2017-01

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雑記: オケもん、GO!



   
 何作品かオペラものばかりを聴いたのち、また「オケもの」(管弦楽作品その他)の鑑賞へと・・・。   
   

雑記




   
 PCのディスプレイ画面に、迷惑にもライン/筋が現れるようになり・・・こういうときはデバイスマネジャーからディスプレイアダプタ~ドライバソフトウェアの更新などで対処するのが「先ずは」の対処法とされているかとは思うのであるが、しかし、ノートPCのディスプレイであるがためディスプレイの開閉角をちょっと動かすと症状が消えたりディスプレイ上へのラインの現れ方に変化があることに気づいたのであった。何か、物理的な原因か・・・ケーブルの中の電線の具合とか、ケーブルとパネル関係回路との接合の具合とか。   
   
 思い切ってPCのディスプレイ周囲を分解し、ケーブルを、何というか「揉み揉み」して組み立てなおした。迷惑な、好ましからぬ現象は消失した。このまま安泰でいてくれると嬉しいのだが。(本来であれば、交換用(部材引き抜き用)に同一製品の中古品などゲットしておいてからトライするのが多少とも安全な仕方であろう。)   
   
 写真中、左端にあるのがディスプレイ部材。   
   


P P A P じゃなくて POPPEA


   
 「ジャンニ・スキッキ」、「ポッペアの戴冠」その他のオペラ作品を・・・。   
   


ブラームス/二重協奏曲、その他



   
 昔、CBS・ソニー発売のアナログ盤でフランチェスカッティ/ワルターによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番とフランチェスカッティ/フルニエ/ワルターによるブラームス/二重協奏曲とを収録したものがあって、わりとよく聴いていた。   
   
 「このソリストらとともに、これらの曲目をセルがレコーディングしてくれていたなら」と何度も思ったものであるが。セルの正規レコーディングとしてはスターンとのモーツァルト、オイストラフ/ロストロポーヴィッチとのブラームスが残されている。   
   
 さて、ブラームスの二重協奏曲に関して。   
 上の写真で、左上のはセル・ファンを含め多くの人に昔からおなじみの録音。   
   
 右側のはスターン/ローズ/セル/クリーヴランド管のコンサート・ライヴを収めたCDで、イストミンも加わってのベートーヴェンの三重協奏曲も収録されている。しばらく前に発売された。かつて、アメリカのCD-R盤商品通販サイトの某にてこのメンバーによるこれらの曲目のライヴ音源が売られていたが、それと同じコンサートのものであるのかどうか・・・まだ聴き比べをしていないので判断できない。そのCD-R盤商品にはナレーションも入っていて、ブラームスについては1966年4月11日のコンサート、ベートーヴェンについては1966年4月14日のコンサートであると紹介されている。ただ、過去のコンサート資料などから、両者ともに1966年4月14日ではあるまいかと筆者は想像している。いすれにせよ1966年4月。   
 上のCD、つまり先日発売のCDでは、このライヴについて、パッケージ裏にては1966年7月13日のものと表記されているが、その時期だとクリーヴランド管のオフ・シーズンであり、セルもまたヨーロッパ滞在していたことであろう(ゴルフなどの保養と、音楽祭出演その他のため)。他方、パッケージ内のリーフレット(ライナー・ノート)には1969年10月7日のライヴであると表記されているが(表記にこのような不統一があるのは珍しい・笑)、この日にはクリーヴランド管のコンサートは無かったようである。いずれの年月日も、もしかするとこれらのコンサート収録内容が放送された日(エアチェックされた日)であるのかも知れないが、これまたもちろん確証など無い。   
   
 写真の下方に映し入れたディスクはDVDで、バティアシュヴィリ/モルク/ラトル/BPOの演奏による二重協奏曲を含んでいるもの。この曲の「あるべき演奏スタイルやスケール感など」をどう考えるかにもよるが、しかし、これまた聴きごたえ・見ごたえ・醍醐味などある、満足度も大きい演奏/DVDと感じている。   
   

ドヴォコン鑑賞



   
 チェロ協奏曲はロストロポーヴィッチ/セル/クリーヴランド管のライヴ。昔から自分はこの演奏にどうしてもうまく馴染めず(音楽の「呼吸」のようなものが違うのかなあ)、やはりフルニエ/セル/BPOのセッション・レコーディングが気に入りである(グラモフォン・レーベル)。フルニエといえば、シェルヘンとのライヴもまた気に入りなのであるが。   
   
