2013-05

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雑記



   
 これは先日のこと、親たちのために焼くことにした鯛。   
 アジを買いたかったのだが、どうもあまり良さそうな品でなく、そして「1本釣り」のアジもこの日はあったのだけど、そちらは当然ながら価格も「よろしい」ことになるわけで、フツーに塩焼きで味わうには値段的に贅沢過ぎるなと思えた・・・むしろ鯛(日本海・天然)のほうが安くて値打ちと感じられた。今年はどうもブリがいつまでも多く出回っているし、鯛は値ごろ感を覚えるし・・・という認識は正しいかどうか、いまひとつ心もとないが。    
   
 最近はどこの店でも「おさかな天国」の歌は流れていないのか? ・・・これは残念である。何しろ、「おさかな天国」と、セル/クリーヴランド管によるワーグナー序曲集のCDは、ともに全世帯に1枚は行き渡っているほどの人気ある曲/演奏であると信じているものだから(笑)。   
   
 鯛2尾のうち1尾は頭(カブト、兜)を含めて丸ごと塩焼き。もう1尾については、「母は、食欲の点から(頭の部分に手をつける以前に)食べきれないかな」と思え、本人にも確認したうえで頭を落とすことにした。   
   
 カットした頭を用いて吸い物にしようか・・・と思ったのだが、この日はけっこう疲労を覚えていて急に面倒になって意欲減退してしまった。   
 頭を2つ割りすることもなく、血合いなどのしっかりした除去も経ず、筆者の調理作業中飲酒のための肴とすべくそのまま煮たのであった。煮汁は、水、粉末昆布出汁、かなり多目の酒、塩、少しばかりの醤油(なお、煮汁全体量は少なめ)。この煮汁が煮立つちょっと前に頭を投じた。ま、悪くない味わい・出来となった。(出汁は不要だったかも知れない。)   
   


「地産地消し尽くされては困るものもある」、もしくは「日本は、洒落・駄洒落の生まれやすい国だもの」



   
 上のは、山形のエビ。具体的な海域までは知らない。   
   
 山形というと、山のもの、里のものの産品が真っ先に思い浮かぶが(野菜・果物のほか、たまに口にすることある鶏肉もまた美味である)、また、上のようなものも・・・。   
   
   
   
 日経新聞の「200年企業」なるシリーズ記事を毎回おもしろく読んでいる。   
 同紙の産業・経済関係の記事としてはちょっと異色なせいか、あるいは紙面スペース・紙幅のせいなのかな、読んでいて「もうちょい、ここを詳しく述べてくれぬか」、「或る文章と、その次の文章とで、トーンやリズムに(不自然な)不連続性が感じられぬか」ほか、いろいろ思うことしばしば・・・何かちょい、ひっかかる。気のせいかな、分からぬ。   
   
 シリーズでいちばん最近のものでは山形県の「うろこや総本店」が紹介されていた。   
 家訓とも言うべき言葉として紹介されているのが次のもの:   
   
   よきに似よ あしきにになよ(似なよ/煮なよ) 世の鍋の   
   人の心は 自在なりけり   
   
   
 (上のカッコ内の注=漢字は筆者が付したもの)   
 これ、松平定信の狂歌を知らない人にはそこはかとない愉快さや、改変したことで生まれた新たな意味合いも伝わりにくいかなと思えた。オリジナルの狂歌は:   
   
   よきに似よ、あしきに似なよ なべて世の   
   人の心は 自在鉤なり   
   
 このオリジナルにある言葉の「なべて」の語に関して、「“なべ”と言えば“鍋”だね。そう来れば、“似る”と“煮る”とで洒落をかますことが出来よう」と反応して、上の「・・・世の鍋の・・・」が出来上がったであろう、違うかな。   
   
   
   
   よきに煮よ よきを煮るなよ 寄せ鍋は   
   人と とろろは 自在なりけり   
   
 ・・・寄せ鍋というものは、よろしい具合に煮ろよ。よき(斧)は食材でもないんだから、間違っても鍋に入れて煮たりするなよ。人間(の心)も自在に変化・対応しうるものだが、「長芋とろろ」なんぞも、これがまた鍋の具として投じることが出来てしまうなど広く応用可能で重宝するものなのだよ。・・・というのは、筆者がふと思い浮かんだもの。   
   


