2016-10

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雑記



   
 「おせち料理」のカタログなどが目につく季節となった。   
   
 「別段、おせち料理を食べなくても」とすら思い、元旦・正月時期も、白いご飯や味噌汁を食したく思う。   
 ただ、おせち料理を用意すれば、一家の主婦は少しばかりは楽をしやすかろう。自分で手作りするとなればそれは大変であるけれども、いまの時代、出来合いのものがあちこちから発売される・・・が、しかし、筆者などは「保存食っぽいイメージが無くはない料理も含まれており、また、好みに合わない隠し味が付いていてその点に嫌味っぽさすら感じられる調味などによって、あるいは、“原価低減のためか、大根なます、多過ぎじゃないか?”みたいなことによって、決して“大満足”と言えない品/セットになっているのならば、むしろ同じ程度かそれ以下の出費で、寿司・刺身盛合せなどを楽しんだほうが喜ばしい」みたくも思う・・・正月に営業していて出前も普通にやっている寿司屋は多い。世の中、好みは様々であるから、家によっては「ピザやフライドチキンがよい」ということもあるか・・・おせち料理に伝わる、いにしえからの文化・思いを軽んじてはいけないと思いつつも、しかし・・・。   
   
   
 以前、おせち料理のカタログを見ていて・・・「こういう出来合いの品を買うにしても、ごくごく簡素なセットでいいじゃないか・・・おっ、これなんか、シンプルで結構いいぞ」と思うことがあった。   
 が、カタログの写真に添えられた商品案内コメントにはこう書かれていた:   
   
   
 「愛犬にも、おせち料理を」   
   
   
 犬用のものだとは(笑)。   
   
   
 冒頭の写真は過去に載せたもの。このセットは満足度が高かった。   
   
   
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 トラックの車体に "... Express" などと表示されているのを見ると、「さあ、この運送会社の社名は“○○運輸”なのか“○○輸送”なのか“○○急運”なのか、いずれであろう」と確かめてみたくなる自分は、ちょっと変わっているかなと思う。もちろん「エクスプレス」の語は急運・急送という言葉とだけ対応すべきものとは思っていないし、また、“○○陸運”という社名の英語表記ヴァージョンが「○○エクスプレス」になっていたとしても勿論よいではないかとも思いはするのだが。   
   
 英語での社名表記が書かれたトラック、クルマは多い。それを目にするこちらを落ち着かなくさせるのは、   
   
   “○○ Co,. Ltd.”   
   
と表記されたものを目にしたときである。   
   
(追記) 或るWEBブラウザの、そのヴァージョンによっては上の表記において "Ltd" の "d" のすぐ後ろにあるピリオドが表示されなかったりもするようだ・・・よって、以下の記述にあっても、ピリオド抜けして文章表示されるケースもあろうことと思われるが、世のすべてのブラウザのことを考慮した文字置き・表記を再検討するのも面倒であって、以下、特に書き改めない、ご容赦を。   
   
   
 ピリオド記号というものは、文末のほかに言葉を短縮したときに用いるものであるから、 "Company" を短縮して“Co.”となり、さらに有限責任会社(株式会社など)であることを示す "Limited" を短縮して“Ltd.”・・・これを“Co.”のあとにカンマを置いたうえで付して、正しくは次のやうに表記すべきものである。   
   
   “○○ Co., Ltd.”   
   
 カンマのあとには1文字分のスペースを置くのが普通であるが、意外とスペースが広くなることもあってその場合は「間延び感」を生んだりするので、そこはデザイン的・レイアウト的な微調整があってよろしかろうと思う。   
   
 CD商品でも、たとえば筆者の手持ちの Altus レーベルのものにはそのライナーノートなどに於いて上のピリオド、カンマの使い方が変になっている個所が見受けられる。   
   
 「細かい話だなあ」と思われるやも知れないが、企業の車両/社用車であれ、名刺、会社の封筒、レターヘッド、カタログなどであれ、そこに於ける社名表記は「企業の顔」的な面をしっかり有しているから、気を抜いてはいけないものと筆者は考える。英語圏の人、いや、それ以外の外国人も、こういう点にはすぐ目が留まって「ありゃ?」と思うことであろう。   
 “NEW YORK”を“N.Y.”と表記することがあるが、これを“N,Y,”としてあれば、われわれ日本人であってもまた妙な感じを受けるであろう・・・それと似たことである。   
   
   
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 ずいぶん前のこと・・・。   
 終業後、ロッカールームからもう一度職場に戻って来た女性が着ていたトレーナーっぽいシャツは、なかなかお目にかかれないような、独特で深みのある色合いで、センスの良さを感じさせるものであった。   
 その色合いを褒めたら身体を回転させて背中も見せてくれたのであるが、こちらはつい、「あれ?」と声をあげてしまった。次の瞬間、「しまったな・・・声を出すんじゃなかった」と思った。   
   
