2016-12

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雑記

   
 某社が毎年恒例のように行なっている無料招待コンサート企画は大人気である。有名アーティストらが多数参加する。   
 コンサート会場には1000名が入れる。しかし、往復ハガキによる応募総数は実に100万件ほどで、その中から抽選により当選者が決まる。   
   
 抽選手続までの概略は次のとおり・・・。   
   
 広告宣伝部のスタッフ1名が、日々届く往復ハガキを専用のボックスに収める。累計では100万通ほどになるからボックスの数もハンパではなく、会議室をひとつ占拠してしまうのは仕方ない。   
   
 しばらくすると抽選日がやって来るから、先ほどのスタッフほか計3名ほどで手分けしてボックスの中から「エイヤッ」と適当に1000通を選び出して当選者とする。   
 ただ、そうして選んだ1000通の中には、なぜか往復ハガキのどこにも返信先/連絡先が書かれていない等の不備があったりもするので、一応、さらに追加して50通ほどを選び、それらには順位をつけておく(補欠当選者の選出)。   
   
 さて、しかし、今年も上のような手続きでよいかどうかと、打合せが行なわれた。   
   
 会議の席上、A君はこう発言した。   
   
 「届いて来る往復ハガキを担当するスタッフが不正をする可能性を排除したい。たとえば、自分やその家族・知人が或る特定の日にハガキを投函するならば、その翌日や翌々日あたりに、届いたものの中からそのハガキをピックアップすることはさほど大変なことではあるまい。そのハガキだけを分けて保管し、抽選時に当選ハガキとして混ぜることが出来てしまう。抽選作業には別のスタッフだけをあたらせるのが適当だと思う」   
   
 このアイデアは了承された。そして、抽選の際にハガキをピックアップする担当者は広告宣伝部に属さない者に協力してもらうこととなった。また、その担当者らは、自分が担当することについて抽選のときまで直属上司以外に対しては口外しないこと、また、「不正に加担しない」旨の誓約書にサインすること、というルールが定められた。   
   
 次いでB君はこう発言した。   
   
 「もっと完璧を期してはどうでしょう? 届く往復ハガキのすべてに連番を打つのです。ナンバーリングの道具があるから簡単です。それを番号順にボックスに収めていきます。そうして、抽選は、恣意的なことが出来ない形で当選番号を選ぶことにするのです」   
   
 確かに完璧そうではあるが、この意見は通らなかった。「入学試験や資格試験の願書受付ではあるまいし、そこまで手間をかけていられない。ただでさえ通常業務が忙しいのに、そんなことはやっていられない」というのが大方の意見であったし、「大きな当選金が出る宝くじの抽選会じゃないんだぞ」との言葉も聞かれた。   
   
 さらにC君の発言があった。   
   
 「厳正な抽選と言いますか、その、当選の往復ハガキを選ぶ段階で怪しいことが行なわれていないか、監視をすることも必要ではないでしょうか。警察官の立会いを求めるとか」   
   
 この意見に対しては、「それは警察の業務なのか?」という疑問の声が上がった。また、「たとえ警察が協力してくれるにしても、そのような業務だとちょっと申し訳ないものがあるし、そうすると謝礼としてビール券か何かを贈るのが適当だろうか」との意見も出たが、「公務員等にそういう謝礼を渡すのはやはりマズかろう、こちらだけでなく、先方も迷惑をこうむる可能性がある」との反論も見られた。   
   
 結局、抽選の様子は他のスタッフがビデオ撮影しておく程度とすることに落ち着いた。  
   
   
 ・・・と、以上はすべて架空のお話である。   
   
 さて、NHKの紅白歌合戦その他のコンサートや催しの会場に入れる聴衆/観衆の抽選はどのように行なわれるのであろうか。   
 だいたい上のような方法、すなわち、上のような会議経過となった場合の結論のような形によるのではないか。ただ、「放送受信料を支払っている世帯に属する人だけが当選の資格あり」との要件がある場合は、上のように選ばれた当選ハガキに書かれている応募者の住所や姓名について、受信契約者のデータベースと照合する必要が出て来る・・・ひとりでやりきるには憂鬱そうな作業ではあるが数人で手分けすればそう多くの時間もかかるまいと想像する。   
   
