2014-11

Latest Entries

「M.ジャクソン」の「M」はマイケルではない、自分にとっては



   
 今年も残すところ1か月となった。   
   
   
 下の写真は非クラシック音楽系のCD・・・ではあるが、古典とは言えなくとも、筆者にとっては懐かしいアルバム(またはそれらを収録しなおしたCD)。ステファン・グラッペリとミルト・ジャクソンのもの。   
   
   
 グラッペリの演奏を初めて耳にしたのは偶然のことであった・・・。   
   
 昭和50年代、カセットテープというものは、今で言う家電量販店のような、第一家庭電器(DAC)とかラオックスで会員カードを提示して買うか、あるいは「まとめ買い」するなどして、ともかく大幅な割引価格にて買うべきシロモノだった(少なくとも筆者にとっては)。あるいは学生生協でたまにシーズン・セールを実施しているときにやはり「まとめ買い」しておくとか。   
    
 TDKのAD、SA、マクセルの幾つかの品、その他をよく利用していたが(たまにメタル・ポジションのものも)、FM放送の録音に使っているとテープはどんどんたまり、内容消去するとか重ね録音などで再利用することなく放っておけば、結局は次々とテープを買い増していくことになる・・・。日曜午後のNHK-FM、「こうもり」序曲冒頭の音楽のあとに某美代子アナウンサーによる「オペラ・アワー」の言葉で始まるあの番組などなど、録音したまま聴きなおすこともせずに放置されたテープは山のようになった。   
 そんな具合になると、「もうちょっと安いテープがあれば経済的だよなあ」などと、誰でも思うものである。スコッチ・ブランドのものも利用することあったが、或る時のこと、DENONブランド(当時は“デノン”でなく“デンオン”)のテープがセール販売されていたので試しに買ったのであった。どんなクオリティかチェックしてみようと思って、そのときにたまたま放送されていたものを録音した・・・それがグラッペリの音楽との最初の出会いであり、すっかり聞き惚れてしまったのだ。   
 「出会いの機会を作ってくれた」と言い表すことはハズレているかも知れないが、DENONにはやはり感謝。   
   


同窓会を、どうしようかい?



   
 「同窓会」という言葉には少なくとも2つの意味があろう。   
   
 その1: 特定の学年または学級(クラス)の卒業生たちが集まり、飲食・旅行・レクリエーションなどする行事。   
   
 その2: 先輩・後輩すべての世代の卒業生を対象にして会報を発したり名簿制作したりする活動や組織。   
   
   
 上の「その1」のような行事は、60代くらいの年齢になってからするものだろうと筆者は思い込んでいる。   
 しかし、小学校・中学校時代に一緒だったA君は以前からよくこんな言葉を繰り返していた:「同窓会をやりたいな。みんな住む地がバラバラになってしまっているから東京に集まるのも不公平っぽくもあるし、どこか他所へ1泊旅行などするのがよいな。俺もたまにはそういう泊まりの旅行をしたいし」と言っていた。コンビニ・オーナー店主である彼は年がら年じゅう忙しく、気晴らしの機会も得にくいようである。   
 ところが、しばらく前から上のような言葉を発しなくなった。コンビニのアルバイト店員/スタッフを十分には集めにくい状況、つまり人手不足状態に陥っているのである・・・旅行どころではないようだ。   
 それがまたここ最近になって「東京で同窓会をやりたい」的なことを言う・・・彼は、1泊とかは無理としてもやはり同窓会をしたいらしい。もしかして、虫の知らせで死期が近づいているなどということはあるまいが、それにしてもそんなに同窓会なんぞをやりたいかなあ・・・理解しにくくもある。   
   
 彼と筆者との間で「いったい何年何組の同窓会にするか」という話も出る・・・ふたりは公立の小学校・中学校でクラスも一緒ということが何度もあったが、しかし、他の級友たちは「いつもクラスが一緒」でもなかったりするし・・・。   
   
 「先生は誰をよぶ?」と彼は言う。   
 「○○先生については、よんで欲しくない」と筆者は答える。   
 彼はその理由を分からない様子で、筆者は説明することになる・・・その先生が昔どのような発言をしたかを教えることになる: 「自衛隊は憲法に違反する存在であり、許されない。勇気を持って日本が率先して軍備を手放すことで、他国もそれに同調し、この世界から軍隊というもの、戦争というものも無くなっていく」・・・当時、このような御伽噺(おとぎばなし)のごときことを言う政治家もまたいたが、筆者は「怖いことを言う大人たちがいるものだ、日本がそんな国になったら安心して暮らせないではないか。相応に軍備の増強を継続することが必要の筈だ」と思ったものだ。天 皇 ( 昭 和 天 皇 )の戦争責任がどうこうなどと、公立学校の教員として職務中に生徒の前でそのような発言をすることに首を傾げたくなるような、そんな先生もいた。      
   
 「ああ、○○君には是非とも文句を言わなくちゃな」と、これも筆者の言。   
 その○○君には中学校卒業以来、一度も会っていない。彼は、民主党の議員(国会議員ではない、自治体の議会議員)の後援会だかに「わたしの同級生です」ということで筆者の住所と名前を無断で伝えたのである・・・それがために、選挙の時になるとその議員は筆者宛てに郵便を送って来るばかりか、家を訪問することまでしたのである。   
 それより以前、やはり他のルートで筆者の個人情報が旧・社会党の議員の関係へ流れ、そちらからの郵便物が届いたことがある・・・そのときは情報を流した人間にしっかりと抗議をした・・・相手は筆者のところまでやって来て「ご迷惑でしたか?」などと暢気なことを言った・・・労働組合なんぞの活動にあまりに一生懸命になってしまい、ガムシャラに黙々とツベコベ言わずに企業の歯車として機能することの正しさ・大切さを失念してしまった人間は時にこのような変なことをやらかす
のではないか。   
 自民党、あるいは保守系無所属などでこちらが同調できそうな人たちであればともかく、上のようなところから郵便を受け取るとか、あるいは議員などが家までやって来るということは不愉快であり、また、何かの折りに近所から「民主党や社会党を支持しているのか? 知り合いまでも居るのか?」と思われたりすれば大いに迷惑であり、何かの機会にキッパリ誤解を解く・名誉回復的な機会を窺う必要性すら生じかねないと考えるのだ。   
 (このように、思想・信条などで相容れない者を敬遠する・嫌うということ以外にも、「周囲から誤解を受けてしまった場合のことを恐れる」という気持ちについては、もしかすると人によっては理解しにくいか・・・が、しかし、筆者の子供の頃は、「あの子のうちはキリスト教」、「あの子の家には赤旗新聞のポスターが貼ってある」ということで一緒には遊ばない、その子らとは家を行き来しないという規範めいたものが自分や友人らの間にはあったし、そういう感覚は今に至るまで自分の中に残っているのである。筆者には韓国系の姓を持つ友人がいたが、筆者がその彼とは遊ぶのに共産党の家庭の同級生とは決して遊ぼうとはしなかったため、その同級生(つまり後者)が憤慨したこともあるが、仕方のないことであるし、親は子供たちがそういう行動をとることも予測し覚悟を決めて生きていた筈と信じたい。)    
   
