2017-02

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雑記



   
 人工知能は何でも出来てしまうのか?   
   
 小説を書かせることが出来るとするなら、コント・ネタや現代落語を作り上げる能力も持ちうるであろうか・・・いや、「笑わせる」とか「オチを考える」という能力の獲得はまたかなり難しいか。   
   
 個人的に関心があるのは、人工知能を有したロボットと一緒に連歌で遊べる日がやって来るのか、あるいは、こちらが思いついた短歌に対して「返し・返歌」をしてくれるようなことが出来るのかである。   
   
 早口言葉を生み出す・考え出して人を楽しませてくれることは可能か? 人工知能そのものにとっては「活舌」とか「舌がもつれる」などということは関係の無いことだから、その相手をする人の国籍・民族などを勘案した「しゃべりにくい言葉・文章」についての知識を有してからでないと難しいであろう。   
   
 回文を作る能力は、何となくではあるが、人工知能にとって得意なのではないかと想像する。(回文なるものを、つまり回文という概念をあらかじめ人工知能に教え込んでいなくても人工知能が自発的に回文遊びを思いついたら我々は驚愕してしまうけれども。)   
   
 洒落・ダジャレを発する能力はどうなのだろう。この言葉とあの言葉とは音が似ている、アクセントが似ている、字面が似ているなどの感性を人工知能が有していればさほど困難ではないのか。   
   
   
   
   
 睡眠中に夢をみることはあまり無いのであるが(目覚めたときに覚えていないだけかも知れないが)、しかし、それでも、夢の中で何かを一生懸命に考えるということがある。仕事上での問題解決のことが多いが、そこで思いついてグッド・アイデアだと感じられたものは、目が覚めてから振り返ると殆どダメダメな、ろくなものではないなあ。   
   
 先日、夢の中では自分は回文遊びをしていた・・・「前から読んでも後ろから読んでも(上から読んでも下から読んでも)・・・」な言葉や文章を、知人と競って披露し合うということをしていたのであった。   
 最初、よくある「新聞紙」とか、そういうものしか思い浮かばなかったのだが、次のようなものを思いついて次々と発した。   
   
 「父」、「母」、「田端(たばた=そういう駅名がある)」   
   
 そしてその直後、さらに、   
   
 父の父(祖父)   
   
 父の母の父(曽祖父)   
   
 父の父の父の父   
   
 ・・・これらを得意げに言って笑っていたのだから、もう居酒屋の酔っ払いレベルである(笑)。   
   
 そのすぐあと、   
   
 山田麻耶とか中野カナなどの架空の人名を思いついた。   
   
 さきほどの「田端」のあと、駅名を幾つか思い浮かべて「中野カナ」の例を思いついたのである。で、そのあと駅名をあれこれ思い浮かべて、   
   
 東京都   
   
 四谷八津代(これまた架空の人名)   
   
を思いつき、そのあと「神田の檀家」を思いついて笑ったところで目が覚めた。   
   
   
   
 「君の名は。」が話題になったとき、「君の名は花野美樹」という回文をひらめいたのであるが、同様のことを思い浮かんだ人が世の中には多数いるのではないかとも思った。花野という苗字が実在するのか知らないし、また「美樹」は「美紀」や「美喜」、「ミキ」などでもよいのであるが。   
 もしもインターネットが存在していなかったら、そして、人々がブログや日記や何やかやをアップしていなければ、上のような、他の人も思いついているかどうかの確認は容易には出来ないのであるなあ・・・この確認作業にどれほどの意義があるかは怪しいものであるが。   
   
   
   
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 「110番通報」をしたとする。   
   
 電話の向こうからは自動音声が・・・。   
   
 「はい、こちらは警察です。今まさにこれから殺人事件や強盗殺人事件などが起こりそうで緊急を要する場合は1とシャープのボタンを押して下さい、担当の者へ電話をおつなぎします。なお、本日はプレミアム・フライデーでありますため、出動できる警察官は限られています。すでに起きてしまった殺人事件などや、また、傷害事件程度で済みそうな状況の場合には、明日以降、あらためて電話していただけますようご協力をお願い致します」   
   
 ・・・などということがあったら、我々はビックリしてしまうことであろう。   
   
 皆が皆、プレ金を楽しめるわけではない。   
 プレ金の該当日によっては「仕入れ代金その他の月末支払の準備に忙しくて」とか「集金して回る相手がいっぱいあるのに」といった状況にもなるのであり・・・。   
   
 あるいはまた、プレ金のあとの翌週月曜日が「プレミアム残業デー」になってしまうというケースも皆無ではあるまい。   
   



雑記



 
 通販商品を購入する場合には注文時にクレジットカード決済することが普通であるが、しかし、「このショップ/サイトの経営責任者の名前は日本人のでなく○○人系のだな、あいつらはカード情報を他所へ漏洩するかも知れぬな」等、警戒感を覚える場合には「代引」の条件、もしくは銀行振込としている(銀行によっては条件を満たしていれば振込手数料は無料なので「手間」だけが問題ではある)。仮にカード情報漏れによる不正があってもこちらに過失なければ実際上の損害は発生しないだろうけど、それでも「もしかの場合の不愉快さ・気持ち悪さ・弁明の面倒など」を懸念するのである。   
   