   
 ピアノ協奏曲はフィルクシュニー/セル/クリーヴランド管のレコーディングと、そしてまたリヒテル/C.クライバーのもの。   
   

官舎、観劇、飴、あられ菓子・・・

   
 (↑)タイトルに特段の意味は無い。   
   
   
 企業それぞれに(いや、国家公務員と地方公務員との間、また、こっちとあっちの地方公務員の間でも)給料諸手当、福利厚生、退職金/退職年金などなどの待遇が異なることは、これは致し方の無いことであろう。   
   
 だから会社によっては社長その他が従業員に対して「残念ながら当社は配偶者手当や扶養家族手当、住宅手当などを支給できるような余裕は無いんだよ。出すとすれば、基本の給料を引き下げることになるかなあ。それはつまり、新卒社員ほか未婚、子供ナシ、親元から通勤などといった条件の人の給料を今より引き下げることが前提になる」等の説明をする場面もあるかも知れない。その実、オーナー社長とその家族で取締役等としての報酬などをガッポリと得ているかも知れないのであるが、これまた、資本家/経営者という立場にあること、難しくて高度な舵取り/仕事をこなしていること、創業/会社設立から今日・将来にまで経営リスクを背負っていること、などなど考慮すれば「この世の仕組み・摂理」として当然のことではあろう。ここで「搾取」とか「持たざる者の悲哀」などと口にするのはどうかと思うし、過激に資本主義を否定することにも賛成できない。   
   
   
 居酒屋で、その近所にある会社(法人)の社長とおぼしき人物が若い従業員にこう説明していた(若者たちは作業着を着用していたのでその会社の面々であることがこちらにも分かった):   
   
 「うちくらいの規模の会社だと、通勤手当まで支給すると税務署がうるさいんだよ。電車賃とか自動車のガソリン代とか、そういう類のものはダメ、一切支給できない」   
   
 ・・・んんん? 企業規模がどうとか、業績がどうとか、そういうこととの関係で従業員向けの通勤手当が即、たとえば過大報酬みたく見なされて税務署から何か指摘・否認される等のことはあるまいと思うのであるが・・・もちろん、デタラメな支給の仕方は問題を生じようが。   
 社長、ウソを言って従業員を丸め込んではいけません。   
 しかし、もしかすると、世の中ではこういう説明/説得が案外とまかり通っていたりするのだろうか。しかし、正直にたとえば「支給する余裕が無い」などと説明すべきであろうに。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「やっと子供の関係のPTA役員の任期も終わろうとしているのに、今度は町会(町内会、自治会、隣組)の役員にさせられそうで。参ったなあ、イヤだなあ」と言っている人がいた。   
 うーむ、憂鬱なのかも知れないなあ。   
   
 実は筆者も以前、役員に選ばれそうになったことがある。そのときの町会長さんから「世代交代への準備が必要なので次年度から役員に加わってくれ」と言われたのであった。   
 町会運営のあり方に少しばかり疑問を持ち続けていたので、ちょうど良い機会であるから幾つかの改善すべき点を告げた。その後半でこういうことを言った:   
   
 「うちの町会では町会費を毎月のように集金して回っているが、集金する方も、払う方も面倒なことこの上ないではないか。1年分前納または半年分前納とし、引越で他所へ出て行く人は未経過期間ぶんの返金について自分で会計担当役員を訪ねて払戻請求する仕組みに改めるのが良いのではないか。現行の集金の仕組みを続けるとすれば、町会役員の報酬としては会計担当役員に対するものをもう少し引き上げ、町会長その他のものを少し引き下げても良いのではないか。あっ、それから私は報酬は要りません」   
   
 町会役員、それも町会長ともなれば、市区町村役場との連絡や町内の葬儀関係はもちろん、あれやこれやと忙しくもあり、また、いちいち領収証を得たり金額特定することをしていない自費負担(電話、コピー、自宅内プリントなど)もあろうけど、それにしてもそれほど多額の報酬を支給する必要はあるまいというのが筆者の感覚なのである(都会と農村ではまた職務の負担その他の状況に大きな差異があるやも知れぬが)。つまり、上の筆者の発言は「あんた、そんなに報酬を取らなくてもいいんじゃない?」という含みを持っていたわけであるが(笑)   
   
