2016-03

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ルックスはアドヴァンテージたりうるか



   
 映像つきで「トリスタン」を鑑賞するには、つまり、DVDとしてはどれがよろしいのか・・・というのがずっと心に引っかかっていた問題なのである。   
   
 べつに「トリスタン」に限ったことではないのだが、歌手の体型・適切な若々しさ等、また、衣装、舞台装置のあれこれ・・・それらのことはやはり大事かと思う。「花嫁役なのに老けているし、世間ズレした風情で、そして、たいした恰幅だよなあ」と思わされる歌手が登場したり(歌唱の能力・技術を本位に考えるべきことと承知してはいるのだが)、「中世あるいはそれよりちょっと後の時代の物語であるのに、歌手にこんなスーツやドレスを着させて上演するんかい」と思ってしまったり、未来工場かと思わされる舞台設営だったり・・・というのは、映像を伴っての鑑賞上、筆者にとっては大きなマイナスになってしまうのである。   
   
 上のは、マイヤー(イゾルデ役)その他/バレンボイム/スカラ座による上演のDVD。最近のこと、価格改定なのか何なのかお手頃価格になっていたので、「バレンボイム好き」でもないのに購入してしまった。この週末に鑑賞しよう。   
   

雑記



   
 「塩豆」などという呼び名で売られている、塩味の付いた「えんどう豆」(炊かれたもの)は美味である(酒のつまみ・おかずのひとつとしてもよろしい)。   
   
 それとはまた別物で、上の写真のものは菓子の部類に属するもので、控えめな甘さと、また、皮を取り去ってあるがゆえの食感にも魅力をおぼえるもの・・・ゆかしさのある甘納豆、と言えばイメージが伝わりやすいだろうか。   
   

雑記



   
 物々交換のような形で、ひょんなことから手に入ったCD。   
   
 あの、誰もが知っている作品よりもむしろ、他の収録曲にこそ様々な魅力を感じる。1枚はCD・・・内容がよろしい、そして、左側のDVDがそれとセットになっていた。   
   
 それにしても、あの一番有名な曲・・・筆者、温かい蕎麦はあまり好みではないのだが、歌詞中の「鴨なんば」に反応して小腹が減ってしまったのである。   
   

雑記



  
 (↑) ご飯の炊き上がりのあんばいはその土地その土地によって好み・習慣が分かれたりもするであろうが、筆者には「柔らかすぎ」に感じられたこと、そして、具がもうちょっと大きくても/多くてもよいのではないかと思えたこと等の理由から、満足度としては100点満点のうち、正直言って60点くらいであった・・・この評価はもちろん個人的・主観的なものである・・・食べ物としての出来・仕上がりとしては悪くないし、「最近は水分も少なめに固めに炊かれたご飯が多くてそれが嬉しくない」という人もいるから、人によっては好みによくマッチするか。   
   
 写真からは包み3個入りのように見えるかも知れないが、2段で計6個入り。ヴォリュームとしてはちゃんとある。漬物を具にしたものに金箔が添えられていたが、これは不要と感じられた(これまた無粋な筆者の個人的な感想)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 電力の小売り自由化はこれからの人々の暮らしに小さからぬ影響を与えるが、先日のこと日経新聞の社説には「ガス自由化の準備も怠るな」と題するものが掲載された。   
 で、これに関連してここで何かを書こうというわけではない・・・。   
   
 冬の、暖房が使われる時期になると「電気、ガス、灯油のいずれが経済的であるのか。オール電化の住宅は本当に有利なのか」等々に話が及ぶことがある。   
 一定の熱量/カロリーを得るのにどれが有利かということが通常の主要関心事であるが、火災発生の危険性、屋内の空気に関して酸素欠乏状態あるいは乾燥状態への至りやすさ等々の問題も勘案して暖房器具やエネルギーを選択することが必要であろう。と同時に、加湿器の利用度合いによっては結露、カビ発生に悩む人たちもいる。   
   
 ところで、筆者、ときどきこういう話題を持ち出す・・・「電気、ガス、灯油、それら相互についてはどれが高い・安いという議論がしやすいが、ジャンル違いであることを承知のうえで、電気その他と敢えて(無謀にも)比較してみて、水道料金・下水道使用料金を高いと思うか、安いと思うか?」と。すると、「高いよね」という意見が多い。水道事業の運営のあり方からして致し方ないのであろうが・・・しかし、何かしら画期的な運営改革など為されぬものであろうか。   
   