 以前から、これは「通販」とは違うけれども、最寄のドラッグストアから介護用品やら消耗雑貨品を宅配してもらうことがあるのだが、そこは店頭での注文時には代金清算してくれない・・・「お届けの際にお支払い下さい」ということになっている。思うに、欠品や価格変更の場合に備えて「配達・納品時の決済」という主義をとっているのであろう。   
   
 そんなことから、配達してもらったときに現金支払いする必要があるのだが、そのとき「釣銭の必要なきよう、請求金額ジャストの支払いを。それが相手/宅配の配達員さんへの思いやり」というのが昔からの我が家の頑なな習慣・考え方なのである。で、常に、1円硬貨も含めての小銭をボックスに用意してはあるのだが・・・。   
   
 先日のこと頂戴した菓子のパッケージ内にあったポリ製のトレーは、硬貨をそれぞれの種別ごとに分けて保管するのに便利そうだとひらめいた。ボックス内に硬貨を一緒くたに保管するよりも、支払い時に必要硬貨をすばやく選べそうだと思う。上の写真はその様子。   
   
   
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 スコッチのシングル・モルト・ウィスキーの「マッカラン」については「スコッチ・ウィスキーのロールスロイス」などと評される。   
   
 この比喩は、このウィスキーが極めて上質のものであるとか、その風味の滑らかさや独特の豊かさがロールスロイスの乗り心地に似ているとか、そういう意味なのであろう、きっと・・・ロールスロイスに乗った経験がないのでよくは分からぬが。   
   
 しかし、この比喩の仕方にはどこか違和感を覚える。その理由は、食品・飲料品を機械製品・工業製品にたとえているところにあるからだろう。   
   
 たとえば、上と同様にして次のような比喩をしたら・・・。   
   
 「純米酒のトヨタ・クラウン(もしくはレクサスとか)」   
   
 「バーボン・ウィスキーのキャデラック」   
   
 どうだろう、「ちょっと・・・」な感じ。   
   
   
 で、今度は逆に、機械製品・工業製品を食品などにたとえる場合・・・。   
   
 「デジタル一眼レフの魚沼コシヒカリ」   
   
 「高級スポーツカーの関サバ(もしくは氷見ブリとか)」   
   
 「高級ピュア・オーディオ装置の泉州水ナス」   
      
 ・・・ジャンル超えの比喩には無理が生じかねないと、改めて思うのである。
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 2月の某日、街角の衣料品店には目立つ掲示が・・・。   
   
 「残り物には福がある!」   
   
   
 その掲示の脇には「福袋」が・・・。   
 おそらくは、年始に用意した福袋が売れ残り、それを今なお売ろうとしているのであろう。   
 女性が利用する店ではあるが、こういう「残り物には福がある」というアピールは、はて、功を奏するのであろうか?   
   
   
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 下のは、広げた鶏の手羽をグリル焼きする前の様子・・・。   
   


雑記



   
 毒物についての研究というものは、人や動物などの健康や生活環境改善などに資するような形で、平和的・有意義なものを志向して欲しいものだ。ただ、軍事利用、さらには悪用の目的での研究も現実には為されるゆえ、それに対抗する研究(防御法・解毒法など)も必要になる。   
   
 ところで、上の写真の本は昨年暮れに発行されたもの。健康、食生活の安全、人体メカニズムに関心ある人には面白く読めることであろう。   
   
   
   
 世の中・社会の仕組みやルールのあり方・・・これらを知り、そしてより良いものに改めていくために、または、上手に生きていくために、人はたとえば社会科学系の「学び」をする。(他の目的もあろうけど。)   
   
   
   
   
   
 では、人は自然科学をなぜ学ぶのか? この地球上の、宇宙の、そこに見出せる原理・法則を知るため? そして、それらの原理などを利用したモノづくりなどを通じ、人々の暮らしを便利に快適にするため?   
 実は、人間や社会や政治経済を知るためにでもある・・・。   
   
 二股の恋愛、不倫の行方と混乱は、三角関数で予測可能なのである。   
   
 人の運勢は確率論によって説明可能である。   
   
 或る国のインフラ整備(I)とビジネスの活性度(B)は、その国の或る種の国力(F)を決定づける。米国の新大統領もその辺りを意識しているものと思える。これは「フレミングの左手の法則」によるものである。  
   
   
     
 ・・・後半の説明はすべてデタラメである。   
   

「行け! 歌姫よ!」・・・ Go! Diva!





