2016-05

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経済・ビジネスは心理学なのか物理学なのか? FM=MF≧7は成立しうるか?



   
 上の、お馬さんの「ぬいぐるみ」は、 オ ル フ ェ ー ブ ル 君という・・・筆者は競馬をしないので何も分からないが、ま、心をなごませてくれる雰囲気を持っている。   
   
   
 「週刊エコノミスト」5月31日号の特集記事は「経済は物理でわかる」であって、たとえばその中の話題には「為替はブラウン運動で動く」というものもある。経済は心理学の面もまたあると思っていたのであるが、物理学の面もあったのか・・・。   
   
   
 質量をM、速度をVで表すとき、その積MVは運動量を表す。   
 いま、企業の財務内容と商品開発・企画力とからなる或る種の「力」を指数化してそれをFと表し、また、その企業のマーケティング力をMで表すときに、それらの積FMもまた或る種のパワーというか市場席巻力と成長力とを合わせたようなものを意味しうるか。   
   
 さて、タイトルに掲げたFM=MF≧7とは何を意味するか・・・実は大した話でも、科学的な、いやいや社会科学的な話ですらもないのであるが後で述べる。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「1960年代、70年代の音楽シーンは魅力的であった」と人々が口にするとき、それは普通はクラシック音楽分野のことではなくて例えばアメリカその他のポップスやロック、日本の歌謡曲・フォークなどを指している。カラヤンとか、フリッチャイ、ミュンシュ、セルなどに思いを馳せての言葉ではない。   
   
 その1960年代の音楽の中でたいへん有名なものとしては「夢のカリフォルニア」、「デイドリーム・ビリーバー」などもあるが、実は筆者、これら2つともが好きでない。なぜなのか自分でもよくは分からないが、それぞれが醸している雰囲気がどうしても好きになれないのかな・・・この2つ、もちろん曲調は異なるが、両者とも、それぞれ独自の「陽ざし」と「空気・大気」のようなものを感じさせてくれる・・・で、そのそれぞれの様子・あんばいがどうにも自分の好みと合わない。前者の微妙な哀感、後者のあっけらかんぽい明るさも苦手かなあ・・・そういえば「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」の明るさも付き合いたくはないところがある。これは曲が優れている・優れていないという問題ではない、その種の評価をするならばいずれも「優れている」と言えるであろう、おそらく。   
   
 ま、筆者の、音楽に関わる感受性というものはおそらく低い・・・昔からドナウ・エッシンゲン音楽祭で演奏されて来た音楽の多くなどは楽しめないものであったし(しかし、最近、「凄くいい作品ではないか」と感じるライヴ録音を聴ける機会があったが)、また、ぜんぜん別の意味で、たとえば以前から人気を保ち続けている 尾 崎 豊、 長 淵 剛 らの音楽/詩の魅力というものについて筆者は理解が及ばない。   
  き ゃ り ー ぱ み ゅ ぱ み ゅ の歌う音楽は面白いものが多いと思うので、初期のものながら例の「つけま」の歌の歌詞をリメイク/改変のうえで、和食文化と漬物文化の振興のために「漬け菜(つけな)、漬ける」と歌って欲しいものである・・・「おさかな天国」的なヒットもありうるか? (なお、「漬け菜」は方言であると言った知人がいるが、そうかなあ、山梨県出身の知人ほか、普通に通じてきたように思う。)   
    
 さて、話を少し戻して・・・上のような理由があって、「デイドリーム・ビリーバー」をさかんにBGMで流している某大手コンビニに筆者が足を運ぶ頻度は落ちてしまっているのである。   
 「そんな些細な理由で?」と疑問に思う人も多かろうけれども、自分の場合、本当にそういうことで行動も変えてしまうことがあるのだ。   
   
