2017-04

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セル関係の新譜


   
 セル/クリーヴランド管のライヴ音源で構成される交響曲集が登場する。 "Memories" レーベルのCD3枚組商品。   
   
 内容は、ハイドンの第92番、第99番、モーツァルト第40番、ベートーヴェン第5番、シューベルト「未完成」、ブラームス第1番。   
   
 このうち、ハイドン第99番とシューベルト「未完成」については、すでに米国の某DレーベルのCD-R盤商品を持っている人にとっては重複となる。また、モーツァルト第40番について、 "Discovery" レーベルの3枚組CDを持っている人にとっては重複となる。音質面について、それらと比べての優劣がどうであるか、それは分からない。   
   
 それでも今回発売となる商品は比較的に廉価であるし(たとえばHMVの場合)、ファン注目のものと言えるのではないか。   
   
   

分かりづらい客? 迷惑な客?



   
 (↑)以前に載せた写真だけれども、父親から「カツカレーを食べたい」と言われたときにスーパーの惣菜コーナーで買い求めたトンカツ。   
 もしもトンカツも、そしてカレーも完全に手作りしたら大変な手間になるわけで、トンカツはこのように調達し、そしてカレーはレトルトパウチ食品のものを用いたのであった。   
   
 このトンカツを買ったとき、このようにカット済みのものと、そうでないものと、両方が売られていた。   
 筆者、食品や食材を選ぶとき、やたらと商品のあれもこれもに手を触れるということはしない。べつに自分の手指が汚いとは思っていないが、誰か見ている人がいればその人が不快に感じるであろうから。   
 しかし、この品を選ぶときは幾つかのパックに手を触れた。カット済みでもそうでなくてもどちらでもよいから、ともかく、「揚げたて」に近そうな、より温かさの感じられるものを選ぼうとしたのである。   
 このとき、脇に店員さんが寄って来た。彼女としては、こちらが「買おうかどうしようか迷っている段階」と感じたのであろうか・・・そして、彼女は試食用のカット済みトンカツを手にしていた。   
   
 「美味しいんですよ、ご試食ください」   
   
 この、試食ということがあまり好きでない。それと、日によっては揚げものを絶対に口にしたくない気分だったりもする。しかし、そういう説明をするのも面倒なので、手短かに   
   
 「あ、いや、揚げものは嫌いなもので」   
   
と答えた。相手はこちらを「変な人!」と感じたような、形容しにくい表情を浮かべた。にもかかわらず、こちらはトンカツのパックをひとつ買い物カゴに入れたので、なおのこと「変な人」に見えたかも知れないなあ。   
   
   
 似たようなことは他にもあって、自分が食べるのでなく親に食べさせるウナギ蒲焼を選んでいたとき、やはり試食担当者が近づいて来て「きょうは九州産のと中国産のと両方を売っています、食べ比べてみませんか?」と勧められた。で、このときも「ウナギ、嫌いなんだよね」と答え、相手はやはり妙に感じたらしき表情を浮かべた。(ウナギは、ま、嫌いというか、それほど好きでないというのが正確か)。   
   
   
   
 中元だったか歳暮だったか、デパートでギフト品を選んでいたとき、或る商品群の前に立った。売り場の担当者が寄って来た:   
   
 「お迷いですか? こちらの品など好評なんですよ」   
   
 そちらに目を向けると、ふと思い当たることがあった。   
   
 「ホントっ? この会社、前に食中毒を出したじゃない!」   
   
 担当者は絶句・・・というより「え? そうなんですか?」と言いたそうな表情になった。   
   
 すぐ近くにいた別の客もこちらの顔を覗き込んだ。   
 うーん、ああいうことは口にしないほうがよかったのかな。でも、ま、口から出てしまった言葉は仕方ない・・・政治家の失言ほどには責められまい。   
   
   
   
 昼食をコンビニで調達しようとしたときのこと。   
 若いA君と一緒にいた。彼はひとつの弁当を指差し、「○○さん(筆者のこと)、こういうの、お好きなんじゃないですか?」と言った。   
 なるほど、わりと自分の好みに合いそうな弁当であった。が、ちょっと感じたことがあって、   
   
 「うーん、でも、これ、盛り付けが汚らしくないか? 何かなあー」   
   
と答えた。で、1秒か2秒して、ひらめくというか、思い浮かぶことがあった。今度はちょっと声が大きくなってしまって、   
   
 「これさあ、一度、床の上に落としたとかしたんだろうな。ほら、普通、こんなに盛り付けがズレるわけないもん」   
   
 この筆者の発言とちょうど同じタイミング、絶妙のタイミングで他の客がその弁当に手を伸ばした。   
 その弁当の下には同じ品があって、案の定、そちらの盛り付けはきちんとしていた。   
 当然その客はその下の品を選びなおして買って行った。   
 ああ、あんなことは言わなければよかったのか・・・いや、あの客のためになったのだから、よいのだろうな・・・そう思うことにしよう。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「世の中に、美味しい○○というものは存在しない。べつに喜んで食べることはないので、わざわざ手作りして食べさせてくれなくても・・・」という発言を、子供の頃にも大人になってからも、幾度もして来た。   
   
 上の、○○に入る言葉としては次のようなものがある:   
   
 カレー、ハンバーグ、コロッケ、ギョーザ、ポテトサラダなどなど。   
   
 こういう発言によって、調理を担当する世の主婦や母親たちは「張り合いを無くす」かも知れないが、しかし、「手作りの手間から開放される」ことにもつながるであろう。   
   
 「誰もが好きなカレー/カレーライス」という、決まりきった言い方があるけれども、筆者に言わせれば「そのようなことは断じてない」のである。インド・ビジネスに携わって来た人に連れられて本格的とされるカレーを食べさせる店(複数。もちろん日本にある店)にも行ったことがあるが、うーん、やはり好物にはなりえない。   
   