 向こうは「え? 何?」という顔。こちらは心の中で「俺の勘違いじゃないよな。背中にプリントされている言葉の中のあの単語、綴りが間違ってるよな・・・彼女にそれを教えるのはよろしくない、迷惑というか何というか、ちょっと何だなあ」とつぶやき・・・。向こうは立ったままでこちらの言葉を待っているし・・・。   
   
 辞書で確認するまでもないが、しかし、一応はやはり辞書でチェックし・・・「ええい、悪いのは俺じゃないんだ、トレーナーを作った会社だ」と割り切り、彼女に綴りの件を伝えた。   
   
 その後、このトレーナーを外出時に着ることはなくなったそうである。決して安くはなかったであろうになあ、あのトレーナー・・・。   
   
   
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 クレジットカードを店員さんが取り扱うとき、あるいは預金通帳やキャッシュカードを銀行員が扱うとき、どうしてああも無造作に磁気テープ部分に手指で触れるのかなと、ちょっと疑問・不満に思うことはある(ICチップの金属端子/接点の個所にしても、であるが)。   
   
 カセットテープであれ、オープンリール用のテープであれ、あるいは企業が使うデータ記録テープなどなど、「磁気テープ表面にはやたらと指を触れないのが無難(皮脂汚れにカビが発生するなどしてトラブルの原因になる)」と思い続けてきたからであるなあ。しかし、ま、現実問題としては、そして、音楽/音声の信号記録のデリケートさに比べると、カードや通帳の磁気テープ部分についてはあまり神経をつかわなくてもよいのであろうか。   
   
 そういうカセットテープ等に馴染みの無い世代が多くなっているから、もはや「テープに触れまい」との感覚は失せてしまっているのだろう。時代は変わる・・・。   
   
   
 小 林 明 子 が歌った「恋におちて - Fall in love - 」(作詞: 湯 川 れ い 子 )という曲には今なお人気があるが、その歌詞中の「土曜の夜と日曜」という部分について、「どうして単に“土曜と日曜”と言わないのか?」との疑問を持つ人たちが今後ますます増えていくことであろう。そして、「土曜の日中は、相手の男性が家族と過ごすための時間であろうか。それだけは譲歩・我慢しなくちゃという気持ちを表しているのか」という捉え方も出て来うるか?   
 週休2日制によって、「土曜も午前中だけは勤務あり」という「半ドン」のスタイルがかなり消えてしまった今日・・・歌の理解・解釈に影響が出てしまいうる。   
 世の中、商店・飲食店・ホテル・運輸・テーマパーク・警察・消防・防衛その他の仕事もあって、必ずしも「土曜と日曜がお休み」と決まっているわけでもないから、「土曜と日曜という曜日特定の表現は適切さを欠く」などという、そこまでの意見はちょっとありえないことであろうけど。   
   
 そしてまた同曲を聴いて、「ダイヤルを回すとはどういうことか? 一部の電子レンジにダイヤルっぽいものがあるよね? 電子レンジを使おうとして途中でやめたってこと?」などという疑問を覚える人たちも出てきたりするか?   
   
 歌詞中、英語が使われている或る部分について、その意味を「わたしは、恋に落ちてしまった一人の女に過ぎないの」と解釈している人が多いようであるが、これはおかしい。いや、そういう意味合いのつもりで英語歌詞が書かれたものと想像はするのだが、上のような意味にするのであれば、現在分詞の後置修飾ということで "ing" を付して "falling in love" とすべきであろう・・・メロディを改めないと歌いにくくなりはするが。   
 しかし、この歌詞では現在分詞でなく原形を用いているから、 "fall in love" の個所は「1つの独立した命令文」であると解される。よって、歌詞の中のこの辺りを日本語に訳すと:   
   
   「わたしは一人の女に過ぎないの・・・ (さあ、この私よ! )恋に落ちてしまいなさい!/恋に落ちてしまいましょうよ!」   
   
 ・・・みたいな意味になるかと思う。   
 実際、メロディの進行と、ブレス(呼吸の挟み)に目を向けたとき、うむ、やはりこちらの意味として受け止めるべきなのかと、迷うところがある。この、「どっちつかず」っぽいところ、聴き手の解釈に委ねるあたりが心憎い歌詞作りなのか・・・真意は分からない。   
   
 ま、日本人は、日本語の中に突如として「英語の決まり文句、熟語パターン」を差し挟むことを、遊び的に、あるいはお洒落的・雰囲気づくり的に行なうことがあるし、一応は英文の塊のなかであってもつい "fall in love" という表現をこの形のままでくっつけてしまうということになりやすいのであろう。   
   
 昔、民社党という政党があって、その春日委員長(故人)は選挙演説か何かでこんな具合に言ったことがある:   
   
 「・・・それがいつの時期になるかと言えば、デペンド・アッポン・サーカムスタンシズなのであります」   
   
 政局のことなどに触れた語りであったかどうか覚えていない・・・が、ともかく、カタカナ部分は "depend upon circumstances" であろう、これを開き直りの完全なカタカナ読みをし、声質と相俟って独特の味わいを醸していた。   
 この演説の場面、この事例の場合に、 "depending upon circumstances" あるいは "It depends upon circumstances" と言うべきだと指摘するのは、これはやはり適当でないように思える。日本語・英語の双方が交じるなかでもこのように改めると文法的配慮があって収まりが良さそうには思えるものの、しかし、それでは微妙な愉快さと無骨さが欠落してしまうのである。   
   