   
 チョコレートで有名な Godiva は、日本では皆が「ゴディヴァ」と呼んでいる。メーカー自身もカタカナでは「ゴディバ」と表記しているようだ。   
   
 しかし、アメリカ人など英語を話す人たちは「ゴダイヴァ」と呼ぶ/読むことがどうやら多いようだ。アクセントは「ダイ」の個所にある。「お台場」のようなアクセントではない。まだむしろ音楽グループ「ゴダイゴ」のアクセントに近いと言えるか(ふと「後醍醐天皇」、「後水尾天皇」について、これを読むときの自分のアクセントは正しいものであるのかと疑問が浮かんだが)。   
   
 ベルギーではどうか知らない。ドイツの人、あるいは、フランスなどを含むラテン語圏の人たちなら「ゴディヴァ」と読むものとは想像するけれども、状況を知らない。   
   
   
   
 ところで・・・下のは、これは別の店の包みに印刷された文章。   
   
  "enjoy to" の "to" は不要と思えるのだが。こういう言い回しには馴染みが無く「んん?」と思った次第。   
  "authentic" の前には "the" があってもよいのかなと思えたりもするが、しかし、定冠詞が無いなら無いでこれまた「一般的にそう理解されている authentic とされる風味」くらいの意味になってこのままの表現でよろしいことになるのか・・・この辺りの感覚にはどうしても自信を持てない。   
 チョコレートでなくショコラという言葉を使っているのは、これは、ま、こだわりみたいなものか。      
 ああ、でも、自分ならそれぞれの文末にピリオドを付したい・・・しかし、それはデザイン的には野暮というものか。   
   


「前菜割烹」 札幌店

   
 「山田君、あのさあ・・・そんなことは Yahoo でググればいいじゃないか!」   
   
 ・・・言っていること(話の趣旨)は分かるわけで、これはつまり、まあ、 Google で検索せよということであろう・・・いや、「ググる」という言葉が「検索する」こと一般を意味するようになっていると考えると、上の発言は「 Yahoo で検索せよ」という意味になるのだろうか。   
   
 上のような場面を指してのことと思われる川柳が、恒例の「サラリーマン川柳」の中にあって、クスッと笑えた。著作権の問題があるかも知れないので、川柳の作品そのものをここに紹介するのは控えておく。   
   
   
 ところで・・・NHKのアナウンサーをはじめとして世間の多くの人が「グーグル」を、ほとんどアクセントをつけずに平板に発音する。しかし、本来は先頭にアクセントをつけて「ぐーグル」と発音するのが正しかろう。 "people" の発音「ピープル」と同じように(実際は「ピーポー」っぽい発音になるが)、あるいは「ジャングル」などと同じように。   
   
 グーグル・マップとかグーグル・フォトとかいうように、他の語が付加したときにまで英語本来っぽく発音するのは少なくとも日本国内ではいやらしく感じられるので、この場合はアクセント無しで平板に発音するのがむしろ好ましいように思えるが。    
   
 日本にあっては、「クラブ」という語はアクセントの付け方で意味合いが変わるが、個人的にはすべて先頭にアクセントを付けて欲しく思ってしまう。とはいえ、「クラブ系」、「クラブ・ミュージック」というときの発音は平板な発音がよろしいかな。あと、「レタス・アンド・クラブ・バーガー(本ズワイ入り等)」も平板な発音で(笑)。   
   
 アプリの LINE も、先頭にアクセントを付けて「らイン」と発音して欲しいように思えるのだが。オーディオ用語、スポーツ用語の「ライン・アウト」は平板でよいかな。「ラインの黄金」のラインは先頭にアクセントを置くのが自然であろう。「ドイツ観光といえばライン下り」というときにはラインは平板に発音するのが普通であろう。      
   
   
   
 今回タイトルの「前菜割烹」とは居酒屋っぽいチェーン店で、何というか、前菜っぽい料理ばかりのあれこれを売りにしているお店である。このチェーンには北海道に札幌店がある。   
 ・・・というのは架空の話であるが。   
   
 例の、「ペンパイナッポーアッポーペン」についてどのようにアクセントを付けるべきかというとき、「前菜割烹 札幌店」と読むときと同じでよいかな。ま、べつに「天ぷら割烹 札幌店」でもよいのだが。   
 (まあ、それにしてもこの音楽の歌詞の面白さを筆者はわからない・・・そういう「面白さを理解できない自分」について別に気にはしない、もどかしくも思わないけど。愉快さ・面白さが自分のツボにはまるかどうかは、もう人それぞれ、そういうものだろう、「バッハは退屈、シューマンが気に入り。ブルックナーは面白くない。バルトークにドキドキ!」なんていう人がいたとして、他人がとやかく言うことではない。「ペン・・・」の音楽について、どのヴァージョンなのか知らないが、耳にしていたら伴奏音楽部分を良いと思えた・・・ふと、クラフトワークの音楽を久々に聴きたくなった。)   
   
   
   
   
   