   
 筆者、上の「その2」の同窓会については極めて無関心である。「前回の名簿制作から何年経過しましたので、新しいものを作ります。前回の名簿に電話番号が未記載となっている方は届出して下さい」などという要請には応じない(笑)。   
   
 この種の名簿などというものは、必ずや誰かが名簿業者などに売ったりするものだと思っている。印刷・製本業者が名簿を横流しする可能性だってゼロとは言えまいと思う。名簿に電話番号など載せられたりすれば、こちらには用の無い電話や、振り込め詐欺の電話などが掛かって来る可能性は高まる。余計な郵便物ならまだ我慢もしようけど、しかし、代金引換タイプの宅配便を使った詐欺に合う可能性もまだ残されているわけで、本来ならば住所すらも載せて欲しくないのだ。   
   
   
   
 ところで、不正によって得られた個人情報が問題となって摘発・逮捕・起訴される事件があるが、しかし、いまだ摘発されることもなく、誰か・どこかの企業によってこっそり着々・営々と集められ続けているものがあると想像する。情報を取得してすぐにそれを売り払うからバレるのであって、賢い人たちならば、情報群Aを取得したら蓄積し、次に情報群B、C、Dなどをコツコツと得ていくであろう・・・そして、漬物を作るように、酒を醸成させるように、いや、違うな、或る時点になってそれらA、B、C、Dなどを統合するのではないか。複数の情報群にまたがって共通するデータである電話番号や姓などをキーに、ひとりひとりのデータや、さらには家族・世帯の情報をも結びつけていくことが可能だろう。   
   
 そういうデータは、人口減少社会の日本における、将来のダイレクト・マーケティングに大いに有用さを増していくこと、明白である。それらデータを、顧客の求めに応じて有償販売するにあたっては、何かしらのロジックによって「リクエストされた条件に合致するデータのうち幾つかを間引き/除外し、同時にまた、条件に合致しないデータも幾つか混在させることで、原始データがどこから流出したものか分かりにくくする」という手法もまた採られうるか。   
   
 さて・・・。   
 かつて、ケータイやスマホが存在せずに固定電話だけだった時代において・・・女性が結婚して夫と新しい世帯を持つ/夫の実家に嫁ぐ、そして夫の姓に変わるという、ごく普通の状況を考えてみよう。   
 この場合、その女性の結婚前の個人情報(旧姓による姓名・住所・自宅電話番号・買い物歴・学歴その他)というものは、結婚と同時に意味を失う・・・つまり、結婚後の、新姓になって、新しい住所と電話番号で始まる彼女について、結婚前の古いデータを結び付けていくことは困難を極めたであろう。   
 ところが現代は状況が異なる。結婚前後にケータイの電話番号などを変更していなければ、女性が姓を変えようが、住所が変わろうが、結婚前と結婚後との個人情報を電話番号などをキーにして結びつけることが容易であろう。そのようにして揃ったデータは、男性に比べて消費活動が旺盛とも言われる女性(ミドル世代・シルバー世代をも含む)に対するダイレクト・マーケティングの武器として大きな価値を持つと推測される。   
 たとえば、蓄積データから、或る女性についてこんなデータを揃えることは不可能とは言えまい(抜すい):   
   
 現在の姓名: ○野 ○江   
   
 電話番号: 090-×××-××××   
   
 生年月日: 昭和○○年○月○日   
   
 配偶者の姓名: ○野 ○太郎   
   
 子供: 長男、○○(平成○年○月○日生まれ)   
      長女、○○(平成○年○月○日生まれ)    
   
 旧姓: ○原   
   
 1回目の結婚のときの姓: ○川   
   
 1回目の結婚の相手: ○川 ○男   
   
 学歴: ○○中学校、○○学園高等学校・・・   
   
 勤務歴: ○○商事株式会社 営業本部   
   
 買い物歴など: ○○デパートショッピング会員、エステ○○シルバー会員・・・   
   
 購入頻度の多いブランドなど: ○○○○   
   
 趣味ほか: ○○ピアノ教室、○○乗馬クラブ、○○トラベル会員   
   
 病歴: ○○病院患者登録有り(じんましん、結膜炎、インフルエンザ)   
   
   
 結婚後の女性に関する個人情報として、子供の頃に通っていたピアノ教室、結婚前に通っていた乗馬教室などのデータまで結びつけることが出来るということは、現代の「ひとりひとりがケータイを持つ、電話番号を変えることは少なめでMNPの制度もある」という時代になってこそ容易になるわけである。   
   
 上のような趣味歴のデータは、「お子様にピアノ/乗馬を習わせませんか?」とか「子供の頃に習ったピアノをまた楽しんでみませんか?」みたいなマーケティング/セールスをしたがる企業その他にとって有益な情報となろう。   
   