 或る居酒屋がギョーザも出している。そのギョーザは4、5回ほど食べたことある。それほどの回数、自分が食べた理由は「かなり美味しい」と感じたからである。他の客も「この店のギョーザは、これは本当に旨いなあ」と口を揃える。   
   
 或る日、その居酒屋の主人が筆者に向かって「以前はギョーザを何度か食べてくれたのに、最近は注文してくれないですね」と言った。それに対する筆者の返事はこうであった:   
   
 「ギョーザ、美味しいと思うんだけど・・・ハネ付きだから・・・ハネの部分が好きじゃないものだから」   
   
 主人は「え?」と、少し驚いた様子であった。   
   
   
 ギョーザのハネの部分・・・人はおそらく、あのパリッとした食感を楽しむのだろうけど、自分としては「油を口に運ぶようなもの」という感じで、どうしても好きになれないのだ。   
   
   
 他部署のメンバーと外での仕事を終えての帰路、一緒に喫茶店に寄ったのだが、こう聞かされた:   
   
「4月に上司が替わってから、(以前とは違って)3時くらいにデスクで“おやつ”を食べにくい雰囲気になってしまった」   
   
 そう言いながら相手はケーキをおいしそうに食べていた。栄養補給でもあるのだろうなあ。   
   
 それからドーナツ専門店の話など聞かされたのであるが・・・。   
   
 実は筆者、ドーナツを最後に食べたのは10歳か12歳か、そのくらいのことである。なので、ドーナツ専門店に入ったことはなく、また、それらが扱っている品も食べたことがない。そう言ったら、相手はとても驚いていた。   
   
 「ドーナツにもいろいろな種類があるようだけど、学校給食で出てきた“揚げパン”(君は知っているかな?)と同じで、子供の頃から嫌いでねえ」   
   
・・・こう言ったら、「揚げパン、嫌いだったんですか? あれ、みんな好きでしたよ」と、またも驚かれたのであった。   
   
   
 揚げパンにせよギョーザのハネにせよ・・・いや、食感は全然違うけれども・・・無理に油を摂取させられているみたく感じてしまう点だけは一緒・・・似ているのだよなあ。   
 揚げパンの場合はまた、揚げ油と甘味とが一緒に口中を攻めるのも気に入らない(これはカボチャやサツマイモの天ぷらも同様だなあ)。   
   
 味覚も好みも、人それぞれ・・・で。   
   

チェレネントラ・・・じゃない、チェネレントラ




   
 「最新 なんでも言葉辞典 -現代用語、ビジネス用語、自然科学用語から沖縄コトバまで・・・これ1冊で十分-」から抜粋:   
   
   
 米抜きTPP(こめぬきてぃーぴーぴー): コメだけは例外扱いとしたうえでTPPを考える案。   
   
 うちなんちゅ: 広島県庄原市にあるJR内名(うちな)駅の周辺に暮らす人たちを指す言葉。   
   
 しまんちゅ: 三重県志摩市に暮らす人たちを指す言葉。   
   
 やまとんちゅ: 1)宇宙戦艦ヤマトの乗組員を指す言葉。 2)ヤマト運輸の従業員ほか関係者を指す言葉。   
   
 怪奇月食(かいきげっしょく): 月食の現象のうち、月の色合いが不気味に見えるものを指す言葉。   
   
 ヘヴィメタ: 重度のメタボ体型・体質を意味する言葉。   
   
 BPO: 1)ベルリン・フィル。 2)ビジネス・プロセス・アウトソーシング。 3)放送倫理・番組向上機構。   
   
   
   
 以上、あくまで「言葉遊び」的なもの、勘違いオトボケの話であります。何かしらの皮肉・誹謗中傷などを意図したものではないこと、ご理解ください。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 健康診断の季節になり・・・。   
 毎年のように何かの検査項目でひっかかるという人がいる。あるいは、現に何かの疾病その他の治療を受けている人もいる。で、そういう人の中には食事・飲酒・喫煙などについて指導を受けており、それでも指導内容に従っておらず、よって健康状態がちっとも改善しないというケースが少なからずあるように見受ける。   
   
 居酒屋などでも、客の中にはこんな言葉を口にする人も:   
   
 「ほんとうは酒、やめなきゃいけないんだよね。お医者さんからはそう言われてるんだけど、これが難しい。こうして焼酎を飲むことにしているんだけど・・・やっぱ、日本酒のほうが旨い・・・日本酒に切り替えようかなあ・・・あっ、お調子1本!」   
   
 ほか、明らかに食事・栄養を摂りすぎな人、油・脂を摂りすぎと見られる人たちもいる。食欲や基礎代謝、運動量は人それぞれであるにしても、自分と他人との食事量などの大きな差異に多少とも気づくものではないのか・・・しかし、気づいていないように見られる人たちもいるのだよなあ。でありながら、糖尿病患者などとして、あるいは糖尿病予備軍として、悩みや不安を訴える。   
   
 こういう状況について、何かがおかしいと思うのだ。どうして医師の指示に従わないのか。あるいは、食事量その他のセーヴを心がけないのか。   
 医師にかかって保険適用を受け、それでも医師の指示に従わないとすれば、結局は保険給付がムダになるようなものだ。そのムダは受診を繰り返すごとに累積していく。結果、健康保険組合など保険者の財政負担は増し、それは保険料のアップへとつながっていく。皆に迷惑を及ぼしていることなのである。   
 「病気になるな、ケガをするな」と言っているわけではない。誰にも病気・ケガのリスクはあり、必要になる受診・治療というものがある。だけれども、医師の指導を守らずに病気やケガからの回復を遅らせ、その結果として余計な保険給付を受けるというのは社会的迷惑と言えるであろう。極端な話、そういうことの拡大がさらに続けば医療保険制度は危機を迎え、他の、「保険給付が必要であって、ちゃんと医師の指導を守ろうとする真面目な患者」を救えない事態になったり、あるいは、医師にかかるときの自己負担割合が増えていくような制度改正にもつながりうる。   
   