 筆者が若い頃に比べると、今の若い人たちのほうが自然に(意識せずとも)多数の英単語に触れて馴染んでいそうなことをちょっとだけ羨ましく思う。たとえば「日立アプライアンス」などという社名を目にしていることであろうが、そうすると、「スマホ・アプリ」という言葉などとともに apply という動詞の意味合いなども記憶にとどまりやすくなるわけで。昔々も「アップリケ」という言葉は存在したが、 application をこのように略されるとなかなか apply との関連にピンと来にくい。なお、 apply には「応募・申請する」系の意味合いもあること説明するまでもない。  
   
  exile などという語は、昔は、たくさんの未知の単語とともに機械的に苦労して覚えたもののひとつであるのに、若い人たちは音楽の関係で知ってしまっている言葉である。ただ気になるのは、実際の発音とは異なるアクセントで発音されている場合が多い点であろうか。   
   
 ああ、でも、RCサクセションを知らない若者もいるから、そうすると succeed の「成功する」系と「継続・継承する」系の意味合いとそれに対応した名詞形・形容詞形を記憶にとどめるうえでは不利に働くか。   
   
 外国人からの郵便、ファクス、メールなどにて、 "Attached please find..." とか "Enclosed please find..." などとあるときにいきなり「 "enclose" って何だ?」と言いながら単語を調べたりする若者を見ると、「ん? 今どきの若者はオーディオもスピーカーもあまり興味ないから仕方ないかあ。でも世界史でエンクロージャーって習わなかったのか?」と、ふと疑問を覚える。   
   
   
 或るときNHKのFM放送でクリーヴランド管のライヴが放送されることがあったが、セヴェランス・ホールというのをやはり平板に読んでいた。ホールという語を伴っていることもあってそんなに強烈にアクセントを付す必要もないが、自分としては「セ」の部分に少しアクセントを乗せて読んでいるのがいつもの習慣である。(他方、「ヴェ」にはアクセントが無いから、この部分は発音記号としては e をひっくり返した音、つまり、だらしないウ/アみたいな音になり、筆者がこのホール名をカタカナ表記するとすればセヴァランス・ホールまたはセヴランス・ホールとしておきたい。)   
   
   
   
   
   
 「すみません、(職場の)かろうじて生き残っていたMOドライヴの調子がおかしくて。あのデータを引っ張り出せません」   
   
 「うむ、もう中古じゃないと入手不可能か? ヤフオクで見つけてみてくれ。アマゾン・プライム会員に登録してあるんだからすぐ送ってもらえ」   
   
   
 ・・・冒頭の「ヤフーでググる」話ではないが、上のようなやりとりもありえなくはなさそうだ。   
   
   
 それにしても、グーグルにせよアマゾンにせよその他にせよ、いろいろなサービスが提供され、そして新しいものが次々と登場して来る。      
 下のは、某ポータル・サイトのニュースまとめコーナーにあった記事見出し。「これ何だろう、奇妙そうなサービスだな」と思ったのであるが・・・ "Crime" とあるのは、何のことはない、正しくは "Chime" であって・・・。   
   


雑記



   
  (↑) 「アサリの、中華風スープ蒸し」を調理中の様子。   
   
   
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 米国の大統領による、移民・難民などへの対応をめぐっては、それを非難する人たちが多い。日本国民以外からの視点、つまり、流れ者が国民の多くを構成するような国々の立場を考えるとこうした非難・意見は大いに理解できるが、しかし、日本においてすらも同様の批判を口にする人たちがいる。   
 「ヨーロッパ等の首脳と同様に、日本の首相もまた米国大統領に再考を働きかけるべし、あるいは苦言を呈すべし」との意見を発する人たちがいる・・・政治家の中にもいるようだ・・・しかしながら、「まさかそんなことをして大丈夫なのか」と、筆者は疑問と懸念を感じる。   
   
 米国には米国の憲法があり、そしてまた、米国による選択があって然るべし、彼らの判断に委ねるべし・・・であるが、しかし、いちばん大切なことは: もしも日本が「移民・難民を排斥してはいけない、人道的見地からも、そして、自由な人の往来・グローバリゼーションの流れに照らしても、移民・難民の積極的な受け入れを」などと、ひとたび強く主張・提言すれば、将来的にも日本が移民・難民の流入を抑制・阻止し続けていくうえで不利に働くことが予想される。これこそが当面、いちばん留意すべき点であろう。   
   
 国連の難民高等弁務官その他が何を言おうと、或る国や地域に異国の民、異邦人、異民族、異教徒を受け入れるということは大混乱を招きかねない、災いの原因となりうる。おそらく世界の多くの民は、日本人とは違って「よその国へお邪魔したら、子々孫々にわたっておとなしく、しおらしく、協調性を持ちつつ暮らし、まじめに慎み深く、波風を起こさぬように生きていきます」と考えたりせぬであろう・・・そういう者たちが日本人社会に入って来れば、やがて彼らはつけあがる・・・そして、何かといえば安易に人権だの言論の自由その他を口走り、様々な主張をし、デモなども頻繁にするようになるであろう(同時にまた日本では徹底した治安維持が出来きれない状況が続いたままでもある)。   
   
