2016-09

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秋深し  隣は何を  問ふ人ぞ

   
    
 1)  名月を  撮ってくれろと  泣く子かな   
   
 2)  松茸を  添えてくれろと  蓮(はす)の花   
   
 3)  ローソンで  買い物せるは  キリン・ラガー   
   
   
 上の1の俳句は、「月を写真に撮ってくれ」とせがむ子供の様子を詠んだもの。   
   
 続く2は、季語が2つになってしまったかも知れないが。   
 ここに「蓮」とは、ロータス社の「ロータス1-2-3」という、昔ヒットした表計算ソフトを意味する。これを日本語環境で使用するのにたとえば「松茸」というFEP(今で言うIMEみたいなもの)を組み込む必要があった。   
   
 最後の3については、「買い物せしは」とするのが自然ではないかとの意見もあろうが、過去を表す「き」でなく完了を意味する「り」の連体形を用いて「買い物せるは」とする必要がある。なぜなら、この句は、「いまジョージ・セルが生きていて来日し、束の間のオフタイムに街中でコンビニに寄るとしたら、どこで何を買うだろうか」という架空の設定で詠まれたものである。洒落として「せる」という言い回しが含まれるのが望ましいのである。   
   
 なぜローソンなのか? ローソンはもともと、アメリカではオハイオ州でおいしい牛乳を扱う店として始まったらしい(ゆえに、ミルク容器をあしらったデザインが使われている)。クリーヴランドを生活の本拠とし、ものの味にもうるさく、また、オハイオ州内の大学その他におけるクリーヴランド管コンサートでも当然ながら指揮をとったセルも、きっとローソンの店舗を目にしたことがあったろう。   
 そしてまた、セルは日本のビールとしてキリンのブランドを知っていたようだし。   
 という次第であるから、日本のコンビニに寄るとすれば名前になじみのあるローソンに立ち寄り、そして、キリンのビールを買い求めたであろう・・・というわけ。2社とも三菱と関係を持つ企業であるのは、不思議な偶然であるが、ま、どうでもよい。   
   
 ローソンは "Lawson" と綴るから、「 "son-in-law" という言葉と関係があるのか、それとも、これと同義語か?」と言った知人がいるが、違うのではないかと筆者は思う。普通に素直に考えればよいのではないか・・・つまり、リチャードの息子が "Richardson" を名乗り、ジョンやスミスの息子らが "Johnson" や "Smithson" を名乗ったように、ロウという名前を持つ人物の息子がいつの時かに "Lawson" と名乗り始めたのではあるまいか。   
   
   
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 「リンゴが赤くなると(赤く色づく季節になると)、医者が青ざめる」   
   
 ・・・海外には上のような諺があるらしいのだが、もともとの外国語での表現・言い回しがどうであるのか知らない。医者が青ざめるというのは、皆がリンゴを食べると健康増進につながり、すると「医者いらず」の状況になって収入源につながるということであろう。   
   
 居酒屋で同席することあった或る人が「この言葉を英語に直すとこうなる」ということで英訳を試みてそれを見せてくれたことがあるが、筆者、これは違うのではないかと応じた・・・「青ざめる」の「青」をブルーと訳してあったからである。   
 ここはやはりペイル ("pale") が適当ではあるまいかな。   
   
 相手は「このペイルという言葉、すっかり忘れていた。言われてみればこんな語があったな。あなた、よく、すぐにこの言葉が出て来るね」と言ったので、「ビールのペール・エールという言葉をしょっちゅう目にしているからたまたまで、それだけのことだ」と答えることにした。   
 が、本当のことを言えば・・・こういう次第である: クラシック音楽ファンで中世・ルネサンス・バロックなどの音楽にも多少はなじんでいる人ならば、学校で "pale" という語を教わったときに「ス・ラ・ファセ・パル」という曲と組み合わせてこの単語、そのイメージをしかと記憶にとどめたというケースが多いのではないか・・・この曲の「パル」が、おそらく、英語のペイルに通じるものではないかと思いながら。   
 曲名をフランス語に改めると "Si la face est pale" ( "a" の上に付くアクサン・シルコンフレクスについては、文字化けを避けるため省略して表記)であろうが、ゲルマン語にせよラテン語系言語にせよ、英語との関連を意識しながら言葉を覚えることが効率よいということを改めて実感できるところである。   
   
   
   
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 秋になると、「今年は医療費の支出が多くなっている。来年の確定申告で医療費控除をしたいが、どういう具合に領収証などを集めていけばよいか?」の相談が寄せられるようになる。あるいは、もう少しあとになると、「副業による所得があるが、確定申告しなくてはいけないか?」などの相談も。   
   
 ・・・この種の相談は、昔の筆者も、そして今の若手の経理部門スタッフも、原則として「人事部の給与担当者のところへ行ってくれ」と対応することとしている。人それぞれに所得の状況、家族構成、家族の所得状況、その他の状況・条件がマチマチで、相談された「部分」以外の所得控除・税額控除項目などもまたマチマチで、結局、個々人のケースに即した正解は給与担当者からのほうが得やすいのだ。疑問解決・正解入手の近道である。   
   
 シーズンを問わず、経理・財務部門は基本的に部外者がデスク周辺にまで立ち入って来ることを好まない。情報ファイアウォール的なことが確保されないと困るからである。まだ公表に至っていない業績速報値資料やら決算発表資料類の原稿、あるいは社債発行関連書類やらが机の上に乗っていたりもするから、社内の人間であれ保険のオバチャン(或る程度の年齢までは「生保レディ」とも呼ぶ)であれ、そこらを歩き回られて見られては困るのだ(インサイダー取引事件その他のトラブルの誘引になりかねない)。   
   
 が、自身や家族の健康状態についても、ましてや副業についても、人事部には知られたくないというのがあって、そういう人たちは「ならば、数字と税金の関係だから経理部門へ相談しよう」との行動に出る。そこで今度は「人事部へ出向くのがイヤならば、税務署(事例によっては市区町村役場の住民税関係部署)へ行けば相談に乗ってくれるよ。怖がらなくても大丈夫だよ」と言うことになるのだが。人事部と、そして税務署などと、どちらの敷居が高いかは、これは人によるであろうか。   
   
 「人事部に出向いてプライベート的なことをいろいろ話すのはどうも」という抵抗感も理解は出来るけれども、しかし、医療費や通院交通費の資料類を日にちごと整理・人別の整理もせずドサッと広げられて「これ、みんな、医療費控除の対象に出来る?」と判断を仰がれても、タクシー利用日が通院日と合致しているかとか(なお、タクシー料金は医療費控除が認められる場合とそうでない場合とがある)、入院治療費の領収金額に含まれているレンタル・パジャマ料金や散髪理容料金の扱いとか、ほか、病院売店で買ったリハビリ・シューズの領収証、リポビタンDの領収証やらについてあれこれ説明していたら、相談されるこちらが本来の業務に充てる時間は奪われてしまうのだ。とはいえ、「給与担当者が懇切丁寧に相手すべき」というのも酷であるから、人事部などにあっては国税庁などの発行する解説冊子を備えて相談者に渡す・読ませるという対応が合理的と言えよう。   
   
   
 副業についての相談者は大抵、「“確定申告しなくてもよい”と回答してくれないかなあ」の気持ちを持ってやって来る。   
 しかし、こちらとしては次のように答える:   
   
