偏見ゆえであろうか、料理としてのラーメンというものは、修行を積んだ板前さんの作る和食などには遠く及ばない、その程度のものではあるまいかという気がしてならない。だから、時折、「どうしてそんなにラーメンづくりにリキ(力)入れてるんだろう」とか「どれだけ修行や研究を重ねたのか知らないけど、どうしてそんなに威張っているんだろう、天下を取ったような顔をしているんだろう」などという感想を持ってしまうことがある。   
 筆者が知っている某ラーメン店の店主の仕事ぶりを見たことがあるけど、顔つきともども大変おだやかなものだ。いわゆる「湯きり」だって、軽くポンポンポンポンとやり、「これで大丈夫なもんだよ」と言う。テレビで目にしたことあるような、パワー全開みたいな「湯きり」ではなく、仮に四十肩や五十肩の症状が出ているときでもやれるのではないかと想像される動作・仕方である(筆者、幸いにしてこれまでのところ五十肩の経験をせずに済んで来ているからこの想像が当たっているか自信は持てないが)。それでいながら客が「美味い」と口を揃えるラーメンを出している。勿論、スープや麺にこだわりは持っている。ただ、神経質っぽいところは無い。他のメニューのギョーザなども客からの評価は著しく高い。ま、見ていて、オールランドに料理好き、かつ料理上手であることが窺われる人であるなあ。   
   
   
 「おでん」についてもまた、「おおいに有り難がらねばならぬ料理」とは思っていない。みずからを老舗と言い切る店も多くあろうけど、しかし、うーん・・・先ず、いまの時代、鮮度の良い魚や肉その他も簡単に手に入って食べられるし、練り物などなどにそれほどには感激しない。(練り物としては、美味いカマボコは好きだが。)   
 また、「おでん」というものはたまに食すべきもので、毎週のようにお目にかかりたくはない・食べたくはない・・・気をつけないと飽きを生みやすい料理ではあるまいか。そして、「明日の夕飯は、おでん」とか「来週月曜日の社員食堂のメニューは、おでん」のように、あらかじめ予告するのもよろしくない・・・「おでん」というものは予告なしに登場しなくてはならないのだ・・・社員食堂で提供される、または仕出し弁当の契約業者が届けて来る「おでん」が美味しくない理由の41パーセントは、「予告」がされてしまっているからであろう。   
   
 あっ、上の41パーセントという数値は思いつきのもので、計算根拠も何も無い。   
   
 「おでん」は、その昔は立派な料理であったのか、それとも、B級グルメ的なものであったのかが疑問だと言った人がいるけれども、うむ、筆者もそういう疑問は持っているなあ。「おでん」の内容・具・ネタ、それを供した店・・・等々によって、双方のランクのものがあったのではないか、分からない。   
   
   
 B級グルメと言えば、焼きソバがよく挙げられる。   
 筆者、「ペヤングのソース焼きソバが有名だけれども、一度も食べたことがない」と、ここ最近、3人ほどに話したら、うち2人がかなり驚いていた(ひとりはのけぞるほどであった)。   
 しかし、そもそも、焼きソバを、積極性を持って(良きものと評価する気持ちを伴って)食べたことがないのだ。学校給食ではソース焼きソバを何度も食べさせられたが、あれはちっとも美味しいものではなかった・・・というより、呆れるほど不味かったなあ。   
 しかし、「こんな不味いものが、世間に通用する筈はない。きっと世の中には、食べ物としてマトモな焼きソバというものがあるに違いない」とは思った。だから、何かのとき、友人と一緒に昼食をパン屋さんで買う機会があったとき、焼きソバを挟んだ調理パンを恐る恐る選んで食べてみた・・・すると、やはり不味いと感じられるものであった・・・で、個人的に得た結論が「世の中に美味しい焼きソバは無い」なのである。   
 家庭では(これも子供の頃)、中華風の、あんかけの固焼きソバを2回ほど食べさせられたが、トロリとした「あん」と固いパリパリ麺とのミスマッチ感に耐えられず、「これはもう食べさせないでくれ、お願いだから」と言って、以後は勘弁してもらった。   
 酒の量販店で買い物した折り、“UFO”だったかのブランドの焼きソバ(プラカップのもの)をオマケに貰ったことがあるが、「うーん、焼きソバかあ・・・食べたくはないが、災害時の非常食糧として保管しておこう」という扱いになり、しかし結局はそのうちに賞味期限も到来して食べずに終わった。   
 ペヤングも、その他のも味わったことがない・・・自分は「体験していない味の世界」が多いとは思うが、これらの焼きソバはもしかすると美味なのだろうか。   
   
   
   
 それにしても、自分と世間とで、味覚・好物の違いが気になることが多くて・・・。   
   
 何にでもマヨネーズをつけたがる人も少なくないが、「おでん」にもそうする人っているのだろうか。   
   
 「海老のてんぷらには塩か天つゆ、さもなくば醤油。海老フライにはソース」と言う人がいるが、筆者の場合は海老フライは醤油だなあ。   
 味噌、醤油に比べると日本におけるソース愛好の歴史は浅いのではないか? で、ソースを使いたくないという気持ちもある。だから「とんかつ」も醤油で食べたい。以前、職場の同僚と入った「とんかつ屋」には醤油が置いてなく、ソースしか無かった・・・仕方ないから何もかけずに「とんかつ」やキャベツを食べたのであった。   
   