 が、少なくとも紅白歌合戦の入場可能者の抽選についてはこの想像は間違っていた。NHK総合テレビの「サラメシ」では抽選の仕方が紹介され、それを見て驚いた・・・と言うか、一種の脱力感および呆れ感が・・・。そこから窺えたのは・・・普通の民間企業ではやっていられないような人的エネルギーの投入の仕方、そして独特の人的コスト意識かなあ。人員なり、通常業務などなどに余裕があるのだなあとも思えた(電通の長時間労働問題への報道姿勢に厳しいものを感じるが、NHKからしてみると、なおのこと長時間労働が「悪」に映ってしまうのではないかと、うがった見方もしたくなる)。   
 「紅白歌合戦は国民すべてが関心を寄せる一大イベント。抽選もまた一大イベントなのだ」と言われればそれまでかも知れぬが(筆者はもう何十年も観ていない・・・10分とか20分とかは観ることあっても)、しかし、NHKの業務にあっては一事が万事、こんな調子なのではないかとの疑念も生まれ、徹底的な意識改革ならびに経営改革を期待するところである。   
   

「確か、コリン・デイヴィス指揮のがあったよね・・・あれはどーね?」



   
 (↑) R.シュトラウス/「アリアドネ」についてはベーム指揮のモノクロ映像DVDも持ってはいるが、やはりカラーのもので鑑賞したいと思い・・・コリン・デイヴィス指揮のもの。   
   
   
   
 下の写真は・・・。   
 ヴェルレクを、アバド指揮のライヴ収録DVDで(ゲオルギュー/BPOほか)。   
 なお、一緒に写し入れたように、同曲についてはセル指揮のライヴ音源も残っている。   
   
 ヴェルレクのあとにはモツレクを鑑賞した。どうも筆者、ヴェルディ作品のあれこれについて、その表現のあり方・起伏・スケール感などなどで往々にして肌に合わないところがあり・・・あとで別の曲を聴いて気持ちをスッキリ、サラリとさせたくなる。   
 クリスマス・イヴやクリスマスにレクイエム2連発鑑賞というのも何だかとは思わぬでもないが、でも、「スターバト・マーテル」でもミサ曲、レクイエム、教会カンタータでも、そこに込められた内容、その背景の心ばえの生まれ方などに照らせば、別段けしからぬ鑑賞作法であるようには思えない、どうだろう。   
   


雑記



   
 「近頃の若い者は本を読んでおらん。お前もだな。○○を読んだことがあるか? 無いだろ、やっぱり。ダメだな」というセリフは昔から繰り返されて来たものである。   
   
 自分もまた若い頃にはそのように言われたことがあり、ただ、そのように言った或る人物とは後日に電車で偶然に隣あわせになることがあって、そのときこちらが読んでいる本について「君はそういうものを読んでいるのか」と言われ、多分ほんの少しだけは認めてもらえたのかも知れない、その後は「本を読んどらんな」と叱られることはなかった。   
 あのとき読んでいたのは井原西鶴のもので、また、バッグに入れていた「和漢朗詠集」も相手に見せた。通勤/帰宅の電車でこういうものを読んでいる人間はかなり珍しいとは思うのであるが、しかし、若い頃は本心から「まず日本の古典をちゃんと読み直さなくては」と思っていた。   
   
 ただ、文学に敬意を払う気持ちというのは少年の頃からさはど強くなくて、たとえば高校生の頃は岩波新書、講談社の現代新書やブルーバックス、白水社の文庫クセジュなどから興味や関心に合うものを多く読んでいたか。さらにまた、友人が「大学ではロシア文学を学びたい」と言ったのに対して、「文学では就ける職に限りがあろうし、普通に社会科学系や理工系への進学を考えるのが無難ではないか」と、(のちの彼の言によれば)けっこう冷たい感じに応じ、結局は彼の進路を変えさせてしまった・・・もしかすると、優秀なロシア文学者の誕生を、一人ぶん減らしてしまったのかも知れない。   
   