「レコ芸」6月号


   
 いま店頭に並んでいる「レコ芸」6月号は、その特集ゆえに、セルについてもページが割かれている。   
   
 セルに関わる「事実・情報」の記述として、特段の目新しいものは無い(少なくとも筆者にとっては)・・・仕方あるまいなあ、「“レコード”芸術」なのだし、「音楽の友」誌や「モーストリー・クラシック」誌などなどでもないし、そしてまたセル特集というわけでないし。   
   
 セルが残したレコーディングのうちの幾つもについて、改めてコメント・批評を添えて紹介している点は評価したい。しかし、気になるのは・・・「セルのことは十分に承知しているつもりだ。でも、好みには合わない」という中年世代以上のクラシック音楽ファンはともかくとして、この雑誌を手にする若い音楽ファンなどが、どのくらいいるのかという点・・・誌面上でせっかくの高評価/好評価があっても、新たにセルに目を向けてくれる人が続いてくれないとすれば、それは惜しく、残念なことだ。   
   

なぜ、デジカメのシャッターボタンだけは、左利きの人のために設計・配置されるのがデフォなのか



   
 今回タイトルのような事実は無いと思う・・・しかし・・・。   
   
 何かを調理していて「この段階で写真を撮っておきたいな」などと、ちらと思うことがあっても、実際には面倒・億劫であり(手を洗ってその水気をしっかり拭うなども含めて)、撮影はなかなか乗り気になれない。   
   
 で、冒頭の画像は過去の使いまわしであるが、こういうものを撮ろうとするとき、右手に持った箸をどこかに置いてから撮影すればよいのに、筆者の場合、箸を手にしたまま撮影したく思うのだ・・・次の/他の調理作業のことが念頭にあるから気がせくのかな。   
   
 ケータイで撮影することが殆どであるが、もしもデジカメであるなら、右手に箸を持ったままの人に便利なように、左手だけでカメラを持ちつつシャッターを切れるよう、シャッターボタンはカメラの左側に配置されていれば好ましいのになと思う。もちろん、左右両側に配置されていてもよろしかろうけど。   
   
 ・・・と、そんなふうに考えるのは筆者だけだろう(笑)・・・料理撮影専用デジカメじゃあるまいし。   
   
 ケータイであれデジカメであれ、スマホ/スマホアプリに見受けられる音声シャッター(音声によってシャッターが切られる)の機能が一般化すると便利だろうな。諸々のコマンドというか事前準備(待受画面からカメラモードへの変更、明るさ・望遠モードその他の変更)も音声指示で可能なら、片手だけ汚れているような時も含めてかなり便利だろう。   
 ただ、鍋や料理に向かいながら例えば「ハイ、チーズ!」などと言いながらシャッターを切る姿は滑稽であり、傍らで見ている人がいたらその人もまた滑稽なもの・奇異なものを感じる場合があろう。   
   



「ダフニスと黒江」、「デヴィッド・木っ端フィールド/河童フィールド」、「 メ イ ド の飛脚」・・・



   
 上のはイワシ(鰯)の煮つけで、煮汁に梅干も投じておいたもの/梅煮。親のための休日料理から。   
   
 過日のことアジ(鯵)の梅煮を作ったことがあって、それをもう一度食べたいと言われていた。しかし、スーパーの店頭で見つけたアジはちょっと身が薄い感じであり、味わい的にパサついていたりしないかなとの懸念もあって、ちょい迷った末にイワシを買い求めた。   
   
 酒を多めに使いつつ砂糖を加えて煮始めたそのあとに醤油などを加えて調理。   
 味を沁みこませようと火を消してしばらく放置。盛り付けの前に再加熱・・・このとき他の雑用が入って、ちょい加熱が過ぎた。さらにまた、それを、手間を惜しんで手近の箸でつまんで皿に移したものだからイワシの身には箸による「へこみ」「亀裂」が出来てしまった。   
   
 写真は、「温かいうちに食卓へ」と思いながら慌てて撮ったものだが、「おっと、煮汁もかけてあげなくちゃ」と思いなおし、そのようにしてから食べさせた。   
   
   
 下のは、赤魚の干物を、包丁でなくハサミを用いて適当なサイズに切り分けたところ。   
 粕漬けの赤魚を並べている店舗スタッフに、「粕漬けにする前のものを売ってもらうことは可能か?」と尋ねたら、「こういうものならば在庫がある」と売ってもらった品。これもまた煮付けに利用したときのもの。   
   