 で・・・ビジネスとあまり関係なかろうけど、上のように「1回目の結婚の相手」というものも当然のようにデータとして集まりうるわけだが、データの仕様によってはハイパーリンクのようにしてその相手のデータを参照可能ということになろう・・・「おっ、この相手の男性も○○商事に勤務していて今は○嶋○子と結婚しているんだな・・・そしてその女性がどんな人かというと・・・なーんだ、3人とも同じ会社に勤めていたわけか」とか、そういうことも分かるのである・・・市区町村役場の戸籍・住民票係だって知りえないような、とても生々しいデータと言えまいか・・・様々な意味で凄いことになってしまう。   
   
   
 さて・・・もっと書きたいことがあるが、時間切れなのでここまで。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下のは、親のために調理したスケソウダラ(スケトウダラ)の煮付け・・・煮汁は砂糖・味噌・醤油などを中心としている・・・スケソウダラは、もっと寒い季節になるとさらに美味しくなる。   
   


雑記



   
 上の写真は過去に載せたものを組合せたもの・・・タケノコ・高野豆腐・いんげんの煮物と、太刀魚(タチウオ)の塩焼き。太刀魚の身には包丁で切れ目を入れてから焼いたのであったが、そういう下準備は実は不要だったかも知れないとの疑問が残っていた・・・と、この件についてはしばらく措いておくとして。   
    
   
 さて・・・。   
 和食がユネスコの無形文化遺産とされるなど、その価値・意義が見直されている。   
 そしてまた、最近は小学校・中学校などでの給食にも和食というか、米飯や、昔ながらの日本食メニュー、郷土食などもよく取り入れられるようになったと聞く。   
 喜ばしいが、給食というと今なお牛乳がセットで付くというパターンが多いのではなかろうか・・・そこがどうも残念な気がする。   
 子供たちに牛乳を摂らせれば「タンパク質をもうちょい、そして、カルシウムも」ということが可能になって確かに有益ではあろうけど、しかし、和食には合わないだろう・・・焼き魚を食べつつ牛乳をゴクリ、肉とサトイモの煮物を食べながらまたも牛乳をゴクリ、ホウレンソウのおひたしを食べて牛乳をゴクリ・・・また、キノコご飯を食べつつ牛乳に口をつけるシーンなど想像すると、これは許せないような、とても悲しい場面のように思えてしまう(キノコ類のあの微妙な風味が、牛乳のあの風味によって封殺されてしまうのではないか)。仮に給食のメインのおかずが麻婆豆腐やギョーザだったりしても、それを食べながら牛乳を口にするというのはやはり妙なものと思う。ミスマッチをミスマッチと感じない味覚・感覚を子供たちに植えつけてよいのだろうか?   
 まだしも、牛乳ではなく、食後に口にするデザートの位置づけみたくしてヨーグルトやプリン、さもなくばチーズなどに改めるほうが良さそうに思える(このような、牛乳とりやめをしてもなお牛乳代替の乳製品を利用することは、酪農家・乳業メーカーなどの存続のためにも必要かと思える)。   
   
 学校によっては、牛乳は食後しばらく時間をおいてから飲ませるという工夫もしているようではある。よいアイデアだと感じる・・・ただ、「食後しばらく時間をおいてから」ということの運用の仕方によっては、「食事は仲間と楽しく、しかし、それなり程度にはさっさと済ませよ。食事が済んだらサッと立ち上がりテキパキと片付けよ、ダラダラしていないこと!」という生活・行動の基本が身につきにくくなるかも知れない・・・そういうことを身につけさせることは大事なことだ・・・やがて職場にて、あるいは何かしらの事態で従軍などする際にも、そういう感覚のひとつひとつが実は大きな意味を持つであろう。    
    
 牛乳以外の、つまりメインの食事内容で十分なタンパク質とカルシウムを摂取し切れるような工夫をさらに加えるなどのことが出来ないものか・・・カルシウムの例でいえば、小女子(こうなご)、かちり、しらす干し、鮭の中骨(缶詰)、練り物製品、海藻類の活用(わかめのサラダやスープ、ひじき類)とか。小魚であっても「ちりめん」ではコスト高になりそうだし、「カルシウムはいっそのことサプリメントで」などとすると父兄からは異議が出ようけど・・・。    
    
   
   
 話が脱線するが・・・。   
   
 「牛乳を飲むと背が高くなると聞かされて一生懸命飲んだものだが、背はあまり伸びなかった」と言う人がいる。背丈・体形は遺伝的要素も大きそうに想像されるし、仕方あるまいに。   
   
 「牛乳をよく飲むようになったことで日本人の体格は向上した。背丈も伸びるようになった」という話も聞かれる。その意見が間違いであるとは思わないが、大ざっぱな意味での「体格全体」はともかくとして、「背丈の伸び」に関しては牛乳以外の理由もあるのではないか・・・子供などが、農作業その他で荷物運びなどを手伝わされるケースが激減し、背骨は下方へと向かう力から解放され、結果的に背丈はスクスクと伸びるようになり・・・(今日に至るまでの長い間、農業に関わりを持つ世帯は減少を続け、また、仮に農業を営む家庭でも、リヤカー、台車、軽トラ、コンバインなどの利用は進み、また、子供に自由時間と勉強時間を与えるようにもなった等のことがあろうし)。無理のある見方かも知れないが、しかし、少年・若者がコメを1俵あるいは30キロとか、苗・果物・イモ・各種収穫物とか、肥料の袋や農機具などなどを日々あれこれ持ち運んでいれば、それは身長の伸びに影響しそうに思えて仕方ないのである(他方、そのような労働は、適切な姿勢や動き回り方をしていれば丈夫な足腰をつくってくれる鍛錬になろうけど)。  
   
   
   
 子供たちの間にテレビゲームその他が流行して久しい。そして公園その他で野球をして遊ぶ子供の姿も見受けなくなった。最近はそれでも、学校のグラウンドや公園などにて野球ではなくサッカーをプレーしている子供をよく目にするようにはなった。   
 筆者が子供の頃は「サッカーをすると短足になる」との説もあって(筆者の周囲だけであったかも知れぬ)、皆わりとサッカーを敬遠したものであるが、時代は変わったな・・・。   
   
   
   
