2016-06

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雑記

   
 不正競争防止法については、世間であまり知られていないが「営業活動のJIS規格」とも揶揄される「指定別表第6」なるものが存在しており、これによれば、法人・個人営業にかかわらず、みずからを「老舗(しにせ)」と名乗ることが許されるには条件がある:   
   
1.物販業、飲食・旅館・各種サービス業にあっては創業・設立から70年以上を経ていること。   
   
2.製菓業を含む食品加工業にあっては創業・設立から100年以上を経ていること。   
   
3.上記2以外の製造業にあっては創業・設立から120年以上を経ていること。   
   
4.上記以外の事業、また、創業・設立以降に事業内容・提供商品等を変更している場合は別表7の基準によること。   
   
   
 ・・・という具合に、安易に「老舗」を名乗ることはできないのである。   
   
   
   
   
 ・・・という、上の話は大ウソ・デタラメである。   
   
   
 しかし、何年くらい、何代くらい続いた後であれば「老舗」と評せるのか、あるいは、その店なり企業なりがみずからを指して「老舗」と呼ぶことの如何・適否について、はて誰もが違和感を感じずにいるのかどうか・・・そのへん、筆者は疑問に思ったりもするのである。   
 もう10年くらいも前のことになろうか、テレビのお店紹介番組だったかな、その中でアナウンサーが「この(東京の)お店は戦後すぐの昭和22年にご商売を始められた老舗で・・・」みたく言っていた。その頃で戦後60年くらい経過ということになるわけだが、こちらとしては「老舗と呼んでよいものかどうか」と感じた。べつにその店にケチをつけたいわけではなく(それだけの期間しっかり営業を続けられたということにはそれなりの敬意を表すべきであること勿論である)、「老舗という言葉を使う上での数値的基準は?」と考えたのである・・・いや、数値基準がどうしても必要であるなどとは思わないけれども、人それぞれが何となく頭の中に設けている基準は様々であろうなあと思う。東京あたりと、大阪や京都や奈良などとでは、また、そのほかの日本各地の人々とでは、各人の数値基準は異なるのではないかと思うのである。   
 筆者の感覚はおそらくは甘くて、それは「遅くとも明治・大正くらいの時代から続いているのでないと老舗とは呼びにくいのではないか」というものである。したがって、広告・タウン誌などでごく稀に目にする「老舗のラーメン店」という表現には疑いの目を向けてしまい、「“老舗のラーメン店”と呼べる店は相当に限られるのではないか」と思ってしまうのである。   
 「いやいや、商売の内容にもよるのでないか? その業界での古株であれば老舗と言える、多分に相対的な表現である」との意見があるかも知れないが、それならば「老舗のケータイ・ショップ」なるものは存在するのか? そのようなものは無い・ありえない、と筆者は思う・・・やがて歳月が過ぎていけば「老舗のケータイ・スマホ・ウェアラブル端末ショップ」と呼べそうなものも出て来るか・・・しかし、そういう分野は技術革新と追っかけっこであり、いつになっても「老舗」たりえぬかな。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「未曾有」を「みぞう」と読むことくらい子供の頃から承知しているが、しかし、もう何年も前からこの漢字を目にした途端に「えっと、これ、ミゾウユウだっけミゾウだっけ、どっちが正しい読みだったっけ」と、1秒くらい考えてしまうようになっている・・・無意味な時間ロスにつながっているな。   
 これは決して自分が悪いのでなく、かつてのこと、日本の政界実力者の某氏による誤読がしきりに話題となり、それがこちらの記憶に留まってしまったからである。   
 つい先日も「未曾有」の文字に接し、そこで「うむ、今後はこの文字が目に入ったとき、その“読み”について迷い考えることなく無想無念でパスしよう」と心に決めた。   
 考えてみれば・・・パスするというのとはちょっと違うような気もするが「わざわざ頭の中で音を伴って読んだりはしない」ということを、我々は無意識にしている筈だ。たとえば:   
   
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団   
   
 リヒャルト・シュトラウス作曲/「ツァラトゥストラはかく語りき」   
   
   
 ・・・と書かれているのを目にするとき、クラシック音楽ファンならば頭の中で「ヴィ・ル・ヘ・ル・ム・・・」みたく、音を追って読んではいないだろう。文字列/字づらを目にしたら、その言葉が何を意味しているか、その「概念」みたいなものをダイレクトに頭の中に思い描く。上記の4項目すべてについて同様のことをしているであろう。そして、これは単語に限らず、文章に接しているときでも少なからずやっていることであろう・・・でなければ、書類や本を読むスピードは、朗読でもするくらいに著しく遅くなってしまう筈だ。   
   
   
   
 さて、このあと、ダジャレ的に「大航海時代に遅れを喫したイギリスの、21世紀大“後悔”物語」っぽいことを書こうと思ったのであるが、時間切れになってしまった。   
   

雑感あれこれ

   
 カネを賭けたわけではないのだけれども、最近2つの賭け/勝負をした:   
   
   1.東京都知事はいつ辞職するか?   
   