 世間では「BGMなんて、ちっとも聞いていないよ」という人のほうが多いかも知れない。しかし、筆者の場合、たとえば「昔に耳にしたスーパー“いなげや”のBGMは、あれはよかったな、ずいぶん前に上新電機のショップで耳にしたものもよかったな」などと振り返ってみたりすることもあるし、どうやら音楽が心に及ぼす影響は小さくないし、また、音楽の記憶も残りやすい・・・とはいえ、「いちど聴いたメロディは忘れない」みたいな、そういう音楽的才能にはちっとも恵まれていないが(笑)。   
   
 そういえば、セルがインタビュー音声の中で「わてが行く歯医者さんとこでは音楽がかかってますねん・・・これは拷問やなあ、こっちは歯を削られる痛みがある中でやで・・・音楽がかかりっぱなしいうんは、壁紙音楽とでも呼ぶべきもんやね」みたいな発言をして、真剣に音楽に耳を傾ける機会以外にも日常に音楽が溢れ過ぎている状況を批判していた。   
 また、前々回のブログ記事エントリーで紹介した本の中でも、飛行機の中でセルがスチュワーデスに対して「あのかかっている音楽を、わてら聴く必要があるんかいの?」と言ったエピソードが出て来る。   
   
 電話を掛けて保留状態で待たされるとき、やはり曲によって随分とこちらの気分が変わる・・・長調の曲、陽気な曲ならばよいかというと必ずしもそうでなく、「グリーン・スリーヴス」あたりだと具合がよい。   
    
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 べつに全国津々浦々のコンビニに寄ったことがあるわけでなく、むしろ、殆どの人たちと同様に、本当にわずかな店舗に寄ったことがあるに過ぎないのだが、どのチェーンのコンビニなのかで店舗スタッフの態度、持っている雰囲気に個性・特徴があるように感じられる・・・これは筆者だけが感じることなのだろうか。店舗オーナー/店長それぞれのものの考え方・感じ方や、また、スタッフ採用にあたって関連しうる人間観察力は皆バラバラであろうし、また、スタッフの教育・指導の状況は必ずしも本部の想定するものと一致しないのではないかとは思うのだが、しかし、属するチェーンごとに、やはり店舗スタッフには或る共通する特徴が出ているように思える。   
   
 たとえばセブンイレブン(以下、セブンと書く)とスリーエフの場合は、筆者にしてみると「標準的な接客態度」と映るのである。客が店に入ったときの挨拶は普通に「いらっしゃいませ」みたいな定型的なものである(これでちっとも問題ない)が、客と顔なじみになっていると、天気の話その他についての言葉を掛けて来る。これが筆者には商店として「標準的・実に常識的」と感じられるのである。   
 他の或るチェーンの場合、客と顔なじみであっても「いらっしゃいませ」以上の言葉は発しない、まあ、それで不快でも不都合でもないが。こことはまた別の或るチェーンでは、やはり同様なのではあるが、雰囲気としてちょっとだけツンとしたものを感じる・・・いや、「ツン」と表現するとマイナス・イメージっぽく思わせてしまうが、もう少し的確に言えば、「手前どもではお客様への干渉をできるだけ控えるよう心掛けております」的な、よく言えばスタイリッシュで都会的な雰囲気を演出しようとでもしているのかと、そんなふうに感じてしまうものがある。   
 そしてさらに別のチェーンの場合・・・「スタッフ教育の面で、小さな点ながらも何か欠落しているものがあるのではないか。たとえ店がヒマな瞬間があっても、スタッフはみっともない姿勢や振る舞いをするなよなあ、ダレたような動きをしたり、スタッフどうしでお喋りに興じたりしているのは感心しないな」と思わされる場面がよくある。   
   