 ああ、しかし・・・。   
   
 「酒を控えてるんだけど、今夜は飲んじゃおうかな・・・一応、インシュリン注射を打ってからにしておくか・・・トイレで打ってくるから、ちょっと失敬!」なんて言う居酒屋の客も実際にいるのだ。   
   
 世界に誇れる日本の医療保険制度・・・そして、その財政を逼迫させる各種の要因・・・。   
   
 ほか、介護保険制度などでも問題視したい点はあるし・・・。   
   
   
 「教育国債」とともに「こども保険」も論議されるようになっているが・・・政治家は(いや官僚もだが)とかく何か新しいことをやり始めたがる。現状の問題点を解決する・改善するために「新しい取り組み」が必要になることは理解できるのだが、それは功を奏すると同時にまた問題を生まないのか慎重に考える必要があるだろう。   
   
 「うちの息子も順調に就職も結婚もできて、それはホッとしてるんだけど、まだ子供が・・・(=話者にとっての「孫」がまだ誕生する気配にはない)・・・今ある子育て支援策などが無くならないうちに子供を生んで育てて欲しいんだが」   
   
という意見を聞かされたことがあるが、急がなくても大丈夫・・・「いちど始まったバラマキ・社会保障・福祉政策は容易には廃止しにくい」というのが、世の中や政治というものではあるまいか(そうして財政負担が増していったり)・・・なお、妊娠可能年齢との兼ね合いの問題は別として。   
   
 話の視点は変わるが・・・。   
 学校の先生は忙しくて労働時間も長いとされているが、それだけ頑張っているのに、今の子供たちはどうしてああも多くが塾にまで通うのか。「先生は忙しくしている。が、子供たちが学校で受ける授業内容は十分ではない」とするならば、何かがおかしいように思える。(公立の中学校でなく私立に行かせたいから子供には塾でも勉強させるというケースもあろうから、その場合には塾でのハイレベルな勉強も必要かも知れないが・・・筆者には分からないけど)。   
   
 一生懸命に過ぎるクラブ活動は問題があるようにも思える。ほかのことをするエネルギーとか、宿題をこなすエネルギーを余らせておけないほどに過酷な、あるいは過密スケジュールの部活動は如何がなものかと、これは自分自身が学生の頃から疑問に思い続けていることである。   
 たとえばサッカーや野球・・・そのクラブの部員のうち2人か3人が「このスポーツ種目の世界で成長し、それを一生の仕事にしていきたいんだ」と考えているとする。クラブとして、チームとして強くなることを目指すのは良いとしても、しかし、「頑張って甲子園を目指そう」などということになると、上の2人とか3人以外の、他の子供たちも一緒に長時間の過酷な練習・トレーニングに付き合わされることになる・・・「このスポーツが好きだからクラブに入っているけど、自分がこの方面でプロとして活躍できようなどとは思えないし、そこまでのことも望んでいない、でも、一生の趣味としては楽しみたいな」くらいの考えの子供までもが。もしも、過酷なクラブ活動のせいで勉強がおろそかになってしまう、「生きていく・稼いでいくための知識やスキルを獲得する以前の基礎学力の習得」が危うくなってしまうということがあれば、それは、教育の充実を図ることと矛盾するのではないか。   
 「教育国債」にせよ「こども保険」にせよ、それでカネの問題に解決をつけたとしても、教育のあり方も考え直さないと「人材の輩出」という面で惜しい部分を残してしまうかも知れない。   
    
    
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 背後から大きな声が聞こえ、少しばかり驚くという経験が最近2度ほどあった。   
   
   
   
 「邪魔なんだよ! ほら、どけっ!」   
   
 振り向くと、筆者よりは少し若い中年オヤジが、若者を怒鳴っていた。   
 「ああ、なるほどな」と思った・・・自分もつい今しがた、「ちょっと邪魔だな」と感じながらその若者の脇を通ったばかりであったから。   
   
 どこであろうと、そして、さほど広くない歩道であっても立ち止まってスマホに見入る人は多くいるけれど、時に、体の向き、及びスマホをかざすそのあんばいによって他の通行人の邪魔になったりもする。が、それで怒られてしまう人は稀であろう。   
   
 怒鳴られた若者は、体の脇にキャリーバッグ(と呼ぶのかな、車輪/キャスターの付いたバッグ)を置いて立ち止まったうえでスマホに見入っていた。体とキャリーバッグは歩道が延びる線上に並ぶのでなく、両者一緒になって歩道をふさぐような位置関係・・・当然ながら他の歩行者の邪魔になるのだ。   
   
 どうしてこうもキャリーバッグが流行・普及してしまったのだろう。荷物を運ぶうえで肩や腕が楽なのは理解できるのだが、しかし、旅行や出張でもなく、また、相当に重い荷物を運ぶ場合でもなく、あるいは、体が不自由であるとか高齢者であるとかいうわけでもないのに、キャリーバッグを常用する必要があるのだろうか。そんなことをしていたら体力/筋力維持の観点からあまり好ましいことではないようにも思えるのだが。また、PCその他の機材を運ぶにしても振動がよろしくない影響を与えかねないのでは、と思う(コネクター/結合部分が緩むとか、何かの断線が起こるとか、場合によっては、それまで特に症状の現れていなかった不良ハンダ個所に衝撃が及んでしまってとか、そういう可能性も皆無ではないのでは?)。   
   