   
 「 君 の 名 は 。」という映画が大ヒットしているが、観ていない。ストーリーの概略を聞いて思い浮かんだのは日本の古典文学「とりかへばや物語」であった。   
   
   
 ビジネス書、専門書を別にすると、今も、よく読む/手にするのは新書のものが多いか。ただ、昔、学生の頃の「読む姿勢」に比べると、最近は、いや、もう長年にわたるが、「軽い感じに読み流す」的な感じになっている。また、本の内容自体も軽いタッチ/スタンスのものがどんどん増えているように思わぬではない。   
   
   
 下の写真で「・・・バカになる!」とあるのは雑誌の記事で、これは月刊雑誌「 Hanada 」2017年2月号から。確かな検証がむずかしい問題ではあるが、興味深いテーマであることは間違いない。   
   
 子供がスマホを利用するにしても、はて、ハードウェア・クオリティや通信クオリティはどの程度が必要なのだろう。スマホ本体や通信契約/SIMカードについて格安のものを選択することを本気で考えている親はどのくらいいるのだろうかと、疑問に思う・・・余計なお世話かも知れないが、しかし、その辺りの工夫もしないままで、なおかつ「子育てにはカネがかかるんだ。扶養手当・扶養控除などについて、子育て世代に手厚くして欲しい」と主張することにいささか疑問を覚える。(スマホでなく)PCのインターネット接続設定(準備)を自分でやったことがない、格安SIM利用に関連してAPN設定とは何か知らないと平気で言っている(威張っている)人たちがいるが、親がそうであるならば自ずと子供たちもそのような感じになってしまうのではないか、どうなのだろう。ブラックボックスはブラックボックスのままで放っておくのも場合によっては効率的・実際的な生き方であるけれども、上のようなネット利用の準備についてまでこれをブラックボックスと受け止めるのはちょっと違うであろう。   
   
   
 しばらく前、近所を歩いていたら、見覚えのある外国人2名を目にした。アメリカ人だと思うのだ。   
 彼らは、筆者の少し前を歩いていた日本人をつかまえて日本語で「わたしたちは最近、日本にやって来たのですが」と言った。それが聞こえた筆者は、「あ、ウソをついたな」と思った。なぜなら、もう半年くらいも前に彼らは筆者を呼び止めて同じセリフを口にしたのである。或る宗教の関係で活動しているものと思える。ウソはいかんぞ、ウソは。   
   
 この件とは関係ないが、昔、そういう布教をしているアメリカ人に、キリスト教の聖書を日本語でも英語でも読んだことがあると言ったら感心されたが、読む理由としては「内容をじっくり把握したうえで批判するためである」と言ったら、相手は顔を曇らせた・・・とても残念そうな表情であった。   
 なぜ、わざわざ英語でも読む必要があるのかというと、日本語では読んでいる途中で投げ出したくなるからである。聖書(旧約・新約)の内容に関して「現実にこのようなことが起こるわけがないだろ」とか「ああ、このようなセリフを口にする人間がいたら、マトモに相手をしたくないな」などと感じてしまうのである。ところが英語であるならば、そういう感想が生まれにくく、つまり、読み通しやすいのである。但し、感化される・教化されることのないようにとの思いを維持しながら読むのが適当ではあろう。   
   
 宗教に関連する本も、下のように読みはする。   
   



セル関係の新譜



   
 上の写真は12月14日に発売となった、タワレコ扱いのCD商品のうち2点。   
 手前(右下)のはオーマンディ/フィラデルフィア管によるクリスマス曲集なのであるが、カップリング/ボーナストラックとしてセル/クリーヴランド管の演奏による「ひいらぎ飾ろう(ひいらぎで広間を飾ろう)」、「もろびと こぞりて」、「パタパン」も収録されている。編曲者は、前2曲についてはハーシー・ケイ、「パタパン」についてはジェームズ・ゴールウェイ。   
   
 CDパッケージ裏面の記載によればこれら3作品の録音は日本初発売とされているが、筆者の手許には「もろびと こぞりて」を含むCBS・ソニー(国内盤)のクリスマス・アルバムLPがある・・・但し、何かの特典盤として「価格」を付けずに出回ったものかも知れない。   
 また、「パタパン」が世界初CD化であると表記されているが、これが収録されたCD(輸入盤)もある・・・但し、今回発売のものと比べて演奏時間は短くて、編集カットがされてしまっていたのであろうか・・・逆に言えば、今回登場したものこそが「ちゃんとしたもの」であるのだろうか。   
   