 日本は海に囲まれているから、そしてまた経済大国として世界的に知られてはいながらもやはり外国人が手にする地図のうえでは極東の、つまり地図上の右端にポツンと寂しく存在する小さな辺鄙な列島であるから、どちらかといえば外国人が移住に消極的になりそうな「微妙なマイナス要素をもつ存在感」を示せているけれども、将来的にどのように見られるかは分からない。「世界じゅうで日本が一番幸せそうな国だ」と思う人たちは多いし。   
   
   
 いま、日本の近くの某国がミサイル実験を繰り返している。このまま放置しておいて大丈夫だろうかと、日本国民は懸念を抱いている。対処法は何通りもありそうに見えるけれども、たとえ日本単独でなくどこかの国と合同してであろうとヘタに乱暴なことをすればこれは国際的な非難を浴びるから出来よう筈もない。   
 もっと穏やかな方法として・・・技術力が低い者たちでも確かなミサイル発射・運行制御を可能とするようなミサイル・キットを技術供与して次のようにアドヴァイスすることも、やっぱり危なくて出来っこない: 「どうせなら、このキットを使ってミサイル実験せよ。いまのお前たちの技術レベルでは実験に失敗して日本の秋田や新潟や、あるいは日本のどこかの原発に落下しかねないけど、その場合の人身被害などなどを賠償でけんやろ(不作の、うらなりみたいなトウモロコシや穀物・野菜を育てて食っているだけの民と比べ、日本人は稼ぎ・生涯賃金も命の値段も違うんやで)。このキットを使ってミサイルを正確にコントロールしてくれ。よろしく!」などとは・・・。   
 わりともっと穏当な方法としては、たとえば、食糧難にあえぐ辺境地の民などに上空から食糧支援して「世界の民は日々これくらい豊かな食生活を送っているのだぞ。これをもうしばらく提供し続ける。その間に諸君も頑張って民衆蜂起をして政権を打ち倒し、豊かで自由な暮らしの実現に向かってくれ」とそそのかす手段もありうるかも知れないが、それでもしかし・・・「そそのかし」をした以上、あとの顛末について責任をかぶりうる。   
 あるいは、自然崩壊・自滅のときまで待つか。側近やそれよりも下のあたりからのクーデター、権力者の不慮の死とそのあとの混乱などなど・・・。   
 だが、しかし・・・。とにかく問題は、どのような経過を辿ろうとも、かの国から他地域に逃れ、さまよう者たちが多く出るのではないか。これをどうするか。思うに、彼らについては、同じ民族が暮らす隣国、あるいは、少なくとも地続きのどこかの国に逃れてそこで受け入れてもらって(面倒をみてもらって)暮らすのが妥当というものであろう・・・当然ながら財政負担も当該国による。日本に入って来てもらっては絶対に困る。   
 海を渡って来るかどうかはともかくとして、日本としては、一人たりとも上陸させたくない。この場合に、やはりそれ以前(過去)において「移民・難民の積極的な受け入れを」などと声高にアピールしていればそこに矛盾感が生じ、どうにもマズイのである。   
   
   
   
(ひとときの脱線:)   
 世界各地の紛争、難民、貧困、児童労働などなどについての報道が伝わる。しかし、これに類したことは太古の昔からあったことであろう。情報網・メディアもろくに発達していなかった時代には、人々は遠隔地、ましてや地球の裏側の状況まで知りうる筈も無かったし、そういう問題は放置され、誰も手を差し伸べることなく、それで済んでいた/何らかの一定の決着を迎えていたのである(たとえ悲惨な結末でも)。現代では我々は多数の悲劇を(映像・音声つきで)目にし過ぎ、ウォッチ・モニタリングし過ぎているのではないか。   
 フリージャーナリストという人たちまでもいて、新聞社社員の記者では行きたがらない地域にまで足を踏み入れる。そして、彼らは誇らしげに「この現実を世界に伝えたい。どれほど危険でも私は頑張りたい、この世界から紛争や悲劇が無くなる日まで」などと語ったりする・・・戦争も紛争も、いろいろの理不尽も、決してこの世から消え失せることなど無かろうに、夢物語を信じて人生を賭けるとはまるで宗教関係者のようにおめでたいことである(もっとも、宗教関係者が施し・恵みを巧みにねだる手口に比べれば、彼らが報酬を得る仕方のほうがずっとリーズナブルではあろうか)・・・しかし、普通の手堅い生業では飽き足らず、危険な地域をめぐり歩き、その挙句、仮にも人質などとしてつかまれば身代金うんぬんの問題となり、それへの対応で多くの人の時間を浪費させるし、仮に身代金支払へとつながれば、同様の手口が連鎖するなど大迷惑が生じるのに。   
 が、そうしてジャーナリストらによって伝えられる現実に我々がいちいち真剣に見入っていたら、こちらは疲れてしまう。時に我々はもっと肩の力を抜いて「あのような紛争を繰り返して・・・困った衆生よのお」とつぶやきながらチャンネルを切り替えることもあってよいのではないか。日本人である我々にとってまず以って大切なのは日本と、そして、つながりの深い国・地域であろう・・・グローバルな視点および長期的視点で何から何まで考え洞察すること等については、その種の職責を担ったエリート層の仕事と割り切ることが我々凡人には許されていると思う・・・そうでないと、のびのびとした気持ちで生きていけない。   
   