 エスカレーターに乗って、持っているキャリーバッグを体の脇に置く人がいる。あるいはまた、自分の背後の一段うしろに置いてはいても「きっちり真うしろ」でなく、「斜めうしろ」に置く人もいる。そのようにされると、「エスカレーターでは立ち止まらずに歩き続ける派」の人にとっては歩みを進められなくなってしまい、困るのである。エレベーターはその安全な利用からも「乗ったら立ち止まるべし」との主張は理解できるのであるが、実際には、筆者のようにそのようには振る舞えない人間もいるのだ。   
   
 オフィスビルその他のエレベーターで、ドアが開き、乗り込む。少し向こうからもキャリーバッグを引きずりながら乗り込もうとする若者が・・・。「あ、すみませーん」と、ちょっと悠長に声を発しながらやって来る・・・エレベーターのドアを開けたままで待つ・・・しかし、その若者はゆっくりとした足取りで急ぐ様子も見られず・・・(体が不自由とか、病み上がりでもなさそう)。   
 「ったくなあ。マトモな人間、それも溌剌としているべき青年なら、そのキャリーバッグを持ち上げるなどしつつ急いでエレベーターまで歩く/走るもんだろ」と腹立たしく思う。   
   
   
 大きな横断歩道で、こちらから向こうへ渡る人も多く、反対側からやって来る人もまた多いとき・・・東京の街ではよくあるこういう場面で、地方からやって来た人のなかには「向こう側を見ただけで心臓の鼓動が激しくなる、足がすくむような気分にもなる、この横断歩道で向こうからやって来る人にぶつからずに上手に渡りきれるだろうか」と恐怖心・不安のようなものを感じてしまうというケースもあるようだ。   
 そういう人と一緒に横断歩道の信号待ちをしているとき、そういう彼の気持ちにお構いなしに、自分と一緒に、こちら側の歩行者集団の先頭に出るように促した。   
   
 「先頭にいないと、前を歩く人のペース以上の速さでは歩けなくなるからスピードの点で損をする。信号が赤のうちに、他の人に嫌がられないよう気をつけながら先頭に移動しておく。誰かのうしろにつくとしても、せめて2番手で歩けるような位置がよい。足の短い人のうしろは避けること・・・歩くスピードが遅い可能性が高いから。あと、足首の感じがだらしない女性も足が遅いことが多い。キャリーバッグを持った人も速く歩こうとはしないから、そのうしろも避けること」   
   
と注意したのであった。   
 横断歩道を渡り終え、さらに目的地まで急ぎ足で歩いている最中、「どうしてそこまで先頭を歩くことにこだわるのか」と訊かれたので、「習性かな。しかし、先頭集団にいないと、世の中とにかくダメ。他の人のペースに左右されて自分の思うようなスピードアップを図れなくなるのもよろしくない」と答えた。キョトンとされた・・・ような気がした。   
   
   
 学校でサッカーを教わることの意味合いは多くあろうけど、そのひとつには、「自チームの他のメンバーは今どこにいるか」等を常に把握する習慣をつけることも含まれよう。頭のうしろに目が付いていなくても、それを心がけると何となく全体把握ができるようになるものとは思うのだが。そうして、「全体の動き」と「自分」とを捉えたなかで、全体がスムーズに、目的に適った形で動いていくものと思うのだが。   
 サッカーがこれだけ人気を博し、学校のクラブ活動でも盛んになっているのに、上のようにスマホとキャリーバッグのことで周囲に迷惑をかけて怒鳴られる若者もいる・・・。職場で、同僚たちそれぞれが今、何をしてるのかに思いをいたすことができないとか、また、締切時間に追われている同僚がいて、彼/彼女としてはこのとき例えば何か質問などされて作業中断するのは困るという状況を理解できずに質問をして相手を苛立たせる・困らせている者もたまにいる。自分とそれをとりまく全体の状況把握ができないという、困ったことだ。   
   
 同じく、マラソンで教わることのなかには、「先頭集団から脱落してしまうと、あとで追い上げる・挽回するのは容易でない」ということもあろう。これに類することは、マラソンでなくても「勉強」の分野でも学べることであろうし、「水戸黄門」のドラマの主題歌からだって学べることであるが。   
 すると、横断歩道を渡るうえでの心がけもおのずと分かろうというものなのだが。   
   
   
 さて、街で、背後の大声に驚いた2つ目の件は・・・。   
   
 突然、10メートルくらい後ろでやたら大きな声がした・・・男の声・・・しかし、何を喋っているのかが分からない。   
 陽気がよくなって来ているし、ふと色々と連想し、通り魔殺人のようなものに巻き込まれてはかなわないなと思いながら振り向いた。   
   
 状況を理解するのに2、3秒を要したが、中国人の子連れ夫婦が夫婦喧嘩を始めたようなのだ。   
 夫の側が、わめき続ける。家族は一緒にこちらに歩を進めていた。   
   
 家庭内でならともかく、街中でここまで派手な夫婦喧嘩をするのか・・・。とにかく、やたらとうるさかった。   
 ま、通り魔殺人に巻き込まれる状況ではあるまいと、一応の安心をしたのであるが。   
   
 しかし、この家族の行き先は、自分と同じで某駅であった。男は、切符の自動販売機に向かった。券売機の前には人が並んでいたのであるが、「列」の作られ方がいくぶんか甘い、アバウトな具合であったこともあって、男は「割り込み」というか、いきなり券売機の真ん前に「ズンッ」と横から・・・。   
 何だかなあ。   
   