 そしてもうひとつ、「では、NHKの放送受信料を高いと感じるか安いと感じるか?」と問うてみると、これまた「高い」との意見が多い。そして、「NHKの番組なんて観ていないのに」という若者は案外と多いのだ・・・BSのドラマくらいは観ているのだろうと思いきや、そうでもないようだ(ちなみに筆者は観ていない)。   
 テレビの時代は終わった・・・などと言うことは誤りではあろうが、「誰もがNHKの番組を楽しみ、NHKの取り組みを良しと感じ、そしてNHKの今後にも大きな期待を寄せる」という状況にはないものと感じる。とすると、普通の民間企業と違って「自動的に受信料収入が入ってきてそれを使い放題で番組づくり・次世代テレビ技術の開発をする」みたいな状況は見直されるべきではないのか、そんな約束めいた環境をドラスティックに取り払ってしまう刺激策も有りかなと、筆者は思ってしまう・・・いや、「自動的に受信料収入が」というのは言い過ぎかも知れないが、しかし、おそらく、営業努力的なものは「新規契約者の獲得・捕捉」に振り向けられることが中心であって、「従来から受信料を支払っている、大半の物言わぬ視聴者・国民からは自動的・継続的に受信料が入ってくる」という状況にはあろう。   
   
 さて、試しに新聞の番組表を広げ・・・NHKのテレビ番組とラジオ番組のすべてについて、「もしも自分に24時間の自由時間があるとして、観たい・聴きたいと思う番組にマーカーを引く」ということをしてみると・・・たとえば筆者の場合、それに該当する番組はあまりにも少ない。もちろん、「自分にとってはどうでもよいのであるが、有意義な番組、あるいは、若い人たち、老いた人たちの楽しみになっていることであろうなと思える番組、また、このような番組づくりが可能なNHKには拍手を送りたいと思える、そんな番組にマーカーを引く」ということを追加すると、これは結構な量にものぼる。が、個々の視聴者が受信料との関係でまず考えてしまうのは前者のような番組の量の多寡である。人は、それをもってNHKの放送受信料が高い・安いを評価するであろう。   
 夜、たまたまNHKで「LIFE」なる番組を目にし、そこで爆笑することもあったが、同時にまた「これ、NHKが制作する必要があるものなのか」と筆者は思った・・・と言うよりも腹立たしかった。(なお、筆者、昔のBBCのモンティ・パイソンも評価しない・・・自分は狭量で、かつジョークを解しない人間なんだろうな。)    
 要らない番組が、実は数多くあるのではないか。多様な番組を用意したいと考えるのは放送関係に携わってきた人たちの思いではあろうが、それがどこまで国民のニーズ(と言うより、NHKに期待を寄せているかどうかの感覚)と細かいところまで一致しているかは微妙ではないのか。   
   
 放送受信料をぐっと引き下げてしまっても、番組づくりを縮小し、制作スタッフ等の減員などリストラをすれば済む話である。そして、通常あるいは非常時の「報道」を支えるための最低限の予算を国がNHKに対して保障する形をとりつつ、それ以上の収入についてはNHKに期待を寄せる国民が「ふるさと納税」みたくして資金提供するような、そんな制度にしてもよいのではないかと、ついこの間のこと思ったのである。そうすればまた、NHK職員や関連組織は、国民からソッポを向かれることを恐れて、あんな不祥事・こんな不祥事を起こさない状況へと少しずつ変わっていくかも知れない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 日本の通販大手アマゾンを通じて僧侶を手配できるという「お坊さん便」に関しては、全日本仏教会はそのサービスを取りやめるように要請しているらしい。僧侶を定額で手配できることがよろしくない、それは「お布施」本来の宗教性を損なうという考えがベースになっているようであるが、詳細は知らない。   
   
 が、しかし、一般国民の如何ほどが、菩提寺や宗教関係者との関わりにおいて宗教性を重んじているか、はなはだ微妙であると思う。   
 葬儀を、あるいは諸々の法要を、それぞれの家に関わってきた宗派の僧侶を迎えて営む・・・これは、そうしないと恰好がつかない等のことがあるだけで、いちばん大事なことは「亡き人への感謝、亡き人への思い」などを、残された人それぞれがどれだけ心の中で反芻し、あるいは心の整理をつけていけるか等のことではあるまいか。   
 まだ文明も科学もろくに発達していなかった頃のインド人が到達した境地やら、その教えやらは、実はどうでもよいのである。また、向こうの習俗を真似て線香をたく必要も実はないと考える・・・焼香も線香も不要と言い出せば周囲から呆れられるから皆が同じようなことを繰り返しているだけで、仮に故人の霊がそこらへんにさまよっているとした場合、「煙たいし、臭いから、よしてくれ。俺は鼻が敏感なんだ、カレーも線香も、臭いものは俺はイヤだ」と思っているやも知れない。   
   