 刺身であるとか(自家製ではないメーカー品の)焼き豚をスライスしたもの等々の楽チンなものと、そして調理の手間を掛けたものとしては煮魚などとの組合せは、時間的・精神的ゆとりを確保した食事準備に都合よい・・・と、あらためて思う。   
   


雑記

   
 睡眠中に見た夢を、目が覚めても覚えているという状況は続いている。   
   
 夢には色彩が無くてモノクロ/白黒なのだという話を昔、何度も聞かされたことがあるが、筆者の場合、色彩は伴なっているな。   
   
 夢の中で、自分はなぜか料理教室に通っていた。そして、これまたどういうわけか教室の班・グループ内で料理コンテストをすることになっていて、時間も無ければ勝ち目も無い自分は苦し紛れに「冷やしうどん、(薬味の意味もこめて、生/非加熱の)クレソン添え。(汁(つゆ)には白ゴマを浮かべ)」なる品をこしらえた。そのクレソンと汁は、ちゃんと色彩を伴っていた。だが、その他のものに色彩があったかどうか覚えていない。(コンテストで「冷やしうどん」とは情けないなあ。)   
   
 同じ班のメンバーに女性の看護士さんがいて、「注文いただいていた老眼鏡が出来上がりましたよ」と言われて、こちらは受け取った。眼鏡屋さんでなくてどうして看護士さんなのかと、目が覚めてから思ったが、ま、夢だから(笑)。この老眼鏡が、レンズが透明なのはもちろんであるが、フレームがほとんど透明と言えるような半透明プラスチック・・・で、その老眼鏡をかけてみると、調理しようとする食材その他がクッキリと見えるのであった・・・この「見え方の違い」を夢の中で体験したというのが、自分の「夢経験」としてはとても面白かった。   
   
 ほかに見た夢でも、色彩皆無ということはなかった。   
   

人の感覚いろいろ(その7)

   
 「よりによって、どうしてこういう場所で居酒屋を始めたのかな」と思えるところに、その居酒屋はある。東京ではない或る地方都市。まるっきり住宅街で、街路灯が少なすぎで暗いばかりの道路、そして店が居並んでいたりもしない所・・・。   
   
 知人に連れられて寄ったのがきっかけであるが、寄るのは月に2回くらい(筆者、このところあまり飲み歩いていないし・・・)。   
   
 外観が居酒屋っぽくなくて、初めて目にする人は「街の食堂かな、いや、屋号からすればこれはやはり居酒屋なんだろうな」と思うであろう。固定客・常連客が殆ど。でも、食堂と見なしても間違いではないかな、メニューに無くてもカツ丼・肉野菜炒め・オムレツなど頼めば出してくれるらしく、それで酒・ビールを飲んでいるお爺さんもいる。   
   
 或る先生(高校の先生)について、また、或る、広い意味での飲食店の元経営者に関して、「ちと、人間としてどうかなあ」っぽい呆れるような行動・感覚に関わる噂話など二人して話していたときがあったのだが・・・話の輪には別のテーブルの客たちがどんどん加わって来たり・・・「俺は(話題のその人物とは)同じ町内会/町会だよ」、「同じ学校の卒業生、向こうは1年後輩だね」とか・・・何かこう、東京では信じられないような実に「世間は狭いんだよ」的な話の展開であり、そして、「あのうちの人たちはみんなこれこれしかじかの問題があって」とか「あのうちの先代の○○さん、知ってる? こんなことがあって・・・」とか。良きにつけ、悪しきにつけ、皆さん土地に根ざして、また、濃密なコミュニティで生きているんだなあと思った。東京と違って地域の結びつきが濃厚なのだろうし、また、学校の数も少ないし、当然の帰結なのか。   
  
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 東京ではない某県に所在する事業所で・・・雑談中に「(自分は)同窓会に出席したことはない。ひとつの場所で生まれ育ち、そして、小中学校の時期に転校を経験したこともないから同級生と仲良く過ごし続けたけれども(相手によっては通算9年だよなあ)、そもそも同窓会が企画されたことがこれまでに通算2回だけである。将来もまた同窓会に参加する気は無いなあ。自治体主催の成人式にも出席しなかったなあ」という話をしたら、しっかりと意外な顔をされた。   
   