 以前は、筆者がいちばんよく利用するコンビニはセブンであった。ところが、上のほうに書いたようにBGMが好みに合わないものだから最近は少し足が遠のいている。それから、親の食事の用意の関係で、こちらの都合とスーパーの営業時間とが合わないときにコンビニの商品も利用して気づいたのは「セブンには置いていなくて、しかしファミリーマートでは扱っている」という商品(しかも当方にとっては都合がよい品)が存在することである・・・「そりゃ、そういうことだってあるだろう、ファミリーマートを見下していたのかい?」と苦笑されてしまうかも知れないが、筆者、それまで「セブンの商品ラインナップは一番であって、他のコンビニで扱っているものであればそれは必ずや、とっくにセブンが扱っている、ゆえに、コンビニはセブンを選んで買い物しておけばほぼ間違いない、無駄足にもならない」と思い込んで生きて来た昭和オヤジなのである。   
   
 そんなわけで、「 Family Mart は My Favorite になりうるか」というのが、ここ最近、筆者が自問自答することである。   
 「コンビニ業界はセブンがトップ。ローソンやファミリーマートが追いつくのは容易なことではない、それが実現することがあってもかなり遠い先のことになろうし、ましてや、追い越せる日が来るのは・・・」というのが大方の見方ではあろう・・・しかし筆者、最近、ファミリーマートを応援したい気持ちがわりと強くなっているのである・・・また、ファミリーマート店舗スタッフの接客態度もここしばらくの間に少し変化(好ましい方向へと)が見られるような気がする。   
   
 FM=MF≧7の式を含む、今回エントリー記事タイトルは:   
   
   "Family Mart = My Favorite" たりうるか、そして、そのファミリーマートはセブンに肩を並べ、あるいはそれを越えることが出来るのかという、そういう意味であった。    
   
   

雑記



   
 平日の深夜2時過ぎ、どのくらいの件数の無線LANの電波がご近所から当方へ飛び込んで来ているものなのか、そして、メーカーなりキャリアーなりのシェア/人気度はどんなあんばいなのか・・・筆者自身が利用しているものの電源を落とした状態では上のような具合であった。   
   




セル関係のあの本について、再び



   
 「浪花(なにわ)恋しぐれ」(作詞:たかたかし)という古い歌謡曲を耳にするたび、次のように改変した言葉を頭に思い浮かべてしまうのだ:   
   
   芸のためならオケ・メンバーも泣かす。   
   今にみてみい・・・クリーヴランド管を「全米一番」「世界一」にしたるんや!   
   
 これぞ "Second to None" を目指してクリーヴランド管を率いたセルの心意気・・・ではあるまいか。   
   
 セルの実績と活躍を振り返ることは、オケの部外者である一般の音楽ファンにとって楽しい。セル・ファンにとってはなおさらである。   
 ところが、当時のクリーヴランド管メンバーにしてみれば、このオケに属するということはつまりセルの厳しい「音楽づくり」に付き合わされることであり、ここで誰もが例外なく喜びと満足、充実、納得のいく発見などを得られたわけでもなかったようだ・・・そして、セルはまたオケという組織の専制君主的リーダー/管理者であり、オケ・メンバーの採用・処遇・雇用継続・解雇の権限を有していたし、そしてまた皮肉屋だったり辛らつな言葉を発したりする人物でもあった・・・このオーケストラに属することでメンバーに生じる精神的ストレスというものがあったとすれば、その大半はセルという人物に関わってのものだったのではないか。   
   
 セルの経歴・実績やクリーヴランド管については書籍、CDやレコードの解説、その他で既にいろいろなことが述べられているが、以前にも紹介した "Tales from the Locker Room" という書籍は、言うなれば「クリーヴランド管メンバーが明かすジョージ・セルという人格-今だから話せるその人となり-」みたいな内容のものである(冒頭画像。なお、「ねまるちゃ」というタイトルの冊子は本件とは関係ない。ペーパーバックでそれほど高価でないし、電子書籍でも入手可能)。   
   