 下のは、つい先日のこと太刀魚を焼いたときのもの・・・今度は包丁で切れ目を入れるという手順を省略してみた。フライパン上にクッキングホイル(アルミ箔)を敷き、それが熱くなってきたところに少量の日本酒を垂らし、そして、塩を振っておいた太刀魚をホイルの上に・・・。   
 もちろん鮭・鱒などよりはずっと長めの時間をかけて焼き、弱火も使いつつ蒸らす感じのこともしたが、うむ、あらかじめ身に包丁を入れておかなくても大丈夫な出来であった。ただ、グリルを使う場合には長い時間焼くと皮の焦げも進んでしまいやすかろうし、やはり包丁で切れ目を入れておくのが無難なのか。(店によっては泣きたくなるほど身の薄い太刀魚を仕入れて売っていることもあるが、ああいうものだと包丁での下準備は不要か、しかし、違う料理で食べるほうが良いのかも知れない)。   
   


雑記



   
 「年末だから“第九”を聴こう」みたいな気にはならないのが常であるし、今年の12月は忙しくなることが見通せているので、そのくらいならもっと先走って「VPOニューイヤーコンサート」をと・・・2010年の、ジョルジュ・プレートル再登場となったときの映像を本日は鑑賞したのであった。(右下のディスクは、レコーディングは古くとも今なお高く評価されているライナー/シカゴ響によるウィンナ・ワルツなどのCD。)   
   

「うつけ者」より「お漬物」・・・いや、特に意味の無いタイトルであった



   
 ODA/政府開発援助というシステムは素晴らしい。   
   
 システムの理念はさておき、如何なる経緯/コンテクストのもとで行なわれようとも、たとえば日本がそれを近隣諸国に対して実施すれば、それぞれの相手国においては、日本からの支援とそれによって享受できたものは国民すべてに周知徹底され(マスメディアばかりでなく学校教育においても)、国民の記憶に残りつつ子らにも言い伝えられ、また、「反日感情」的なものには多少とも冷静なものが加わり、さらには、日本国の領土・領空・領海をあえて脅かそうなどという行為は恥ずかしくてできないことになる・・・かくて日本は今、何らの外患を覚えずに実に平和で安泰な時代を迎えているのである。ODAは見事な成果をあげている。   
   
 ・・・以上、本気では書いていない。   
   
   
 「日本国内の状況に応じて時にはODAを思い切って縮小することもあってよいのでは」との意見もある・・・そうしていれば阪神大震災で被災した人の仮設住宅暮らしももっと早くに解消し切れたであろうとか、東日本大震災による復興も加速させられ、また仮設住宅暮らしも解消が早まるであろうというわけである。が、国であろうが企業や家計であろうが、諸方面への支出は様々な理由から必要なのであって、他国を支援することもこれまた重要である・・・しかし、筆者個人としては、国内優先をと思う気持ちが強く、もどかしいものを感じるけれども。   
 東京オリンピックも大事・・・「日本は復興を遂げました」というメッセージ/報告を世界の国々に発信するイベントともなる・・・他方、被災地の復興については「ま、ぼちぼちのペースでいいんじゃないか」みたく考えていそうな人も見受ける・・・この冬もまた仮設住宅で越さなくてはいけない人たちは大変だろう・・・肉体的にも精神的にも、また灯油代などの金銭面のことに関しても。   
 国は、無駄な支出を切り詰めていかなくてはならない。ODAでの切り詰めは無理としても、他の支出項目で削減・節約を図らなくてはなるまいに。しかるに敢えて衆院解散して選挙の実施・・・カネもかかるし、解散しなくてもよかったろうにと、筆者は思う。おそらくは、しっかり現与党の勝利になろうと想像しているけれども、今回ばかりは選挙による信任の再確認作業は不要ではないかと思えた。     
     
     
   
 ・・・というような、いささか憂鬱な話を離れて・・・下の写真は、掃除用品の買い物に出掛けた100円ショップ「キャンドゥ」で見つけたディズニーの著名な映画「ファンタジア」のDVD(韓国製)。デュカ/デュカスの「魔法使いの弟子」ほか、映像と音楽との楽しい融合を楽しめる(反面、ベートーヴェン/「田園」での映像内容は、ほのぼのを楽しめるにしても、しかし、この音楽が描いた内容との齟齬が気になり、感心しなかったりもする)。   
 演奏はストコフスキー/フィラデルフィア管。DVD鑑賞時には、音響のL/R移動なども楽しみたい(“映画だからといって音楽をこのように聴かせるのは邪道だぞ”と感じるのは心が狭いであろう・笑)。   
    


雑記



   
 筆者、外で酒を飲む頻度は多いほうだろう。   
 機会がある限りは寄っている店のひとつの、そのメニューのあんばいを紹介すれば下の写真のような具合である・・・筆者の「飲みよう」が、質素とまでは言わないが、贅沢などしていないこと明らかであろう(笑)・・・魚介類好きである自分が食べたいと思う品がそれなりにあるし、また、店はほどよく賑やかで居心地がよい。(これまでにオーダーしたことのない品としては、例えばハンバーグ、メンチとか、あとそれから「ポテベチーズ」・・・これは「ポテト・ベーコン・チーズ」の意味で、出来上がり状態を表現すれば「ふっくらジャガイモ、それに加えてベーコンと“とろーりチーズ”をトッピング」みたいな品かな・・・ベーコンやチーズを好まない自分は食べないのであるが、しかし、普通に抵抗感なく食べる人にとってはたぶん「美味しい」と感じるものであろう、この店の食べものはどれも旨いので)。   
   
 酒については当然ながら別途に料金支払いがあるわけだが、その値段はまあ普通の庶民的居酒屋と同じくらいでリーズナブル。   
 肴/食べものは決して高くなく、安いと言えるであろう。モノ・鮮度につき、特に文句つけたいところは無い。調理されて目の前に出てくる量/カサを実際に目にしていただくと、「安い」・「リーズナブル」なことをさらに実感していただけようが、店で食事しながら写真を撮るということをあまり好まぬのでそこまでの写真は省略させていただく。   
   