   
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 山 口 百 恵 が歌った歌は古びない、と言う人がいる。 本当にそうだろうか?   
 いま、自動車の後方確認の手段として、カメラ映像を用いて室内のモニター/ディスプレイに表示させる研究がさらに盛んになっているらしい。サイドミラー/ドアミラーの出っ張りを無くすことが出来るのも、いろいろと都合が良いわけである。   
 さあ、そうすると、交差点にて、隣の車線に止まっているクルマから「おい、ミラー、こすったぜ。ざけんじゃねえよ」などとイチャモンをつけられることは無くなる・・・ゆえに、あの曲もまた「永遠に新鮮」であり続けるとは言い切れない?   
   
 この曲(「プレイバック Part 2 」、作詞: 阿 木 燿 子 )の歌詞には日本語表現ならではの特徴があるから、仮に英訳して歌ってみようと思うときには注意も必要となろう・・・「隣の車が」怒鳴っていると歌われているけれども、普通、クルマという機械製品(車両)は声を発さず怒鳴ることもない。怒鳴っているその本当の主体/主語は「隣の車の運転手、もしくは同乗者」である。   
   
 しかし、高性能AIも搭載された未来のクルマは、もしかするとその自らの判断で他のクルマに向かって音声を発することもありえようか?   
   
   
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 「365日の紙飛行機」(作詞: 秋 元 康 )という曲を耳にすると、どういうわけか冒頭の「朝の」を脳内漢字変換で「浅野」と受け止めてしまう。   
   
 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の 遺恨をば思うとき ・・・・・・   
   
という具合の替え歌を思いつくことあったのだが、上の言葉のあと、何を願うかの内容が過激に過ぎるのでここに示すのはちょっと遠慮させていただく。   
   
   

雑記



   
 「クラシック音楽ファンである」とか「一番好きな音楽ジャンルはクラシック」ということは日常で特に言わずにいるのだが・・・ちょっと前、「気に入ったクラシック音楽の曲が見つかって、しかし、クラシック音楽のCDはぜんぜん持っていない」という人がいたから、こちらとして「この先、この演奏のもの/盤を再び聴くことはあるまいな、そのまま自分が持っているより、喜んで聴いてくれる人に有効活用されることがよろしかろう」と思えるCDを20枚ほど差し上げた。   
   
 むこうは若いので、音楽データというものはダウンロード購入が標準であるかも知れず、したがってCDを買うということはあまり無いのであろう、こんな言葉を返された:   
   
 「もしかして、CDを100枚とか200枚とか、ガガーッて持ってる人ですか?」   
   
 この「ガガーッ」の表現が愉快で、こちらとしては笑いをこらえ、「ま、クラシック音楽の場合、すぐそういうことになっちゃうね」と答えた。   
   
 ダウンロード購入が標準的となっている世代は別として、自分の持っているCDの枚数を把握している音楽ファンは少ないのではあるまいか。(さらに近年は、いや、もっと前からだけれども、メンブラン・レーベルは極端であるにしても激安ボックス、廉価シリーズなどの登場で「所有枚数」はさらに激増し、もはや枚数カウントなど出来っこない・・・そして、「所有」はもうあまり意味を持たない、「ちゃんと聴くに及んだか、どう鑑賞してどう受け止めたか」が大切なことであろう。)   
   
 仮にクラシック音楽ファンが真面目にコレクション枚数を数え、非クラシック音楽ファンに向かって「何枚所有!」ということを伝えたら、ほとんど「変質者レベル」と見なされかねない?   
   
   
 以前のこと、「CDショップで、何点もの商品をわしづかみしてレジに並んでいる人とか、たまに見かけますけど、そういうのは必ずクラシック音楽ファンの人ですよね」と言われたことがある。   
 「うむ、当たっているな、そうだろうな。わしづかみはそんなにみっともないか?」と思ったのではあるが、しかし、こう言い返したのであった: 「いやいや、ジャズ・ファンの買い物ぶりも凄いぞ。どっちもどっちだね、いや、あっちのほうがどうかしている、ほとんどビョーキ」と答えておいた(笑)。最近はデアゴスティーニの商品でジャズのアナログ盤シリーズが始まったので、アナログ盤見直し気運も手伝ってジャス・ファンも増えていくかも知れない。   
   
   
 さて、クラシック音楽ファンとして、アナログ盤に回帰したい気が自分にはあるか? 無いこともないのである。が、しかし、モーツァルトのシンフォニー等くらいならともかく、ベト7あたりでも、そしてもちろんブラームスやマーラーでも、1曲を聴き終えるまでに盤をひっくり返さねばならぬことを思うと、アナログ盤回帰への道は案外と険しそうに思えてしまうのである。   
   