   
 一緒に写し入れたCDはヴィヴァルディの「四季」その他をオーマンディ/フィラデルフィア管その他がレコーディングしたもの。 「四季」はジャン・フランチェスコ・マリピエロの編曲によるもの(編曲とはいえ、管楽器なども交えたフル・オーケストラ・ヴァージョンになっていたりはしない・・・一応、念のため)。   
   
   
 (追記その他)   
 ヴァイオリン・ソロは、「四季」についてはフィラデルフィア管コンサート・マスターのブルシロウ(ブラシロウ)、また、2つのヴァイオリンための協奏曲4作品ではスターンとオイストラフ。   
   
 「20世紀の或る時期以降、バロック音楽、さらには中世・ルネサンス期の音楽にも目を向けられるようになったことは高く評価されるが、しかし、トンデモ演奏が横行していたことも事実である。そこでは古式ゆかしき音と演奏への配慮・敬意が欠けていたのである。ヴィヴァルディやバッハの時代、いや、もっと時代が下ってからの頃に関しても、当時どのような音楽が流れていたのか、どのように音楽が奏でられていたのかに思いをはせるべきであって、演奏行為にあたってはその当時の忠実な再現が図られなくてはいけない。それを怠る・失念することは大罪に他ならない」という立場の人たちからすれば、このオーマンディらによる演奏もまた大いに非難されるもののひとつとなろうか。   
 が、しかし、この録音から聴くことの出来る音楽は豊かである。繊細な部分、ダイナミックで肉厚・重厚な部分、スピード感などなどが、音楽の愉悦をしっかりと紡ぎ出し、そして築き上げる。演奏技術にも感心するところが多く、ともかく聴き応えのする内容である。(歌いまわし等に特徴的・個性的なものを感じる個所が散見されるが、それが「編曲」にもとづくものなのか、それとも演奏段階での解釈・創意・ひらめきによるものなのか、もちろん知る由も無い・・・そういう個所にふっと注意を奪われてしまう点もこの演奏の魅力のひとつになっているだろうか。)   
 「ダイナミックさが過剰である、そこがバロック音楽の演奏としては残念なところだ」と感じる聞き手もいるかも知れないが、しかし、その場合はとりあえず自身にこう言い聞かせてみるのもよいかも知れない: 「これはよく知られたヴィヴァルディでなく、アンソニー・ヴァイヴァルディという作曲家の作品なのだ」とか、あるいは、「これは、ヴィヴァルディ作品を、現代オーケストラ(弦楽アンサンブル)のために移植した別個の音楽作品なのだ」等々と。そうすることで、より素直にこの演奏の魅力に浸ることが出来るのではあるまいか、そんなこともちらと思う・・・つまり、固定観念のように形成されてしまっている「四季」像にしばられてこの演奏を楽しまずにおく・否定することは、かなり惜しいように思える。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 (アメリカ人に限らないが、しかし、)それにしてもアメリカ人は12月になると本当にクリスマスを楽しむ気分に浸るのだなと感じ入ったのは随分と昔のことである。   
 職場でも、デスクやサイドデスクなどには届いたクリスマスカードを並べ、ちょっとした飾り付けなどもする。そしてクリスマス・ソングなどもしばしば口ずさむ。ほか、休憩時間にクリスマス・ソングのCDやカセットテープを聴いていたり。もしも日本において、大人があの有名な歌(童謡?)、「あと幾晩を寝ると、正月になるのかな?・・・」という意味合いの言葉で始まるあの歌をそうしばしば口ずさんでいたりすればこれはちょっと珍妙なものと映ろうけど、アメリカにはちょうどそんな具合にクリスマス・ソングを楽しんでいる大人がたくさんいるものと思える(もちろん信仰心や宗教的バックボーンもあろうけど)。   
 というわけで、オーマンディ/フィラデルフィア管の演奏によるクリスマス曲集も、アナログ盤が登場した頃から随分とヒットした(売れた)ものと想像される。   
   
 下のは、かなり昔のこと、11月末から12月13日にかけてアメリカへ出張したときの航空券コピーその他。このときの出張でも、アメリカ人のクリスマス好きを思い知らされた。   
 なぜにこのような古いものをとってあったのかと言うと・・・。この出張があったために、受けなくてはいけない「社内研修」には不参加となったのである。参加しなければ自動的に昇格も1年遅れる扱いとなる筈のところを人事部長その他の特別の計らいで「お目こぼし」というか、ま、研修不参加について不問に付された・・・もしもその後に何かでケチがついたときには「あのときは、やむをえぬ事情があったのだ」と主張するための証拠として保管し、それは今なお手許に・・・もはや捨てても差し支えなかろうが、かさばるものでもないし保管したまま。   
   


ローカルなものにおもしろきものあり?