   2.英国の国民投票の行方は? EU離脱を選択するのか?   
   
   
 1についてはニアピン賞ものであったし、2についても勝った。   
   
 ただ、都知事の件については、本人がいずれ何らかの禊(みそぎ)めいたことを済ませて政治家、評論家、コメンテイター、大学等の教員などとして再出発可能なよう、とりあえずは急いで、悪印象を引きずらない演出を工夫しながら辞職するであろうと予想していたのだが・・・「何日に辞職か」よりも、幕引の姿・あり様こそがこちらにとっての最大関心事であったが、期待には反するものであった。   
   
 「このタイミングで辞職とは・・・次の知事の任期が満了する4年後にはちょうど東京五輪で、そのタイミングでの選挙運動や選挙/投票は色々とマズイ」との声も聞かれるが、しかし、今度の新知事が任期を全うできるかどうかも含めて世の中には何が起こるか分からない(極端なことを言えば巨大地震だって起こりうるし、それで五輪の延期・開催地変更という事態に至ることも絶対に無いとは言い切れない)のだから先々のことを心配したって仕方あるまいに。   
   
 個人的には、次の都知事は、五輪に関してだけは「冷淡な人」であるのがよろしかろうと思う。大人げなく五輪を神聖視してしまうことをせず、むしろIOCやJOCや国などに向かって「たかが五輪でしょ。ま、イベントを成功させたいとの気持ちは共有しますからまず治安のことなど万全を考えますが、カネのこと等については“この程度でよろしかろう、あまりゴチャゴチャ言わないで欲しい”という合理的ラインもありますので、その考えのもとで言いたいことを言わせてもらいます」くらいの態度で臨める人がよろしいかと思う。首都東京が対処していかなければならない課題は山ほどある筈で、あっという間に終わってしまうイベントにばかり注力しているわけにもいくまい。多数の課題をコツコツと、しかし意欲的にこなし、欲を言えばアイデアマンでもある人物、改革力を持つ人物がよろしいか。例えば「官僚あがりの人」ということになると途端にけなす人もいたりするが、一定の安心感のある実務家は貴重だ。ま、昨今の芸人みたいな者その他が、せいぜいが「庶民感覚」くらいのことをアピールするだけで知事や議員などになることを愉快に思わないというのが筆者の古めかしい感覚ではあるが。   
   
   
   
   
 以前のこと、「バカ」という言葉を含んだタイトルの或る本が登場したとき、「うーん、刺激的タイトルであるなあ」と思ったが、その本をいまだに読んでいない。タイトルが不快だからではなく、ただ何となく手に取ることをせずにいる。   
 だから本の内容を知らない。その本の内容とは全然違うかも知れないが、「世の中のこと、政治その他、どうも衆愚の圧力が強く働くようになっているな」と感じている。いや、自分自身も衆愚の一員ではあろうけれども、それでも、「長期的視点も持ちつつ、お利口さんの考え方をしよう」、「自分の利益ばかりでなく社会や国や国際関係のことも加味しつつ物事を考えよう」との感覚を欠いてはいけないとの思いは持っているつもりだ。しかし、最近、そうでない人間、ひたすら自分にとっての損得(それも短期的視点での)のみで判断・意思決定する人が増加しているように思う・・・それがまた、支持政党その他を決めることを通して社会や国などに害をもたらしているように思える。   
 厄介なことは、人間、自分の身を不遇なものと位置づけたとき、周囲や世間・世界の利益についてあまりにも目配りできにくくなってしまうことだ。(時には自暴自棄になって繁華街その他で殺傷事件すら起こす人もいる。)   
 アメリカではトランプ氏の過激な考え方にあれほどの支持が集まる。イギリスにおけるEU離脱論もあれだけ盛り上がる。「自分は苦しい生活を強いられているけれども、自分以外の他の多くの国民、そしてこの国全体の利益を考えれば耐え続けよう・・・いつか、自分にも陽が当たるその日まで」という忍耐は苦しいし(幼い頃から接しているであろう宗教もそのへんの救いになってくれないほど無力であるならば、いったいそれら宗教に向かって彼らはどれほど無駄な時間(礼拝その他で)を割いていることか)、そしてもちろん世界経済への影響を心配するような頭を持ち合わせていないからEU離脱という選択に光明ばかりを見出してしまう・・・そんな人間が多いに違いない・・・そういう読みで、冒頭で触れた今回の国民投票についての賭けには勝てた。   
   