 都会、それも東京だと、23区内であれ多摩地域であれ、そして少なくとも筆者の世代だと(もちろん60歳までまだ大分ある・笑)、「中学校を卒業して高校進学したら、それまでの友人関係は(望むと望まざるとに関係なく)疎遠になり、間もなく終わってしまう」、そしてまた「大学進学とともに高校時代の友人ともまた疎遠になって終りを迎える」のは珍しいことではなかろう、それが普通で常識的なことだとまで言い切るつもりは無いが。  
   
 日本全体を見たとき・・・育った家庭が商売・農業・漁業などを営んでいて、なおかつそれを引き継ぐ人たちの場合には、成人してからの日々の生活も、また、仕事(すなわち経済活動)も、「生まれ育った地」に根ざすのは当然として、郷土愛も自ずと育まれるやすいかなと思う。それに対し、東京にて「将来はサラリーマンがいいな」とか「サラリーマンだろうな、ほかに思い浮かばないし」などと考えながら育つ人間の場合、民間企業では転勤も覚悟しなくてはならないし、たとえ東京本社勤務が続くとしても、東京という街の都市機能を活用し尽くすことを考えれば少しでも利便性の高い地へ移り住んでいきたいなどと考えるケースも多かろうし、その結果、生まれ育った地をいわば「自分にとっては仮の住みか」のように見なす感覚が膨らみやすいか、どうだろう。   
   
 原発事故の関係で「生まれ育った故郷を離れざるを得ない」という方たちが感じる苦しみ・戸惑い・不安などのうちの一部分が、実は筆者には分かりにくかったりする。   
 新しい土地へ移り、そこで新しい仕事に就かねばならないということへの不安については分かる・・・というより、筆者なりに想像できるつもりではある・・・それは想像すればするほど「大きな不安に違いない」と確信するに至る。また、子供たちが転校を経験する場合に抱えるであろうストレスその他も、筆者には転校経験が無いが、それでも想像できるような気はする。しかし、「生まれ育った地を離れること」自体を嫌がる気持ち、つまり「この地をやっぱり離れたくないんだ」、「この地に暮らし続け、そしてこの地に葬られたい」、「仮にこの地を離れることがあっても、必ず戻りたいんだ、戻ってみせるぞ」といった感覚が、やはりどうしても分からない。(これを読んで気を悪くされる方がいらっしゃるかも知れないが、筆者、何かしらの悪意を持って書いているわけではない・・・たまたま、上のような自分の感覚と向き合うことがあり、「分からないものは分からない」と、ここに書くのである。しかし、それでももちろん、生まれ育った地に「暮らし続けたい」・「戻りたい」という願いが叶えられますようにと、筆者は祈る・・・人々の、ちっとも傲慢だったり自分勝手だったり理不尽だったりするわけでない、そしてとりわけ、よくありがちな願い事であるならば、それらのすべてが叶えば良いのにと思うから。)   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「睡眠サイクル」と呼べばよいのか、寝入ったあとに睡眠は深まり、やがて眠りの浅いレム睡眠が訪れる・・・再び眠りは深まり、その後また浅い眠りに・・・そういう繰り返しの周期は、自分の場合には、ずっと前から2時間周期であった。何かの物音、気配の変化で目が覚めるとか、あるいは、懸念事項などあって自然に目が醒めてしまうという場合、時計を見ると、入眠したであろう時刻から2時間、4時間を経たときなどであった・・・それはそれは、ものの見事に120分プラスマイナス10分くらいといった具合。ゆえに、寝る時間を惜しむ筆者の場合には、3時間とか5時間の睡眠を計画するよりも2時間・4時間で済ますほうが「寝覚めスッキリで満足感もそれなりに」ということになる・・・「なる」というよりも、そういう状況がずーっと「続いていた」。   
   
 介護の関係で「徹夜まがい」のことをする日が多くなったことが何か影響したのか、それとも歳のせいみたいなことがあるのか・・・今年の1月になって、自分の睡眠周期がどうやら120分周期でなく90分周期に変わってしまったらしいことに気づいた。そして、今度もまた、面白いくらいにほぼジャスト90分・・・「時の刻み」の単位として、「1分」という長さや60進法も、キリのよい「90分」や「120分」などの長さも、人間の都合・習慣・思いつきで定まったもののように見えながら、不思議な気持ちにさせられる。   
   