   
 自分自身の食生活/健康に関してであれ、年寄りの親の食事づくりに関してであれ、昔から疑念を抱いて来たことのひとつが「カルシウム等の摂取のためには牛乳/乳製品は必須であるのか?」という点である。   
   
 (また、日本食と牛乳とはマッチしにくいと考えていることから、いまの子供たちには或る年齢時点で「牛乳離れ」をして欲しい、そして和食尊重の食生活に走って欲しい、そういうスタイルの中でカルシウム摂取の手段をたとえば魚介類のなかに見出して欲しいという気持ちすら抱いてしまって、新潟県における学校給食での牛乳の扱いに拍手を送りたいと思っているところでもある。)   
   
   
 乳製品についても触れている興味深い健康話題:    
   
   http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50409   
   
   
 なお、上記の記事中に「大量に摂取すると」とあるように、「大量」でない場合は、また、育ち盛りの人、若い人の場合には神経質に考える必要など無いのかも知れない・・・筆者、もちろん専門家ではないので何も分からないが。   
   
 魚介類からのカルシウム摂取だってよろしいではないか。   
   
   
 冒頭の写真は、静岡県産の桜エビと、秋田県産のワカサギ。後者はゴボウやネギ、豆腐とともに加熱調理した(醤油ベースながら味噌も加えての煮物)。ワカサギはフライなどにしても美味なのであるが、調理器具の後始末を考えて敬遠してしまった。   
 新聞のレシピ記事は日経新聞12月10日付の土曜版より・・・少し参考にしたもの。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下のはDVDおよびCD。CDの方は見えにくく写ってしまったがバターワースの作品を収録した、雑誌付録CD。   
   


山の上のオクラ。紫敷布。ユーロダラーよりスケソウダラ。



   
 今回の記事タイトルに特別の意味は無い。   
   
   
 個人経営の居酒屋の長所のひとつとしては、店主やスタッフが気安い人物であるならば店が用意している料理メニューに多少のアレンジ/変更を求めることも可能だという点がある。   
   
 「椎茸のバター炒め」というメニューに関して、バター風味が嫌いであるならばサラダ油で炒めてもらうとか、網焼き・グリル焼き・オーブントースター焼きにしてもらうとかのリクエストも可能である。   
   
 「月見とろろ」というメニューについてであれば、筆者、べつに生卵が苦手ではないものの、しかし、長芋・大和芋の類はその風味をしっかり味わいたいから、そこに卵の黄身のあの甘味と風味が加わることをあまり好まない。ワサビを添えてくれるだけでよいし、刻み海苔もトッピングしてくれるならばそれもまたよい(青海苔だと少し抵抗がある・・・昔、電車で隣に座った人から青海苔の口臭が感じられたことがあって、それ以来、「ニンニクなどと同様、青海苔を口にすると他人に迷惑をかけかねない」と不安を抱いてしまうのである)。   
 「月見とろろの卵抜きを」と注文して、「あいよ!」とすぐ返事して寄越す店主もいれば、一瞬固まってしまって「え・・・あ、はいはい」と応じる人もいて、後者のほうが愉快ではある。   
   