 味の好みは人それぞれ・・・たとえば次のような食べ方をする人もいたりするのか?:   
   
 シイタケの天ぷら: マヨネーズで食べる。   
   
 アブラコシ/コシアブラ等の山菜の天ぷら: タルタルソースで食べる。   
   
 キスの天ぷら: 八丁味噌ダレで食べる。   
   
 焼きマツタケ: 練り胡麻ドレッシングで食べる。   
   
 ウナギ白焼き: トマトケチャップで食べる。   
   
 もずく: 中濃ソースで食べる。   
   
 なめこおろし: チョコチュジャンで食べる。   
   
 サヨリの刺身: ナンプラーで食べる。   
   
・・・などなど。   
   

雑記

   
 「衆議院が解散・総選挙となり、そのうえで民進党が躍進したり、或いは自民党が敗北に至ったりすれば、日本はまたしても東日本大震災のような(あれと同クラスの)大災害に襲われるのではないか」・・・これはまったくもって非科学的ではあるが、でも筆者はそういう不安をちょっとだけ感じていた。   
 今や民進党という集団・組織はああいう状況に至り、はて前議員らはどのようになっていくのか・・・べつに心配などせぬが・・・「議員として食っていきたいな、さてどこからどうやって公認・推薦など取りつけようか」といろいろと想を練って、各自の考えるところにしたがい立ち回っていくことであろう。   
    
   
 「日本には自民党がしっくりくる」という感覚、「自民党だから防衛についても、外交も、災害対応も、経済も、国民はそれなり以上に安心感を持っていられる」みたいな、それこそ固定観念的な感覚が自分には宿ってしまっている。   
   
 以前、民主党が政権奪取をしたとき、同党の(国会議員でなく)地方議員およびその秘書のようなことをしている関係者と居酒屋で話をする機会があったが、彼らはやたらと調子づき、威張っていた。「日本の風は、風向きが変わったのだ。日本はこれからどんどん良くなる」みたいなことを言っていた。こちらは「民主党はそのうち政権の座から転げ落ちるであろう。そうでなくてはならない」と思っていたから、別れ際に握手を求められてもそれに応じなかった。   
 後日、その議員本人でなく関係者と再び顔を合わせることがあって、「あなたは議員さんというものに敬意を抱くということが無いのですか? その理由は、選挙に落ちればタダの人みたく見ているからですか?」などと変てこりんな質問をされたが、雇い主の議員さんにペコペコしなくてはいけない秘書その他と一般人とでは感覚が違うのだし、また、選挙で当選しても、民主党の議員とか、アカっぽい思想を持っている者とか、労働組合でばかり頑張って来たような経歴の議員とか、そういう人たちとは少なくとも握手はしたくないのだし、考え方に共通する部分を見出すのもどうせ難しかろうと思っている。   
 なお、もちろん、有権者のうち投票に出向かなかった人の数・率を考えずに「力強い支持を得て当選しました」と言い切ったりしてふんぞり返る当選者/議員もあまり感心しない・・・また、「消去法で選ばれたようなもの」みたいな議員とか知事とか、そういう人だっているように思えるし。   
   
   
 ただ、たとえ自民党政権であっても、世の中の問題点・解決課題その他もろもろについて自民党関係者だけでは気づけない・すくい上げられないこともきっとある。他の政党は、そういうことを国会その他の場で示して政治をよくする契機を作り出して欲しいとは願う。しかし、政権の邪魔をする・政治の停滞を招くような真似はして欲しくないし、今後とも大躍進したり政権奪取したりなどすることなく「野党として」くすぶり続けていただきたく願うし、それが結局は日本のためにも好ましいことと思う。   
   
   
 衆議院解散を「モリカケ解散」などと揶揄する向きもあるが、でも、モリカケ問題はもう飽きてしまったという感じがする。あれをいつまでもゴチャゴチャやっていないで、様々な政治課題を討議していっていただきたい。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 前を歩く人の、Tシャツの背中の文字/文章を、当人に聞こえるほどの声量で読み上げるなどというのは、これは一種のマナー違反であろうと筆者は考える。   
   
 さて・・・、いや、ところで・・・。   
   
 夏の或る日のこと、入院中の知人を見舞った。   
 病院からの帰り道・・・筆者の少し前を、やはり先ほど病院から出て来た男性ふたりが歩いていた。彼らの会話:   
   
 「(入院中の)○○さん、大変そうだったねえ」   
   
 「××さんも同じ病気で亡くなってしまったんだよなあ」   
   
 「みんな順番にあの世に行っちゃうんだよなあ」   
   
 さて、彼らふたりの、さらに少し前方には子連れの女性が歩いていた。30歳前後かな・・・彼女は幼児をひとり連れ、またベビーカーを押していた。   
 さきほどのふたりの男性のうちの一人は会話を続けてこう言ったのである:   
   
 「(前を歩いている)あのお母さんだって、今はああして若いけど、いずれはやっぱり順番で 子供たちより先に死んでっちゃうんだろうなあ」   
   
 決して大きな声ではなかったのであるが、妙に「通りのよい声」であったから、このセリフはその若いお母さんの耳に届いたに違いない・・・ああ、あの女性は何を思っただろう。   
   

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