 イギリス/大英帝国をあがめる人は少なくないが、筆者、(日本の古い時代のことは棚にあげてしまって)「アメリカは移民と流れ者の国。イギリスも同様、いや、渡来人の集まりの国という表現を使ったほうがしっくり来るかな」くらいにとらえている。そしてまた、イギリスが賢者の国であるとの見方をしていない。EU離脱へ歩みだすことになったのも驚かない。   
 ついでに言うと、東京という都市もまた「流れ者の多い都市、だからバカが多い」ということを30年以上も前から言い続けている。地方で成功をおさめた一族がさらなる繁栄を求めて東京に移るというケースもあってそれはよいのだが、そうでなく、地方で「長男の躾はきっちりと。娘たちも嫁に行った先で笑われないよう躾をきっちりと」という子育てのなか、わりといい加減な躾で済まされた次男以下が進学や就職で東京にやって来る・・・すると自動的に彼らの子供たちへの躾も甘い水準のものとなり、それが代々続く・・・東京は勉学での競争が激しいからお勉強だけはそれなりに出来るようになっても発想・振る舞い・行動原理のあちこちにおかしなところが見受けられる。東京にバカが多いのは、そういう理由もひとつにはあると考えるのだが、さてどうだろう・・・乱暴な仮説であり検証もむずかしそうだが・・・ま、自分もバカである、甘やかされて育った者であることを承知のうえで言っているのだが。   
   
   
 政府が子育て支援を厚くしていくことに猛反対するつもりはないが、ろくに躾をしない(学校まかせにする)親もいるし、自動車内に幼な子を放置してパチンコに興じる親もいたりするし・・・単に子供の数が増えればよいというものではないと思う。   
 そしてまた、「学校教育も充実させて1クラスに先生を2人ずつ配置しましょう」などということも検討されるようになると、今度は児童・生徒は授業中に内職ができにくくなるから、結果、宿題を家に持ち帰ることになって長時間ダラダラ勉強するようになる・・・すると、やがて社会人になってからもスピードを重視しないとか、同時にマルチタスク進行していけないとかの人間が増えていくことであろう。   
 子供たちにとっては勉強するよりもサッカーをしているほうが楽しいからサッカー部に加わることも多い。そんなもので食っていけるのはほんの一握りの人間であることを冷静に考えればよいのであるが、「サッカーに夢中になるのもほどほどで」というスタンスが難しい・・・楽しいし、そして・・・クラブ運営のためには部員は11人、日々の練習試合を重ねるには22人を最低でも要するし、層を厚くするためにはもっと多くの部員が必要になる・・・よって入部は歓迎されるが、それだけの児童・生徒がヘトヘトになるまで練習を重ねる・・・体力づくり・忍耐力涵養に有益な程度を超えてしまうことも多々あるのではないか・・・他へ振り向けたらよろしかろうエネルギーまでも消費させられ、辛うじて残ったエネルギーで読書や勉強をするかというと、どっこいゲームに興じてしまったり・・・。   
   
   
 ああ、脱線をいろいろしてしまった。   
   
   
 EU離脱の手筈をすべて整えるには時間が掛かる。それだけ長い時間、世界をやきもきさせ続けることになる。   
   

雑感あれこれ、そして青と赤について

   
 外国人旅行客が激増しているが、中国人ばかりが目立つ・・・との感想が続いているが、先日は少年を連れたドイツ人旅行客を目にした・・・横断歩道で信号待ちしていたらすぐ隣にいたのである。   
 で、その少年が母親に向かってドイツ語で話しかけた。そこに何の不思議もないのであるが、それでもやはり「小さいうちからドイツ語を話せるのは凄いな」と思ってしまう(笑)。   
 日本人だと「えっと、えっと、 der じゃなくて die だな」とか「 dem じゃなくて den だったっけかな」などと思考しつつドイツ語の文章を考えたりするわけであるが、ドイツ語でもフランス語でも、それらを母国語とする人たちは例えば「性数一致」などの文法上の複雑な(妙な)約束事をおのずと習得できていくところに感心する。   
   