   
 さて、個人経営の居酒屋のうち、短所を有する事例について。   
   
 若い知人と飲みに出る話がまとまって、個人経営の居酒屋2店のうちどちらにしようかと迷った。A店のほうがメニューや味の点で優れているのだが、ともかく、まずは新聞でテレビ欄をチェックすることにした・・・サッカーや野球などの中継があるかどうかを確認しなくてはならないから。   
 2店どちらもテレビをつけているのだが、A店には、まだ若い店主のかつての同級生とおぼしき男が客として訪れることがしばしばで、彼は、店にやって来るや店主に断りを入れるでもなくテレビのチャンネルをスポーツ中継に切り替え、さらにヴォリュームを大きく、うるさいほどに上げるのだ。   
 チャンネル切替するまでは構わぬと思うが、それでも普通なら店主に断りを入れつつ、また、他の客に「この番組を観ている人はいますか? チャンネルを替えてもいいですか?」と尋ねるものではあるまいか。しかし、大きな問題は、ヴォリュームである・・・居酒屋という場所はもちろん、一人でやって来てテレビを眺めながら晩酌を楽しむというケースもあるが、客どうしが会話する空間でもある。テレビの音量は、その会話を邪魔しない程度のものであることが適当である(スポーツ・カフェ、スポーツ・パブのような形をとる居酒屋であるならば話は別だろうけど)。   
 そういう行動をしておきながら彼は「つまみ」は一品くらいをオーダーするだけで、ビールや酎ハイの類を実にスローペースで飲む。そしてテレビに見入る。周囲の客は皆、おそらく不快に感じていることであろう。「自分の家・部屋でテレビを観ながら過ごせばよいではないか」と思う客は筆者ばかりではあるまい。   
   
 で、知人とはその晩はB店へ向かったのであった。   
 「テレビっ子」についての問題、子供の教育についてなども話題にのぼったのであるが、ほか、彼からはこう言われたのであった:   
   
 「あいかわらずサッカーに対して冷たいですね。(あなたの世代だと)体育の授業でもサッカーよりも野球が多かったのですか?」   
   
 現在のサッカー中継ではアナウンサーが興奮して大きな声で実況したりするのが気に食わない等のことがあるけれども、しかし、振り返れば、サッカーについては快くない思い出がある。   
   
 筆者の世代でも、体育の授業では野球やソフトボールをすることはかなり少なく、2学期の秋以降になるとサッカーが多かった。   
 クラスの中をチーム分けするなどして対戦するのであるが、中学生の頃、チーム分けで自分が属する側はどういうわけかいつも優勢で、ボールは相手方ゴール付近にあることが多かったように記憶する。あの頃はサッカー部に属する生徒は少なく、また、「パスつなぎ」やシュートの上手い・下手よりも「脚が速ければフォワード、そうでないものはバック」みたいなポジション分担がされてしまい、自分はサッカー部所属でもないのにフォワードに配されることが多かった。   
 するとどういうことになるか? 自分は相手方ゴール付近にて「土埃もうもう」の状態の中でプレーする時間が多くなる。東京では冬場は乾燥するのだ。そして、授業のあとに脚などを洗うのも冷たくて不快なのである。また、試合途中にふと自チームのバックの様子に目をやると彼らは実にノンビリと暇そうに過ごしているのであった。この不公平は何だろうと思ったものである。   
   
 「やっぱ、スポーツ競技は、体育館(とか武道場)やプールでやるもののほうがいいね」とも思った。   
   
 サッカー部に属し、そして体育の授業のサッカーにすらやたらと夢中になり熱を上げている者が一人いた。こちらは「たかがサッカーじゃないか」と思い、また、「スポーツの世界で生きていくわけじゃあるまいし」とか「この授業の試合の勝ち負けで体育の成績が決まるというより、人それぞれの技能レベルで決まるのであろうから、やたらと勝ち負けにこだわっても意味が無いであろう」などと考えていたから、彼の「熱中ぶり」を理解できなかった。   
 自分がゴールを決めた場合、そのあとノンビリしていられない、同じチームのサッカー部の生徒からそれとなく距離をおくよう走り続けることも自分はしていた。サッカーやバスケットボールのクラブに属している生徒は、単に「ナイッシュー(ナイス・シュート)」などと声を掛けるばかりでなく、シュートした者の肩や、時には腰や尻を叩く習慣を持っていたが、こちらは同性から腰や尻に触られることにものすごく嫌悪を感じていた。彼らに他意は無かったと理解できるけれども、ま、あの頃も今も、同性どうしで体にタッチするということには非常に抵抗感を覚える(野球でホームインしたときに手を打ち合わすくらいのものは何とも思わないが)。   
   