   
 さて・・・。   
   
 日本国内の現在の平和と安定は、日本人がひとえに日本人のために築いてきたものである。「日本という国・地域は平和で素晴らしい、治安もよい、日々の食生活にも困らない」と褒め称える外国人もいるが、そういう社会は我々日本人のためにあるのであって、べつに外国人に次々と移住して来てもらって彼らにも一緒に堪能して欲しいわけではちっともない。   
 日本で労働力不足が予想されるなか、外国人が入って来て労働力提供をしてくれることはメリットもあるが、しかし、「彼らが高齢になって衰えが出始めたら本国に帰ってくれなくては困る」というのもまた否定できない事実であり、我々の本音である。移民・難民の医療・介護・生活支援などに関して日本人が支払う・負担する税金・社会保険料の一部でも回ることを我々は望まない。彼らは彼ら独自に、いわば民営の互助システム・保険システム・無尽など考え出すことがあってもよさそうに見えはするが、いやいやしかし、それに安心をして永住を目指すようになれば、やがて彼らは選挙権・被選挙権などを求め、そして日本人の中にもそれに理解と賛同を示すような者も現れ、日本はどんどんおかしくなっていくことであろう。(一部の、人格や業績面などで優れた人たちが日本に移住・帰化することにまで反対するつもりは無い。)   
   
 米国の大統領令について、これを、きれいごとで安易に批判することをしてはいけないと思うのである。何が大事であるか・・・人権も、そして自由(宗教・思想信条の自由を含む)も、差別否定の考えも、博愛主義も、確かに大切ではあるが、「せっかく築かれた何かを破壊される危険性」を憂う・警戒することも忘れてはなるまい・・・現在の米国の場合には「 テ ロ の無い、安全な社会」であろうか。そういう憂慮をすることなく大統領令を批判することについて、人によってはそれを「偽善」とすら感じもするのではないか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 下のは「げんげ」という魚。   
 煮付けて美味い。   
   
 「漢字で“幻魚”と書いて“げんげ”と読むんですよ。美味いよ!」などと言いながら客にやたら擦り寄って来る魚屋のオッサンも以前いた(「こいつ、同性愛者かよ!」と思えるほど近寄って来ることが複数回あったので、この店には寄らなくなった・笑・・・どちらかと言えば「パーソナル・スペース」を大きく/広めにとりたがる筆者なのであるが、それを勘案してもなお、他人に接近しすぎるように見える人が時折いる)。    
   
 美味いけれども、ただ、大騒ぎするほどではない。普通程度に美味い。だから、妙に高い値段をつけて売られている場合には首を傾げる(アンコウとかじゃないんだから)。   
 ウロコが無く、また、皮とともにコラーゲンっぽいものがトロロローンと存在するので(ヌメリっぽく)、人によっては「キモい!」と感じるかも知れない。身の風味は、干物にしていないハタハタにちょっと似たところがある・・・背骨の具合も似ている。    
   
 なお、「げんげ」とは、魚のランクとして「下の下(げのげ)」と言われたのが訛ったものという説もある。しかし、「ランクづけ」してもなあ・・・過去に「猫またぎ」とされながら現代の日本人が喜んで食しているマグロの部位もあることだし・・・。   
   


フランチェスカッティ/セルによる、バッハ/ヴァイオリン協奏曲



   
 自分には決して「絶対音感」が無いこと、強く胸を張れる(明言できる)けれども(笑)、それでも或る一定程度の「相対音感」はあるものと思う・・・大方の人はそういうものではあるまいか・・・そして、絶対音感が無いほうが、人はおそらく幸せに過ごせるものと、「物事は良いほうに良いほうにと」考える。   
   
 或るとき、夜の歯磨き中にテレビの音楽番組の音が聞こえていて、それを聞いたときに「う・・・あれ?」と思ったことがある。ヴァイオリン演奏の音程(或る音から別の音へと移動するときの音程差)がおかしいように思えた。自分は歯磨き中に少し首を振ることがあるので、ドップラー現象に類似するようなことが生じて音程がおかしく聞こえるのだろうかと思ったが、しかし首を静止させても演奏音程の奇妙さは続いた。すぐにテレビの前に行ってみたら、やはり、どうしたって音程がおかしいと思えた。   
 事前のチューニングをちゃんとしてあっても、ヴァイオリンの類や三味線などの指板はギターのものとは違うし、何かのあんばいで(しかし責任は本人にあろうけど)音程が怪しくなってしまうことが往々にしてあるのだろう、おそらく。   
   
