2014-08

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同音異義の言葉: 「子育て支援」と「子育てし得ん!」



   
 某県にて生まれ育ち、昔からごくたまには東京へ遊び・買い物で出掛けることがあったという或る女性の言葉:   
   
 「東京というところは、小さい子供を連れて歩くことは歓迎されない街であることが分かった。周囲から邪険にあしらわれているような気すらもした。子供を持ってから東京へ出掛け、初めてそう気づいた。こういう点でも東京というところは子育てしにくい街なのかもしれない」   
   
 ・・・東京も広いから、上の感想は大雑把に過ぎる。とは言え、ビジネス街、商業地・繁華街、ターミナル駅構内、電車内などなどでは、混雑時間帯に子供連れでいる場合には上のようなことを感じるかも知れない。何しろ人々は殺気立って移動していることだってあるのだ。   
   
 東京の街は、いや大都会というものは、人の心をせわしくさせ、かつ、思いやりを忘れさせ、心を乱暴に、荒んだものにする。   
   
 或る統計によれば、東京都心部を走る満員電車にあっては、包丁・ナイフ・アイスピックのいずれかを隠し持っている乗客の数は1車両あたり平均 2.47 人である。調査に際し、なぜそういうものを持ち歩くのかを尋ねたところ「護身用」との回答が大半を占める。しかし、口論・喧嘩などがあってカッとなることがあったりすると、そういう凶器で相手をケガさせるなどの事態に至ってしまうことがあろう。で、ごくたまにその種の事件が報じられる。   
   
 ・・・と、この統計の話は嘘・デタラメである。しかし、東京で暮らす人間は、その種の凶器を持ち歩いている人間もいるのだと、何となく想像し、覚悟し、何かの折りにムッとして「こんちくしょう!」と思うことがあっても喧嘩に至らないように立ち回る。   
   
 話を元に戻し・・・東京で子育てがしにくい事情は幾つもあって、冒頭の女性の述べたようなことはほんの一部のこと、諸々の理由の中では順位的に下位のものと筆者は考える。子育て支援は、それら諸々の理由のひとつひとつに対処するように実施していかなくてはなるまい・・・所得の問題、正規雇用・非正規雇用などの雇用条件の問題、育児休業の取りにくさ、長時間労働、待機児童問題、その他。   
 が、しかし、「子供が欲しい」と、それほど真剣には思っていない人が、少なくとも東京では実は相当に多いのではないかという気も筆者はしているのである。「子育てしているけれども、べつに経済的に苦しくはない」という人も、絶対数としては結構いるとも想像する。もしそうだとすると・・・。育児支援に伴うコスト、それは国や自治体など、場合によっては企業なども既にかなり負担している。これをさらに上積みしていかなければとの主張が目立つけれども、そうすれば今後に出生率も着実に上昇していくのだろうかと、ふと疑問に思うのである。   
   
 「出生率アップなんて無理じゃないの? もう手遅れなので上手な努力と、そして上手な諦めを見出さないと無意味な歳出・負担が増しかねない。産みたい・子育てしたいという意思の人と、そして既に子供を授かっている人とを必要に応じてサポートし、不安解消するための策を用意する一方、そのいずれでもない人がどのくらいいるかの見極めも必要で、そういう人を産む気にさせるための努力と工夫はキッパリ諦めようよ。外国人を労働力その他の形でどのように受け入れていくかの国民的コンセンサスづくりを急ごうよ」という見切りも、もしかすると必要かも知れない。ま、筆者としても、そんな考え方で良いのかどうか、自身の意見確定には至っていないのであるが。   
 なお、この件については、たとえ議論しても議論は平行線を辿るばかりとなることが予想されるため、そういう議論のためのコメントはご遠慮くださるようお願い致します。   
   
   
 ぜんぜん違うテーマであるが、冒頭のはちょっと前に出版された本(幻冬舎新書の1冊)。   
   

その格別な世界・・・



   
 仮に「鳥獣戯画図」などなどをコピーして本/冊子とし、「塗り絵ブック」的な商品として売り出すとしよう。世の中、いろいろな人たちが実に様々なカラフルさやトーンなどを以って「鳥獣戯画図、わたくしヴァージョン」を仕上げることであろう・・・或るものはルオー風にさえなったり、また、カンディンスキー風、田中一村風だったりもしうる。   
   