地味ながら滋味あり・・・



   
 上の写真で、真ん中のは「冬瓜(とうがん)」。   
   
 これを色々な具(世間でポピュラーなのは鶏ひき肉かな)と一緒に煮たものが筆者は好きで・・・。   
   

或る、未来シーン

   
 それは西暦205X年の或る日のことであった・・・。   
   
   
 「ああ、こんにちは。ご苦労様ですね。もう何度も申し上げていますが、僕は獄中手記など書くつもりはこれっぽっちもありませんから。   
   
 「こうして、面会にやって来るあなたに、気の向くままお話するのは面倒でもないし、構わないんですがね。   
   
 「どうして通り魔殺人事件など起こしたかですって? 昔から、連続殺人みたいなことをしたかったんですよ。他人の未来とか将来とか、幸せとか、夢とか、そういうものを根こそぎ奪ってしまうということを。他人の幸せをねたむみたいな、そんな卑しい人間ではありません、僕は。言い表しにくいですけど、他人の幸せも未来も、すべてを、一切をきれいに破壊して皆無にしてみたいというんですかね、そういう、僕的には崇高で、ちょっと美しさも感じるような目的があったわけです。   
   
 「罪や刑について怖いなどと思ったことはなかったです。どうしたら精神疾患を持っているかのように振舞えるか、偽装できるか、そうやって、責任能力なしとされるための道を自分なりに何年も研究しましたしね。でも、そういう研究というか努力はあまり意味を持たなくなりました。死刑制度が廃止されたことで、もう怖いものはないなと感じ、それで思い切りがつきました。   
   
 「事件についての反省ですか? 特にありません。あっ、ちょっと後悔はありますね。こうして懲役刑を課せられる身はやっぱり辛いし、楽しみらしい楽しみもろくに無くて。   
   
 「遺族の方への言葉ですか? うーん、事件のこと、過ぎ去ったことなどきっぱり忘れて、前を向いて一生懸命に仕事に励んで下さいとか、そんな感じですかね。懲役刑の僕もこうして一生懸命に働いてるんですから、皆さんもやっぱり一生懸命にって。   
   
 「遺族の方からは極刑ということで以前のような死刑が僕に対して宣告されることを望む声が出ていたことを知ってますよ。でも、待ってくださいと言いたいですね。死刑制度はもう無くなったんです。制度や法律を無視した発言はおかしいです。この刑務所を、いわば“終(つい)の住処(すみか)”として僕は出来るだけ長く生き続けます。出来れば、出所もしたいですけどね。とにかく、僕の命が誰かから無理やりに奪われることなど、あってはなりません。   
   
 「それにしても、刑務所で生活するって、思ってもみなかったほど大変です。僕、とにかく朝が苦手なんですよ。10時か11時くらいに起きれる生活なら気分も体調もバッチリなんですけど。そういうこと、ぜんぜん配慮してくれないですからね、ここは。融通がきかないって感じで。   
   
 「朝早くに起こされて、しっかり働かされて、それで、寝なきゃいけない時間が早くて。テレビなんて、深夜の番組がいちばん面白いのに、そういうの、見れないですから。娯楽ってものが少なすぎなんですよね。   
   
 「食事の内容も寂しいもんです。ウナギとか、カニとか、あと焼肉なんかをバンバンにがっつり食べたいんですけど、食事で出て来ないんですからね。ちょっと前、遺族の方が面会にみえて、差し入れを貰いましたが「これを読んでみてくれ」って。本なんですよ。何かの食べ物のほうが嬉しかったんですが、ガッカリでしたね。   
   
 「とにかく刑務所での処遇を、もっと改善して欲しいですね。どうして、こうも不自由だったり、楽しみが少ない世界なのか。世間の、刑務所に入ってない人たちって、もっと自由で、娯楽がいっぱいあって、好きなもの食べて、旅行にも行けるじゃないですか、ホントうらやましいですよね。それにひきかえ、自分はこんなで。不公平ですよね。     
   
 「刑務所も、やっぱり国とかの予算で運営しているんですよね? もっと予算つけて欲しいですね。だから、刑務所の外の皆さんも僕みたく一生懸命に働いて、税金をいっぱい納めて、で、刑務所の予算も大幅に増やして、僕らがここで暮らす環境をもっとちゃんとしたものにして欲しいです。今の僕の最大関心事はそういうことです。   
   
 「あれっ? 今日はもうお帰りなんですか? そうですか、じゃ、また。 今お話したことを雑誌記事にしてもよいかですって? いいですよ、お話したことを通して、刑務所の環境が良くなってくれるかも知れないですしね。   
   
 「あの、リクエストがあるんですが。今度おみえになるときは、何か差し入れをお願いします。寿司とかメロンとか、食べたいもんで。安いのじゃイヤですよ、上等のを。じゃ、よろしくお願いしますね。   
   
   
   
 ・・・死刑制度の廃止論議に関しては或る危惧を持っているものだから、それを表すような架空の小説シーンなど書いてみようと思ったのであるが、上のように書いていたら気分が悪くなってしまったので、ここで筆をおく。   
   

その言葉は、おかしいか?