 ぐっと割り切ってしまうと、葬儀・法要の席では僧侶の役割はタレント業・セミナー講師に近いのではないか。立居振舞と、気の効いた、「うむ」と唸らされるような法話がまず求められる。仮に「この人、時間はあり余っているであろうにあまり本を読んでいないんだな」と思わせるような話を披露するとか、さらには妙な威張り方をするなどのことがあれば、結局のところ、ひんしゅくを買う。   
   
   
 僧侶が気づいていないこと・・・それは、檀家その他によってどう評されているかである。「お布施の金額、相談しようにも何も、お坊さんのほうから幾ら幾らと提示されてしまった(何十万円とかのレベルなら一般家庭でも普通ではあろうけど、その上の桁の金額を“幾ら幾らをいただきます”と突きつけてきた)」、「あまりにも短いお経を一本読むだけ。しかもそれを暗記ではなく、ものを見ながら読んだ」、「今日は風邪をひいてしまってと言って、お経を途中で切り上げてさっさと帰ってしまった(貰うものは貰ったうえで)」、「昨年お坊さん自身がつけてくれた戒名なのに、位牌を目にしながら、なんでこんな字を組み入れてあるんだと疑問の言葉を発した」、「お布施のほかに“うちの家内にも何かちょっと・・・うな重とかでいいから、とってくれ”と要求された」、「境内の墓についてこんな扱いをした」、「景気の良い檀家がついているからといって、外車の○○を乗り回しているのはどうか」等々のことを耳にしたりする・・・筆者もまた、それなりの僧職にある人が軽自動車やマ○チや何やらに乗れとまでは言わないが、ア○ディやB○Wに乗っているのを目にすると、やはりどうも首を傾げたくはなる(クルマは移動の道具と悟り、たとえ「大乗仏教をよし」と考えても、控えめな乗り物に乗って欲しいと思う)。   
 で、また、上では「お坊さん」と書いたが、実際の会話では「お坊さん」でもなく「住職さま」でもなくて・・・地方・農村とかであると信心深い人たちが多いから言葉遣いは丁寧であろけれども、東京だと、腹立ち紛れっぽく立て膝をつきながら「あそこの坊主は」などと言う人もいたりして、周囲はまたその話で溜飲を下げたりする光景があるのだ。基本的に、知性、品位、学歴、出自、振舞その他の点において、僧侶を下に見ることはあっても上に見る人は、東京の場合は少ないのではないか、どうだろう。   
   
   
   
 知人と、次のような会話をしたこともある(対話の前者が知人、後者が筆者):   
   
 「うちの場合、以前からの習慣が続いていて月命日にお坊さんがやって来るんだよ」   
   
 「毎月?」   
   
 「そうそう、お盆とかだけでも十分だろうに、毎月」   
   
 「その度に何がしかのものを包んで渡すというわけ?」   
   
 「そう。○○○円だけどね」   
   
 「その程度か、なら、まあ・・・」   
   
 「けど、12か月(1年間)で○万円になるわけだよな。先代(父)にはお世話になりましたからと言いつつお経をあげて行くわけだけど、俺らまでお世話してあげていることになってるわけだよ(笑) あと、お坊さんが来る日は家族の誰かが迎えて相手してということになるから、それも煩わしいし。こういうことは俺の代で終りにしないとな、うちだって今はごく普通のサラリーマン家庭なんだから。この子(その場にいた孫)の代まで続いたりしたらかなわないぜ」   
   
 「お経を読んで小遣いをもらえるという、そういう“カネづる”だからなあ、むこうも縁を絶やさないだろ」   
   
 「うちは“カネづる”かよ、参ったなあ。いずれ折りをみて何かの理由をつけて来させないようにしないとな」   
   
 「そうだなあ、何か口実をつけてだね。寺との関係まで絶つわけにもいかないだろうから“手切れ金を渡す”とかっていうのはありえないしなあ」   
   
 ・・・さて、その後、上手な「厄介払い」の方法が見つかったかどうかは知らない。   
 それにしても、こういう大人の会話をお孫さんの耳に入れてしまったのは良いことだったのか、それとも・・・。   
   