 楽譜、スコアというものは、いわば線画のようなものであって、演奏行為はこれに着色するようなものである・・・いや、それはまたちょっと違うかな。しかし、ともかく、「演奏」は多様性に富む。作曲者自身がテンポ、強弱など細かく指示してあっても、あれこれの演奏表情を執拗に指示してあっても、それが守られるかどうかは分からない。楽譜は、作曲家の手もとを離れた途端、どのように演奏されて聴き手に伝わるか分かったものではない。   
   
 ゴロワノフ(ゴロワーノフ、ゴロヴァノフ)指揮のチャイコフスキー/「悲愴」その他を初めて聴いたときの衝撃は忘れない。顔をしかめたものだ。そも「悲愴」という曲がそれほど好きでないが、ゴロワノフの演奏に唖然とした。   
 ジュリーニ/ロス・フィルやセル/クリーヴランド管(ライヴ)の「悲愴」などは聴きやすいが、ではこれらの演奏はチャイコフスキーが思い描いた演奏・出来ばえに近いかといえば、どうもそのようには思えない(想像の域を出ないけれども)。   
   
   
   
 セル・ファンでありながら、なおかつメンゲルベルク・ファンあるいはストコフスキー・ファンという人が世にどのくらいいるか分からない。ましてや、「なおかつゴロワノフ・ファン」ともなれば・・・。   
   
 しかし、このところ「夏の終り」というものが見え出して来て、何と不思議なことか、ゴロワノフの残したものの数々を一気に聴いてみようと思い立つ筆者なのであった。冒頭画像は Venezia レーベルから出ているCD16枚組セット。「どんな演奏する人?」とか疑問のある方は、HMVの通販サイトのユーザー・レビューであるとか、クラシック音楽ファンのブログその他を参考にしていただけると良いかと思う。   
   
   
 下のは、以前、気の迷いで買ってしまったゴロワノフのモツレクのCD。(なお、背景的に一緒に写っているのはスコア。)   
   

雑記



   
 (↑)アンヌ・ケフェレック(クフェルク)が若き日にレコーディングしたラヴェルのコンチェルトや、ドビュッシー、フォーレの作品を集めたアルバム(CD3枚組)。   
   

セルのCD



   
 (↑)セル関係のCD。   
 写真中の上段はワーナーミュジック・ジャパンの "CLASSIC MASTERS" シリーズから出ているものでシュヴァルツコップフとのリヒャルト・シュトラウス歌曲集、そしてオイストラフとの、またさらにロストロポーヴィチも加わってのブラームス作品・・・( WPCS-23101 および WPCS-23050 )。   
   
 2011年リマスター音源使用とのことで、今回、買い直したのである。写真中の下段は、ずいぶん前に買ったもの。   
   
   
   
 ブラームスの二重協奏曲については、CDであればこのセルの残したものをいわば標準として楽しむ・鑑賞する筆者であるが、同曲を映像とともに楽しめるものとしてはバティアシュヴィリ、モルク、ラトル/BPOのライヴ演奏を収めたDVDがあってそれは見ごたえ・聴きごたえがあると感心しているのだが、通販サイトなどでユーザーレビューを目にしないのは何故なのか、もしかしてあまり購入者がいないのか、不思議なことだ(ブラ4なども一緒に収録されていて、しかもカタログ仕様商品として登場したものは非常に廉価でさえある)。   
   

ペルルミュテールの・・・



   
 ニンバス録音の14枚セット商品(ボックス)が出ていたのだな。手持ちの盤とダブるものがかなりあるが、「ま、いいか」と思い、購入。   
   
   
 下のは、どうしても欲しいとまでは思わなかったのだが、「歌詞資料がひとつにまとまったものが手近にあるのも便利かも」と感じて購入。   
   


雑記



   
 毎年お目にかかる、この名前のビール。確かに立秋はとうに迎えているのだが、しかし、暑い。   
   

雑記



   
 上の画像で、実線で描いたものは道路である。   
   
 いま、「こっち」を出発点とし、「あっち」を目的地として歩くとする・・・どのように歩を進めるのが合理的か・・・当然、点線のように進んでいくのが距離的にも時間的にも優っている。   
   
 「道路の端を歩きましょう、そして、道路を横断するときはまっすぐに渡りましょう、最短距離で渡りきれるから安全です」との教えは、たとえば「三角形の2辺の和は、他の1辺よりも長い」という理を忘れた人の言うことである・・・道路は斜め横断するほうが目的地までの歩数が少なくて済む。   
   