 「副業については事前に所属長その他の了解を得ておくこと。書面で伺いをたてて、その書面上に承認のサインを得ておくのが望ましいし、何かのときに身を守ってくれる。所得というものは、それが本業に基づこうが副業によるものであろうが給与所得のすべて、また、事業所得、一時所得、雑所得などなどすべてを自分で把握しきり、原則的にすべてを確定申告する気持ちでいて、しかしながら、ラッキーにも一定条件の場合には申告に含めなくてよいとか、特別控除枠があるとかする場合があるからそれを手引き(国税庁その他の発行する解説資料)でチェックすべし」   
   
・・・こんな回答としている。そして、やはり人事部の給与担当者のところへ行くように促すわけである。   
   
 副業は、就業規則の文言にもよるが、そこでたとえ許可がおりる可能性が示唆されていても、現実に上司からの承認を得るのは骨が折れることも多かろう。しかし、丁寧に理解を得る努力をすべきであると考える・・・例えば「残業を求められない今の環境をありがたいこととは考えますが、そのぶん収入/所得も伸びないことから子供の教育内容の充実、また、将来への備えを十分にしていけない点が不安の種となっており、就業時間外の副業に従事することを了解いただけますようお願い申し上げます。疲労その他を原因として何かしらのご迷惑をお掛けすることのないよう努めます」的なお願い文書とする・・・間違っても「レジャーや遊びに回すカネが足りないから」みたいなニュアンスを含めないことである。ケースによっては「おんなじ仕事してるのにさあ、子持ちの連中には出てる扶養家族手当は自分には出ねーし、税などの負担も彼らは軽減されてるし、でも要するに俺だけ安く働かされたうえに税金などでも目一杯搾り取られててさ、やってらんねーよ、副業くらい認めろよなー」みたいな訴えを含めてもよいかも知れない・・・ただし、評価されるだけのきちんとした実力・実績を備えている場合には、という条件はつくけど。   
   
   
 相談者は対・人事部でのプライバシーを気にするけれども、しかし、こちらだって色々と確認しているうち、「あれ、この女性、何年か前に結婚したのを覚えてはいるが、今は“寡婦”に該当するんだな」とか、「子供が3人もいたのかあ」などとハッとさせられることもあり、すると微妙に「知らないほうがよかったかな」と思うことがあるし、「何やかやの個人情報は、結局のところ人事部に集中していたほうがよろしいのではないか、当方がそういうプライベートなことを知るのは如何なものか」とも感じたり・・。   
   
   
 原則としては副業を禁止している企業が多い中でむずかしい面もあるが、たとえば次のようなことも含め、新入社員、あるいは全社員を対象として各社とも説明会を開催し、それなりのことを周知する取り組みなどあってよいのではないかとも思う。   
   
 ・給与支払と税務署・市区町村役場への通知フロー   
 ・源泉徴収と源泉徴収票   
 ・年末調整と確定申告   
 ・副業が給与所得である場合の、その給与支払企業が為している事務作業   
 ・扶養控除等申告書・配偶者特別控除申告書   
 ・妻・家族の所得が、当社支給の配偶者手当・扶養家族手当に与える影響   
 ・妻・家族の所得が、あなたやあなたの妻・家族に対する課税関係に与える影響   
 ・妻・家族の所得状況の届出等について偽り・間違いがある場合の問題   
 ・あなたや妻・家族のマイナンバーはどの書類にどういう具合に記載されるか    
 ・記載されたマイナンバーを課税サイドはどう活用できるか    
 ・(ほか、社会保険関係の説明を付加するなど・・・しかし一度にそこまで扱うと説明を受ける側は理解・消化しきれないかも知れない)
   
 給与支払と役所への通知、年末調整や確定申告、住民税の普通徴収と特別徴収などなどのスキームが整理された形で伝えられていないから、さまざまな疑問が生まれたり、戸惑いを生んでいるとも言える。適切な納税が果たされないケースもまた生じうるのではないか。   
   
   
 副業を本業の職場に知られたくない人は、副業が事業所得である場合は(「事業所得」の体裁に出来る場合を含む)その事業所得に関わる住民税は確定申告書第2表にて普通徴収制度を選択しておくことが多いと思うが、他方、副業もまた給与所得の場合には、主たる給与のぶんと一緒くたで住民税を特別徴収されることを余儀なくされるのが標準的ケースであろう・・・(「標準的」と表現したのは、この世の実務の世界ではそうでないこともありうるということだが)・・・で、「それでも副業はバレないものだよ、だって、本業の職場において“当社で支給している給与の額に比べて住民税額が大き過ぎないか?”との疑問が生じても、そもそも人それぞれ家族構成や諸控除の状況が違うので忙しい給与担当者もいちいち構っていられない」との意見も見られる。   
 しかし、この意見に筆者は賛成できない・・・理由の説明は省略する(バレるパターンは複数あるのだ)。副業については所属長らの承認をしっかり得ておくことが大前提と考える。   
   
   

豊洲どーする? 行くの、よす?

   
 豊洲市場の問題や東京オリンピック関連予算などをめぐって、東京都という自治体/都議会/都庁に対して東京都民ひいては国民の懐疑と批判は強まっている。   
 が、そういう懐疑・批判はあっても、「驚き」をもってまで受け止める人は少なそうにも見える。「いい加減なこと、ガサツなこと、テキトーだったり不明朗っぽい金遣いなどは、ありそうなことだ」という感想の人が多いのではないか。また、筆者のように「もともと信用してないもんね」という人もまた結構いると思う。もちろん同時に「けしからん事であるから、今からナゾ解明、責任追及、是正などに励んでくれ」とは考える。   
 そして、当面は新知事のお手並みを拝見する感じ。これまでのところ、大方「この知事もダメだな」みたいな評価には至っていないであろう。   
   
 脱線・余談だが、富山市議会議員の政務活動費の問題も、「驚き」までは感じていない筆者である。この種のこと、どこの議員さんについてもまったく信用していないもんね(笑)。もしも、万が一にでも、東京都議会の議員について同様の問題がいま露見・噴出したら、これはとても騒ぎが大きくなるであろうなあ・・・そのようなインチキは断じてないことが望まれはするが、さて。   
   
   
   
 新知事にはこの調子で頑張っていただきたいところではあるが、しかし、知事はまた油断を出来ないとも言えるか。東京都が抱える課題はいろいろあるから、そちらへの着手・取り組みに遅れ・手抜かりが生じることあれば、1年後、2年後という時期に何かの批判を受けることもありえよう。   
 また、足を引っ張りたい勢力もあるかも知れない。知事の不祥事・汚点・手抜かり・監督不行届などの問題に発展するような、何かの罠が仕掛けられることだって考えられるのではないか。知事自身が公私のけじめ・倫理観を持って職務に当たっていれば特に問題など生じないというわけでもない。たとえば、こんな罠・・・オリンピック関連であれ何であれ「別方面の予算を流用/付け替えする」とか「業者から職員・外部委員その他へのリベート/還流/キックバックを行う」というインチキ・不正を今の時点から行い続けるとする・・・そして、それを後になって、いつの時点かで発覚させる・・・現知事の責任が問題となるであろう。ほかにも、職員のカラ出張・ヤミ給与などを仕組んで後に発覚させる等の手もありえなくはない。それらの動きを封じる・不正を早期に暴く意味でも監査機能の充実が望まれる。   
 政治家が、知事が、難を逃れて泳ぐ・手腕を振るうということはとても大変なことであろうと思う。   
   
   
   