 この本の中からは以前、リン・ハレルによる回想の言葉などを紹介した。   
   
 元オケ・メンバーがインタビューに応じて答えた言葉などが幾つも紹介されているが、当時の不満、セルに対してのネガティヴな評価が目立つように思え、個人的にはそういうものを読んでも愉快な気分にはなれなかった(ちょうど、会社であればその経営方針、待遇、上司について批判・悪口を言ってばかりの人間に好感を持てないのと同様かな)・・・ただ、組織、それもセルが君臨していたクリーヴランド管におけるストレスの生じ方などを窺い知ることが出来るから、それなりには興味をそそられる。   
   
   
 本書に紹介された幾つかのエピソード等を紹介しておこう・・・(但し、著作物における翻訳権の問題を考慮し、直訳・逐語訳は控えさせていただく)。   
   
 ミルシテインとセルとの共演の音源としては、我々はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、ラロのスペイン交響曲のライヴ録音を楽しむことが出来るけれども、ミルシテイン/セル/クリーヴランド管の練習中、次のようなことがあったと本書は紹介している:   
   
 練習中、セルがオケに対して注意・指導するため演奏中断することが何度もあってミルシテインとしてはウンザリすることもあったという。木管セクションがミスをしたときセルは演奏ストップをかけた・・・演奏をすぐにやめない奏者がいたため第1ヴァイオリンに向かって手、おそらくは左手をあげて静止した。それから木管セクションに向かって話しかけたのであったが、さきほどの左手を下ろさずにいたままで夢中にもなっていたのであろうか、その手が泳いでミルシテインのそれこそ顔の真正面に行ってしまったのである。ここでミルシテインはムッとなってどうかしたかというと、むしろ気取ったふうの笑みを浮かべてオケ・メンバーを見やって、そしてヴァイオリンの弓の先でセルの手のひらを突いたのであった。   
 さあ、このときミルシテインはどういう感情を持っていたのか、そこまでは述べられていない。「セルはん、細かいことはええから流れを止めずに行きまひょ」であったのか、それとも「セルはん、そないにして音楽に熱くなるのも結構なことやけんど、そいでも自分のしてはることが分からんようになってはあきまへん。わて、ソリストがここにいてまんねんやで、それなのに、こないな具合に、ひとの顔の前に手を持って来るゆうんは失礼なことでっしゃろ、そういうの、わて感心しませんのや」であったか。   
 ま、ともかく、手のひらを突かれたセルはびっくりして、その様子は「このオッサン何やねん、頭イカレてんのんか?」とでも言っているふうだった。   
   
 或るエピソードからも窺えるように、セルにとっては音楽上のちょっとしたことでも「生死の問題」と同じくらいのものであったから、やはり上でも「周りが見えなくなってしまう」、あるいは、「予期せぬタイミングでのお遊び・ジョークには対応できなくなってしまう」のではないか。そこが微笑ましいと言えなくもないか。なお、上で使った関西弁はエセ関西弁であるが、ご容赦を。   
   
   
   
 本書ではセルに対する批判が幾つも並んでいる一方、賞賛する回想、印象深かった様子を語る言葉も見受けられる。   
 セルの、来日時であれ何の時のものであれ、「英雄」を指揮する映像が残っていないことを残念に感じさせる回想:   
   
   
 「英雄」の第2楽章途中において、セルはいつも同じような仕方で、1秒ほどの時間を掛けて体の向きを変えてコントラバスのほうを向くと、低いAフラットの音符(フォルティッシモで強奏されるあの個所か?)を突くように振った。オケ・メンバーにしてみると(特にコントラバス奏者など、長身のセルの姿とその眼光を目にするメンバーにとっては?)これにはゾクッと来るほどの怖さがあった。   
   
   
  