 このお店は、たとえ日本全国津々浦々をめぐって片っ端から「居酒屋」を覗いても、誰も見つけ出すことが出来ない・・・「居酒屋」カテゴリーでは営業していないのだ。お店紹介したい気持ちがあるものの、しかし、今以上に混雑されても、座る席が不足しては筆者は困るし、ゆえに店の紹介は控えておく。(写真の一部にモザイクをかけてあるのは、「この近辺の名物」的なメニューを隠すためであり、べつに 「 牛 レ バ 刺 」 などの問題あるメニューを隠すためのものではない。)   
      
    
 「あっ、この店、知っているよ!」という方がいらしても、その種のコメントはご遠慮下さい(笑)。   
   


「○○ものが○り」その他・・・そして、つれづれなるままに雑記をば



   
 (↑)ビールのいろいろ。   
   
 左の2銘柄はこの時期にまたも登場してくれた「とれたてホップ」と「冬物語」(「 い き も の が か り 」とは無関係であった)。前者のホップの香りは気持ちよく、何か食べものをつまみながらでなく、ビールだけで楽しみたい。   
   
 4種すべて美味である。但し、いちばん右側のは、日本でポピュラー・主流なものとは異なるタイプのビールなので、飲み慣れていない人には抵抗を覚えることもあろうか・・・だが、かなり人気のある品で、筆者もまた好きである・・・有名な地ビール・メーカーの製品(このメーカーの「インドの青鬼」という品もまた美味しい)。   
   
 写真を写すにあたって一緒に並べるのを忘れたが、「ビール」ではないビール系飲料の「百年麦芽」という品も今年また店頭に並び、しっかり冷やして飲んでみてやはり旨いと思った。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・    
   
   
 以前のこと、某デパートの催事会場にて、いろいろの職人さんが集まって工芸品、細工物などなどを製作実演しつつ販売するという企画があり、筆者はぶらぶらと見て回っていた。   
   
 ハンコ・印鑑を注文に応じて作るコーナーには男性客がいて、次のような意味のことを言って料金を値切っていた:    
   
   
 「俺の名前は画数が少ないからハンコを彫るのも楽だろ。だから安くしてくれ」   
   
 そういう値切り方ってアリなのか?   
   
 ビニール傘を買うのに、「某コンビニよりも、ほぼ等距離に位置する某ドラッグストアへ行けばもっと安く、しかも65センチ規格のものを買える」といった判断で買い物するようなセコい筆者ではあるが(笑)、職人さんの仕事に対して上のように値切るということには大いに抵抗を覚える。ハンコの値段・料金は店や業者によって大きな差があるようだが、それならば「店選び・業者選び」のプロセスを経ればよいことであって、「値切り」という行為にはどうも賛成しかねる。   
   
 しかし、金銭感覚、買い物行動は人それぞれ・・・だろうか。   
   
   
 話をハンコに戻そう・・・。   
   
 確かに、苗字の画数、また実印の場合には姓名の画数などは、ハンコづくりの作業・手間に大きく影響するものと想像する。   
   
 たとえば「小山 一 (こやま はじめ)」という人からハンコを注文された場合、勝手に素人考えすれば、彫りの手間は少なくて仕事が楽そうである。   
   
 しかし、次のような名前の人から注文を受けると、作業負担は格段に増すことであろう:   
   
 「箕輪 繁蔵 (みのわ しげぞう)」   
   
 「藤嶋 寿樹」 (ふじしま としき/ひさき)」   
   
 「瀧澤 安藝子」(たきざわ あきこ=安芸子)   
   
 「海老澤 袈裟男 (えびさわ けさお)」   
   
 「櫻庭 傳次郎左衛門 (さくらば でんじろうざえもん)」   
   
 文字数が多い場合は割増料金で対応するみたいな話を聞いたこともあるが、うむ、ハンコの彫りの料金というものは文字の画数の総合計に比例させるのもリーズナブルであるか・・・。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「戦うに時あり。猛母参戦の教え!」と、心の中でつぶやいた・・・。   
   
 (↑)後段は「孟母三遷の教え」という故事のダジャレである。前段については後ろの*印の注書きを参照されたい。   
     
 16日(日曜)のブログ記事では株式投資に関して銘柄入替しつつ投資額を縮小した旨を書いたが、翌17日の東京市場は朝方から値を下げた。そこで、以前から「あともうちょい安くなったら買いたいな」と思っていた幾つかの銘柄を、株価の次第によっては買おうと思い定めた。株式というものは自分が納得する程度に安く買うのが鉄則と信じており(またナンピン買いなども場合によっては合理的でもあろう)、そしてまた、この日の値下がりなどは一時的なものと考えた。「午前中に相場が下がっていても午後には回復・上昇してしまうケースもあり、こちらの希望価格では取引成立しないかも知れないが、しかしトライしてみよう」と心は急いた。   
   
 昼食は抜くことに決めて・・・各銘柄の株価を確認しつつ「よしよし」と思って、某証券会社サイトにログインしようと思ったときにPCが不調になってしまった。   
 筆者は、ネット上のWEBサイトを巡るのに複数のブラウザを使い分けている。ブラウザAは、いわば常用であり、サイトの信頼性・安全性どうこうを顧慮せずにあれもこれもと巡るときに利用する。ブラウザBとブラウザCとは、ネット・ショッピング、ネット・バンキング、ネット証券などのサイトにログインして諸手続をするときだけに利用・・・このような使い分けがセキュリティ上で有用・効果的であるとの絶対的確信を持っていいるわけでもないが、ともかく、JAVAスクリプトその他の実行許可、また、クッキーについてはその受入やプログラム終了時の自動消去などに関して、各ブラウザの設定を分けて使っている。で、いざ証券会社サイトにログインしようとして或るブラウザを立ち上げようとしたときにPCがおかしくなってしまった。再起動するにあたっては、どうやらHDDのチェック・プロセスを経たほうが良さそうかなと思え・・・。      
 時間は限られている・・・もたもたしていたら休み時間は終わってしまう(時間を過ぎても誰に見咎められることも無いが、自分の「けじめ感覚」に反する行為・行動はしたくない)。仕方なく別の証券会社に電話し、自動音声応答のシステムで買い注文を行なうことにした・・・ああ、それにしても、こういう自動音声での手続きというものはスローテンポにしか事を進めていけない(ように感じてしまう、気のせいか)・・・結局は2銘柄の注文まで済ませたところで昼休みは終わってしまい、少しばかり残念であった。   
 成果のほうは・・・ちょっと安めの価格を指定したこともあって、希望の株数には満たない買い付けとなった。ま、今週いっぱいで買い注文を出しているので最終的にはどうなるか分からないし、希望がかなったらかなったで今度は何かの銘柄で「売り」を出して株式投資ウェイトを調整しようと思い立つであろうから、今ここで何やかやを悔しいと思ってもさしたる意味は無い・・・と割り切るべきことである。   
   