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 NHK総合(地上波)、夜11時過ぎのニュース番組をわりとよく見るのであるが、そこではツイッターに寄せられた感想コメントも画面上に表示される。   
 実際のところ膨大な感想が寄せられているのであろうが、番組制作サイドとしては安易に無作為抽出して表示させることはしていないであろう・・・「乱暴に過ぎる言葉」、「煽り表現」などを含むものは避けているであろうか。で、どちらかと言えば無難な、感情の起伏も抑えられたような、優等生っぽいコメントが目立つように思える。そこがちょっと物足りなくて面白くないが、しかし、やむをえぬところか・・・何かの事件などに関して「馬鹿やってんじゃねーよ、このボケカスの変態野郎めが。首吊って死ね! みんな、あした、○○まで押しかけてデモ行進しよーぜ」みたいなコメントは、決して映し出されないことであろうなあ・・・それはまた適切な対処である。   
   
 先日は、NHK職員が給与の不正受給をしていたというニュースを流した。そのとき、筆者は他に取り掛かっていた作業があったのでテレビ画面に見入ることは出来なかったのであるが、ツイッターに寄せられた感想としてどのようなものが紹介されたのか、今なお気になる。感想コメントのチョイスをする担当者もひときわ緊張・苦労する瞬間ではなかったかと想像する(まさか、このニュースについては感想コメントは一切紹介されなかったということはなかろうと思うが)。   
 仮に筆者がコメントを送るとすれば、「受信料収入すなわち給料の原資がほぼ自動的・定期的に流れ込む環境下の甘えで、給料・お給金の有難みも分からない人間が育ってしまうのだな」くらいのものになろうか。ま、このようなコメントをしても、「受信料」というセンシティヴな言葉が含まれているがため、テレビ画面に挿入されるコメントとしてチョイスされることはないかも知れない・・・NHKが公平・客観性を追求しきるならチョイスされる可能性ありと考えるべきではあるけれども・・・しかし、仮定の問題についてこれ以上に話をすることは無意味でもあるからやめよう。   
   
   
 相模原市にある施設で悲惨・凶悪な事件があったが、それからさほど日を経ていない或る日の晩、テレビをつけたらNHKでは「LIFE」なるコント番組が流れていた。   
 或るコントにて、「どうもこれは」と受け入れにくいものがあった・・・結婚式が始まろうとするところで新婦控室には、新郎ではない、新婦と過去に交際していた男性が現れ、そして、両者は「よりを戻す」方向へと話が進む。新婦の父も理解を示す。男性は新婦に向かって「ごめん、僕がバカだったんだよ」と謝罪の言葉を口にする・・・すると、新婦の父親は言葉尻をとらえて「おい、君はバカなのか? バカな男には、うちの娘をやれん」と言う。ここまでは普通に面白かったのだ。が、しかし、そのあと、新郎となる予定であった男性が登場するのであるが・・・。この先は上手な紹介が出来ない・・・筆者の意識の仕方におかしなところ・大袈裟なところがあるかも知れないが、相模原での事件があった直後にこのようなコントを放映してよいものだろうかと感じた。いや、それ以外のときであってもまったく愉快さを感じないであろう展開に至った。NHKは、この日、せめてこのコントを除外して放送すべきであったというのが筆者の個人的な感想である。   
   
 Eテレには「美の壷」だったかな、そんなタイトルの番組があって、そこには或る有名な男性俳優が登場する。で、番組の冒頭と、そして合間にちょっと「とぼけたセリフ・振る舞い」を披露する。番組制作する側は、それらをたぶん「視聴者の笑いを誘う小休止」とでも考えているのであろうが、筆者個人的には「余計で鬱陶しいもの・番組の流れを邪魔するもの」と感じてしまう。どうにもイヤで仕方ないのだなあ。紹介・説明すべき工芸品その他を、非能率・時間浪費的に伝えているかに感じる・・・番組を観ていて時間のムダ使いをさせられたように感じてしまう。   
 いまのNHKの番組には、わざわざタレント・俳優を起用・登場させなくても済みそうなものが幾つもある・・・と感じているのは筆者だけか。   
 「ブラタモリ」などは、これはタモリ氏の登場が必須であろう。「番組ありき」・「この番組タイトルありき」という点への批判はしないこととして、この番組はこのタレントのユニークな個性によって成立するものである。   
 所ジョージ氏の登場する「大変ですよ」であったか何だかの番組にあっては、氏による発言・コメントにそう大した意味が無かったりするように思え、また、他の3人ほどのゲスト出演者からの発言にもあまり有意なものは無いように感じられる。つまり、NHKのアナウンサーや記者という、自前のスタッフのみで番組を構成させることが可能ではないかと思う。「それでは普通のドキュメンタリー・報道みたくなって面白くない」という見方もあるのかな。   
 タレント等の起用を減らせばそれだけ番組制作コストも削減できて、小さいことながらも結果的には国民の利益にもなろうかと思うのだが。   
 「タレント起用で視聴率を上げよう」との考え方もあるかも知れないが、「大災害時でもなければ基本的にNHKを見ない」という人は相当数にのぼっているようであり、より一層のコスト意識や、また、NHKだからこその「視聴率にとらわれない姿勢」も必要であろうと考える。   
   
 (そして、異論は多くあろうが、タレントの多くは企業活動の「ヒト・モノ・カネ」のうちの「ヒト」でなく「モノ」である・・・芸能事務所がタレントというモノを発掘し、育て上げ、磨き、そして各方面に売り込み、映画・ドラマ・各種番組の制作者らのもとへと送り込む・・・これぞビジネスである。タレントよりも芸能事務所のほうが偉い・・・ときにタレントが、育ててくれて仕事をあてがってくれた事務所を離脱して独立するなどという行為に出るが、受けた恩義に応じた手続きを踏まずに身勝手な行動をとるケースの中には、人の道を外れるようなものもあるのではないか・・・こうなると比喩を越えてまさしく「モノに過ぎぬ者のやらかすこと」と受け止められてしまうであろう。)   
 番組づくりのうえで、タレントの生活保障を考えすぎて出来るだけタレント起用しようとの配慮はタレントを「ヒト」ととらえることに起因した過ちであり、そこを見直さないと適切な番組作りも、あるいは番組作りの改革も出来にくくなってしまうのではないか。   
   
   
   
 或る方が亡くなって、その追悼の意味でNHKでは「夢であいましょう」だったかの古い放送映像を紹介することがあった。   
 こういうものがきちんと残されている一方で、どうしてジョージ・セル来日のときの映像は消されてしまったのかと、少なからず不愉快でならない。「どちらの映像が価値あるか」と比較するのは適当ではないけれども・・・。   
   
   
 「テレビを持たず、しかし、ワンセグ・チューナーつきの携帯電話やカーナビ類だけを持つ人」についての、NHK放送受信契約締結・受信料支払の義務は如何に、ということが論議されているが、そういう人に関しては、筆者個人的には「グッと低い受信料」を課すことでどうかと感じる・・・「考える」というよりも「感じる」であるなあ。   
 ワンセグのあれは、ビルの谷間の居酒屋の中、堅牢な鉄筋コンクリートの雑居ビル内をはじめ、ちゃんと受信できないケースが多いのではないか、どうだろう。「あまり使い物にならないみたいだね」というのが筆者の認識で、この認識が正しいならば、これで「フツーのアンテナを接続したフツーのテレビ」と同水準の受信料負担を求めるのはどうかしていると思う。これで音楽鑑賞が出来るものなのか、それなりのクオリティの画質でドラマを楽しめるのか? ニュースの確認くらいには役立ちそうだから一定の価値はあろうけど、さて。   
   