 ま、クルマの往来に気をつけることを前提としつつ、斜め歩きが有利であるときには筆者は常にそのようにしている。   
   
 誰かと一緒に歩くと、「あなたと一緒にどこかへ出掛けると(肉体的にも精神的にも)疲れる」と言われることが時にある。その理由は・・・上のように歩くのに合わせようとして戸惑う、横から来るクルマが無いときなどは信号無視して歩くのでそれに付き従うのにまた戸惑わされて疲れる、歩くスピードが早くて息切れする、階段は一段飛ばしで上る、エスカレーターでは立ち止まらずに歩き続ける(←一応の原則であり、たとえば真ん中に立っている人をどかせてまで歩こうとはしない)、駅ホームにつながる階段を上ろうとするときにホームに電車が入って来ると階段を駆け上がる(乗降客の多い駅の場合には、到着した電車のドアが開いて降りる人がわっと出て来れば階段をスピーディーに上がれなくなることがあり、最悪の場合には電車を1本見送ることになりかねないから)、そして電車に乗るや、場合によっては降りる駅のホームの階段位置を考慮して車両を移動して歩く・・・それらに付き合うだけで疲れてしまうと言う人がいるのだ。   
   
 或るとき、A君と一緒に出掛けることがあった。昼休みの終盤あたりで出発しようかと考えていた。   
 昼休みになった途端、A君が「お昼、一緒に食べて出掛けましょうか、(目的地まで)45分くらい掛かりますよね」と言った。 筆者は「25分くらいで行けるだろ。先に食べていてくれてもいいよ、俺は速く食べることも出来るんだし」と答えた。A君は筆者が食堂へ向かうまでそのまま自分の席で待った。   
   
 A君と一緒にスピーディな食事をし、出発・・・ほぼすべての人が信号無視などしない或る大きな横断歩道も信号無視して駅へと進み・・・もちろん一貫して準・競歩で・・・駅の改札を抜けてちょっとするとゴーッという、電車の到着する音が聞こえたのでダッシュ・・・そんな具合にして、ともかく無事、もうすぐ目的地というところまで達した。A君がタバコを吸わせて欲しいと言うのでちょい休憩・・・「ほら、25分でも十分ではなかったか」と声を掛けても、A君は随分と息切れをしていて短く「え、ええ」と言うや、タバコでむせた・・・そしてようやく「し、死にますよ、こんな歩き方していたら」と言ったのであった。   
   
 おかしいな、世の中たいていの人は筆者よりも頑丈で元気な筈なのに、しかも、A君は筆者よりもずっと若いのに・・・。「鍛え方が足りないのではないか」などとは、筆者に言う資格は無い。ただ最近、「うちの息子/娘が就職した会社はブラック企業なのではないか、月間100時間くらい残業している感じがする」と言い出す親もいて、筆者が「20代とか30代前半ならそのくらい残業しても体を壊すことも無かろうし、大丈夫では?」と言うと驚いた顔をされたりもするが、筆者の健康感には狂いがあるかも知れない。しかし、その件はおいておき・・・。   
   
 「物事は、単純作業であれば誰よりも速く正確に致すべし、そして、熟慮・判断を伴うものであればミスの無いことは勿論のこと考え抜いた末に絶対ベストの結論・選択を見出すべし」というのが筆者の信念めいたものではあるが、「どこそこまで歩く」というのは、ま、単純作業に属するもの・・・「移動時間を出来るだけ短くしよう、そのぶんデスクワークの時間を10分でも20分でも長く得られるではないか」という情熱が、A君には不足しているかも知れない。   
   
 なお、筆者、営業マン育ちでなく事務屋育ちであるため、「相手のもとには約束した時間の10分前までには到着出来ているよう心掛けましょう」的な感覚が欠落している・・・であるからして、上のような筆者の行動パターンは、電車の遅れの可能性など考慮すれば誰にでもお勧め出来ることではない。   
   
   
   
   ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 魚の脂肪以外の油脂はけっこう避けるものの、それ以外では、プリン体もコレステロールも糖質も、もう何も意識しない食生活を送っている。夏の美味・・・。   
   

雑記


   
 このところビール、また日本酒の冷酒を多く飲むようになっており・・・肴としては特に変わったものなど無いのであるが、それでもミョウガ、明太子などなどを口にすると、舌も心も一段と喜ぶのである。   
   