 町会長さんはむしろ、筆者が「自分は報酬を要らない」と言った点に反応した。こちらの趣旨としてはこういう説明をした:「自分には給料以外にも多少の雑所得などもあり、町会から少しの金額を貰ってもそれも確定申告に含めるつもりであるから、貰ったものは税金分だけ減るわけだし、面倒だからいっそ何も貰わなくていいです」   
   
 「確定申告に載せるの?」と意外そうな表情をされたが、こちらとしてはそうすべきものと考えるのである。事実上は黙っていても(申告から除外しても)お咎めナシとなろうけど、物事は几帳面にして決してケチがつかないようにしておきたいし、それによって負担増となる税額(増差額)もそう大きなものではない。   
 既に現役職業人を終え、基本的に公的年金だけが収入みたいな人たちの場合、町会役員の報酬について確定申告の心配をする必要があるケースは限られることであろうが・・・ただ、確定申告するとなると所得税・住民税ばかりでなく後期高齢者医療などの保険料、介護保険料などもアップしうるのかな、どうだろう(しかし、たとえそうだとしても制度上そうなっている以上は仕方ないことであろう)。   
 町会長さんはもしかすると「この男が確定申告に載せるとなると、自分も確定申告しないと税務署から何か言われるのではないか。また、この男が無報酬で構わないと言っているのに自分がこれまでどおりの報酬を得続けると俺の恰好が悪くなる」と計算したかも知れない・・・結局、町会役員に加わる話は立ち消えになってしまった(笑)。こちらとしては、めでたしめでたしと言うべきなのか否か。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 昨年12月に、頼まれて某社のために原稿を寄せるということがあったのだが、事前に説明しておいたにもかかわらず向こうは源泉徴収をせずに原稿料を送金して寄越した。これまで他社ではこういうことは起こらなかった。そこで改めて電話で説明したのだが、どうしてもラチがあかない(話を理解してくれない)。   
 当方の確定申告に際して「この会社は源泉徴収漏れしておりますが、それはともかくとして自分としてはこの件の申告所得金額はこれこれ、源泉徴収済み税額はゼロです。もちろん源泉徴収票のようなものも存在しません」と記載・コメントすればよいのだろうか・・・しかし、この会社に恨みなど無いのだよなあ。   
   


フーベルマンとセルのあれがまた登場

   
 元日の晩はVPOニュー・イヤー・コンサートのテレビ中継を30分ほど観た。披露されていた曲はこちらの馴染みのない作品であったのだが、しかし、音楽のリズム要素/成分がくっきりと示されて現代的な表現と感じ、そのせいもあって音楽に輝きが見てとれ、総合的にも「これは良いではないか!」と思えた。曲の仕上がりのそういう特性ゆえに「典雅さや落ち着き・深みが足りない」との感想を抱いた人たちもいたであろうけど・・・。   
   
 それにしてもドゥダメルは若い。   
 ふと、セルとVPOとの関係に思いを巡らし・・・この指揮者がヴァイオリニストのフーベルマンとともにVPOのコンサートに登場したのは1933年で、そして翌34年にやはりVPOとともに彼らはベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲とラロ/スペイン交響曲をレコーディングし、セルはまた「美しく青きドナウ」ほかのワルツやポルカをレコーディングしたのであった(以上、いずれも勿論SP盤)・・・セルがまだ36、7歳の頃ということになる。   
   
   
 その、フーベルマン/セル/VPOによるベートーヴェンのコンチェルトが、もう何度目になるのやら、またもCDで登場する・・・実に、80年以上前のレコーディングである。   
 この曲については、セル・ファンとしてはナタン・ミルシテインまたはエリカ・モリーニとのライヴ音源のほうが音質的な面も含めて楽しみやすいのであるが、それはともかくとして、SP盤の貴重な音源が引き継がれていくことは喜ばしいことである:   
   
   
  http://www.hmv.co.jp/news/article/1701020004/   
   
   
   