 ここ最近は、しかし、「NHKは、テレビ放送も、そしてネット配信も、スクランブル化してしまえばよい」との考えがよく紹介されるようになって来た。これは画期的な問題解決であるなと思う。「NHKの番組は見ない、ゆえに受信料を支払いたくない」という人が、「実際に見ていないこと」を証明しやすいし。NHKとしては受信料収入減少になってしまうであろうが、しかし、諸コスト削減や合理化・改革を推し進める契機になってくれる。国民の社会保険料負担が増しているなか、これまた国民共通の負担とも言える放送受信料くらいは「据え置き」からさらに「減額」へと変わっていって欲しいものである。   
   
   
   
 某国が日本の領海・排他的経済水域・接続水域などへと船を送り込むことについて、筆者は「あいつらは、“欲しいなあ、よし、欲しいんだから獲っちゃおう”という思考パターンなのだろうなあ。為政者も含めて困った衆生だ」と思っている。そして、警戒を緩めてはならないと考える。   
 つい先日の国会でのスタンディング・オベーションに関して、あれを「某国の某党みたいだ」と批判した人物がいるが、ま、それぞれの感じ方ではあろうけど、筆者は特に問題に思えなかった。しかし、振り返ると、批判したその某氏自身は某国をお気に入りなのか、かつて政権奪取を果たした折りには議員団を引き連れて某国を訪問し・・・このことのほうがよほど、そしてとんでもなく国民を不安に陥れる行為であったではないか。某国との友好関係などは大切ではあるけれども、しかし、あのときに「朝貢」という言葉を思い浮かべ、また、日本が属国であるかのような錯覚と目まいを覚えたのは筆者だけであろうか。ああいう行為もまた「欲しいなあ、よし、欲しいんだから獲っちゃおう」の国を強気にさせる一要素になっていたりせぬか・・・考えすぎか。   
   
 NHKがワンセグ放送やネット配信に関して受信料収入を得ていこうとする姿勢にも、いくぶんか「欲しいなあ、よし、欲しいんだから獲っちゃおう」的なものを帯びていないか・・・もちろん「法改正などを経て」という理性的なステップ/法的裏づけを確保しながら進んでいくであろう点は某国の振る舞いと違って「ちゃんと」していそうなのであるが。   
   

雑記



   
 国内盤のクラシック音楽CD商品としては9月7日に「ドイツ・グラモフォン ベスト100」シリーズと、そして「ソニー・クラシカル名盤コレクション1000」の第3回発売分50タイトルが登場した(同シリーズ第4回発売分は9月21日)。   
   
 「過去に蓄積した遺産を使っての商売」と揶揄することも不可能ではないけれども、それはロックでもジャズでも数多く見受けられることで、むしろ「淘汰されずに聴き続けられる音楽遺産がこれほど存在していること」を喜ぶべきであろう。   
   
 というわけで、ソニーの商品からはバーンスタイン指揮NYPによるドヴォルザーク第7番ほか、また、ホルヘ・ボレット(ボレ)の1974年カーネギー・ホール・ライヴ(2枚組)などを購入。(バーンスタインにドヴォ7のレコーディングがあるとは知らなかった。)   
   
   
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 歌手の 南 こ う せ つ 氏の、平仮名で表記された「こうせつ」の部分はおそらく本名では漢字表記なのだろうけど、それは「巧拙」ではなかろうし、「ご高説」の「高説」でもあるまいし、はて一体・・・という疑問があった場合、ネット検索なども出来なかった昔であれば調べる作業は大変であったが、今では簡単にチェック・確認が出来てしまう。今さらながら、便利であるなあと思う。   
   
 さて、この人の歌った「神田川」の歌詞については昔からいろいろ考えてしまうのだ。   
   
 筆者、銭湯に行ったことは数えるほどしかないのであるが、その脱衣所に掛け時計があったことは何となく記憶に留まっている。牛乳・コーヒー牛乳などを売っていたことも。しかし、浴場から見える位置に時計があったかどうか、それが記憶に無い。   
 「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言われるかも知れないが、そうでもない。   
 「神田川」の歌では、二人して同じタイミングで風呂から上がろう(一緒に帰路につこう)と申し合わせているが、この約束は具体的にはやはり「じゃあ、今から30分後に風呂を出よう」とか「40分後」とかとなるであろう。浴場から時計が見えるのであれば、この約束を守ることは実に容易なことの筈。それなのに入浴が長引いて約束を守れないのはどうかしている。   
 浴場からは時計が見えないということであれば、自分の感覚を頼りに「だいたい何分経過したな」と気にしながら入浴することになろう。いつもいつも入浴が長引いてしまうとなれば、その人の時間感覚にはどこかおかしいところがあるのだろう。   
   
 歌詞の具合からすると、先に風呂を出た側は約束を守っていて、べつに自分が早過ぎたわけではないものと想像される。そういう状況で、相手から「冷たいね」って言われても、かえって何かムカッと来ないのだろうか? どうして次のような反応にならないのか:   
   
 「あたし、こういう人の相手するの、ほんと疲れる! 時間にルーズなのを先ず直してよね。いつも同じことの繰り返しで・・・直せないの? 反省とか出来ない人なの? 相手に迷惑がかかるのが分からないの? こういう場合に「冷たいね」って言うなんて、おかしいでしょ、KYっぽくもあるでしょ。今度から、銭湯にはひとりで来る。さもなければ別々に帰ればいいじゃん。・・・でも、あたしたち、残念だけど、お別れしたほうがいいのかもね」   
   
とか。気が短かすぎ・短絡的か?(笑)   
   
 相手のやさしさを、なぜ、どのように怖いと感じたのか。   
 あなたは、みずからの落ち度(長湯で相手を待たせる)を棚にあげて、というか、そんな落ち度に少しも気づかずにいて、それだからまた反省もしない様子であって、つまりはそういうどこか欠落している・抜けている・自分中心的っぽいところがあるのよね。だから、あなたのことをダメと切り捨てたくもあるけど、それなのに、あなたはしれっとして、確かにこちらに対して本心から「冷たいね」って気遣ってくれる。あなたには腹が立つわ、でも、このアンバランスとやさしさ・・・アンバランスだからなおのこと「やさしさ」が際立って感じられてしまう・・・あなたのそのやさしい部分をしっかり受け止めなければいけないと思わされてしまう・・・あなたから離れていくことには気後れもし、結局ズルズルとあなたと一緒にい続けることになりそう・・・あなたのやさしさの発揮・表出の仕方には、あたしの気を引き続けてしまうものがあるの、そこに怖いものがあるわ。   
   
   
 この曲の歌詞の解釈については以前にネットで調べたことがあって、様々な解釈がされている。それらを読むと面白かった。   
 なお、上では、筆者、この歌詞は「女の側の気持ちを歌ったもの」と解しているが(ゆえに、歌詞冒頭の「あなた」は男を指すものと解する)、逆に「男の側の歌」」であるとする解釈も存在する・・・「~かしら」という言い回しは男も使わないことはないので、そのような解釈を否定する根拠にはなるまい。   
   
   
 やはり 南 こ う せ つ 氏が歌った「赤ちょうちん」に関して、キャベツをかじるという行為・動作がどういうものか、昔々はまったく分からなかった。   
 キャベツというものは、ロールキャベツを別とすれば、千切りにして(もちろん生で)食べるものとばかり思っていたからである。千切りしたものを食べるのを「かじる」とは表現するまい・・・。   
 大人になって、モツ焼きの店で、数センチ角ほどに手でちぎったキャベツが添え物みたくして出て来たとき、「ああ、キャベツをかじるというのは、こういう具合にしたものを食べることか」と理解した・・・「いや、違うだろ、丸いままのキャベツをかじるんだよ、リンゴの丸かじりと同じ!」という意見もあるか?   
   