   
 * 旧約聖書の「伝道者の書」第3章第1節以下に次のような言葉がある。   
   
 「・・・そして、天の下にあっては、それぞれの目的にかなった時宜というものがある。生まれ出ずるに時あり、そして死するに時あり。植えるに時あり、そして植えられたるものを引き抜くに時あり。・・・(中略)・・・戦(いくさ)をするに時あり(戦争状態に陥るに時あり)、そしてまた平和を結ぶに時あり(平和状態になるに時あり)。」     
 (なお、複数のヴァージョンの英語聖書を見ながら日本語にしたものであり、世に出ている日本語聖書とは異なる意味やニュアンスとなっているかも知れない。筆者、キリスト教徒ではなく、特に日本語聖書は持っていないのだ。)   
   
   
 株式の売買をするにあたって、聖書のこの言葉に拡大解釈を加えつつ思い浮かべて心を急きたてる人間は、そうそう居ないだろうなあ。   
   
   
 ネット上で売買申込手続する場合に比べ、電話での手続は手数料が割高ではあるが、証券会社側としてはフリーダイヤルの電話料金負担、また、約定関係を伝えるハガキのプリント・郵送などのコスト負担もあったりして、(利用者によってはネット利用が苦手だったりもしようし、ネットを利用していない人もいようが)、うむ、このような手数料設定はやむをえないことであろう。   
   


メルシー防空、ジュッシー魂胆



   
 上のタイトルに特段の意味は無い。   
   
   
 「女性が輝く社会の実現」が政治上の、ひとつの大きなテーマにもなっている。   
   
 ときどき思うのだ・・・では、男はみな、既に輝きをゲット出来ているかどうかと・・・いや、あれこれ書くまい・・・でも、適切な雇用環境・社会環境の調整をしながら、つまり文字通りの、そして女性に対して意地悪でもありうる「同じ土俵の上で」ではない優れた形で、女性の才能やセンスを発揮することの出来る社会の到来が待たれる(「男女ともに揃って乗る一つの土俵自体を変えるべきだ」とする意見が多数派を占めていそうな気がするが、しかし、たとえば「若いうちの男は牛馬のように働けて(働かされて)当然」みたいな固定観念を捨てきれずにいる筆者はまた別の考えを持つ)。   
 と同時に、「女性の社会進出と活躍を進めること=善」という思想が強くなり過ぎて、「専業主婦で、一日じゅう子供に寄り添い、家事や、家族の世話にばかりエネルギーを費やしている女性」を「それではダメ、勿体なすぎる。外へ出て稼がないテは無いでしょ」と見なす・批判する風潮を生まないようにして欲しいと思う。人それぞれが、「わたしはこう生きたい、わたしの今の使命はこういうこと!」というものがある筈であろうから。   
   
 冒頭の画像・・・ユリの花の「雄しべ」の先がカットされるのを目にすると、男としてはどうも胸が痛むのである。何かの拍子に服などに花粉が付くと厄介なことになるから、あるいは、花粉がこぼれると花弁が汚れるとか、テーブルなどに花粉がこぼれるのもイヤとか理由はあろうけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 株式投資をしている方々であればお察しいただけようけど、ここ最近「どのタイミングで“利益確定売り”をしようか」に迷ったのである。筆者はこの3週間ほどで、頑張って銘柄入替を進めた。「頑張って」というのは・・・「“まだ”は“もう”、“もう”は“まだ”」という古くからある格言が頭にこびりついていて「もっと上値を追わないと“男”じゃない」的な感覚を追いやる頑張りと(笑)、そして、飲んだくれて帰宅しながらも「新しい仕込み先を丁寧に選び出す」という作業をコツコツしながら総投資金額をいったん少し縮小するという努力。ただ、どこかで調整局面を迎えればそのときにまた或る程度の追加出動をする心づもりではいるが。   
 「この行動は早すぎる」と思いつつも、ひとたび何かあれば環境は激変するから絶対的な「間違い」とは言い切れないと信じている。大震災、大津波、エボラ流行、あるいは米国の「9.11」的な事態の再発などあればどうなるか・・・目指すは「大きな儲け」ではなく、「資産保全プラスそれなり以上のゲイン・利回り」と考えているような、筆者のごとき小人物にはこのような行動パターンが向いているであろう。   
   
 ちょうど銘柄入替を進めているとき、知人から「株式投資を始めたい。何も分からないので投資信託のほうが良いか?」と相談された。筆者は、投資信託については基本的には誰にも勧めたくないのである・・・理由説明は省略するが(もし仮に「損失補てん特約つき ハイ・イールド債投信」とか「買戻し保証つき 新興国公社債投信」みたいなものがあれば興味を覚えるだろうけど、そのような金融商品は無かろう・笑)。   
 「とりあえず100万円くらいの範囲でスタートしたい」とのことであったが、いまの時代、手始めには十分である。   
   
 が、「たとえば、どういう会社の株式を得たいと思うか、明日までに研究してみて教えてよ」と伝え、その後に色々と話しているうちに愕然とすることがあった・・・株価推移グラフだけを見て、しかし業績データや経営環境・経済環境をろくに考慮せずに銘柄選びをしようとしているのである。世にはこんなことを書く記事もある・・・「まずは、その名前を知っている会社、好きな会社の株式を選びなさい」みたいなガイド・・・いかんでしょ、これは。   
   