 ああ、それにしても、ヨーロッパの面積は狭いなどと言うのは間違いであるが、あの地域にああも沢山の、オランダ語やスペイン語、ポルトガル語、ギリシャ語なども含めて多くの種類の言語が存在することには溜息も出るし、感心もし、そして呆れもする・・・そしてもちろん、歴史をも思うのであるが。   
   
   
   
 日本のこの狭い国土ではどうか? 日本語のみが話され通用していると解することは適当なのか? 例えばアイヌの人たちの言葉は? また、各地に残る方言には膨大な単語や表現があろう筈で、それらについては地域限定でしか通じないものがあるので何とも厄介なことである。とはいえ、それぞれの方言はやはり言語文化なのであって、「方言を駆逐して日本全国、皆が標準語だけを使って生きていきましょう」などとは絶対に主張したくない・・・まあ、これはほとんどの日本人の感覚でもあろう。   
   
   
   
 英国の国民投票・・・残留派が「EUから離脱すれば英国は衰退の道を辿るであろう」と主張しているのをニュースで見ていて、遠い昔の記憶が蘇った。   
   
 昔、中学生のとき、英語の先生は最初に「アメリカ英語とイギリス英語とには相違点があります。違いがある場合には両方を教えていきますから、皆さんもなるべくなら両方を覚えるようにして下さい」と言った。まあ、誰も彼もと同様、大したことを教わったわけではない・・・イギリスでは、色彩を意味する「カラー」を "colour" と綴るとか、 "either A or B" などというときの "either" を「アイザー(アイダー)」と発音するとか・・・。   
 筆者はそれらのことを教わって「イギリス英語のほうが面白そうだな」と感じた。「桜という漢字も、画や芸という漢字も、旧字体のほうがカッコよいからそれで書こう」などと思っていたのと同様で(?)、ちょっとだけ綴りの面倒な "colour" を愛したし、そして「アイネ・クライネ・・・」のドイツ語の音っぽい「アイザー」という読み方を好んだのであった。   
   
 さて、それから学年が上がり先生も替わった。すると、この先生は或る日こう言ったのだ:   
   
 「アメリカという国は今後ますます発展を続けます。世界はアメリカを中心に回っていきます。それに対してイギリスは没落していきます。皆さんはアメリカ英語を勉強すればよいのです。クイーンズ・イングリッシュなどと言ってイギリス英語を誇りにする人たちもいますが、世界で通用しやすいのはアメリカ英語となっていきます」   
   
 何とも実利的である・・・つまり、コミュニケーション手段であるところの言語は、要は、「通じてナンボ」と割り切っていて気持ちよい・・・そのように感じた。   
 「没落」という表現は刺激的であった。確かに「斜陽の国」と言われるようにもなったし、しかし、サッチャー首相は腕をふるい・・・さて、21世紀の今、EU離脱へ向けた動きのその先、イギリスはどうなっていくか、あるいはEU諸国は、そして世界の経済環境は・・・。   
   
 さて、その先生はまたこうも言った:   
   
 「英語のテープ(音声教材)が少ないし、皆さんに良いものを聞かせてあげられないのが残念です。FENという米軍のラジオ放送がありますが、あれは中学生には難しすぎます。それでも聞こうという人たちもいるかも知れないですね。しかし、聞くものを選ばないといけません。上等な人間は軍に入ったりしませんが、そういう人間が喋る英語もあそこでは流れます。そういう発音を模範にしてはいけません」   
   
 これまたトンデモ発言であるが(昔はアカ教師も多かったし、そういう彼らの感覚ゆえに軍関係者をけなしたのか)、さて実際にFENを聞くと、アメリカ本土で放送されている普通のラジオ番組そのままと思えるもののほうがむしろ大半を占めているように思えた。けれども、上の先生の言葉に影響されてしまって、FENを聞く習慣というものは身につかなかった(「ミステリー・シアター」その他を聞くようになったのはもっと後のことである)。   
   
 そういえば、高校の英語の先生は「ロック・ミュージックのああいう英語に染まってはいけません。発音の面でいえば、カーペンターズの歌のようなものは好ましいです」と言った。   
   