   
 子供の頃、友達と野球遊びをするにはまず公園に向かったが、他のグループに先を越されて場所が埋まっている場合には近所の畑の脇の空地へ向かい、そこで遊んだ。   
 たまに、畑では農薬散布がされた。直前になると農家のおじさんが「これから農薬を撒くから、みんな、危険だから他所へ行け」と声を掛けた。   
 そしてまた、筆者の家では、農家の方その他から「(出荷用ではない)自家消費用の農薬不使用、または、農薬は1回だけ使用」の野菜・果物を頂戴することがしばしばあった。   
 そんなわけだから、筆者の頭には「農薬は怖い」という固定観念が今なおこびりついており、現代の農薬の安全性についていくら話を聞かされてもなかなかこの感覚は拭い去れない(もちろん、農薬散布時の危険と残留農薬の危険性とを同列にして恐れているわけではない)。   
   
 そういう農薬への警戒と、そして昔の日本の古典的な有機肥料のことなどあって、昔は、野菜は食べる前・調理する前にほんとうにしっかり洗ったものである。台所用中性洗剤を使って洗うことも半ば常識のようになっていた。   
   
 空地で遊ぶついでに、横の畑の野菜のあれこれを見て回ることもあった。キャベツには蝶々か何かの卵や幼虫がついていたり・・・「ははあ、こういうことがあるから農薬も必要なんだな」などと思った。   
   
 修学旅行のとき、おかずのひとつにキャベツの千切りがあったのだが、その中に緑色の幼虫が見えた。向かいに座っていた先生にそれを見せたら、静かな声で「食べずに残しなさい」と言われた。さあ、そのあと先生は皆に「キャベツは食べずにおくこと」と指示するかと思ったら、何もしなかった。しかし、先生自身はやはりキャベツをしっかり残した。   
   
 大人になってからのことであるが、白菜のキムチの作り方を知ったとき(根元の株の部分から葉を切り離さずにおく)、はて、白菜を育てるときには農薬は使われないのかどうか、また、漬ける前の準備でどのくらいきれいに洗うのかなど気になった。もちろん、日本の国内外においてどのようなタイプの肥料が使われるかも気になるわけだが。   
 近所の農家から白菜を買うことがあったとき(自宅でキムチを漬けることはしない、浅漬けや水炊きの具に使う)、農薬を使っているかどうかを尋ねたら、使っているとの返事であった(たまに葉に虫食い穴があったりするが、農薬を使わなければあれはもっとひどいことになるのではないか)。すると、やはり、多くのキムチ漬の商品について、漬ける前にどのくらいしっかり洗浄されているか気にはなる・・・ゆえに、キムチをそれほど頻繁には食べない。   
   
 ところで、野菜などが無農薬栽培だと安心かというと、必ずしもそうではないらしい。   
 農家の方の自家消費用ということで無農薬栽培されたセロリを喜んで食べていた時期もある。最近は市販のセロリを食べることになるが、よく洗うことを守っている(当然、皮/筋を取り去るが)。しかし、セロリもまた頻繁には食べないことにしている。さあ、しかし、無農薬でセロリを育てると、セロリ自体は菌類に抵抗するための物質を一生懸命に作り出し、これが人間にとって害をもたらしうるのだという。厄介なことであるなあ。   
   
 ともかく、食べる前・調理する前によく洗うことについては、これが間違いにつながることはあるまいと考える。   
   
 しかるに・・・。   
 しばらく前に寄ったモツ焼き・焼鳥の店では・・・キャベツを洗わずにちぎっていた。「ふむ、先にちぎり、あとから洗うという仕方なのかな」と思って眺めていたら、洗うことはせずそのまま客に出していた。   
 上とは別の店であるが・・・鶏モモ肉とネギを交互の順に刺した焼鳥があるが、これに使うネギについて、仕入れて来たまま洗わずに(さりとて、いちばん表の皮を剥くこともせずに)そのまま輪切りして串刺しするのだと言っていた。「ネギにいろんな人の手が触れていても、どうせ焼くのだから衛生上問題はない」という判断なのだ。まあ、衛生上はそうかも知れないが・・・ネギはああいう風味と成分であるから農薬不使用のケースも多いのかどうか筆者よく知らないが、しかし、何か考える前にごく自然に「とりあえずは洗う」という気持ち・感覚は普通には備わっていないのか。筆者が神経質なのであろうか。   
   

雑記



   
   (↑)写真上段のはDVDセット商品で、ワーグナーの7作品(歌劇・楽劇)を収録している(「リング」4部作を1作品としてカウントしているので、これを4作品とカウントするならば計10作品ということになるが)。   
   
 ワーグナー作品は、CD鑑賞でもメリットはあるのだが(音楽要素に集中できる)、しかし当然、上演の映像を伴ったDVDなどでも鑑賞したくなる。レヴァイン/メトのもので何作品も観てはいるし、ほか、バレンボイム/スカラ座による「トリスタン」、ネルソン/バイロイトの「オランダ人」などなども・・・。   
 しかし、あともうちょっと色々なDVDを得ておきたいなと考えてきた。   
   
 バイロイト音楽祭での公演を収録したDVDまたはBDのセット商品がお手頃価格で売られているのを発見し、収録時期も比較的最近のものであるから映像・音声クオリティに期待を持てそうで、一旦は「よし、これを買おう」と思ったのである。が、しかし、もしも舞台演出(時代・ストーリー・シーン設定、衣装ほか)があまりに斬新で革新的で、また、現代社会や未来社会に話を移し替えたものだったりすると、自分の側の「堅い頭・感覚」は対処不能に陥り、馴染んでくれないのではないかという警戒感が・・・(笑)。   
 あるいは・・・。抽象化されたシンプル舞台というものについてはあまり抵抗を感じぬかも知れない。しかし、それはイタリア・オペラその他の場合であって、ワーグナー作品の場合には不満を覚えてしまいそうな気もする。   
 要するに、オペラ鑑賞上級者ではないということであろうか。しかし、仮に上級者であっても「作曲者の頭にあったであろうところの、いわば原点の舞台に立ち返ってくれ、そういうものを見せてくれよ」とか「“演出者のための演出”に走り過ぎないでくれ」と思うことはあるだろうな。どうだろう。   
   
 結局のところ、 Opus Arte レーベルから出ている上の写真のセットを選んで購入。自分にとっては無難もしくは「無難寄り」の選択ではなかろうか。   
 ケント・ナガノ指揮の「パルジファル」ほか、それなり以上に評判よろしきものが収録されているので、この週末以降に鑑賞を楽しみたい。(トータルでDVD20何枚にも及ぶので、かなりヘビーか。)   
   
   
   
 下段に映したものもDVD。   
 若き日の、と書くと、何だか今ではもう若くないみたいに聞こえてしまうがそういうことでなく、2001年当時のユリア・フィッシャーがヴィヴァルディの「四季」を演奏した映像(シリトー/アカデミー室内管と共演)。   
   