   
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 「地域の祭りが無いのは寂しい。祭りをやろう、それを続けていこう」と、町会長さんが言い出した。「金魚すくい」などの企画も提案されたり・・・。   
   
 子持ちでもない自分としては、あまり乗り気になれないなあ・・・などと考えていたら、「地域の文化祭めいたものもやりましょう、大人向けの講演会などを」という話も出て、講師を呼ぶことになった。   
   
 ところが、その講師からドタキャンの連絡が。   
 で、「あなたが何か喋ってくれ、テーマは何でもよい」と要請され、演題・テーマとして「日本人の、運命感と運命の受容姿勢は如何なるものか・・・旧約聖書のヨブ記、シベリウス/交響曲第4番、佐村河内守/交響曲第1番は、日本人にとってどのように理解しやすく、理解しにくく、あるいは、理解したつもりに陥りやすいのか」みたいなことを話すことになった・・・しかし、テーマが荒唐無稽というか無謀というか、うまく話をまとめていけなかったり、その他のこともあって苦悶。   
   
 ・・・と、以上のことは或る晩に、いや、或る明け方に見た夢の内容。決して悪夢に類するものではないが、講演原稿を打ち直すときに次々とタイプミスを繰り返したり、そのうちには話そうとしてしていた論理・展開を忘れてしまいそうで焦りを感じたりと、ちっとも心地よい夢ではなかった。   
   
 睡眠サイクルが変わったのと同時にどうも、レム睡眠時に見るとされる夢が、目が覚めても記憶にとどまっているケースが増えた。   
 子供の頃のこと、「夢というものは、あなたの未来を予言するものです。または、あなたの隠れた願望・欲求を映し出したものです。枕元にノートを置いて、夢の内容を記録してみましょう」みたいなことを何かで読んだことがあり(当時も今も、そのような説を100パーセント信じているわけではない)、しかし、見た夢を覚えていなくてノートに書き留めることがろくに出来なかった筆者は「俺はバカなのかなあ」と思ったこともあるのだけど、しかし、夢を見ること自体、実はあまり心地よくないのではないか・・・「目が覚めたときに覚えていないだけで、誰もが、睡眠中に盛んに夢を見ているのだよ」との話すら、今のように睡眠サイクルが変化するまであまり本気にしていなかった。   
   
   
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 昨年暮れのこと、大掃除とは別に、しまいっぱなしであった古いものなどの廃棄処分もした。アルコールでなく水銀を使った温度計(体温計でなく気温を測るもの)も出て来て処分・・・。   
   
 テレビのニュースや天気予報で「暦の上では春ではありますが云々」という決まり文句が今日もなお使われていて、それにケチをつけるつもりはなく、むしろ「いろいろな意味で良い事だ」と考え続けている。しかし・・・夏に「今日も暑さは厳しく、水銀柱は午前中からグングンと上がって云々」という言い回しに接することが無くなって来たなあ(この場合の水銀柱は気圧関係でなく温度関係)。   
   
 決まった言い回しと言えば・・・「消費者の財布の紐は固く/財布の紐がゆるみ」というのが、新聞やテレビのニュースで今なお使われているのは、よく考えてみると不思議である。   
   
 だってさ・・・あなたの財布に紐は付いていますか?(笑・ただし、アクセサリーやストラップを付けている場合のその紐などは除く。)   
   
 上のような表現に、子供たちは「意味不明」なものを感じることであろう。しかし、この調子でいくと、21世紀末になっても「財布の紐は云々」という表現は残るか・・・でも、それも、一種の文化、言葉の遺産として受け止められるか・・・そう思うと、自分はこの表現を笑いつつも、「消え去ってもらうことがあっては惜しいな。せせっかくだからこのまま残って欲しい」と思ってしまう。   
   

消費税“甘言”セール・・・などと呼んではイケナイな

   
 セル来日時のNHKテレビによるインタビュー枠では、聞き手は大木正興氏、そして通訳はあの鳥飼玖美子女史であったようだ(ソニー発売の来日公演CDのライナーノートによれば)。   
 鳥飼女史の著書「戦後史の中の英語と私」(みすず書房)を書店で目にしたので、「もしかしてセルのことに言及していないか?」と思い、ページをめくった。   
 91ページだったかな、そのあたりから先の何ページかだけを急いで飛ばし読みしたが、大阪万博関係の記述がある中にセルへの言及は見当たらなかった。残念であった。もっとも、ご本人は大忙しの日々であったろうし、特にクラシック音楽ファンでもなければ記憶・印象に残ることも無いような、仕事上の1コマに過ぎぬ時間だったろうけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 セルの、メトロポリタン歌劇場での「タンホイザー」の1954年ライヴについては、最近では正規音源によるものが下記で案内されている25枚組セット商品中に収録されている:   
   