 セルがグールドに対して言ったとされる、例の、「あんた専用のその椅子の調整に時間掛けてるよりなあ、そのお尻をほんのちいとばかり切り取ったほうが事は速く済むでえ、そしたら練習スタート出来るんやけどな」的な言葉・・・このような言葉は実は発せられていないとグールドの著作では述べられている。   
 が、本書では、またもやこのエピソード・発言が紹介されている。発言者は1955年から1995年にかけてクリーヴランド管に在籍した人物である。グールドがセル/クリーヴランド管とベートーヴェンの協奏曲第2番を共演したのは1956-57年シーズンであった。グールドをめぐるこの件は、やはり真実であったのか、どうなのか・・・自身がじかに目にしたことを語っているのかどうか。歳月が経ち、やがて当時の状況を知る人がいなくなってしまうと、この件は「藪の中」になってしまう。   
   
   
   
 グルメで知られたセルであるが、こんな回想も:   
   
 クリーヴランド管がフィラデルフィアへ楽旅に出たときのこと、セルは或るレストランでランチを摂ることがあった。店にはひとりで入ったのだが、案内されたテーブルの隣のテーブルにはオケ・メンバー3人が先にいてマティーニを飲んでいた。そのメンバーによる目撃談・・・。   
 セルはロブスターを注文したのであったがそれを食べ始ると、何と、ロブスター全部をテーブルや皿やのあれこれ目がけて叩きつけた・・・床の上に音を立てて散らかったのである。そんなことをしておきながらもセルは、片手で簡単な仕草をしたのであった(料理に問題があったり、あるいは、食べ物を落としたりしたときの定型的な合図を給仕スタッフに送ったということであろう)・・・すべてが礼儀作法にのっとった形で運んだ(スタッフによって片付けもされ、何事も無かったかのように事は済んだのであろう)。   
   
 見ているほうはビックリもしたであろうし呆気にもとられたであろう・・・一種ドリフのコント/コメディにでも出てきそうなシーンではあるから可笑しさをも覚えたであろう。   
 はて、セルにとって何が問題だったのだろうか? ロブスターの風味・調理や鮮度? 添えられていたかも知れないソース類などの調味が気に入らなかったのか?   
 あるいはもしかすると、完璧なものを求めて妥協を許さない自分の姿というものを、自由時間とはいえ昼酒を飲みつつリラックス・ムードに浸っているオケ・メンバーに対してこれ見よがしに示すための振る舞いであったのか(フィラデルフィアにはあのオーケストラも存在するからセルとしても対抗意識として「いつも以上にしっかりとした演奏をしなくては」との思いは強かったかも知れない)・・・もしそうだとすればレストラン側はたいへんな迷惑を受けたことになるが。   
   
 セルというと「肉食好き」のイメージがあるが、どうやらシーフードにも関心はあったのだなと思わされる記述が他にも見受けられた。来日時に口にしたものとしてはステーキが知られているけれども、魚や貝類なども堪能していただきたかった・・・とはいえ、あの当時の外国人はやはり普通には「生もの」を敬遠したであろうし、アメリカ暮らしの人たちの先入観からするとそもそも魚介類の食中毒を警戒し、演奏スケジュールの詰まったツアー中には食べるのを控えたがったか? 滋養面でも肉をしっかり食べるのが筋というものであったか。   
   
   
 ・・・ま、エピソードは他に幾つも紹介されているし、セル・ファンの方にはおすすめしたい1冊である。   
   

雑記



   
 イザベル・ファウストのバッハ、以前から聴いてみたいと思っていたのだ。   
   
 ・・・週末に聴こう。   
   

雑記

   
 知人の女性が親を介護するようになってしばらく経つ。「趣味としている旅行を、これからは諦めるしかないのでは」との彼女の予感は的中し、ゴールデン・ウィークはショッピングに出掛けるくらいしか出来なかったと嘆く。   
   
 音楽やら何やらの趣味でもあればよろしかろうに、そうすれば代替的な形での気分転換も図れるだろうにとは思うけれども、「人それぞれの趣味」はそうなかなかうまい具合にはなっていないものであるなあ。   
   