   
 ファストフード店やコンビニなどでテイクアウト・買い物したハンバーガー、フライドポテト、肉まん等々を食べながら街中を歩くとする・・・そんな振る舞いを、昔は「食べ歩きとは、お行儀の悪いこと!」と評した。今の時代でももちろん「行儀の悪いこと」と受け止められるが、しかし、問題は、これを「食べ歩き」と表現するか、それとも「歩き食べ」と表現するかである・・・でも、後者のような言い方は、やはり、しないかな。   
   
 雑誌記事などのタイトルとして「金沢の街、食べ歩き」、場合によっては洒落で「・・・食べある記」などのものを目にするように、あちこちの店の料理などを食べて回ることをこそ「食べ歩き」というのであって、上のように「食べながら歩く」ことについては「食べ歩き」とは言わないとの考え方もあるか・・・国語辞典など見ているとそのようにも思える・・・「飲み歩き」もまた普通は「はしご酒すること」をさし、テイクアウトのコーヒー片手に街を歩くことを意味したりはしないし。  
   
 「歩きスマホは危険です」という。「歩きスマホ」とは「歩きながらスマホをいじる・それに見入ること」なのか、それとも「スマホをいじる・それに見入ることをしながら歩くこと」なのか・・・どちらでもいいか(笑)。   
   
 「スマホ歩き」と言わないのは何故なのか? これは、「食べながら歩くこと」を「食べ歩き」とは言わず、敢えて言うなら「歩き食べ」とすべきことに通じるのか。   
   
 クルマの運転をしながらスマホをいじるなどするのは、上の例からすると「運転スマホ」と呼ぶことになるのだろうか。しかし、「スマホ運転」と言いたいような気もするが、このように表現すると、スマホをカーナビ的に利用しながら運転することを意味しそうにも思える。   
   
   
 「もずく」にちょっと酢を垂らして、あとは好みで醤油を加えるなどして食べる・・・この、酢の垂らされた「もずく」について、居酒屋などのメニューでは「もずく酢」と表記している。   
 筆者などは「酢もずく」と呼びたいのではあるが。しかし、「酢ダコ」という品があって、これはそれなりの日数にわたって酢漬け状態においたものを意味する。こういうのと違って、客に提供する直前に酢を加えた「もずく」について「酢もずく」と呼ぶのはきっと適当でなく、やはり「もずく酢」とすべきなのだろうか。   
 牡蠣(カキ)については、しかし、「牡蠣酢」と「酢牡蠣」との、両方の表記があるように見受ける。   
   
   
 「焼き魚」という。「焼きとり」があり、「焼き豚」、「焼き芋」などがある。   
   
 「煮魚」があり、「ボイル帆立」などがある。トンカツをさらに卵とじして煮たものを「煮カツ」と呼ぶ。   
   
 しかるに、山形県の人は例の料理を「煮芋」と言わず「芋煮」と呼ぶ・・・おかしくないか?   
 理由として想像されることのひとつは、芋そのものに視点を向けているわけでなく、「芋を煮る行為」、「芋を煮るイベント・集い」の呼び名がいつの間にか料理の名前としても定着してしまったというものではなかろうか。   
 あるいは、2つめの理由としては、当初は芋が主役の「芋料理」として受け止められていなかったのかも知れない(いや、今日でもなお?)、どうだろうか。オールシーズン、いつでもありうる肉の煮物について、秋などに芋を加えるときには「肉の、芋入り煮」くらいの意味合いで略して「芋煮」と呼ばれるようになったとか。いろいろの魚についての「生姜煮」・「塩焼き」・「西京焼き」、豚肉の「生姜焼き」などあるように、また、「南蛮煮」、「甘露煮」、「朴葉焼き」などというものがあるように、「何を添える・加える」、「どんなスタイルにする」ということの表現として「○○煮」・「○○焼き」などがあるではないか。   
 ま、この種のことは郷土料理の歴史みたいなことを記した本でも読まないと真実は分からないが。   
   
   
   
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 簿記・会計に関しては「借方」、「貸方」という言葉がある。ふつうはそれぞれ「かりかた」、「かしかた」と読む。   
   
 出来上がった貸借対照表の左側・・・これは「借方」なのであるが、そこには例えば「預金」とか「売掛金(商品代金などの債権)」、「貸付金」とかの科目と金額が並んでいる。   
 対して右側は「貸方」で、そこには、「買掛金(仕入れ代金などの債務)」や「借入金」とかが並ぶ。   
   
 で、「借方」という語から「借りる」というイメージを受けてしまうせいであろう、そこに預金や売掛金や貸付金、土地建物やらの財産・債権の類が並ぶことに「ちぐはぐ」・不整合・矛盾のようなものを覚えてしまうということを言う人がいる。   
 他方、「貸方」には借入金その他の債務が並んでおり・・・これまた「おかしいじゃないか」ということになる。   
   