   
 冒頭写真の上段は、つい最近リリースされたCDセット商品で、ジノ・フランチェスカッティのレコーディングを集めたもの。少し前にブログ記事で触れたワルター/コロンビア響とのモーツァルトのヴァイオリン協奏曲も含まれている。このレコーディングでは、フランチェスカッティのヴァイオリン演奏に音程確保の甘さも感じられるが(もしかすると、基準とするチューニングにおいてすらズレがあるのかな、どうだろう?)、それでもしかし、とても魅力的な演奏である。   
 弦楽器奏者の音感の「確かさ」の変化・衰えというものが年齢とどう相関するか(あるいは共演のピアニストや指揮者、また、レコーディング・プロデューサーらがハッキリ指摘しそうな人であってそれが関係するのか)等を確かめる上で、このように一人のアーティストのものをセットにして集めたものは研究対象として好適かも知れないが、しかし、筆者はそれよりも音楽を楽しみ、偉業に敬意を払うことを優先したい。   
   
 このセットにはセル/クリーヴランド管と演奏したバッハ/ヴァイオリン協奏曲第2番BWV1042も含まれている。これの板起こし・CD化は過去に別レーベルでも為されてはいるが、今回のこのセットのほうが価格的にも求めやすいうえ、他のレコーディングが盛りだくさん収められているのでかなりの「お得感」がある。   
 クラシック音楽ファン一般にとって、同曲については、ヘンリク・シェリングによる「定番」とも言える録音があり、あるいは、比較的新しいものではユリア・フィッシャーのレコーディングなど、堪能できるものが色々あるけれども、フランチェスカッティのこれもまた優れた味わいを有している。   
   
 収録内容の詳細は省くが、ワルター、ミトロプーロス、オーマンディのファンにとっても要チェックの商品であろう・・・オーマンディとのショーソン/「詩曲」なども収録されている。   
 まだすべてを聴いたわけではないが、たとえばオーマンディとレコーディングしたブラームス/ヴァイオリン協奏曲ではレコード盤のキズによるものと思われるノイズもあったりする・・・しかし、気になるかといえば、筆者個人的には「ちっとも」である。   
   
 冒頭写真の下段に写し入れたものは過去に発売されたカザドゥジュ(カサドシュ)のセット商品であるが、こちらにもフランチェスカッティとのレコーディングが含まれている(ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタについては、上のフランチェスカッティ・ボックス収録内容との間に重複があるが)。そしてまた、セルとの演奏も含まれている。興味関心のある方は、こちらにも目を向けていただきたく思う。   
   
 下のは、今回商品の中のバッハ/ヴァイオリン協奏曲に関して:   
   


立春・・・



   
 「恵方巻」/「丸かぶり寿司」というものを知ったのはいつの頃であったか。コンビニが商品展開を始めた頃のことであった。   
 馴染みが無かったものだから、それを知ったときには「けったいなもんやなあ」と思った・・・いや、東京育ちであるからして普通に標準語で「変な習慣があるのだなあ」と心の中でつぶやいたのであるが。そして「本当なのか? 実際には存在していない習慣をデッチ上げているのではないか? しかし、これが日本全国的に定着すると、クリスマス商戦、バレンタイン商戦みたいに大きな商売のタネに育つであろうなあ」などとも思った。やがて・・・今日では実際、日本全国での恵方巻の売上高・経済効果は随分と大きなものになったと言えるだろう(「立春前の節分」以外での恵方巻キャンペーンも行なわれるようになって来ているし)。   
   
 恵方巻というものを知ったときにはまた、「自分は一生、決して食べないぞ」と思い定めたものである。   
 が、中学時代からの友人が営んでいるコンビニに遊びかてら買い物に寄った折り、彼から「まあそう意地を張らずに、美味いし、面白いから食べてみろ」と何本か貰ったので食べることになってしまった(ただし、それが最初で最後、その後は食べていない)。   
   
 この友人については、筆者は昔から羨ましいと思ってきた。コンビニになる以前、親父さんが経営するお店はちゃんと繁盛しており、その後、親父さんがコンビニに経営スタイルを替えてからも商売は極めて順調そうであった。親父さんのもとで一緒にコンビニの仕事をする友人について、「景気も良さそうで何よりだし、ネクタイ不要で、通勤ラッシュに揉まれずに済む仕事で、気心の知れた家族どうしでやれるというのは人的ストレスも少なくていいよなあ」と思ったものである。   
 が、しかし、彼に言わせると例えば「経営者・上司が父親であるというのは、しんどくて鬱陶しいものがあるぞ。親父の意向を窺いながら、あるいは諸々の説教をされながら仕事をするというのは・・・」と聞かされた。確かにそうなのかも知れない。そのほか、あれやこれやと考えたり悩んだりすることもあったようで。そして彼は「そこへいくと、お前のほうが羨ましい。お前、子供の頃から、“ここぞというときにも頑張らない生き方”をしてきたもんなあ、そういうのが羨ましい」と言ったのであった・・・これは彼が、中学生時代の筆者を思い起こして言っているだけであって、高校生以降は随分と心を入れ替えて生きてきたつもりなのであるが(笑。しかし、睡眠時間だって、コンビニ経営の彼に負けないほど切り詰めて過ごしてきたのである)。   
   