 「少し研究してくれよ。やがては孫も出来るであろうあなたが、ときに孫にプレゼントや小遣いをあげたり資産を残してあげたりするためにも、俺よりも上手な株式投資をしてくれよ」と思い、企業研究の大事さを認識して欲しくて、業績低迷している会社、大きな経営課題を抱え込んでしまった会社、また、業績好調で魅力に富む企業でありながらもその株式を現在の相場で買う決意の難しさなどなど、幾つもの銘柄を引き合いに出して喋ったのであった・・・が、そもそも経理・財務・計数がらみに携わった経験の無い人には、株式投資というものはどうもハードルが高いようでもある。   
   
 「まず、これらの銘柄で始めてみれば」と薦めることは勇気が要るというか、躊躇を覚える。それでも、「値動きレンジが限られようが、しかし、危険が少ない。配当や利回りはそれなりによろしい」という銘柄も含めて幾つかを選び、そして彼に買ってもらうことにした・・・これを機に興味を増し、そして勉強が少しずつでも進めば良いではないかと思い・・・が、「他人のために選ぶ」というのは、たとえ少額であっても神経をつかう。この種のことを日々繰り返すような仕事は、生まれ変わってもしたくないな。   
   
 話を元に戻して銘柄入替・・・下の画像の背景は日経新聞の12日付の記事である。「先週に保有株のほぼすべてを売った」と語った人のことが紹介されている。してみると、筆者の行動もまた、必ずしもおかしくはないのであろうなあ(筆者の場合は“入替”であって、どうもやはり“カネを遊ばせる”ことには抵抗があるので今回は完全引き下げはせずにいる・・・たぶん、総じて値を上げていくであろうと一応は期待しているし、漬物好きであるから「所有株式の塩漬け」という選択を迫られることがあっても苦にならないのである)。    
   
   
   
 以前から「株式投資は怖い、あれってギャンブルではないのか。それはともかくとして、円安にそなえて外貨預金をしておきたい」という人がいて、筆者はあまり人の背中を押すことはしないのであるが、長期的には円安へ向かうという見方は有力と思えたから、賛成した。職場に出入りする銀行マンと会ってもらえれば簡単に口座開設して預金もスタート出来る・・・「但し、普通の日本円の預金口座を作る場合とは違って、為替リスク、外貨の売り・買いの際に乗る手数料などについて説明を受ける必要があるから30分かそれ以上は時間の都合をつけておかなくてはいけないよ」と言ったのだけれども、彼は時間の都合がつけられず、結局は今に至るも外貨預金をスタート出来ずにいる。   
 まだ1ドルが2百何十円であった時代、あれよあれよという間に197円とかの水準に至ったときには「日本の輸出関係ビジネスは大丈夫か?」と懸念したものだが、あれは「自分の生活」とは距離感のある心配であった。ところが、ひとたび1ドル=100円前後の相場を経験した現在になってみると、今後に1ドル=120円あるいはそれ以上に円の価値が下がるということがとても大きな不安というか「損失の悔しさにつながる道のり」のように感じられるのである・・・「円」で持つ資産の目減りや、そして国内でのインフレを考えて「何とかしたい」と思うわけである。   
   
 筆者は1ドル=100円前後になったらドル預金を積み増すという方針を持っていたからそれを実行して来た。ここ最近は1ドル112円とか115円などだったりして円安傾向は定着したかに見えるが、それでも、10月16日には仲値で106円程度となることがあった・・・外貨預金をしたがっていた彼に「この水準は今後そう簡単にはまたと訪れないぞ、俺はトドメのようにさらにもうちょい積み増す。キャンペーン中でもあるから幾ら幾ら以上で預金を作ると普通のTTSより有利だぞ。お前はどうする? 担当の銀行マンはもうすぐ来るから都合をつけろ」と言ったのだが、彼にはその時間が無かった(彼はまたネット専業銀行というものをよく知らずにいるから、新たな口座開設の機会が限られるのだ)。   
 惜しいと思った。しかし、さきほどと同じことを言うけれども、ひとたび何かの有事その他がアメリカなどで起きたりすれば、為替相場はどうなるかこれまた分からない・・・なので、外貨預金は、あまり多くを注ぎ込むべきではなかろうと筆者は思う・・・絶対に円安状態が継続するとは言えないであろうし。世の中、いや、ポートフォリオというものは難しいのだ・・・ただ、熱狂せず、割り切りつつ、淡々とドライに臨んで「心の安らかさに近づくこと」を追求することに意味がある・・・と思う。   
   


雑記



   
 いまの政治における課題、キーワードというと、例えば次のようなものか:   
   
 「“贅”と社会保障の一体改革」、「“余生”が輝く社会の実現」・・・。   
   
   
 消費税率を10パーセントへと増税する時期はいつが適当なのか。   
 来年10月とすべきか、あるいは例えば再来年4月が好ましいのか。   
 何かほかに、第3の良いチョイスは無いものか・・・。   
   
 前からちょっと考えているのは・・・来年10月からの消費税率上げを見送ることで国民/消費者の負担感を増やさず消費行動もすぼめさせないようにしつつ、しかし同時に、時限的で特別措置的な扱いとして、事業者が消費税納付を行なうにあたっての「仕入税額控除」を現状よりも圧縮するということが可能かどうかということ・・・仕入税額控除の額を、現在の消費税制のもとで計算される額の 0.95 倍なり、或いは 0.9 とか 0.8 を乗じた額とする等・・・すると、どのようになるか。いや、結果は予測できないのだけど。   
 具体的にどの程度の税収増になるか、経済環境がどう変化するか等は専門家の研究・試算にまかせるとして・・・。本来的には最終消費者が負担すべきである消費税の、その一部について事業者が負担するということは確かに問題ではあるが、だからこその時限的で特別措置とする・・・いずれ税率を10パーセントとする時点まで。   
   