 「状況によってはショートステイなどのシステムも利用可能であろうが、介護をしていれば普通は旅行などのレジャーは諦めるものではないか・・・いっそ、介護を趣味にしちゃえば?」的な言葉は(最後の部分は冗談ではあるが)、彼女を暗澹たる気分に陥らせるであろうから発しないこととした。この種の不平不満については、こちらとしては黙って耳を傾けるようなあんばいでよいのではないか。   
   
 彼女にとってもうひとつ大きな悩みというか、ため息が出てしまうこととしては「料理がまるっきりダメ」という点にあるらしい。   
 食事制限・栄養管理、嚥下機能の状況などに気をつける必要がない場合はごく普通の料理であるから、「記憶の中にうっすらある、親の料理の仕方にしたがう」とか「テレビの料理番組の見よう見まねで」とかによって「ええい、とにかくやってみよう」で始めれば何とかなるものと思うのだけれども、踏み切れない人がやっぱりいそうだ。   
 しかし、現代、自分で調理せずともスーパーやコンビニで多種多様な調理済食品が手に入る。みずから手づくりすることにこだわらなくても、たとえ「他人による手づくり」であってもそれまた「手づくり」には違いないのだし、そしてもちろん、こだわりを捨てればレトルトのもの、冷凍食品など活用できるものは膨大である。   
   
 或るときのこと、筆者が親の食事を用意しているところでホームヘルパーさんが訪問して来ることがあったが、キッチンでは筆者が魚を焼いており、その近くにはコロッケと天ぷら、野菜のおひたし等があるのをヘルパーさんは見て「これ全部ひとりで作ったんですか?」と驚いていたことがあった。それこそ「まさか!」である・・・魚は親2人ともが食べるけれどもコロッケ、天ぷらはそれぞれ片方の親しか食べない・・・したがって、それだけの分量のコロッケや天ぷらをみずから手間をかけて作るのは馬鹿げていると筆者は感じるのである(しかも油を使っての調理であるから片付けも面倒になる)・・・スーパーにて調理済のものを買って来て、油切りが悪いといけないからクッキングペーパーにしばらく載せておいてからその後に軽く炙って食卓へ運ぶわけである。ほかに、たとえばポテトサラダやマカロニサラダ、ギョーザなども筆者は手づくりしたことがない。   
   
 高齢者こそ一生懸命に肉を食べなくてはいけないとの説も世にはあるが、色々の調理法があるにもかかわらず肉の風味というものは変化に乏しい、ヴァリエーションの幅が狭いように思え、飽きを生みやすいのではないかと警戒してしまう。これに対し、魚のあれこれは風味の違いが大きく、魚嫌いの人でないならば日々多様な味わいに接してそれを楽しめる・・・筆者の個人的な考え方であるが。   
   
 (↓)下のは、魚の買い物の例。   
   

「笑止高齢化社会」か「少子恒例化社会」か

   
 (↑)「笑止」という言葉には複数の意味があって、上では「困るような一大事」くらいの意味合いで用いている。   
   
   
   
 S M A P の「 世界に 一つだけの 花」という曲、いつまでも一定の人気は続いているようで、スナックのカラオケでも耳にすることしばしばである。   
 しかし、筆者にすると抵抗を感じ続けている点が幾つかある。   
 ひとつは、「競うことをやめよ、競って勝とうと思うな」とアピールしているものと思えるからかな。決して「勝つことへの執念」を煽る歌でないところに残念さを覚える・・・特に若者には「競う精神」を大事にして欲しく思うから。ただ、心が折れてしばし「俺/わたしはダメ人間なんだろうか、どういう生き方を模索すればよいのだろうか、自分にも何か“とりえ”があるだろうか」と暗い気持ちになったときなどの応援歌にはなってくれたりもするのだろうか。   
 ふたつめは、歌詞について、「これだけのことを言おうとするのにどうしてこうもたくさんの文字をつらねなくてはならないのか」ということである。もっと短く、極端には次のようなあんばいでも表現可能ではないか:   
   
