2015-02

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春一番に倣(なら)って・・・(一番乗りとはいかずとも)急ごうよ



   
 限られた経験からすると、いや、他の人たちの話からしても、猫という生きものはダンボール箱、紙袋、バケツなどに潜りこみたがる。   
   
 くまモンもまた紙袋は好きなようである・・・そして、飽きてしまうと、彼らは袋から顔を出して外の様子をうかがいつつ何やら嬉しそうにしている。   
   
   
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 確定申告(および追加納税のための手続)を済ませた・・・或る、自分なりの合理的理由があって今なお“e-Tax”を利用していないのであるが、それについてはまた後日に書くことになろうか。が、今回は申告書を途中で書き損じてしまい、もう一度あたらしい用紙を得て記入しなおすという手間が増えてしまった・・・時間的なムダを生じさせてしまった・・・来年からは「やり方」を改めようか。   
   


雑記



   
 (↑)過去の写真の再掲であるが、イワシの煮付け(梅干し風味つき)。   
 親のためにこれまで何度かつくっているのだけれども、これの調理はちと面倒くさくもあるし、手が臭くなったりもする。(なお、最近は、皿には煮汁をたっぷり添えることにしている。)   
 ところが・・・イワシのこういう煮物がレトルトパックで売られているのを発見した(ただし、梅干し風味をつけたものでなくショウガ風味だったりする)。複数の商品がある。パックを熱湯で茹でてから封を切り、中身を皿に移せばそれで食卓に供することができるから便利である。   
 親に食べさせる前に自分で試食してみたのであるが、「謙虚に考えても、俺が手づくりしたもののほうが美味い(調味の点でなく食感の点で)」と思えた。でも、それほど悪くはないともまた感じられた。今後に活用していこうかと思った。   
   
   
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 春節で中国からの訪日客が増加する時期である。彼らの行動パターン、振る舞い、マナーの悪さに顔をしかめる日本人は多いことだろう。商店、デパート、飲食店、ホテルその他としては、中国人旅行客が多額のカネを落としていってくれることを喜ぶ・・・他方、「この時期は不愉快なものを目にしたくないからデパートに寄るのを控えよう」と思い定める日本人もいる。   
   
 電車・エレベーターに我先にと乗り込もうという振る舞いを注意する日本人もいる(ガイド役を担うことになった日本人もまたそういうマナー違反をしないよう予め教え込んでおくことをする)。彼らはその注意に納得するが、どうも彼らの納得の仕方としては「うむ、降りたい人を先に下ろさせたうえで乗り込むのが合理的であり、事がスピーディに済むのだな」という程度に過ぎないように見受ける。われわれ日本人は、そういう理解も勿論しているのであるが、もうちょっと鳥瞰(ちょうかん)しつつというか、自分と自分以外すべてを含めての人の流れの「あるべき状態」を思い描き、かつ、自分という存在は全体の中にある「1つのもの、個」に過ぎないという感覚を持ち、全体の流れの中に自分をうまく滑り込ませて事がスムースに運んでいくことを目指しているかと思う。現代の中国人の多くがそういう感覚・意識を欠いて育ってしまっているように思われるが、そうである以上は、彼らの振る舞いに腹を立て、ストレスを覚えるだけこちらの損ということになる・・・但し、勿論、彼らに対して注意を重ねていくことは一応の意味あることと思う。   
   
 われわれ日本人は、たとえば全体調和と、他人に迷惑を掛けないことを意識している。ショッピングセンターその他の広い売り場にて、一緒に買い物に来た家族や仲間がちょっと離れたところに散り散りになったとする・・・離れたところにいる相手に対して(もしも近寄っていくことをしないのなら)声を掛ける場合には、われわれは「かろうじて相手に聞こえるかなと思える程度の声量」で言葉を発するか、もう少し気が利く人であれば口に片手または両手を添えて「もっと低い声量でも相手に言葉が届き、かつ他の無関係の人たちに迷惑が掛かりにくい方法」を選ぶことになろう。そういう、他者への配慮というものを、どうも中国人は思い至らないのではないかと思える・・・で、彼らは目一杯の大声を張り上げる(付き添ってガイド役などしている日本人としては「トホホ」感と、周囲の無関係な日本人に対して申し訳ない思いになることであろう)・・・英語でも中国語でも、日本語とは異なる言語特性があって或る一定以上の声量や発声上の瞬発力を伴っていないと言葉が通じにくかったりするということがあるかも知れないが、上のような場面での中国人の傍若無人ぶりは、明らかに「他者へ迷惑が掛からぬように」という発想を欠く。まだ向こう何年、いや何十年かは、これは解決されない問題ではないかと想像するし、それに腹を立てるのもこちらが精神的に損するだけだと心得ておくほうがよろしかろうと思う。(日本人もまた、自覚していないような「旅の恥のかき捨て」を行なっていようし。)   
   