 この場合に、「控除しきれなかった仕入税額」は法人税などにおける所得の計算上、損金算入を認めるかどうかも併せて検討されなくてはならないだろう。   
   
 事業者への影響は一様ではない。原価率や付加価値率の高低、人件費率の高低、また、非課税売上割合の大小・・・その他の要因によって影響は異なるであろう。そのあたりを勘案して何かの調整規定など設けるかどうかも考えなくてはならないか。   
   
 各企業は、上のような特別措置的な扱いを念頭に、製商品・役務サービスの価格・料金設定を練り直す必要も出て来る。当然のこと「値上げ」へと動くことが常識的であろう(コスト削減が出来ない場合)・・・それは緩やかなインフレへとつながるかどうか。   
 で、価格転嫁が可能かどうか。仕入れる側、つまり買い手が「買い叩き」の行為に出る可能性はどうか、その監視体制、通報体制と制裁をどうするかも考えられなくてはならない。   
   
 いろいろな事業者から反対の声はあがるだろう。しかし、たとえばスーパー・家電量販店その他の小売業はもちろん、各企業・業界団体などは、消費税10パーセント実施が先延ばしされることのメリットと比較して意見形成すべきであろう。   
   
   
   
 ところで、消費税導入当初から思っているのは、品目によって軽減税率の制度を設けるべきだということ・・・つまり、消費税に関しては、「そもそも課税対象外」、「非課税」、「輸出免税」、「税率Aで課税」、「税率Bで課税」等という体系とするわけである。   
 例えば、食料品・生活必需品などには5パーセント、一般商品には10パーセント、贅沢品には15パーセントなどなど・・・となる。贅沢品について税率を高くしてよいのかという反論もあろうが、かつての物品税のことを思えば、珍妙な発想とは言えまい。   
   
 もちろん、線引きの難しさはある。つまり、サンマ・イワシ・アジも、ウニやキャビアや極上牛肉も同じ税率でよいのか、普通の日本酒と高価な吟醸酒とではどうか。800円のランチと、ひとり2万円や3万円の寿司店・レストランの飲食代と、ともに同じ税率でよいのか。100万円のセーターや肌着とか、1足1万円の靴下というものがあるとして、それらも生活必需品として低い税率でよいのか等・・・。   
   
 しかし、上のようなことはそれなりに議論・検討をしたうえで(例えば10キログラム換算で1万円以上となるコメは“贅沢品”扱いとする等)、いつの日にか「軽減税率適用/複数税率化」へ進むべきだと、筆者は考える。スーパーをはじめとする小売店や飲食店はもちろん、いろいろなところで販売システムその他の修正対応や新規導入が必要となろう・・・そのコスト負担は大きいが、他方でシステム設計など受注する側には特需となるし、既にヨーロッパその他でその種のシステムを手掛けてきた企業は日本市場で有利にビジネスを展開可能かも知れない・・・世の中、どのように景気がめぐるか・・・尤も、システム・エンジニアらの人手不足ともなれば、そこらじゅうのユーザー企業で「こりゃ、システムが間に合わん」という事態になりかねないので、このような制度については実施までに相当の間をおくことが必要であろうか。   
   
 クラシック音楽のCDやコンサート料金に関しては、伝統芸能と呼ぶに値する純邦楽や、また能・狂言・文楽などに関わるものと同様に「文化・芸術・学芸に関わるもの」として、少なくとも贅沢品扱いされること無しに、つまりは標準税率、あるいは軽減税率の適用となることを望むけれども、その種の陳情などが、あっちでもこっちでも出て来るであろうなあ・・・「歌謡曲も、もはや日本の伝統芸能である。ゆえにホテルのクリスマス歌謡ディナー・ショー料金も軽減税率適用でお願いしたい」とか「大相撲というものは単なるスポーツではないのであって云々」とか・・・。   
   
   
 サバ(鯖)も、また普通の駅弁程度の食事も、軽減税率適用でお願いしたい・・・。   
   


セル関係の新譜など (2件)


   
 ゼルキン/セル/コロンビア響(クリーヴランド管)による、モーツァルト/ピアノ協奏曲第19番・第20番の録音をまだ入手できておらず「やはり得ておきたい」という人にとっては朗報か(下記WEBページ中、8番目の商品):   
   
  http://tower.jp/article/feature_item/2014/10/21/1102   
   
   
 個人的な好みで言えば、第20番は、音は悪くともカザドゥジュ/セルのモノラル録音のほうを良しと感じる。ただ、セル指揮で残っている第19番のコンチェルトの録音は上のゼルキンとのものだけである。   
   
 ゼルキンとセルのコンビによるモーツァルトのコンチェルト録音ではさらに第17番・第25番もあるが、これらはモノラルであり、おそらく今なおCD化されていない・・・そして、上記商品でも収録に至らなかったようで少しばかり残念であるが、仕方の無いことか。   
 なお、しかし、ステレオ録音時代になって、セルは、第17番についてであればカサドゥジュと、第25番についてはフライシャーとレコーディングを残していること、よく知られているとおりである。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 ヨハンナ・マルツィ/セル/クリーヴランド管による、バルトーク/ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ第1番のライヴ音源を含むCD(2枚組)が発売される:   
   
  http://www.hmv.co.jp/news/article/1411090008/   
   
   
 商品説明によれば、このラプソディの収録は1960年11月20日となっており、これは以前のことアメリカの某CD-R盤商品通販サイトでの音源紹介データ(商品番号360で、筆者も購入済)と同じなのであるが、別の、或るコンサート日程データに照らすと、正しくは10月20日(木曜)もしくは22日(土曜)の収録ではなかろうか。ちなみにこの年の11月20日は日曜日であった。   
   
 他の、セルとは関わりの無い録音であろうとも、マルツィであるからには必ずや魅力的なものと、個人的には期待する・・・なお、クリュイタンスとのバッハ/協奏曲第2番のライヴについては以前のこと ARCHIPEL レーベルからも発売された・・・ブログ画像庫に残っているので再掲しておく(↓ グリーンで縁どりされたもの。なお、赤茶色のCDはケフェレックのもので無関係)。   
   


«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。