雑記



   
 (↑)・・・以前、デスクの引出し内を整理したときの写真で、これらは頻繁に使うこともなかろうというペンであったのだが・・・。   
   
 楽器練習するにあたって、普通の練習曲っぽいものばかりではどうしても飽きも生じて欲求不満も募るため、手持ちのオーケストラ・スコアから好みのメロディなどをあれこれピックアップして五線紙に書き写し、それも練習するようになった(というか、無謀な挑戦であったりもする状況だが・笑)。   
 音符を書くにあたって、普通の油性や顔料インクのボールペンではどうもオタマジャクシの丸の中を塗りつぶすのにほんのちょっとだけ手間取る。万年筆のようなもののほうが具合がよろしい。   
 そこで活躍すようになったのはプラチナの "preppy" という品( "05" タイプ)で、写真中の透明プラスチック軸のもの。インクは同社のカーボンインク・カートリッジを利用。はて、このインクとの組合せはメーカーとしては推奨していないかも知れぬが、ペン側のキャップ構造のおかげか、ペン先の太さの規格ゆえか、あるいは、ペン使用を2日以上にわたって休むということが無いからか、インクが乾いて固まってしまう等のトラブルも生じず、実に快調である。   
   
 高価な、あるいはそれなりの値段のペンにはもちろん意義やメリットがあるけれども、軽量かつ廉価で扱いやすいペンもまた、これはこれで有難い存在である。   
   


セル関係の新譜(SACDハイブリッド化)


   
 セル/クリーヴランド管による、ブラームス/交響曲全集、モーツァルト/ピアノ協奏曲集(ピアノはカザドゥジュ(カザドシュ))、ドヴォルザーク/スラヴ舞曲集が新しいリマスタリングでSACDハイブリッド盤として登場する。タワレコ扱い商品。発売時期はまだ少し先のこととなるが。情報は:   
   
  http://tower.jp/article/feature_item/2017/04/14/1103   
   
   

雑記



   
 一気に春・春爛漫へと移るというものではなく、冬へと逆戻りする日もある。毎年、そういうものだ。   
   
 桜がつぼみをほころばせても、ニュースや天気予報では「今日の寒さでお花見時期が少し先送りになるかも知れませんね」だの、桜が満開になった後に「(明日の雨は)桜にとっては無情の雨と言えますね」などと言われることがある。昔は「花冷え」という言葉もよく聞かれたように思うのだが、今ではマスコミ関係者のヴォキャブラリーからも消え失せて死語のようになってしまった?    
 というわけで、暖房器具のすべてを花見の時期を過ぎる前に片付けてしまうのはあまり得策ではない。東京のケースで言えば、暖房器具に使う灯油は4月上旬くらいまでに消費しきることを目安に購入量・貯蔵レベルを考えるとともに、その後は電気・ガスの暖房器具をすぐにはしまわずにおくのがひとつの適当な選択と言えよう。4月も半ばになっての灯油暖房使用では部屋の中が暑くなり過ぎるし、また、残った灯油を貯蔵し続けるのもちょっと鬱陶しい。   
 が、しかし、自然災害などなどはいつやって来るか分からず(最近ではミサイル攻撃も警戒しなくてはならぬし)、そのような状況下で暖をとりたい場合に備えて(石油ファンヒーターでなく)石油ストーブとともに通年で一定量の灯油を保有しておくことをモットーにするのもまた間違いではあるまい。(なお、古くなった灯油をストーブなどに入れることは好ましいことではない。)   
   
 春は一気にやって来ないとはいえ、そろそろ大掃除に好適のシーズンが始まる。   
 あわただしく、かつ、寒くもある年末の大掃除の対象は少なめにして、これからの春や初夏の時期が大掃除をしやすい。急がずとも、肌寒い日は屋内を対象にして、少しずつコツコツ進めていけばよいのだ。   
   
 上の写真は、天井の照明器具のカバーを掃除のために外したところ。   
 以前に買った蛍光灯ランプのメーカーがどこだったかなど、いちいち覚えてはいない・・・見たら東芝ライテックのものであった。製品名/商標は "PRIDE" (プライド)となっていた。   
 ここに、何かの偶然の皮肉を感じてしまった。東芝の不正会計問題の根源をどう評価・総括すべきかは難しいものがあるが、世の不正会計・粉飾などは、しばしば一種の歪んだプライドが原因になっているとも言える・・・。   
 「業績好調であるように示したい」とか「増収増益であるように見せたい、せめて減収増益でもよいが、しかし、減益決算ではダメなんだ」とか「この損失計上を先送りしたい」とかのことは、経営者としてのプライドゆえに道を誤らせたその結果と見ることが出来なくはない。(なお、もちろん、株主や投資家よりもむしろ債権者の目をごまかしたいからとか、銀行などから融資を引き出すために等を理由として数字を操作するケースもあろう。)   
   
   
 以前、やはり家電メーカーのシャープの業績悪化でその株価が下落したとき、「あの会社にも従業員持株会はあるんですかねえ? 加わっている社員の人たちはたまりませんね」と言った知人がいたけれども、ふつうに持株会は存在するであろう・・・わざわざ有価証券報告書などでチェックしなくても、多くの人の手もとにある日経会社情報や会社四季報でそれは簡単に確認することが出来る。   
   
 東芝にもまた従業員持株会はあるようで、これに加わっている人たちは、会社の行く末について従業員として不安を覚えるばかりでなく持株会参加者としてもまた困惑を覚え、腹立たしい思いをしていることであろう(持株会に加わらずに普通の株主となっている従業員も多くいることと思う)。   
   