   
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 ゆうちょ銀行が扱う貯金、かんぽ生命の生命保険・・・それらの貯金限度額・加入限度額を引き上げようかどうしようか・・・というテーマでの検討が自民党内で始まる。これにはやはり理由があるのだが、しかし、いずれにせよ「それは民業圧迫だ」とする批判が及ぶ・再燃することと思う。   
   
 民業圧迫ということでは・・・筆者、長年にわたり思っているのは、NHKの事業の内容・規模の拡大を抑制しないでおくと民業圧迫につながるのではないかということ・・・いや、現時点でも民業圧迫状態かも知れないなどと思わぬではないから、「拡大抑制」よりもむしろ「縮小」の方向へと踏み込む必要もあるかと思っている。   
 NHKには素晴らしい番組が山ほどあるけれども、しかし、あえてNHKが番組制作しなくても、あるいは取り組まなくても「民放でも出来る・やれる」と思われるものも相当に多いように感じる。   
 報道、ドキュメンタリー、芸術、伝統芸能に関わるものについては、筆者、NHKにこそ期待しているものが多い。また、大相撲、高校野球をはじめとする幾つかのスポーツ中継について、「NHKで放送し続けて欲しい」と願っている人は多かろう。しかし、たとえばドラマなどはどうだろうか。正直言って筆者には「TVドラマを軽視する感覚」が宿っているがため「何もNHKがこれほど次々と、地上波でもBSでも何本ものドラマを制作しなくてもいいじゃないか」と思うのである・・・ちなみに、ウィスキー好きということから「“マッサン”のドラマを観ていますか」と尋ねられることがこれまでに何度かあったけれども、都合3、4回しか観ていない。   
   
 NHKは番組制作数を少なくしてコスト削減したってよいではないか。なおかつ、放送時間帯を短縮したっていいじゃないか・・・短縮せずにいるのならば再放送での穴埋めを増やしてもよいのではないか。そういう動きがあれば、民放サイドでの競争、それも質的競争は増していくことにならぬか・・・いや、果たしてどうなるか筆者には占えないけれども。    
 また、上のようにすることでNHK放送受信料の引き下げが為されるならば、少なくとも筆者などは歓迎する。(民放をろくに観ない筆者ではあるが、かと言ってNHKの番組を視聴している時間もまたさほどには多くない・・・テレビを観る時間全体が大方の人に比べてかなり少ない・・・そういうこともあってか、NHKの受信料を筆者は「多数の国民が分担し合っている割りには高いんじゃない?」と感じているのである・・・ラジオなども滅多に聴かなくなったが、昔はクラシック音楽系のFM放送を大いに聴いたから、こういうものは次の、若い世代のためにも続けて欲しく思う・・・が、それにしても、昔からNHK交響楽団の演奏についての放送はまず聴かないで過ごして来たものだが、はてNHK交響楽団の運営コストと放送受信料とはいくらかなりとも関係があるのだろうか・・・もしも関係ありとするならば、同オーケストラと他のオーケストラとの関係で民業圧迫があるや否やも検討されねばなるまいと思う)。   
   
 さて、それでもNHKは、今度さらに広範な受信料徴収をするに至るやも知れない。テレビを持たずともNHKのネットサービスの利用が可能になっている状況に照らせば、PCなどのネット接続端末のみを持つ世帯からも、あるいは、いっそ日本の全世帯から徴収することにも理由・根拠は見出せはする・・・だが、NHKの放送、そしてネットサービスは、つまりはNHKのこれまでの、そして将来における業容拡大などは、さて国民すべてが期待し、そして喜んでいることなのか、それを疑問に思うのである。たとえば全世帯から徴収することとなって、そのかわりにこれまでの放送受信料がガクンと安くなるというのであれば筆者個人的には嬉しく思う・・・だが、しかし、その「全世帯から徴収」という発想・方針・あり方は望ましいのかという、次なる疑問が生じる。で、やはりNHKについては「業容縮小という道が検討されて然るべきではないか」と思ってしまうのである。   
   


雑記


   
 春闘のシーズンである。  
 先日、それとは別件のことで自分が若かった日のあれこれを思い出すことがあった・・・すると、いつの間にか、やはり若い日のこと、春闘の頃に自分が発した言葉をも振り返ることになった。   
   