   
    競わねど 並ぶ花には 矜持あり   
   (「花」は特定の一種類の花を意味していないし、また、季語のようにして使っているわけでもない)   
   
   
    黄赤白(きいあかしろ)   
    花屋に居並ぶ   
    それぞれは   
    競はで静かに   
    誇りをぞ秘める   
   
   
 ・・・と、俳句・短歌の例のそのヘタクソさ加減はおいておくとして、ともかく、やはり、うーん、歌詞が長い、言葉数が多いように感じられて仕方ない。尤も、同様に思える歌は山ほどあるから、筆者の感覚がもう相当に時代遅れになっているものと悟るべきなのであろう。   
   
 そして三つ目・・・歌詞の中に「バケツ」という語が出て来る。べつに気にならないという人も多いのだろうけど、しかし、こういう言葉が登場する歌ってあまり無さそうに思う。あるいは「そこがユニークで気に入っている」などという人もいるやも知れないが、どうも筆者は抵抗を覚えてしまうのだなあ。   
   
 以上、もちろん個人的感想ではある。「チャイコフスキー作品、これだけ音符を多く使ってたくさんの楽器も活躍するけれども、俺にとってはモーツァルトのほうが断然いいなあ」というのと同程度の感想と思っていただきたい。   
   

雑記

   
 昔々のまだ少年だった頃、近所のレコード店では買物客にスタンプカードを発行していて、そして、こちらはそのスタンプがたまっていくのを楽しみに/励みとして買い物を続けていたのだった。スタンプをためると店にもよるが結果的に買い物実績の5パーセントから10パーセント程度の割戻/値引的な恩典を受けられたのであった・・・しかし、大学で学生生協を利用するようになると、スタンプなどという制度がないかわりにその都度の買い物で上と同等かそれ以上の率での割引を受けられたため、普通のレコード店での買い物はわりと減った・・・輸入盤を扱っているとか、年末近くにグラモフォン・レーベルのカレンダーをくれるとかいう店での買い物は続いたけれども。  
   
 そういえば子供の頃、大人たちの日常の買い物では「グリーンスタンプ」などという切手形式のものもあった。   
   
   
 時は流れて・・・。   
 磁気ストライプなりバーコードなりICチップなりを用いて顧客管理をしつつのポイント制度というものが流行り、そして定着して久しい。このテのものの最初はヨドバシカメラによるものではなかったか。   
   
 そういうポイントカードのあれやこれやをゴソッと持ち歩いている人も結構いるようなのだが、筆者、とてもそういう気になれない。とはいえ、「ええい、どれも持ち歩くまい」と決めてしまうと、ポイントの恩典を受け損ねることにもなりうる。このたびは携行するポイントカードを選び直すことに。   
 ずっと利用していないカードで、もはやポイント失効しているもの、カード自体の仕様・体裁が変更になっているであろうものも手もとには残ったまま。   
   
 何かこう、客の側が鬱陶しい思いをせずにポイントの恩典を受けられるシステムは無いものか。こちらが何も持ち歩かなくても顔認識・指紋認証・静脈認証で処理が進むとか。ただ、顔の画像と、その人の買い物履歴データがリンクしたりするようなことがあると、ちょっと不気味というか、プライバシーの点で嫌悪を覚える人も多く出て来るか。   
 いや、いっそ、商品価格自体を下げてくれればよいのだが、それでは「リピーターを増やす」、「顧客囲い込みを図る」という目的を果たしにくいし、店の側はまた値下げ競争に巻き込まれかねないし。あるいは、場合によってはメーカーや卸売業者から小売店に対して「この品をこの値段より安く売るなよ、売ったら今後はお前のところに品物を回さないからな」との圧力がかかっているケースも無くはなかろうし。世の中、むずかしいな。   
   

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