 東芝に限ったことでなく一般論として、従業員が、直接であれ間接であれ株主となることは大きな意義があること、言うまでもない。同時に、これもまた一般論として、従業員それぞれは自社や自社グループの状況を数字で把握することが自分自身にとってとても大切なことである・・・財政状態はどうなっているか、期間損益・業績はどうなっているのか、キャッシュフローの状況はどうなっているのか等々・・・ケースによっては、「この決算は、何かがおかしい」とか「部門別の業績状況説明が自分の体感と大きく異なるけど、いったいこれは」などと不審を覚えることもあろう・・・数字と真剣に向き合えば、社外の一般株主/投資家とは違う“体感”その他を有利に活用して何かを察知可能なことがありえよう(だが、隠れた保証債務など、プロの公認会計士・監査法人でも見破りにくい問題点が存在する可能性は依然としてある)・・・経理・主計・財務・経営企画・経理関連監査の畑にいない人はそういう関心・警戒心を捨ててしまっていることが非常に多そうで、また、労働組合の幹部などでも同様であったりすることが見受けられ、これは大いに残念なことと感じるが、どうなのだろう。   
   
   
   
   
 筆者、西日本の企業よりも東日本の企業を支持・応援したい気持ちが強いのだが、しかし、考えてみると東芝ブランドの製品を買う機会は少ないなあ・・・電球の類や電池、記憶メディアくらいか。オーレックス・ブランドの品も買ったことが無いなあ。   
 音響製品を除いて家電一般となると、日立、三菱電機あたりに目を向けることが多い。   
 日立とか全日空、大幸薬品など、左右対称またはそれに近い文字で構成される名前というのは、幸運をもたらしてくれそうで人を嬉しい気持ちにしてくれるではないか・・・風変わりな感覚かな?(笑)(三菱の「菱」は、ちょっとだけ左右対象に達しないのが惜しいな。でも、三菱自動車の製品は買ったことがないけど)。「ニクイねぇ、三菱」のコマーシャルなど好感を覚えるが、ま、それはさておき・・・。   
 東芝のテレビの人気が高いようではあるのだが、筆者、現在はパナソニック製品を使用し、その前はシャープ製品という具合・・・どういうわけか西日本メーカーの製品を選んでしまったなあ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は・・・。   
   
 上段がオペラ「ホヴァンシチナ」のDVD。   
   
 「ホヴァンシチナ」と言えば、その第1幕への前奏曲「モスクワ河の夜明け」をセルが指揮した録音が残っている(クリーヴランド管との正規レコーディングおよびシカゴ響とのテレビ番組映像)。   
   
 写真の下段は、ついでに写し入れたまでであるが、これもムソルグスキー作品で「ボリス・ゴドゥノフ」のCD。セルがメトロポリタン歌劇場で指揮したもののライヴ。   
   


定年退色、定年大食・・・?



   
 定年退色: 「仕事一途で過ごしていたがために、定年退職を機に、世界が、日常が、人生が、色あせて見えてしまうこと。または、定年退職を機に、現役当時のイキイキ感が消え、人間としての色気のようなものまでも失せてしまうこと」   
   
 定年大食: 「定年退職後、手持ち無沙汰などもあって、ついつい食事、間食、おやつ、飲み物の摂取量が増えてしまうこと」   
   
   
   
 新入社員を迎え入れる季節とはなったけれども、それに先立つ過日のこと、自分が特にお世話になった大先輩から定年退職予定の連絡を受けた。その種の連絡/挨拶は毎月のようにあるけれども、しかし、「この人から連絡が。この人もそういう年齢になってしまったのか」ということで大いに感慨を覚えてしまうことが時々ある。   
   
 ・・・「自分の側もまた確実に年を重ねているな」と思わされることでもある。   
   
   
   
 昨夏、外出の用事を済ませて職場に戻るその途中で、電柱にのぼって作業する人たちを見かけた。炎天下に長袖の作業着をつけており(その布地は薄そうには見えなかった)、そして腰には工具を付けたベルト・・・。クソ暑いだろうなあと思えた。   
   
 会社に戻った席で若い女性社員にこのときの話をし、「電信柱にのぼって作業するあの仕事も大変だよなあ、俺には出来ないよ、ホントあれは辛そうだなあ」と言ったら、返ってきた言葉はこうだった:   
   
 「あっ、うちのお父さんも同じ!・・・電柱のことを電信柱って言うんです」   
   
   
 ・・・「あのなあ、自分の父親について話すときは“お父さん”でなく“父”と言うものだよ」と、敢えて注意するのも、ここでは何かおかしく・・・いやいや、「そうか、もしも自分に息子や娘がいたとすれば、それはこの子くらいの年齢だったりするわけだよなあ」と思い、やはり自分はもう若くないのだ、年を重ねてしまったのだとの思いをしたのであった。   
   
   
   
 中高年社員向けの研修では、一部のコマ(時間割)に於いて、この世代ならではの健康管理やら何やらのテーマのほかに「定年後も見据えて、早期に自分の趣味・生きがいを見つけましょう」とのことも説かれる。これに関しては「自分は例えば音楽鑑賞の趣味があるし、本もまた色々と読むことであろうし。現時点で無趣味の状況にある人たちが、釣りとか各種スポーツとかの新しい趣味を発見すべしという話だよなあ」みたく思ったものだから、自分としては取り組むものを増やしていこうなどとも思わなかった。   
   
 4月からNHKの語学番組も新年度に入ることから、若い人の中には「この英語の講座を」、「中国語の講座を」と思い立った者がいる。筆者も「では、自分はアラビア語をやってみようか」と、ちらと思ったのだが、思いとどまった。   
   