 スポーツでも音楽でも「各人の好き嫌いや適性の有無に関係なく、チーム一丸となって勝利を目指すことが教育効果を持つ」との考えも確かにあろう。それは体育の授業でサッカーやバレーボール、バスケットボールなどのチーム競技やそれに類するとも言えるリレー走が選ばれることの理由のひとつにもなっているのではないか。また、合唱大会にもそのような効果が期待されているのではないか。文化祭・学園祭についても同様か。しかし、「べつに好きでもないもの・嫌いなもの」では、現実問題として「嬉々として取り組む」ことは出来まい。「チームの一員として頑張ることの大切さ」は、「好きなことに取り組んでいる時」にこそ気づき、発揮可能ではあるまいか。(有事の際には、好むと好まざるとにかかわらず、各人に求められ課された役割に全力投球すべきであるが、子供の頃の教育とは無関係に、「事態の重要性」を理解するならば自ずとそのような行動がとれるものと期待したい。)   
 まあ、筆者の場合、学校の行事・イベントはどれもこれもが無意味に見えてしまっていて、「遠足・修学旅行・運動会・文化祭・合唱大会などはやめにして(社会科見学はよろしいが)、ともかく毎日単調に授業が繰り返されていくこと、気分転換めいたものが無くてもコツコツ日々を過ごせる人間に仕立てられることが大事かも知れない」と、漠然とそのように考えてもいた。   
 音楽の先生が各クラスの合唱指導の際にヒステリックになることもあったが、「音楽が好きでない者にそんなにあれこれ要求しても仕方あるまいに」と感じた。   
 遠足でのハイキングっぽいこと、自由参加の山登りの際には「目的地に早く到達して、つまり用事を早く済ませ、そしてすぐに帰りたいな。どうしてわざわざ途中で休憩をとるのだ? 皆で一緒に行動しなくてもよい筈で、休憩など要らないと感じる者とそうでない者とで、大雑把に2つのグループに分ければよいではないか。大した山でもないし、景色だってどうせ感動するほどのものでもあるまい。ともかく、のろい者に合わせて全員にスローな行動を求められるのは時間の無駄になり迷惑で、堪らない」と感じたものだ。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・    
   
   
 2020年の東京オリンピックではスケートボードが競技に加えられるという件について「あれはスポーツなのか?」と怪訝な顔をする人もいるが、スポート/スポーツの「気晴らし」という意味からすればスケートボードは十分にそれに当てはまるものであろう。技能向上のためにどのような体幹づくり・トレーニングが必要なのかを知らないが、強い選手・上手い選手になるためには容易ならぬ鍛錬・練習を重ねなくてはなるまいと思う。   
   
 少し不安になるのは、あれは楽しそうだから、夢中になり過ぎてしまう子供たちが多くなるのではないかということである。   
 人それぞれ、将来的に何を職業とするかの自由な選択があるが、スケートボードで食べていける人はどのくらいいるものなのか(プロとして、あるいは企業所属などとして)、それは現在、そして将来、どのような具合なのかを、本人や親などが計算・心づもりする必要があろう。あるいは、体育・運動系の先生の道を目指すのか。   
 スケートボードに夢中になり過ぎて、しかし、あとになって全然違う分野へ進むことになり、「もっと勉強をしておけばよかったな」等の悔いを残さないようにと、そんなことを外野から心配してしまうのである。ただ、それぞれのスポーツには、それとは無関係に見える仕事をするうえでヒントや参考になることもあるし、精神修養のうえで有意義な点もあるから、スケートボードについてもそれを否定するつもりはない。   
   
 或る時、購読しているのとは別の新聞が間違って配達されることがあって、土曜日であったから昼過ぎに新聞を買いに出掛けた。途中でふと「久しぶりに図書館に行ってみようか、そこで新聞も読めるな」と思いつき・・・。   
 図書館の敷地範囲にある、公園っぽいスペースにはスケートボードに興ずる少年たちがいた。図書館が神聖な場所であるなどと言うつもりは毛頭ないけれども、また、スケートボードの騒音が図書館内に達することもないと思われたが、しかし、その場所でスケートボードをしている光景には、何か表現しにくい抵抗感を覚えた。   
   
   
 下の写真は、過去の日経新聞の記事の見出しから。   
   


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