 まだ入社3年目かそこらくらいのこと。筆者は労働組合には属していなかったが、それに属している他部署の同期の仲間が「今年はストライキ突入する可能性が高い。戦いになる」と、ちょっと嬉しそうな顔をしていた。   
 実は、それに備えて、管理職と非組合員とで仕事をどうカバーするかの計画が出来ていて、その内容は「うはっ、たたでさえいつも忙しいのに、これはまたキツイ仕事になるな」というものであった。だから、上の同期の仲間の表情に腹が立ってこんな意味のことを言った: 「ストライキなど生じれば物事は滞る。社内事務でもお客さんとの関係でも遅れや迷惑へとつながる。物事は、ちゃんとしたドミノ倒しのごとく一切の滞りなく進まねば気持ちよくない。だいたい仕事というものは趣味とまでは言わないまでも自己実現のため、自分の能力や成長を試す・確認するためにあるのであって、労働条件や貰う給料にああだこうだ言いながら働くものじゃないだろ」と。若いのに随分と気張った物言いであったと思うのであるが、しかし、この感覚は今の時代でも通用するものと思う(しかし、「いや、カネのために働くのだ。そして会社は、従業員に対して労働の対価を支払えばそれでよいわけではなく、生活保証をしなくてはならないのだ」との考えに立つ人がむしろ多いようにも思えてしまうが)。   
   
 同じ時期のこと、労働組合に属している後輩が「今度のメーデー、動員されていて(どこそこまで)出掛けていかなくてはならないんですよ」とグチッた。こちらは忙しくてゴールデンウィークはほぼ連日のこと休日出勤の予定になっていたので、「そんなもん、参加すると一応は言っておいて当日すっぽかせばいいじゃないか。集会だのデモだのはちゃんとした日本人がやらかすことではない。組合との付き合いはそこそこにしておけばいい。メーデーに参加する暇があったら一緒に休日出勤しろよ、ちゃんと休日出勤の割増手当もつくのだから何も文句はないだろ」と筆者は言った。この発言は当時の上司に咎められた・・・ま、当然だが。   
   
 これらのことよりも後年のこと、組合に属する後輩から「今年の賃上げはあまり期待できない」といった言葉が漏れることがあった。で、筆者はこう言ったのだ: 「労働組合の大会があるだろ。毎月のように徴収されている組合費を向こう1年間は徴収ストップして欲しいと発言してみろ。実現すればちょっとだけ手取り収入が増えるぞ。組合は組合員から集めたカネをためこんでいるんだぞ。それはそれなりの理由・備えのためにではあるが、徴収ストップとか、組合員への返金とかを提案できないか研究してみろ」と。   
   
   
   
 ・・・今年は、アベノミクス効果もあって賃上げが実現する職場がかなり増えるのではあるまいか。ただ、あらゆる業界での、また、企業規模にかかわらず広範な職場での賃上げにはまだ至らないものと思う。底力ある好況感は実現しているように思えるのだが、これがもうしばらく持続していくことが求められよう。   
   

「NISA(ニーサ)の活用は必須ですか?」-「ん、それは任意さ」


   
 「株式投資を始めるならば NISA口座 を利用してスタート!」みたいなキャンペーンが続いている。   
 シンプルに考えると、「まあ、正解なのかもね」と感じる。   
   
 しかし、いわゆる損益通算、また、損失に関わる繰越控除が出来ないところが勿体ないかな。いちど始めた株式投資は、おそらくはその規模を大きくしていくものである・・・つまり、NISA枠以外での運用も始めることとなろう。   
 それらすべての投資銘柄について、ひとつの例外も無く儲け/益が出るとは限らないのである(ただし、「余裕資金で運用する」という基本をしっかり守り、また、筆者のように、徹底して優良企業の株式にしか手を出さない、バブル崩壊があろうとリーマン・ショックがあろうと塩漬けも辞さずにひたすらに時を待てるという人であれば、損切りのパターンは極めて少なくなるのではないかと想像する)。   
   
 いま時点の制度では、筆者自身は、「特定口座で、源泉徴収あり」の口座を基本とすべきものと考えて過ごしている。これだと、確定申告しなくてもよいし、したい場合にはすることも可能。但し、うーん、たとえば夫婦のうち妻も株式投資をしていてそれに関わる株式譲渡益などがある場合、その妻の確定申告内容によっては夫が配偶者控除を利用出来る・出来ないに影響する。夫がサラリーマンであって、勤務先の配偶者扶養手当の支給基準において妻の収入がどうこう規定されている場合もまた、それを気にしなくてはいけない場面がありえよう。妻の側が「これは私のヘソクリでの投資、もちろん確定申告するけどその内容をいちいち夫に伝える必要は無いわ」などと考えていると、あとでトラブルになりうる。   
 なお、筆者自身は「納税は国民の喜び」という感覚があって(それゆえに酒に酒税が課されるのも気にしないが・笑)、出来るだけ納税額を少なくしたいと切に願う人はやはりNISA枠の優先活用・最大限活用も選択肢であろうか。   
   