 そうだ・・・自分は、語学は嫌いでなくむしろ好きではあるのだが、微妙に距離を置く・それに一生懸命にならないことを貫いて来たとも言えるのだ。事務部門の仕事の一部として中国(本土)ビジネスに関わりを持ったときに「この機会に中国語の勉強もしてはどうか」と促されたこともあるのだが、「へたに中国関連に深く関わって中国送り(駐在など)にされたらかなわないな、中国でダニも出てくるようなホテルとか、不衛生な食器洗いの食堂などで病気に感染するのもイヤだし」と思い、中国語学習の件はつっぱねたし、その後、中国(本土)とそこで生きてきた中国人は嫌いなのでその関係の仕事から離れさせてもらった(台湾関係の仕事は喜んで関わらせてもらった。なお、中国本土のビジネスを、あくまで「ビジネス」として見た場合、これからもまだ有望であるとは感じている・・・ただ、進め方にはコツとか留意点・警戒点がたくさん有ってその辺りも面白かろう)。   
   
 アラビア語と、それを使う国々については大いに興味を抱くのであるが、文字その他についてのハードルをまず意識してしまうのと、そして、自分の年齢を考えたとき、それらの国々も含め、外国に駐在させられるようになることを少しも望まない。「逃げるは恥だが云々」というか、心はもう、「あまりに大きすぎる刺激・新体験は要らない」的な感覚にあるかなあ。   
   
   
 で・・・アラビア語に代えて(?)、楽器を楽しむこととした。(あと、ボルダリングをやってみたい気持ちがある。以前はトライアスロンをやってみたい気もあったのだが、「(あなたにとっては)あまりに過酷なスポーツであろう、そして、(あなたの)その気質でトライアスロンをやりだすと、命の危険を顧みないような努力をしたり、ほか、ああいうスポーツを通じて人格が今以上に自分および他人に対して厳しくなっていくと周囲は困るのでトライアスロンは控えていただきたい」との意見をもらったので、これは挑戦しないことに決めた・笑)   
   
 趣味とする楽器は、末永く楽しむことも考慮すると、指を多く使うものが脳などの老化防止に役立つらしくて好ましかろうと思った。打楽器・金管楽器を候補から除外し、すると鍵盤楽器、弦楽器、木管楽器などになる。   
   
 鍵盤楽器で演奏してみたい曲は、考えてみるとかなり少ない。   
 移調楽器は、自分の場合、譜面と実音との違いが気になって気持ちが落ち着かなくなることが分かっているので出来れば避けたい。   
 音域が人間の声や自分の声に近いとされるヴィオラやチェロをやりたいと思ったが、少なくともチェロはサイズが大きくてそれが鬱陶しいように思え・・・。   
   
 しばらく悩んだ末にヴァイオリンを選んだ。   
   
   
 実はヴァイオリンは中学生の頃にいじったことがある。そのときの記憶などちっとも役立つまいと思えたのであるが、弓の扱いのあんばいは割りとちゃんと覚えていて、出す音は汚くなりにくい。   
   
 しかし、駒の上辺のカーヴが小さいように思え、演奏したい弦とは別の弦にまで触れてしまうのをしばし悩んだ。「木管楽器のリードやマウスピースを演奏者みずからが工夫したりチョイスしたりするのと同様、ヴァイオリンの駒も自分で加工してもよいのではないか・・・いや、つべこべ言わずに、このままで精進を重ねることが大事なのか」と迷ったが、先生に意見を聞くと「確かに、この駒はラウンドがゆるやか過ぎるように思える」とのことで勇気を得、そして、半加工状態の駒も手に入れ・・・。   
   
 で、遊び心が出てしまって、思い切ってG線とE線(4本の弦のうちの外側2本)がかなり低位置となるように駒の形を整えた。それが冒頭の写真。これよりさらに極端にすると、これら外側の弦と指板との隙間が狭くなり過ぎたり、また、これらの弦を演奏するときに弓がヴァイオリン本体をこすったりしかねないであろう。   
   
 半加工状態の駒は、まず、大ぶりのカッター(小刀みたいに使える程度のもの)と彫刻刀を用いて大雑把な形に仕上げた。さらに紙ヤスリ・金属ヤスリを用いて整えた(紙ヤスリはカマボコ板に巻きつけて使用すると削り作業が能率的に出来る)。弦のための溝はカッターで慎重に(適度というか控えめの幅で)切り欠き、金属ヤスリの先端部分や、しっかり折り目を付けた紙ヤスリのその折り目個所、極細マイナスドライバー等でこすって滑らかに仕上げた。最後に、この溝の滑らかさ具合を確認するため、いわゆる歯間ブラシで状態を確認。   
 彫刻刀、紙ヤスリ、金属ヤスリはいずれもダイソーの品。   
   
 駒の下端の傾斜角その他も、ヴァイオリン本体としっくり接するように加工。接触する面もヤスリで滑らかに・・・ヴァイオリン本体に余計なキズがつかないように。   
   
 なお、写真の背景にアナログ・レコード・プレーヤーのターンテーブルらしきものが写っているが、これはパナソニック/ Technics の新聞広告である・・・念のため。   
   
   
 さて、この駒を実際に装着してみて・・・あんばいが非常によろしく、感激してしまった(笑)。   
   
 こんなわがままをやっていて、つまり、一種の甘えをしていて、ちゃんと上達していけるのだろうか。ま、人前で演奏するつもりは無いし、そして、クァルテットを組むとか、アマオケに加わろうとかいうこともないであろうから、心配するようなことは何ひとつ無いのだな。気楽に、そして気長に臨もう・・・。   
   
   
 下のは、先日、或る新聞社サイトで目にした記事見出し。こういう、「人」でなく「企業名」に「ら」を付ける用例は、はじめて目にするかも知れないなあ。   
   


雑記



   
 プリンターのインクを補充。   
   
 残量が少なくなった(プリンター・メーカー製の)純正カートリッジに穴をあけ、上の写真のサードパーティ製インクを注入。なお、穴あけドリルはインクのセットに付属していたものを利用。   
   