 その英語の先生は生徒を発奮させるのが上手で、「文法上のこれをマスターしたら上等!」とか「仮定法のこれが分かると英語の視界が一段と広がる・・・ついでに、助動詞を完全マスターすることが大きな強みになる。これらの助動詞( could や might や shall なども含めて助動詞(時制ごとに)すべて )について、辞書に書かれている説明と例文にすべて目を通して自分のものとせよ!」、「倒置をサラリと使いこなせたら、もう怖いもの無し」などと励ました。生徒の大学入試が終わろうとする頃には特別の(自由参加の)授業も行なって「教科書の内容やカリキュラムのせいで君たちには口語表現をあまりにも教えてあげられずに来た。最後にそれを教えたい」と言って、多くの口語表現を教えた(たぶん、今どきの英語の授業では口語表現は数多く教えられているであろうが、筆者らの世代ではカリキュラム上ではろくに教わらなかったのである)。   
   
 しかし、高校の、英語でなく社会科系を教えていた或る先生は「英語の習得はますます大事になっていくであろう、しかし、“英語バカ”になってはいけません」と言った。   
 これは、「単に英語を上手に使えるだけの人」になってはいけませんよという忠告であったろうけれども、こちらは「そうか、英語の勉強もほどほどにしておかなくちゃな」みたく受け止めてしまって、その後は英語を熱心に勉強し続けるということがなくなってしまった。大学生時代は専攻とは別に「将来役に立つのはどうやら簿記と会計学、商法/会社法だな。学者やエコノミストを目指すというのでなく一般企業の事務系職種を希望する以上はこれらが役立つ、ほかは勉強してもあまり意味がない」などと思うこともあって英語のほうもまた・・・それゆえ、就職して英語にも接しなくてはいけなくなってから苦労することになってしまった。   
   
   
   
  A bolt from the blue.    
 ・・・ blue という単語は the が付くと「空(そら)」を意味する。その青空からボルトねじ・ナットなどが降って来たりすれば我々は「上空を飛ぶ飛行機からでも落下してきたのか?」と驚いてしまう。上の英語の文句については、ふつう日本語では「青天の霹靂(へきれき)」の訳語をあてる。   
 ・・・という説明は冗談であり、ここで bolt は thunderbolt の意味、すなわち「稲妻」なのである。   
   
   
  Reds under the beds.    
 ・・・先頭と末尾に似た音の単語を配しての、ダジャレのような文句ではあるが、これは、人々が安心して体を休めるその寝床の下に共産主義者が潜んでいる、つまり、平和で安らかに見えるこの社会の中にも共産主義勢力は潜んでいるとの危機意識などを表現する言葉である。   
   
 選挙権年齢が引き下げられたが、それに伴い、かなり若い層、大学に入ったばかりかなと思えるくらいの若者が街頭演説して投票を呼びかけたり、特定政党への支持をアピールする例が以前よりも増したように思える。で、筆者が目にしたケースでは現与党を支持するケースが無い。反戦をアピールし、あるいは、「最低賃金上げ」でアルバイト代もアップする、そして人々の生活も向上する等を説明しつつ野党の某政党への支持を訴えていたりする。   
 あまりに若い人がマイクやメガホンに向かって声をあげているのを見ると、ふと、昔の大学キャンパス内の様子や看板(「日米安保体制粉砕ナントカ」とか「成田空港工事ナントカ」などの看板)までも思い浮かべてしまうのであるが、いつの時代であっても純粋無垢の若者のなかにはそういう政治的主張・政治活動に染まってしまう者が出るであろう。若者は、気をつけないと、最初に触手を伸ばして来た者の手に落ちていく。これからは大学のみならず高校においてもそういう関係の注意が必要になる・・・学生・生徒の本分は学業であることを忘れてはならないし、親もまた、みずからの子が高校生になったら彼らにそれを教え諭さねばならないであろう。   
 街頭でビラ配りなどのため近寄って来る若者に、大人たちは上のような注意を呼びかけたりしない。筆者もまた同様・・・ただし、彼らの一人でも考えを改めてくれるよう、そういう若者が寄って来たらビラを受け取らず、まるで汚いもの・伝染病患者を見るような目をして体をよけるようにして歩くことにしてはいる。   
 凡人がソツなく生きていこうと思うなら、まだ若いうちから「自分が世の中を変えよう、世の矛盾を正そう」などと、急いでそんな思いを固める必要は無い。まずは生きていく・暮らしを立てていくための知識・技能・スキルを身につけることを一番にして欲しい。当面ノンポリでいることを恥じることは無い。   
   

或る日・・・



   
 ザンデルリンクでシューマン第4番とベートーヴェン第2番。   
   

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