   
 恵方巻の食べ方は何だか「ほのぼの」するものがあるが、しかし・・・。   
 コンビニでのバイト学生などが恵方巻販売ノルマを課されているみたいなことが報じられているけれども、恵方巻であろうがクリスマス・ケーキであろうが、そのようなノルマは理解しがたい、許せないと感じる。   
   
 仮に、次のようなバイト募集/バイト条件であれば、これはよろしいと思うのだ:   
   
  時給 ×××円。   
  なお、2月×日まで、さらに恵方巻販売実績給を上乗せ支給します(12円/1本)。   
   
 12円について特に根拠は無い(笑)。   
 もちろん、基本の時給部分は最低賃金を下回ることがあってはなるまいし、また、上のような奨励給があるからと言ってノルマ、最低到達目標など設けないこと・・・バイト各人が売込先として家族・友人を考えるならそれもよろしかろうし、他方、「自分は特に売込みたいとは思わない」という人もまた良しという感じで。   
 なお、主として成人、いや、社会人経験を経ている者などに、請負のスタイルで恵方巻販売を託す場合の給与の仕組みについてはまた別の話となるであろうか。   
 (なお、筆者、労務・労働法関係の専門家ではないから、上で書いたことには誤りがあるかも知れない。)   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 (恵方巻を食べるにせよ食べないにせよ・・・)さて、立春を迎えると、伝統的な(古い)考え方としてはいよいよ新年である。(また、今年の例で言えば2月3日までに生まれた子供の干支は「さる」とされるし、2月4日以降に誕生した子供は「とり」となる。)   
   
 今年2017年は、1897年生まれのジョージ・セルの生誕120年である。めでたし。   
   
 120年ということは、還暦の60年ちょうど2回ぶんで、その意味では生誕100年よりもめでたい。1897年は「丁酉(ひのと とり)」で、当然ながら今年2017年も同じ。   
   
   
 さて、今さらここでセルの活躍をすべて振り返るなどすれば大変なことになってしまうので、残っているレコーディングのうち最初期に属するものの中から・・・セルが、歌手リヒャルト・タウバーのオーケストラ伴奏の指揮をしているものを紹介。実に、大正13年から昭和2年にかけての録音。   
 冒頭の写真は、SP盤から板起こしされた音源を含むCD商品。これまで何点かリリースされてきたが、上段2商品および下段左の商品に収録されているものは、すべて下段右の商品に含まれている(セルが関わっているものについては)・・・よって、この10枚組CDセットを買い求めれば、あれこれ探し求める苦労をせずに済む。セル・ファン必携とまで言えないと思うが、このタウバーという歌手の歌唱そのものがたいそう魅力的で(これほどCD化されているのはその証拠!)、そういう意味でお奨めしたく思う(音質面に不満を覚える人もいようけど)。   
   

マルチリンガルを目指す人のための総合文法講座 レッスン8: 「現在官僚進行形・・・未来完了・・・将来天下り」



   
 練習問題: 次の日本文を、英語・ドイツ語・フランス語に訳しなさい。特に時制に留意して翻訳しなさい。   
   
 「娘のお前がやがて嫁ぐ頃にあっても私は依然として公僕たる官僚であり続けようが、けれどもしかし、お前が息子や娘を得て“母”という存在になる頃には、おそらく私は、自身の専門分野についての国内外の事情通として、そして広い知見を有する者として、民間企業において、もしくは財団法人その他の組織において、重要な役職に天下っていることであろう。その暁には一緒にバーベキューと川下りでも楽しみつつ、大空にむかって二人して“天下りより川下り!”と叫ぼうではないか」   
   
   
 いわゆる「天下り」について、その何もかもを批判しようという気は筆者には無い。あり方・パターン・弊害などに注視すべきということに尽きるのではないか。誰もが事務次官にまでなれるわけでなし、また、知識・才能・キャリア・手腕を活かせる再就職先を得る権利というものは、キャリア公務員であろうと誰であろうと有しているわけであり・・・弊害・問題を生まない形が大事であるが、しかし、実のところ簡単な話でもないか。   
   
   
 冒頭の写真、および、その連続の下の写真は特に意味がない・・・利用頻度の少ない文具をはじめとして、デスク引出し内に収めているものの様子(筆ペン、万年筆関係、シャープペン・消しゴム、ハサミ、綴じ具など)。   
   


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クラシカルな某

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