 多くの人たちと同様、この曲/作品については既に40年くらい前に「はー、いいかげん聴き飽きた。今後ずっと、もう聴かなくてもいいわい」と思ったこともあるのだが、それでも何かの機会には意図せず耳に入って来ることはあるわけで・・・。   
 すると、「ふむ、たまに聴くのもいいな」と感じることもあるが、しかし、演奏によっては弦楽器の音色が金属音っぽかったり、装飾音符が過多であるように感じられたり、また、音楽の弾みに乏しいものだったりということでこちらの好みにマッチしない例も多々ある。   
 筆者世代だと例えば(その昔には定番とされた)イ・ムジチ合奏団のCDを一応は手許に置いているものだろうけど、しかし、それでもアーヨ派とミケルッチ派と、その他の派に分かれているかな。   
   
 さて、このフィッシャーのDVDで聴ける演奏は、筆者としてはかなり堪能できる。フレッシュさもあるが、「それが目立つばかりで演奏クオリティについては何だか」みたいなことはなく、演奏の安定感も、また、好ましい躍動感・スピード感・息吹きにも満ちて、この作品の、現代でも薄れぬ「きらめき」をよく楽しめる。手許に置き続け、時折は取り出して鑑賞したいと感じさせてくれる内容だ。(ふだんピリオド演奏を中心に聴いている人からはまた異なる意見が聞かれるかな)。   
   
 演奏の音声のほかに、例えば鳥の鳴き声、虫の羽音、風の音などが、効果音というか「お飾り」的・「雰囲気づくり」的に加えられているから、特にヘッドホンで鑑賞する人にとってはそれが邪魔であるとか、「テレビ番組企画かプロモ・ビデオみたいで安っぽい」などと感じられてしまうかも知れないが、普通にスピーカーで聴く筆者は殆ど苦にならない(幸いにして人間の耳は「この音に注意を振り向ける必要はないな」と考えるとそれを除外するような形で鑑賞対象の音を自動的に選び取ってしまうし、さらに、そうなってしまうほどに演奏が魅力的で人の心を吸い寄せてしまう)。ま、それでも、「空調の音をはじめとして余計な音がまったくしない環境でないと音楽鑑賞が出来ないんだよ、コンサートでも演奏の最中に他人の咳や飴玉の包み紙をはがす音を聞くとキレそうになる」というタイプの人にはこのDVDはウケが悪いかも知れないけど。   
   
 余談だが・・・ライナーノートの14、15ページには春夏秋冬それぞれにちなんだ英語の詩が載っていて、しかし、それらの描く世界はどこか西洋人のものらしからぬところがあり、しかも脚韻をちゃんと踏めていないし、妙だなと思った。歌われている内容・シーン・感情は日本風。   
 それもそのはず・・・ライナーノート末尾によれば、これらはいずれも日本の江戸期・明治期に作られた短歌や漢詩を英訳したものであるようだ。すべて女流の手になる作品であるが、これはヴァイオリニストに合わせてのことなのか。   
 例えば「春」に関連して載っているものは大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の「たつ日より のどかになりて 世の中の 憂きをへだつる 春霞かな」を英訳したものであろうか。ほかには池玉蘭、江馬細香、祇園百合子/百合の作品。   
 ライナーノートづくりで、普通ここまで凝るか? 映像面でも季節ごとに演奏者の衣装を変えるなどしているし。「なかなかに」と思ったのである。   
   

ユージン・金山さん



   
 これまで紹介して来た本 "Shoot the Conductor..." についての追加的な内容紹介を兼ねつつ・・・ムダ話を中心にして書いておきたい。   
   
   
 人の名前には、親その他の、名付けをした人の願い・思い等々が込められていたりするものだ。もちろん、そうでないケースもあろうけど。   
   
 男性の「一郎」という名前の場合、命名の理由の多くは「一番最初に生まれた男の子だから」だろうけど、場合によっては「何かしらの分野で一番・筆頭の存在になれるように」との思いからかも知れない。   
   
 漢数字の「八」は末広がりでめでたいからと長男には「八郎」とつけ、何かの世界で一番になって欲しいからと次男の名前を「一郎」とし、仕事上その他で知り合った立派な人の名前を頂戴して三男には「五郎」と命名する。そして、四男の名前を考えるときに「三人寄れば文殊の知恵、三位一体という言葉があるように、三という数字もまたよろしいな」ということで「三郎」と名付けるとする・・・彼ら男兄弟は上から順番に「八郎」、「一郎」、「五郎」、「三郎」となるわけだが、このようにややこしいケースは果たして世の中にあるだろうか・・・稀ながらもきっとあるには違いないと筆者は思っている。   
   
 「丑松」、「寅二郎」、「辰之助」などだと、これは生まれ年の干支(えと)によっているのだろうな。   
   
 「賢」、「秀」、「優」、「俊」、「敏」、「直」、「忠」、「善」、女性で「桜/さくら」その他の花・植物に関わる文字を持つ名前にあっては大抵、「どういうふう(な人格・容貌・容姿)に育って欲しいか」の思いが込められているのではあるまいか。   
   
 「豊」や「米/ヨネ」を含む名前、また「瑞穂(みずほ)」などは、経済的繁栄や食べるに事欠かないことなども願ってのものなのだろうか・・・粟・稗・麦などの文字を含む名前には出会わないなあ(姓は別として)。   
   
 いまどきの若い女性、いや、ずいぶん前からとも言えそうだが女性の名前には、外国人女性の名前と音が共通するようなものも見受けられる。「まりや」、「まりあ」、「りさ(→リザ/ライザ→エリザベス)」など典型であろうか。これは、将来、本人が海外へ羽ばたいたとき、向こうの人にも親しく接してもらえるように等の思いが込められているのだろう。   
   
 名前には、しかし、不思議なパワーや、因縁・運命を引き寄せる力があると筆者は思っている。たとえば、「奈津美」ほか「奈津」という文字列を含む名前の女性に、いわゆる「しとやかな女性」はいない。と、これはもちろん主観であり、抗議のコメントは勘弁いただきたい(笑)。で、この文字列を含む名前を持つ女性は頭の回転が早いほか、色々な意味で多面的に素晴らしくて周囲を勤勉に、あるいは挑戦的にさせて盛りたててもくれるのであるが、本人はおよそ譲歩というものを知らず、気も強く、仕事でもプライベートでも接する側は大変なのだ。(繰り返すが、これは主観、そして偏見である(笑))。   
 さて、また、伏字にしておかないと傷ついてしまう人がいるかも知れないのでそうするが、「○○」という文字列を含む名前の女性で幸せをつかんだ人を見たことがない・・・これまた筆者の主観、いや、限られたケースであるが。本当に、見事なほどに不運・不幸に出会う・陥るのだ。「これほど聡明で、良識的で、性格もよくて、嫉妬を持つ心もなく、真面目に生きて、それなのに何故?」という人生を歩むケースばかり目にしている。その人その人が耐えられる程度の試練を、神はそれぞれの人に与えているなどという思想・教えがあろうとも、ちっとも神を信じていない筆者としては理不尽と可哀想さばかりを感じてどうにも納得出来ない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
      
 激変する世の中にあって、あるいは移住先の社会を考慮して、姓や名を改めることが必要または有益であるとか、そうしておかないと不利益を被ったり災いを受けかねないというケースもあったりする。   
 ジョージ・セルの父は、元々の姓をちょっとだけ改変して「セル( Szell )」に改姓したのであった。   
 彼の名については、「ジェルジ」から「ゲオルク」へ、その後には英語圏に合わせた「ジョージ」へと変わることになった(ゲオルクからジョージへの変更はセル自身の選択と言えよう)。冒頭の画像でジョルジュとの表記は、これはたぶん本人のあずかり知らぬところでフランス人が勝手に綴りの改変を行なったものであろうけど。   
   