 これまで、黒インクのみサードパーティ製品を利用し、カラーについてはプリンター・メーカー製の純正カートリッジを使用することとしていた。   
 けっこう以前にはサードパーティ製カラー・インクも試したことがあったが、そのときにはインクの色調に不満を覚えたのでそれっきりになっていた。しかし、過日、「昔の品はどうか知らないが、(今では)カラーもサードパーティ製品で大丈夫」との意見を耳にしたので、「それでは」と思い・・・。   
   
 作業時間は大してかからない。指には5ミリ×3ミリほどの汚れがひとつ付いただけ・・・黒インク1色の補充のときには指を汚したことは無かったが、今回は4色補充なのでそれだけ作業量は増しているわけであり、ま、仕方あるまい。   
   
 左に写っているのは、カラー・インクの容器の先端にはめる部分(ノズル/ニードルの類)。使用後に水洗いするが、「それまでの置き場所」兼「水に浸すのに使う容器」としては、豆腐の入っていた容器を利用(食器など利用した場合に比べ、ろくに洗浄っぽいことをせずに捨ててしまえる・・・ヨーグルトやプリンの容器でもよろしかろうけど)。   
   

セル関係の新譜



   
 以下の、文章の仕切線「・・・・・・・・」直前の部分まではエイプリルフールのネタとして用意したものです。架空の設定と、それに基づく架空の新譜CDをネタとしています。実際にはこのような「幻想交響曲」のCDはリリースされておりません:   
   

 セルがロンドン響を指揮した録音としては、「水上の音楽」ほかのヘンデル作品、チャイコフスキー/交響曲第4番、カーゾンとのブラームス/ピアノ協奏曲第1番、さらにまた、R.シュトラウスの歌曲、マーラーの「子供の不思議な角笛」などが知られている。それらは冒頭写真の上段2商品その他で聴くことが出来る。   
   
 写真の下段は、リリースされたばかりのCD3枚組商品で、「“幻想交響曲”の、3つの演奏」と題されたもの。フリッチャイ、トスカニーニの指揮によるもの(モノラル)のほか、セルのステレオ録音も含んでいる。いずれもライヴ音源。   
   
 1962年にセルはロンドン響のコンサートで「幻想交響曲」その他を指揮した。その直後、この作品をチャイコフスキー/交響曲第4番とともにセッション・レコーディングする計画であったところが、しかし、果たされたのはチャイコフスキーのものだけとなった。幸いにも「幻想交響曲」のライヴ音源は残っていたため、ようやくCD化が実現した。   
   
 セルのものについて、輸入発売元のコメントでは「良好で鮮明なステレオ録音」と謳っているが、筆者としてはその直前に「この当時のライヴ収録としては」と前置きしたいかな・・・でも、十分に聞きやすい・・だが、肝心なのは演奏内容である・・・これが予想に違わず凄い。   
 全体的に「折り目正しさ」と「コントロールの行き届き感」がしっかりと窺え、同時にまた、「ああ、これは間違いなくセルの、ヨーロッパ・オケを前にしての演奏であるな」と確信させてくれる熱っぽさ、踏み込み、毅然とした炸裂を感じる演奏である。   
 見事な寂寥感に驚く。そして、「舞踏会」・・・ここは、セルが正規レコーディングした「フィンガルの洞窟」を思い出させるような、意外にも遅めに感じるテンポ・・・その中で、ふくいくとした、艶々した輝きと、弾みと陶酔感(ここに深い「踏み込み」が絶妙にあるが清潔感があまりにも美しくて哀しさすらも漂う!)・・・この楽章のあとに拍手が入ってしまったハプニングは、しかし、これは「ハプニング」でなく必然のようにすら思えてしまう。しかし、演奏時間を確認すると他の指揮者らの演奏とさほど変わらず、これがセルの奇跡的表現力と呼ぶべきものであろう、おそらく。   
 その後の、剛直にして強烈で思い切りのよい表現・演奏などなども含め、個人的感想として「堪能し、圧倒される演奏」であった。   
   
 楽器のサウンド面での魅力は大きく、仮にクリーヴランド管を振ったものでもこれほどに魅力的な響きにはなりえなかったのではないかと思う。   
   
 アンコールとして演奏された「ラコッツィ行進曲」とビゼー/「アルルの女」から「ファランドール」も収録されている・・・最終5秒前くらいに入っている余計な騒音は、これは譜面台が倒れたなどしたものではあるまいか、どうなのだろう(笑・・・いや、笑ってはいけないな)。   
   
 なお、画像が小さくなってしまったこともあり、詳細情報については上の画像をクリック/タップして別の画像を開いていただきたい。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は、コンドラシンのCD9枚組商品。   
   
 背景は「週刊ダイヤモンド」誌3月18日号のページから・・・今更ながらも興味を持つ人もいるかなと思ったので。   
   
 「週刊ダイヤモンド」に関しては、これよりも少し前の号で問題提起されたコメの産地偽装問題についてここでちょっと書きたかったのであるが、時間が足りないのでまたいずれ。・・・しかし、コメの産地偽装にはまったく驚かない・・・東京育ちの人間は普通それを前提に生きている・・・そして、それに警戒する人たちは農家から直接、あるいは、信用が置けそうな米屋さんからコメを買うのである・・・「コメ・肉の購入ルートの確保と工夫は戦中・戦後からの一大事。今日ではそれが、コメの産地表示が真正であるかどうかに変わっただけの話。騙される可能性がゼロに近づく購入ルート確保を」というのが現代の感覚であろう・・・違うか?・・・しかし、「こうしていれば決して欺かれない」などと言い切れる方策があるかどうかは・・・。   
   


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