雑記

   
 「食品ロスというムダは無くしていかなくてはいけません、食べ残すこともまたいけません」的な主張・メッセージが最近勢力を増しているように思え、また同時に食品メーカーなどは賞味期限設定・表示の見直しもおこなっているようで・・・。   
   
 食べ残しは、しかし、筆者の場合、多い。   
 先日の、仕出し形式のランチのメニューは「酢豚」であった。夏場などに豚肉を摂ることは理にかなっているし、酢味もまた食欲をそそる等の効果を持つであろう。が、筆者、豚カツなら食べたりもするが、酢豚は食べないことに決めているのだ。どうもその、揚げ物・とろみ・酢味・キュウリ・タマネギなどの組み合わせによって微妙に「美味くない、好みに合わない」と感じさせられ、たぶん20歳頃を最後に酢豚を口にしなくなってしまった・・・。で、このたびのランチの酢豚も食べず。一度心に決めたことは守るのが主義である(笑)。   
   
 ほかにも「食べるまい」と決めているものとしてはチャーハン、マーボー豆腐、オムライスなどなどあるし、豚肉のしょうが焼きでも片栗粉を用いてあるものは食べない。カレーは滅多に口にしないが、食べるときはその具だけを食べ、ルーは残す・・・ルーがあまり好きでないし、神聖なコメをルーで汚すことには抵抗があるゆえ、カレーライスでルーや具をライスの上からかけることは許せない。   
 仕出し形式ランチであってもカレーライスのときにはライスもカレーも自分で皿に盛ることになっているから、おたまでカレーをすくうとき、おたまを鍋内で傾けて出来る限りルーを落として(こぼして)から自分の皿に盛ることとなる・・・一応、食べ残しのルーを減らす努力もしているのだ。   
   
 美味しい豚骨ラーメンというものが存在しないように、美味しいカレーというものも存在しない・・・というのが筆者の思いである。   
 と、このように書くと豚骨ラーメン店経営者、カレー関係者などなどから叱られるだろうが、ここでいう「美味しい」とは、つまりは「筆者の好みに合う」という意味に過ぎないのでご容赦願いたい。   
 「あなたが言うところの“カレー”とは、日本の家庭でたとえば昭和30年代、40年代くらいからずっと食べられて来たようなタイプのものでしょ? 本格的な、“本場もの”的なものを食べるとまた違った感想になりますよ」という意見もあろうが、そういう本格的なものも、実は20年くらいまえから何軒かの店で口にしている・・・或るカレー好きの先輩と一緒に飲むと「カレーを食べに行こう、その店が閉まる前に飲むのを切り上げよう」などと誘われ、3回に1回くらいの頻度でお付き合いした。いずれも特に気に入るようなカレーではなかった。また、ご飯でなくナンは、どうも腹にズシリと来なくて物足りず、帰宅すると茶漬け・塩むすびなどを食べた・・・カレーやカレーライスよりそれらのほうが美味しいと、幾度も思った。ちゃんと美味しいコメであるならば、ご飯をカレーで汚しながら一緒に口に運ぶことはやはりナンセンスであり罪深きことであるとも、改めて思った次第・・・。   
   
 「ああ、こんな暑い日にはカレーライスで元気に!」などと、筆者は思わない。料理雑誌の記事などで「みんな大好き、カレー大特集」なんてタイトルを目にすると「みんなってことはないだろ、少なくとも俺は違う」と思う。   
 ここ最近は某有名カレー・ショップ(チェーン)で一緒に食べましょうということになりそうな気配が実に何度もあって、こちらとしてはその店の味がどうなのかすら知らないけれども、ともかく上手に誘いをかわすことに腐心している。(その店のは美味しいらしいのだけれども、カレーそのものが筆者にとってはどうも・・・なのだ。)   
   
 白身魚フライ定食でも何でも、メインのおかずのほかに「付け合せ」としてポテトサラダ、マカロニサラダ、スパゲッティなどが付いていることはよくあることだが、それら「付け合せ」は一切口にしない。好きでないし、マヨネーズその他が使われていて余分な油摂取につながるから、また、マカロニその他はなにも日本人が、いや少なくとも自分は口にしなくてもよいものだから等、理由はいろいろある。   
   
 筆者、食べ残しが本当に多いな。しかし、ご飯(コメ)を食べ残すことは決して無い。   
   
 下のはデザート的に食した洋生菓子。とろみのある部分もあったが、しかし、これは美味いと思いながら完食。   
   


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