   
   
 年寄りの親を持つ人は、「うちで葬儀を出すことになった場合、お坊さんに幾らくらい包むことになるだろう」と考えたりもする。そして、菩提寺を同じくする親戚、あるいは、檀家総代などを通じて読経・戒名などのために包む金額の相場を聞き知って心の準備をしておくことは、世の中、稀ではなかろう。   
   
   
   
 話を戻して「お坊さん便」・・・。   
   
 名前は改めたほうがいいよなあ・・・と、率直に思う。しかし、内容について、さほど抵抗感を覚えない。   
    
 僧侶を定額で手配することは宗教性を損ねるのだとすると、たとえば次のような料金設定にして、発注者それぞれの気持ち次第で支払いの上積みを可能な形にしてはどうなのか・・・たとえば最低でも5万円は欲しいという場合:   
   
 「読経および出張の料金(交通費・宿泊費ほか、すべてを含みます):5万円。 なお、これとは別途に、お客様のお気持ちに従って「お布施」その他の名目で差し出していただくものがあります場合、それは、金額の多寡にかかわらず、感謝の気持ちをもってありがたく頂戴いたします(ただし、これはあくまでお客様の任意のものであり、当日にも後日にも、こちらから請求することは一切ございません)。   
   
    
 「今日のような混沌とした時代、不安の時代だからこそ、宗教の果たす役割は大きいのです」と、宗教関係者は言ったりもするが、筆者などは「それはどうかな」と疑問を覚える。それでもしかし、近代的・現代的な宗教のあり方が研究されていくならば、それはそれでよろしいことであろうと感じる・・・その中では、明朗会計的なお布施のやりとりの仕方などとかも考案されるべきではないかと思う。   
   
   
 いま仏教界が恐れているのは、檀家が離れていくこと、また、料金値下げ(お布施などの額が下がっていくこと)の動きが波及すること等ではあるまいか。しかし、いずれ、たとえば住職無しの寺は増加し、あるいはまた、何らかのルートで手配されて「お声が掛かれば飛んでいきます」という僧侶・宗教人が増加していくのではないか。そのとき、先ほど述べたようなタレント性も大切になってくるのではないか。国民が何を求めているか・・・。      
   
 アマゾンは、ひるまずに今のサービスを続けて欲しい。   
   
 さて、しかし・・・いずれはオークション・サイトにこんな出品が登場するかも知れないではないか:   
   
   
  葬儀での読経および戒名授与(宗派:○○)   
  (交通費・宿泊費ほか、すべて込み込みの出血バーゲン実施中)   
   
    即決価格○○万円、 値下げ交渉あり   残り時間17時間   
   

雑記



   
 (↑) マンガ「 そ ば も ん 」の第19巻が発売になっていた。   
   
   
 以前のブログ記事(2013年2月)では筆者、おおむね次のように書いたことがある:   
   
 福岡県所在の組織/団体が発行している英語版ガイドブックで "Fukuoka City Visitor's Guide" という冊子には福岡の「うまいもん」を紹介するページがあって、そこでは当然ながら「うどん」に触れられている・・・気になっているのは、その紹介文のなかに、「福岡は "udon and soba noodles" の "birthplace" と言われている」との文言があること。(たとえば「蕎麦がき」のごときものはおいておくとしても)「蕎麦きり」という麺状の蕎麦の発祥地も福岡であるのだよ・・・と読み取れてしまう。こう言い切ってよいのか? 筆者は、蕎麦の歴史の詳細を研究しているわけもないし、英語のガイドブックを読む人のことを考えて「単に "soba" では何のことかすぐにはピンと来ない、しかし "soba noodle(s)" と表現すれば“ああ、あの穀物を用いた日本的なあの食べ物のことか”とスッと理解してもらえるもんね」という発想から上のように表現したのであろうなと、そのように想像するのであるが、気にはなった。ま、発祥地どうこうという問題は、「美味い蕎麦粉はどこ産?」とか、もっと現実的には「美味い蕎麦を出すのはどこの店?」とかの問題に比べると、筆者の日常にほとんど関係ないのだけど、しかし、日本各地にて、たとえば来日客を含む観光ビジネス・蕎麦セクター分野で生きている人たちにはちょっとばかり影響しうる文章表現かなと思えた。   
    