   
   
   
 メジャーどころのカラヤンなどに目もくれずに、客観的にみれば超マイナーと言えなくもないジョージ・セル等の演奏のあれこれに聴き入ってきた人間というのは、株式の銘柄選びにもまた個性があったりもするだろうか・・・と、自分を振り返ることはよくある。   
 たとえば・・・この何か月かくらいに交わしたことある会話(下記の対話それぞれのうち後者が筆者の発した言葉):   
   
   
 「みずほFGの株、買おうかな?」   
 「俺は日立キャピタルかソニーFHを選びたい」   
   
   
 「丸紅か双日の株を買いたいと思うが、いいと思う?」   
 「悪くないとは思う・・・けど、ちょっと違うけど、三洋貿易、知らないの? いい会社だぞ」   
   
   
 「AOKIの最近の業績どうなんだろう?」   
 「毎年さ、立春の頃に冬物バーゲンの品を買いものに行ってきちんと保管し、それを次の冬に着ているんだけど、業績は知らない。オンワードの株を買いたいんだよね、ただし、この銘柄、取引単位は1000株だよ」(結局この銘柄は購入しなかったが。なお、一部の冬物衣料について、筆者は実際にそういうセコい買い物の仕方をしている・・・流行とかファッションのトレンドとか、自分の場合には気にしても意味が無いと思うもんで・笑)   
   
   
 「ワタミ、盛り返せるかな?」   
 「分からない。外食産業ならハイデイ日高、いいと思って来たんだよね。ぜんぜん違う業種だけどヨンドシーホールディングスって名前がえらくカッコいいじゃないか、自己資本比率も高いし、たまに直感に従うなら、俺、こういうの好き」  
   
   
   
 年があけて以降、市場で買われる銘柄に変化が見られる・・・ように思う。ま、いつでも潮目の変化、テーマ・材料の移ろいはあるものだが、何と表現すべきかな、筆者としては「その企業の財務体質の優秀性・健全性と配当利回りなどに注目して持っている株式であって、じっくり中長期保有のつもり」にしていた銘柄のあれもこれもが値上がり出した。   
 値が上がると、配当何回分かよりも売却益のほうが大きいことに心を奪われ、「えいやっ」と次々と利益確定売りするに至ってしまうのである・・・本年、まだ2月なのに「売り」行為が盛んになってしまった。   
 ここに来て、株式投資額はピーク時の6分の1かそれ以下になっている。「売ったあとにはすぐ次の銘柄を物色せねば」というのが基本スタンスであったのが、年齢のせいか、その「次の一手」の研究にいそしめない。が、しかし、「投資しなければとか、買わなくては、などという義務は存在しないのだ。納得ゆく安い価格水準のときに株式購入する」という鉄則に鑑みれば、迷うときは手を出さない、時に休みを入れるのもまたよし、と思っている。   
   
 下のは、株式売却の際に交付される計算書(一般口座などの場合は源泉徴収も無いため、異なる体裁の約定報告書などが交付されるのみとなる)。   
   


雑記

   
 このところ宗教をめぐる論議が盛んになっている。   
   
 宗教大嫌いな筆者であり、同じく宗教嫌いの人と酒を飲むときには例えば次のようなことを言うことしばしばである:   
   
   
 「神は存在しない。また、神が人間をつくったりしていない。まだ大した知識や文明を手にしていなかった人間が、何かしらの不安など抱いたり、自分や身近な者が死後にどうなるのかと恐れたり、また自然の威力・運命めいた偶然の連続への恐れ等々から“神”というものを思い描いたのである。つまり、人間の側こそが神というものを創作したのである。神というものを生み出し、そのパーソナリティをも決して物語を誕生させるほどに人間は賢いのであり、つまり、神は人間の下位に位置するもの(しかも実体は無く、観念上のものに過ぎない)である」   
   
 「神が存在しない以上は、神と人間との間に何かしらの約束が交わされるということも無い。“原罪”というものもまた存在しない」   
   
 「神の存在を主張する人は、神が存在することの証明を求められると困るのである・・・そういう証明をせずに済ますためには、“神は人の心の中におわします”とか、“神に対して何かの奇跡実現を求めるなど、みだりに神を試みてはなりませぬ”などと応じて事をかわすのがひとつの逃げ道・方策というものであろう」   
   