 きちんと最初から簿記を学んでくれればよいのであるが、人それぞれ、ほかに色々と優先して学ばねばならないことがある/あったわけだから、致し方あるまい。   
   
   
 大昔だって、財産家や商人などをはじめ「誰かにカネを貸した」、「誰かにツケで品物を売った」ということがあれば、それを記録しておいたこと当然である。Aさんに幾ら、Bさんに幾ら・・・等々の債権を有することになる。   
 Aさん、Bさんらの名前の並んだリストなり帳面綴りなりにタイトルをつけるとすればどうなるか・・・現代の日本人だと「貸付先」などと言い表すことを先ず思いつくかも知れないけれども、大昔のヨーロッパの人たちは「当方に対して“借り”をつくっている者」と表現したようである。英語では "Debtor" となる。   
 逆に、「誰かからカネを借りた」等の場合、その相手については「当方に対して“貸し”をつくっている者」ということになる。英語では "Creditor" となる。   
   
 さて、日本では「・・・する人」、「・・・の役」の意味で「○○方(かた)」という言い方がある。親がわりの人・親分的な人を「親方」、能では「シテ方」、「ワキ方」の言葉があり、また、土木方面の仕事をする人を「土方」(これを差別語とは思っていないのでここで使わせてもらうが)と呼ぶ。   
 すると、さきほどの、「当方に対して“借り”をつくっている者」= "Debtor" については「借方」という訳語をあてることが出来るのである。   
 「当方に対して“貸し”をつくっている者」= "Creditor" については「貸方」。   
   
 よって、貸借対照表の左側、「借方」のもとに売掛金・貸付金など並ぶのはおかしくない、当然であるし、右側の「貸方」の中に買掛金・借入金などあるのも同様。   
   
 大昔、もともとは債権と債務とを左右に一覧で並べておいてその差額を一種の「正味財産」のように把握していたであろうが、どうせなら更に、持っている現金や預金、土地、建物なども借方の中に含めて並べれば「もっと正確な、正味財産の全容」が分かるようになる・・・実際、今日の簿記、会計、各種財務諸表はそのようになっている・・・と同時に、「借方」・「貸方」の語は、「借」・「貸」からイメージするような、債権債務に限定した意味合いよりもっと広いものを意味するようになっている。   
 借り・貸しのイメージを払拭する意味でも「借方」・「貸方」を、何だか意味がぼやけてしまう「シャクホウ」・「タイホウ」と呼ぶのがよいと言う人が昔からいるが、このような呼び方は、しかし、いっこうに定着しない・・・このように読む人がいると、多くの企業の現場ではむしろ戸惑われることであろう。   
   
   
   
 預金関係の仕訳データ・出納帳・総勘定元帳などの社内帳簿と、銀行の通帳などとを「にらめっこ」しながら、「銀行の通帳では預金の減少額は左側に記入され、増加額は右側に記入され、これは社内の帳簿の左右と逆で、おかしい」と、不満げに騒ぐ新人がいた時代もあったが・・・いや、今日でもいるかも知れない。   
 銀行にとって、預金を受け入れることは、現金の増加であると同時に、預金者に対しての債務という点でも増加なのである。銀行側の「受け入れ預金」科目の元帳では増加分を貸方記入(右側記入)することになる。預金者に対して発行されている通帳はその元帳の写しとして同じデータが吐き出されて(印字されて)いるものだから、やはり預金の増加は右側に印字されるのである。   
 「でも、預金者、特に帳簿管理している企業関係・商店経営者らの預金者にとっては、預金の増加は左側に印字してくれると、帳簿への転記、帳簿との照合がしやすい」との意見はあろう・・・しかし、ま、銀行は「預金者の便利など知ったことか」というところではあるまいか・・・どうなのだろう。通帳での左右表記を変更してくれというリクエストについて、「なるほど、それもCS=顧客満足度を高めることになるな」ということで仮に受け入れられても、銀行の勘定系システムの一部手直しに伴ってどのようなアクシデントが発生するか分からないし、ま、現状でよいではないか。   
 なお、ゆうちょ銀行などの通帳では、預金増は左側に印字される。   
   

雑記

   
 農林水産省であったかの調査によれば、ご飯を食べる習慣が無くなってしまっている人が、20代あたりではそこそこいるらしいのであるが・・・。   
   
 先日もそういう話題が居酒屋で出ることがあって、カウンターで隣り合わせた若者(ガテン系職種と思われる)も「自分も、ご飯を食べなくなっている」と言った。   
 「飲んだあとに、ご飯とか茶漬けとか、食べないのか?」と尋ねたら、何も食べないことも多いし、パスタ類、ラーメンのようなものをコンビニで買うなどして食べるのだと言った。朝食もパン、昼食もやはりラーメンなどが多いとのことで。   
   
 「カレーライスは? チャーハンは? コンビニのおにぎりは?」と訊いたら、「あ、カレーライスは食べます。おにぎりも」との返事で、ふむ、ならば一応「ご飯」の類を食べているではないかと思ったのであった。   
   