   
 これと同様の問題意識が、今回の第19巻に収められたストーリーにも織り込まれている。   
   
   
 下のは・・・せっかくだから九州つながり仕立てで「くまモン」。   
   


雑記

   
 ずいぶん前のこと、米軍基地・自衛隊基地などに関連した裁判所の判決について、筆者よく分からないのだけれども軽い感じで「違憲ではないということは合憲ということなんだね」と言ったら、そういう基地問題に厳しい目を向ける知人からは「そうではない、違憲でないからと言って直ちに合憲だなどと、お気楽な感覚でいてもらっては困る、それは問題意識の欠如である」と叱られたのであった。法律的なそのへんのこと、筆者はよく分かっていない。   
   
 「脱法ドラッグ」なる言葉がよく使われていた頃、「脱法状態であるなら、それは合法ということではないのか。とすれば“合法ドラッグ”と呼んでもよいのではないか」と言ったら、「そういう呼び方がまかり通ったら、やっぱりマズイんじゃないでしょうか」と、若い人から言われた。そうだよなあ、ニュース番組その他の報道でしきりに「合法ドラッグ」という語が連発されたら国民の認識と感覚は・・・とても困ったものへと変容してしまったことであろう。   
   
   
 「格安スマホ」なる言葉が定着しているけれども、筆者、しばしば思うことがある・・・「格安スマホで十分ではないか」と感じている側からすると、いま「格安スマホ」と呼ばれているものこそが標準というかリーズナブルな存在であって、そうでないスマホについてはむしろ「割高スマホ」、「高額スマホ」と呼ぶべきではないのかと。   
 とは言え、「格安スマホ」、「激安SIM」、「ライトユーザー向けプラン」等々の言葉で言い表されるものを標準としてしまって、そうではないものをたとえば「割高」、「高額」、「激高」、「ヘヴィユーザー向け贅沢パッケージ・プラン」みたく表現してしまうと、少なからぬ消費者は「自分の場合、これほどの金額支払をしてまでこれを必要としているのだろうか」と考え、そしてスマホ、データ通信、通話などに関わるマーケットは萎んでしまいかねない。   
   
 筆者の場合、スマホについては、依然としてさほどには活用していないのであるが、せっかくのデュアルSIMタイプ(2枚のSIMを挿して使い分け等が出来る)なので・・・下の写真中、上段左および下段にあるのがSIM(マイクロ・標準)。上段右はSDHCカード。   
   
   
 考えてみると、スマホ用のほか、ガラケー内に、そしてモバイルルータ用にと、計4枚のSIMを利用していることになるのであるが、それら全ての利用料を合計しても、従来から大手キャリアでスマホの契約をしている人たちが支払っている利用料よりも少なかろう。通信・通話に、またそれに関わるハードウェア/機器に関して、そんなに多くの支出を振り向けるわけにはいかない・・・それが筆者の金銭感覚なのであるが、しかし、世には「わたしが選んだこのスマホ以外はダサい。そんなスマホを持ち歩くのは恥ずかしい」等の感覚もあるようで、人それぞれなのであるなあ・・・中学生・高校生あたりにもそういう感覚はあるようで、そうして子供たちのスマホ関連支出も伸びていく・・・子育て支援策のいくばくかは、回りまわってそっち方面の支出にも充てられていたりするのかと思うと、何だかなと思える、子供のスマホ利用料を嘆く大人を、筆者は妙なものと感じているから・・・そして、某コーヒー・チェーンのショップ内には放課後の高校生などがスマホを手近に置きつつ宿題をしていたりもするけれども、おそらく友人からであろう、スマホに何か連絡が入ると宿題をする手を止めてしまう・・・高校生がファストフード店やコーヒー店で過ごすのもどうかと思うが、スマホを持っているがゆえに「集中して、能率的に勉強する」ことが阻害されてもいるのではないか・・・なお、学習用アプリというものもあるそうだが、それはおそらく有益なのだろう、詳細を知らぬが。   
   
 さて、しかし、なにも「歩きスマホ」、「自転車スマホ」まですることはないじゃないかと思う。「歩きスマホ」をしている者(立派に成人した大人)どうしが出会いがしらに衝突するというシーンを、もう5回も6回も目にしている。「自分では安全に気を配らない、きっと他人が避けてくれる」という感じで生きているのであろうか。人間の、一種の退化ではあるまいか。   
   


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