 もしもヴィルヘルム・フルトヴェングラーが活躍の場をアメリカへ移していたとしたら、彼はやはり名を「ウィリアム」に改めたのではないか。「フルトヴェングラー」の部分をどう改めることになるかは難しいが、しかし、「ウィリアム・フルトヴェングラー」とか「ビル・フルトヴェングラー」、「ビリー・フルトヴェングラー」となると、何かその、クラシック音楽関係の巨匠というよりも、ポップス、イージー・リスニング音楽などの関係者のようなイメージになってしまうなあ。   
   
 ユージン・オーマンディもまた、元々の姓名を改めてこのように名乗ることにした。   
 「オーマンディ」とは、渡米するときに乗った船の名前(ノルマンディ号)にヒントを得たのだと、そんなふうな説明を幾度も目にして来た。   
 しかし、この話はどんなものだろうか・・・首を傾げたりもしたのである。人が「新しい名を名乗ることにしよう」と決意するとき、祖先から引き継ぐ姓をきれいにバッサリと切り捨て(過去とのつながりを遮断して)、あろうことか乗った船の名前をいじって「をしっ、今後はこれを名乗ろう」などと考えるだろうか?   
 元々の姓が持つ意味合いや音であるとかを、痕跡のように残したいと思うのではあるまいか。(また、漢字の国の人々がやはり他の漢字の国へ移住しようとする場合には、元の姓にある漢字、あるいは、姓の「音」と同じ音を持つ他の漢字のどれかを選びつつ新しい姓を考えようとかするものではないのか。)   
 「日本に渡るときに乗った船の名前は“うずしお丸”でした。それにちなんで日本では“潮(うしお)太郎”と名乗ることにしたのです」という発想もありえはしようが、でも、「うーん、ちょっとどうかな、元々の姓を引き継ぎたい気持ちは無かったのかい?」と問いたい気もしてしまうではないか。   
   
  "Shoot the Conductor..." では、「オーマンディ」は船の名前に由来するとする説のほか、オーマンディ自身が口にした説明も紹介している。その内容は:   
   
 フランス人の祖母(あるいは「フランス在住の祖母」くらいに訳すべきなのか)が「ゴルトベルク」という姓をフランス語の「オール・モン」に改めたのであったが、これがオーマンディへと変化した(変化させてそれを名乗り始めたのはオーマンディ自身ではあろうけど)   
   
というものである。   
 ドイツ語の「ゴルト」は英語の「ゴールド」、フランス語では「オール/オル」・・・音楽CDのレーベル「オルフェオ・ドール(ド・オール)」とか、どこだったかのメーカーの女性用化粧品「コフレドール」とかで、おなじみになっている語である。   
 ドイツ語の「ベルク」は「山」の意味で、これは英語ならば「マウント」、フランス語では「モン」・・・ケーキや万年筆の「モン・ブラン」のあの「モン」である。   
   
 「ゴルトベルク」、「オール・モン」・・・日本でなら「金山(かなやま)さん」という姓に相当するであろうか。   
   
   
 祖母は、ゴルトベルク姓を持つ夫(オーマンディの祖父)と結婚してこの姓になり、その後、その夫が先に他界し、何かの機会に「オール・モン」に変えたのだろうか(「モン・オール」または「モン・ドール」といった語順にはしなかったのか)。   
 出自をどうはっきりさせるか、あるいは逆に隠すべきか・虚飾/虚構を使うべきか等についてはデリケートで悩ましい問題を有する場合があるから、上のオーマンディ自身の言葉が真実であるのか、確かに判断には迷う。この本の171ページの脚注の内容もまた、オーマンディの微妙な心理をえぐり、そして他者がその心理をどう見すかしているかを示すものであると言えようか。   
 ただ、父や母の関係であれ、祖母や祖父に関わるものであれ、引き継いで来た、あるいは縁のあった姓に依拠しつつ今後に名乗る新しい姓を思案するということは、人間の性(さが)や発想として実に自然なことのように思えるのだが・・・そして、そのあと「“オール・モン”という言葉・音にどのような一工夫を加えれば、収まりのよい姿の姓になるだろうか」と考える段階でようやく、乗った船の名前はヒントになったのかも知れぬ。  
   
   
 この本を読んでいくと・・・。   
 著者ブラシロウ氏はフィラデルフィア管でコンサートマスターを務める以外に、フィラデルフィア室内管なる楽団を指揮するようになる。オーマンディや、フィラデルフィア管の事務局サイドとしては不愉快にもなりうる・・・場合によっては地域の音楽マーケットで競合するし。ただ、具体的にどう不愉快だったか、どういう邪魔をしようとしたかなど、確証は得られないが。   
 ブラシロウ氏がフィラデルフィア室内管を指揮して「春の祭典」を演奏した晩、当地マスコミの音楽評論家たちは町を離れてしまっていた。その理由は本書で述べられているが、しかし、この時期、氏とこの楽団に注目する人がどれほど多くいたのか等が筆者には分からないため、事をどう理解・評価すればよろしいのか判断に迷う。   
   

意外と、面白い話題いろいろかな・・・

   
 またまた前回に続いて、あの本の内容から。   
   
   
 或る日、著者ブラシロウ氏がオーマンディ夫妻をクルマに乗せていたときのこと。   
 ラジオからはレスピーギの「ローマの松」が流れて来たのであるが、それを耳にしてオーマンディは、「これまで聴いた中で、この曲の最悪の演奏だ」と評し、「ひでえな」とも言った。   
   
 はて、それが誰による演奏なのか一同の気になるところではあったが、ブラシロウ氏としてはその演奏をよろしきものと感じた。   
   
 曲が終り、いよいよアナウンサーの声が・・・。   
   
 「“ローマの松”を、オーマンディ指揮ミネアポリス交響楽団の演奏でお聴きいただきました」   
   
 ・・・(ミネアポリス時代の古い演奏(アナログ盤? それともライヴ音源?)を流していたものと思われるが、)オーマンディは怒り、「このアナウンサーの男、間違っておる。俺はミネアポリスでこんな具合には演奏しとらん。局には放送を通じて訂正謝罪してもらわんとな」と言った。   
 通りかかったレストランで電話を拝借したうえ放送局に抗議するなどということにもなりかねなかったのではあるが、周囲はそれをうまくとりなし、そしてまた、後日の夫人の話によればオーマンディもまた自身の演奏であったことを納得するに至ったようである・・・尤も、夫人からは「きっと、あなたのクルマのラジオの受信状態によって音が歪んじゃったのね」と言われたとのことである。   
   
   
   
 フィラデルフィア管が、合衆国の各地を巡る演奏旅行に出たときのこと。   
 「ペトルーシュカ」を振り始めたオーマンディの様子がおかしいことにブラシロウ氏は気づいた。つい1か月前には暗譜で指揮していたし、今回も指揮台には譜面を載せていなかった。オーマンディは腕を上下に振るだけで、4拍子の標準的な動きすらも出来ずにいるのであった。弦にも木管にも金管にも指示を出さずにいて・・・。   
 氏は、オケが混乱/演奏崩壊を始めていることを察知し・・・そして、その後は無事に演奏を終えるべくコンサートマスターとしての格闘/リードを果たしたのであった。   
   
   
 本の内容の順番(記述順)とは前後してしまうが、オーマンディはこんな意味のことを言ったことがあるそうだ:   
   
 「回転ドアに、あなた、そしてその後ろにハンガリー人という順番で入ったとしても、その回転ドアからは、あなたよりも先にハンガリー人が出て来るのさ」   
   
 ま、この種のジョークはいろいろあるなあ。筆者の思い浮かぶものをあれこれ並べると・・・いや、それをするとやがてはビジネス(ビジネスで失敗しないための、県民性・国民性・民族性ごとの対応方法)みたいな話になってキリが無くなるのでよしておこう。   
   