 食生活調査の質問票/アンケートの言葉がどうなっているか知らないけれども、「以下、最近食べたものにすべて印(しるし)をして下さい」などの問いのあと、「ご飯」の項目については次のように説明付加しておくのがよいのかも知れない。   
   
 「ご飯(牛丼・カツ丼を含む丼もの、おにぎり、ご飯ものの弁当類、寿司・いなり寿司、おかゆ、カレーライス、チャーハン、ピラフ、ドリア、オムライス、パエリア、リゾットなどを含みます)」   
   
 弁当男子が用意する「弁当」も、最近ではサンドイッチ類もそう珍しくなくなっているようであるし。それがカツサンドなら納得なのであるが、そうでないもののほうが多いのか。      
 筆者個人の、少年の頃の感覚としては、給食が無かった時期の弁当や、あるいは遠足や運動会のときの弁当として、男子がサンドイッチを持参して食べるというのは「微妙に変・不自然」というものであった。男の食べるものではないという感じであったかな。冬場に、男子が手袋をして登校する・遊ぶのは軟弱者っぽくてみっともないというのにもちょっと似た感覚・・・ま、これは寒冷地の人には分かってもらいにくいか。   
   
 時代とともに、感覚も、食生活も変化するもの・・・であろうが。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 昼食をとるべき時間に食べそこねてしまったとき、「コンビニで何か買って来ましょうか」と声を掛けられれば「おにぎり」を頼むことが多い。   
   
 毎度毎度の食事について理想的栄養バランスを実現しようというのは無理なことと心得ている・諦めているけれども、が、ともかく「炭水化物/糖質、たんぱく質」だけは少しでも多めに摂取しなくてはと思っているものだから、おにぎりの具は、鮭・たらこ等を望むし、「おかか」では寂しいようにも思え、また、梅・昆布も望まないことが多い。   
    
 で、これまでに買いものしてくれたことのない、初めての相手であるときは「棚の奥のほうの、新しいものを選んでね」と伝えるのである、小うるさいことではあるが。  
 「自分もいつもそうしています、大丈夫です」と答えるから、「女子力が高いね」と言ったら、「これが普通です」との返事で、こちらも内心、「そうだよなあ、普通そうだよなあ」と思うのである。   
 先に買い物した者が古いもの(と言うか、製造からの時間経過が長いもの)をつかまされ、たとえばその5分後にやって来た他の客が新しい品をゲットするというのは、やはり不合理と感じるのである。   
   
 さあ、しかし、上の「奥のほうの、新しいものを選んでね」という言葉は、本当は次のように言いたいのである:   
   
 「ズボラな店員だったり、あまりに忙しかったりするとき、新しい品を棚の手前に置いていることもあるから、手前の品物と奥の品物とを見比べてから新しいほうを選んでね」   
   
 だけれども、こう言うと、説明も長く、そして細かい、うるさい言い方になってしまうのだよなあ。でも、上のような注意を払いながら買い物して欲しく思う。そこで、最近では次のように伝えることにしている:   
   
 「手前の品物と奥のとを見比べて、新しいほうのを選んでね」   
   
   
 「うるさいオッサンだな、俺は」と、ちょっと思う。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 読書感想文を書くのは子供の頃からずっと嫌いで、しかし、他人が書く読書感想文を読むのは、その本を読んでいなくても内容の一端に触れられるから有益でありがたい。   
 社内の若い人たちの輪読会の発表資料をオブザーバー的に見させてもらうことがあるが、その文章について「この日本語、おかしいぞ」と思うことがしばしばある。いや、自分も間違った日本語を使ってしまうことがあるし、また、時代とともに言葉は変化するものではあるが・・・。   
   
 「ら抜き言葉」には驚かない。と言うよりも、「ら抜き言葉」が登場した頃からその使用に賛成する立場であったし。   
 「見られる」では、「見ることが出来る」なのか、それとも「(犯行現場などを)見られてしまう」・「(或る現象・傾向などが)見受けられる」みたいな意味合いなのか即座に判別しにくいこともあるから、前者の意味のときは「見れる」のほうが便利、コミュニケーション・ツールとしての言語の機能発揮がきちんと出来ると感じて来たのであった。   
  
 読書感想文では、本のなかの一節を引用しつつ「この言葉に著者の思いが集約されていると言えよう」などと紹介することがしばしばある。英語のビジネス書について、引用の言葉をたとえばこんな具合に訳しているものがあった:   
   
 「いかなる企業は、変革を伴わなければ持続と成長を遂げることは出来ない」   
   
 日本語としては「いかなる企業も・・・」とすべきものであろう。しかし、最近の若い人は「いかなる・・・も」という言い回しにあまり接していないから上のようなあんばいになってしまうのだろう。   
   
 「何卒よろしくお願い申し上げます」の「何卒」を「なにそつ」と読む若者が多数いるとの話を耳にしたことがあるが、教科書に登場しにくい言い回しであり、また、自分が漢字を見つめているときにちょうど誰か(親など)が読み上げてくれるという経験がないと、「なにとぞ」と読むことを知らぬままで過ごしてしまうのであろう。(それでもテレビ・ドラマその他で「なにとぞ」とのセリフを耳にはしているであろうが、それを漢字では「何卒」と書くのだとは気づきにくいだろうし。)   
 「御用達」は「ごようたし」以外に「ごようたつ」と読んでも構わないらしいが、個人的には抵抗がある。   
   