 「人間にとって、体調の芳しくない日、暑い日、寒い日、雨風の強い日にもきっちり仕事に励むのは時に辛くもある。干ばつに苦しむ年もある。辛く面倒くさいとき、あるいは苦しいときにも仕事をさぼれたらよいなと、怠惰な人間は思うものである。苦労をうまく避けつつ、わりと楽して稼げる商売としては売春、占い、祈祷、宗教を挙げることが出来ようか。それぞれに歴史の古い商売と思われる。このうち売春は、男には難しい仕事である(売春の「斡旋」ならばともかく)。占い/祈祷は、それが外れる/実現しない場合にはその後の商売が“あがったり”になるし、権力者などのそばでその種のことに従事している場合には怒りを買って処刑されることもありうる。その点、狙い目なのは宗教であろう・・・寄進・布施、お守り・免罪符などの販売によってしっかりと、わりと永続的に収入・食べ物を確保しやすいかと思える」   
   
 「人間というものは広い意味でのハンディキャップを背負うことがある。それは身体機能面の問題であったり、あるいは、それぞれが生きる時代と環境において差別対象となる身分・門地・人種、また、出生の秘密などを原因とするものであったり・・・。真面目にコツコツと生きられる人間は与えられた環境を我慢しつつ生き抜く。しかし、“どうせなら人生を一発逆転して少しでも安楽な人生を!”と思い立つ者もいることであろう。新しい宗教を起こす、既存の宗教について新しい解釈を見出してそれを主張する等はその“一発逆転”のチャンスになりうるものであろう。成功すれば、自らへの崇拝が死後いつまでも続くことになり、あの世での笑いは止まらないものとなろう(仮に「死後の世界」というものがあれば、であるが)、日本にはまた宗教法人課税のような制度もあり、きちんと研究すれば宗教活動は魅力的なビジネスたりえよう」   
   
   
 なお、ただし、宗教の果たして来た役割は大きい。   
   
 身近な人が亡くなるなどした時・・・「人間の脳は、血液/栄養/酸素が届かなくなれば活動を停止します。すると思考/思惟というものも無くなります。遺体というものはもはや物体に過ぎません。魂・霊というものもありませんし、もちろん輪廻転生もありません。故人のすべてはもう終わってしまったのです。さ、埋葬しましょう」と言われて「ふむ、なるほど」ときれいに納得してしまえる人は稀であろう。人間の心のやり場を、宗教はそれぞれに用意してくれる。   
   
 宗教が、人の行動を律するうえで果たして来た役割が大きいこともまた言うまでもない。あるいは、学問、芸術などへの寄与も大きい(逆に、科学などの進歩を阻害・攻撃した面もありはするが)。音楽に関しても、声明、聖歌など無ければ、音楽の発展の姿は異なるものになっていたことであろうか。   
   
   
   
 ところで、宗教はどうあるべきかという議論のときに筆者が持ち出す言葉には「十字軍」と「四箇格言(による他宗派・他流儀への批判)」などがある。すると、話の相手は、前者については「ん? 懐かしい言葉、それ何だっけ?」みたいな顔をする。後者については知らない人が多い。よいのか、それで?   
 先日の、日本人を人質にした事件にからんでは「十字軍」の言葉が出てきた。筆者などは、日本について一緒くたにされては迷惑なことだと思ったものだが、この十字軍についてあれこれ言う意見が少ないことには意外な気がした。 
 日本人は多様な宗教・宗派に対してきわめて寛容であるとの意見もあるが、それとの関係で「四箇格言」ということについてもまた、いずれはもっと注目され、宗教活動に関して議論されて欲しいものと思う。   
   
   

子くまモン! レッツ・ダンス!



   
 (↑)・・・両面テープほか、何かしらの「支え」を使ったりはしていない。ゆっくりと重心を見つけつつ「逆立ち」および「仰ぎ座り」などさせたもの。   
   
 右のものは音声メモリ搭載で、人が話しかけた言葉をオウムのように返して寄越す。   
   

「へいっ、握り寿司をおまかせで1貫ずつ・・・っすね」



   
 上のは、いわゆる「ガチャガチャ」で売られていたもの。   
   
 ネコの背中に乗っているのは伊勢エビ、脇にはネギ。   
 軍艦巻きは、イクラのお風呂状態・・・なのかな。   
   

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クラシカルな某

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クラシック音楽好きです。