 下のは過去に載せた写真の再掲で、フーベルマンとセルによるレコーディングを含んでいるCD。   
   


新年を迎えて

   
 この新しい一年、皆様に幸多きものとなりますように。   
   

雑記

   
 中国(本土)から日本にやって来る観光客も、最近は「日本人は、我々と、台湾や香港からやって来る中国人とを区別して見ている」ということに気づき始めたようだ。そうして、「なぜ同じ中国人なのに区別するのか」との不満もあるようだ。   
 日本人からすると、いや、少なくとも筆者からするとその「区別」は当然で、「同じ中国人」とは見ていないのであるがなあ。そして、台湾は台湾、香港は香港、それらは中国(本土)とは別という認識も筆者にはあるし、「1つの中国」というものに違和感を覚えるし、また、先日のトランプ次期大統領の発言にも頷けるものがある。   
   
 日本人であろうと、また、どこの国民・民族であろうと、素行のよろしい者もいれば悪い者もいるし、マナーの良い者・悪い者がいることは確かである。しかし、概して、どうも中国(本土)の人たちについてはその考え方・行動・マナーなどなどに好感を持ちにくい。    
   
 親の食事の世話のためスーパーに買い物に行ったときのこと。そこには客が利用できる有料コピー機がある。傍若無人という言葉が当てはまりそうなほどに大きな声で中国語を喋る夫婦が、コピー機の電源コードの先のプラグを指差し何かを言い合い・・・そして、今まさにそのプラグを抜いてスマホの充電を始めようとする振る舞い・・・こちらは、どうしても見て見ぬふりは出来ず、「おい、それはダメだよ」と注意した。彼らは思いとどまったが、何かこちらに文句を言いたそうな表情も浮かべた。連中はどうしてああいうことを思い立つかなあ。     
   
 別の日のスーパーにて。レジを済ませ、買った品をレジ袋に収めようとしたところで、同じテーブル(台)に中国人と思われる買物客(2人)がやって来て筆者と同様に品物をレジ袋に収める段取りを始めた。このとき筆者は先ず疑問を覚えた・・・そのときスーパーはとても空いており、他のテーブルがガラガラだったのである。こういうとき、わざわざ他の客と同じテーブルにやって来る人間というのはちょっと変わっている(「頭がおかしい」とまでは言わないけれども、ふつう人間というものはアカの他人との距離を最大限に確保しようとするものであろう・・・別の例で言えば、たとえば13時を過ぎた頃の食堂で昼食をとるときでもそうなのだが、他に空いているテーブルがいくらでもあるのに既に席についているこちらと同じテーブルに着くという変わった人がたまにいる(知人でもないのに)・・・それが許せぬわけではないが、そういう人間に限ってバッグを椅子の上や床にでなくテーブルの上に乱暴にドサッと置くなど、マナー的にどうかしていたりするからムッとなるわけである・・・バッグの底などが清潔であるか否かはこちらには分からないのであるからして、そのへんの他人の気持ちをおもんぱかってバッグをテーブルの上に置くことは慎むのが常識であろう・・・極端なことを言えば、不衛生なものがこちらの食べ物のところまで舞って来るやも知れないではないか)。   
 さて、この中国人らしき買物客は大量買いした商品をレジ袋に収めるにあたって・・・ふつうならば買い物カゴ(スーパーのプラスチックのカゴ)から直接にレジ袋に移すものであろうが、彼らの頭ではそれを思いつけないせいか、品物を買い物カゴから出してテーブルの上に並べ、そのあとにレジ袋に移すという段取りに・・・その際、彼らは作業面積に不足を感じたからであろう、こちらの買い物カゴを少し押して寄越した(意図して押してきたのである)。当然こちらは不愉快になる・・・しかし、そこでどうこう言うのも大人気ないので黙っていた。すると、しばらくしてもう一度こちらへ押して寄越すのだ。これを甘やかしてはいけない、つけあがらせてはいけないと思ったから、「何やってんだよ、そのカゴから袋へ直接移せばいい話だろ・・・××××××」と大きな声で言ってやった。むこうは日本語を分からない様子。そこまではよいのだが、スーパーのレジ担当の店員さんがこちらを見て、そして咎めるような表情を浮かべた。   
 べつに暴力を振るったわけでもないのだし、ふざけた行動をしたのは向こうであり、店員さんからそんなに険しい顔をされるのも心外であった。   
 しかし、あの買い物客のあの行動に見られるように、かの国はきっと日本の領海や領土を奪おうとするであろうと、改めて思ったところである(隣家やその敷地が中国人所有となった場合などには、敷地境界の石や標識などをこっそりこちら側に押しやることがないとも限らない、警戒すべきではあるまいか)。   
    


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