 とはいえ、自分の場合も物産展コーナーなどで菓子屋さんの「のぼり」など目にしたときに「この場合の“名代”は“みょうだい”でなくて、何て読むんだっけ、“なだい”だっけか」と迷うときがあるし、「短時日」という語も一旦は頭のなかで「たんじにち」と読んでしまってからすぐ「たんじじつ」に改めるという、そんなことがある。   
   
 「(法律の)施行」・「(設計および)施工」のそれぞれを「しこう」・「せこう」と読み分ける人もいれば、読みを区別しない人もいる。それでも間違いではないとの話も聞く。   
 ずいぶん前のことになるが、某有名住宅メーカーの子会社が印刷した新聞折込チラシには「外壁の施行は・・・」という表記があって、しかし、これは「施工」が正しいであろう・・・ま、チラシの上でのことはどうでもよいが、工事で取り違えミスなど起こさないことが肝心だ。   
   
 読書感想文に話を戻して・・・。   
   
 やはり英語の文章を日本語訳して引用紹介している個所で、「・・・(A)・・・なので・・・(B)・・・」という文章があった。   
 この文章が変なのである。(A)という事実のあとであれば普通には(B)という事態に至らない筈なのに、「しかし(B)ということになってしまうとは」と予期に反するような展開であって・・・これをどうして「なので」という言葉で文章がつながっているのかと、おそらくは誰もが感じてしまう訳しようなのであった。   
 もともとの英文はどうなっているのか? 英文は "...(B)...because...(A)..." なのだろうかと首をひねったのであるが、いや、きっと "...(A)..., and...(B)..." となっているのではないかと想像し、英語の原文にあたったらこの予想は当たっていた。   
  "and" は、「・・・だから/そして・・・」ばかりでなく、「・・・なのに/しかし・・・」の意味のときもあるのだ・・・このことはたいていの英和辞典にちゃんと説明されている筈なのだが、そう頻繁に、いつもいつも出くわす使い方でもないので、日本人としては忘れてしまいがちなのである。   
   
 どうして "and" というひとつの単語・言い回しに順接と逆接との正反対の使われ方があるんだよ、と文句を言っても仕方がない。言語にはそういうこともある。   
 日本語の「・・・(し)たら」の用法だって、次のようなヴァリエーションがあるではないか:   
   
 「気合を入れて作った企画書を上司に出したら、褒められた」   
   
 「気合を入れて作った企画書を上司に出したら、“長いからA4用紙1枚に収めろ”と叱られた」   
   
 2番目の文章の「・・・たら」は逆接で、「出したのに」という意味合い・・・いや、逆接への「つなぎ」になっているくらいに考えるべきであるのか。直後に「どっこい」などの言葉を挿入するともっと文意が強調されるであろう。   
   
   
 上の "and" のケースと同様に日本人が戸惑いやすいものに、 "if" があろうか。   
  "if" の意味が常に「もしも・・・なら/の場合には」になるとは限らない。 "even if" という言い回しについては「もしも/たとえ・・・であっても」という譲歩的意味であると我々は承知しているが、この "even" を付けなくても、つまり "if" だけでもやはり同様の「もしも/たとえ・・・であっても」の意味になったりする。これは中学・高校くらいの英語の授業でちゃんと教わっている筈ではあるが、これまたいつの間にか忘れてしまう人が多いように見受ける。   
 ビジネス・商用の連絡文で "if and when..." という言い方をする人もいるが、これについては常に「・・・の場合には」の意味となって、「・・・であっても」という譲歩的意味合いを持つことはあるまい、解釈違いの懸念を持たずに済むかと筆者は思っている・・・ "in case that" や "in case of" を用いた書き換えも可能であろう。   
   
   
 さて、ところで・・・日本語の次のような点には、外国人は惑わされることがあるやも知れない。   
 それは、「のに」は逆接の意味を持っていて「けど」へと言い換えられるが、逆方向に、「けど」→「のに」という言い換えがいつも成り立つとは限らないということ。   
   
 「教えてくれた店にきのう行ったけど、休業日だった、残念!」   
   
 この「けど」は「のに」に換えられる。   
   
 「教えてくれた店にきのう行ったけど、ほんと、品数がハンパじゃなかった、すごいね!」   
   
 この「けど」は、順接というか、いや、文章のつなぎ、あとへと続けていくための呼吸のようなものと言えるであろうか。   
 「いきものがかり」の古い歌「ありがとう」の歌詞のはじめのほうにある「けど」などもこの類と言えるであろう・・・逆接の意味ととらえると、あとの歌詞とのつながりがおかしいわけで。   
   
 なお、「ノニ・ジュース」の「ノニ」は「けど」に換えることは出来ない。   
   
   

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クラシカルな某

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