   
 さて、この本の紹介は今回までとする。他にも興味をそそる話、面白い話が多々あろうかと思う。ペーパーバック版は廉価であり、音楽関係の本のあれこれを読むのが好きな方にはお奨めしたい。   
   

・・・続き、もしくは、「その名演の裏には」

   
 前回の続きである、つまり、 "Shoot the Conductor..." という本の内容から。   
   
 著者であるブラシロウ氏はクリーヴランド管をやめてフィラデルフィア管にコンサートマスターとして移籍することとなった(1959年秋)。   
 新しいキャリアが始まった。・・・そんなキャリアの初期の頃のこと、氏は次のような経験をしている:   
   
 演奏中、指揮台のオーマンディの口から何かがこちらへ飛んで来て、自分の座っている椅子の下に転がったのである。氏は、それは歯か、あるいは(虫歯治療などで為された)歯冠ではないかと思った。   
 それを踏んでしまって破損させたりするのは避けたく思えたし・・・そこで、いずれヴァイオリン演奏の手が空いたときに拾えるようにと、その転がって来たモノを、足をつかって、自分の手が届きそうな位置へと移動させたのである。   
   
 その、床に転がっているものは茶色くて、虫歯かな、などと想像もめぐらせたのではあるが、オーマンディは首を振って "No, no, no" (そんなものに構わんでよろしい)のサインをして寄越す・・・しかし、氏はそのサインを誤解してしまったのだろうか、ともかく、依然としてその歯らしきものを破損させまいと注意を払った。   
   
 演奏の手を休めることが出来るようになったところで、氏は、この物体を拾い上げた(左手で拾ったものと想像される)。   
 それは歯などでなく、飴/ドロップ(いわゆる「ノド飴」の類)だったのである。すぐさま放り出したものの、手にはベトベトが付いてしまった・・・。そんな指のままで大切な楽器(高級なもので、しかも借り物として利用しているもの)の指板に触れるわけにもいかず、まずは指に唾をつけ、さて、次いでその指をズボンで拭くことも考えたのではあるが、氏の頭にひらめいたのは「こんなときのためにこそ、アシスタント・コンサートマスター職が雇われているんだ」ということであった・・・で、横に座っている同僚の背中で指を拭いたのであった(相手は、励ましの意味で背中をポンポンと叩かれていると感じたようではあったが・笑)。   
 こんな経験があって、氏は、オーマンディが、口の渇きへの対応策としてコンサート直前には飴/ドロップを口に入れていることに気づいたのだそうだ。   
   
   
  
   
 ・・・このエピソードから何か音楽的に有意義なことを教わるわけでもないのだが、ま、こういった話が自分にとっては面白いし、楽しめる。   
   

セル関係のCDや本・・・

   
 この9月には、ソニー・クラシカルのレーベルから古い録音・古めの録音の何点ものCDが再発売されるようなのであるが、その中にはアイザック・スターンとセル/クリーヴランド管(コロンビア響)によるモーツァルトの協奏曲もある。この録音は、昔のアナログ盤ではともかくとして、CDではまだ手にしていないセル・ファンも案外と多そうに思うのであるが、今回の再発売では価格も手頃になっており、朗報と言えるのではないか。   
   
 新たなリマスタリングであるのか等、詳しいことは知らない。   
 それぞれの商品について、名盤かどうかの評価や、あるいは好みに合うものかどうかは別としても、懐かしいものが随分とあって一種の「心のときめき」を覚える人は多かろう。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 さて、前回のブログ記事で紹介した、セルにも関係している本( "Shoot the Conductor..." )の内容について。   
   
 ペーパーバック版にて、68ページから110ページまでをまず読むこととした。この部分は、著者アンシェル・ブラシロウ氏がセル率いるクリーヴランド管に加わり(アシスタント・コンサートマスターを務めた)、そして、やがて同オーケストラを去るまでに相当する(氏はフィラデルフィア管へ移籍した)。   
 以前に紹介した別の本 "Tales from the Locker Room" の48ページから53ページにかけて紹介されている話と重複する部分もかなりある。で、そちらを読んでいる人にとって、今回の本ではセルについて「興味深い/面白い/愉快」と言えそうなエピソードには新たに接することは出来ないと言ってよろしいか・・・皆無ではないのだけれども。(このようなコメントになってしまうのは、筆者個人的には、セルについてでなく他のオケ・メンバーについてのことであるとか、オケのヨーロッパ演奏旅行中の列車での移動の有様とかには大して興味をそそられなかったからである・・・読み手によって、その辺りの感想は異なって来よう。)     
   
 ブラシロウ氏はクリーヴランド管での活動のほかに自らもクリーヴランド室内楽団なる小さな楽団を率いることがあったのだが、そのコンサートにセルがやって来ることも一度あったという。   
 というわけだからであろうか、セルは氏に向かって「指揮者であるには(指揮者になるには)、ピアノを演奏しなくてはならない」と言ったそうだ(この言葉の意味は、複数のパートや声部とそれら相互の関係を把握するのに必須、または有用・効率的であるということなのだろうか?)。この言葉に対して氏は、トスカニーニはチェロを演奏していたと切り返した。するとセルは、それは例外的ケースというものだと応じた。さらに氏は、モントゥーがヴィオラを演奏していたと述べたが、セルはまたも、それもまた例外的ケースであると断じた。そこで今度は氏は「オーマンディはヴァイオリニストでした」と続けると、セルは立ち去ってしまったという(さて、セルとしては「これだけ言っても分からんのか」と思ったのか、それとも、世にはそういう、セルの考えが当てはまらない例外的ケースがあまりにも多いことに観念してしまったのか)。   
   
   
 さて、1957年のクリークランド管のヨーロッパ・ツアーのことが語られている部分で、91ページにはゼルキンがベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏したと書かれているが、残されているコンサート記録資料によると、これは正しくはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ではなかったかとも思える(しかし、当初予定と実際とで、演目変更などあったのか、詳しいことは承知せぬが)。   
 このツアー中には、ゼルキンのほか、レオン・フライシャー、カザドゥジュ(カサドシュ)、シュヴァルツコップフらのソリスト・歌手も共演している。ウォルフガング・シュナイダーハンもまたブラームスのヴァイオリン協奏曲で共演した模様である・・・89ページおよび91ページでの言及に関係すると思われるが、しかし、もしかすると違うヴァイオリニストのことを指しているかも知れないし、軽々に断じることは控えておきたい。   
 また、聴衆から口笛を吹かれてしまった(侮辱的反応が出るに至った)現代音楽作品とは、はて、クレストンの "Dance Overture" なのか、あるいはヒンデミットやバーバーの作品であったのか・・・。   
   
   
 氏がクリーヴランド管を退団するまでのセルとのやりとりなど詳しく書かれてはいるが、これをスリリングと感じるか、それとも「さほどでもないな、この程度のかけひき・ドラマは世の中には、いや、音楽監督・指揮者とオケ・メンバーとの間には(特に昔の時代には)いくらでもあろう」と感じるか・・・そういう感想は読者によって分かれるかな。   
   
   
   
 111ページからは、氏がフィラデルフィア管で過ごしたときの物語へと移る。氏のキャリアとしてはこれ以降が言わば真骨頂・山場と思われるが、時間が許せば読み進んでいきたい。   
   

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