   http://www.hmv.co.jp/news/article/1302050072/   
   
   
 筆者の手持ちのものは「正規音源」には該当しない由来のCDであるが、うむ、上のも買い求めようかどうしようかと迷っている。   
 筆者個人のことはどうでもよいが、上の商品についてリスナーによるレビューが現時点で2件あり、セルの「タンホイザー」に触れられている個所もある・・・それはごくごく短い言葉であるが(「短評」以上に簡単なコメントではあるが)。   
   
 日本のアマゾンのサイトでも、 "wagner at the met" で検索すればこの商品が上位に出て来る・・・そして、やはり3件のレビューが寄せられている。   
   
 この商品・・・どこもかしこものサイト等で価格比較したわけではないが、マルチバイ的な「まとめ買い/抱き合わせ買い」をせずに単品買いする場合にあっては、アマゾンで購入するのがお得か・・・少なくともそれは「損なチョイス」という事態にはなるまい・・・もちろん、筆者として「それを勧める・保証する」つもりは無い。   
   
 かなーり古い音源を多く含むゆえ、ヒストリカルなものに抵抗ある人には向かない品かも知れないが、しかし、熱烈なワーグナー・ファンにとってはあまりにも興味深い商品であろう。   
 (以上、この品が気になる方のために・・・。)   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「消費税(増税)還元セール」などと銘打つことはどうやらイケナイことになるらしいが、そして、「生活応援セール」のような名称は許されるらしいが、さて、次のようなセールは許される/黙認されるのかどうか・・・。   
   
 「消費税増税対抗セール! “還元”は致しかねます・・・でも見てください、当社企業努力で3パーセント以上の値下げ品目が目白押し!」   
   
 「価格緊急見直しセール実施中! 本体価格を徹底見直し! 消費税込みでも、ほらっ、ちゃんとこのお値段!」   
   
 「消費税増税に負けないための、生活エンジョイ応援セール!」   
   
 ・・・(↑)、いや、わざわざ「消費税」という言葉を出さないでいれば大人な対応のセールになるだろうけど、世の中、そのようにはしていられぬ気質の小売店があるだろうなと、筆者は何となく思う。筆者としては、そちらに味方する気持ちも、反対する気持ちも、いずれも特に無い。   
   

雑記

   
 誰かと二人して歩いているとする。このとき、すぐ前方を歩く人のTシャツやトレーナー、ジャンパーなどの背中に記されている文章やらメッセージ、チーム名その他を読み上げたりしながら話題に乗せるというのは、これはやはり一種の公共マナー違反であろうと筆者は思っている(笑)。   
   
 正確には何と書いてあったか忘れてしまったが、「メタボ」じゃなくて、これに何か言葉が付加されていて「メタボ野郎」であったか「メタボ体質」だったか、そんな言葉がプリントされたジャージっぽいものを着た男性が前を歩いていた。この種の商品は、着る本人が開き直り気分を面白がるなどすることを期待して売られているのだろうか、よく分からない。   
  
 筆者と一緒に歩いていた女性が、それを見て笑いながら「ぜんぜんメタボじゃないのにね」と言った。こちらは一瞬、「声がデケーよ、失礼だろ!」と思ったが、しかし、「メタボじゃないのにね発言」であるゆえ、これは失礼発言には当たらないのかな・・・よく分からなくなってしまった。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「全ズ連」こと、全国ズッキーニ生産農家連絡協議会の理事長ほか幹部数名が、各種農産物栽培について視察するため海外を訪れることがあったという。   
   
 エジプトを訪れたとき・・・。   
   
 現地ガイド:「あの丘の頂上からは向こうに広がる野菜畑を見渡せます。頑張って登りましょう」   
   
 理事長ら:「はい」   
   
 やがて・・・。   
   
 理事長:「うわっ。これは広々として、そして青々として・・・すべて畑ですか?」   
   
 現地ガイド:「そうです」   
   
 理事長:「いったい、何を栽培しているのですか? これは平原というか、もろに平野ですなあ」   
   
 現地ガイド:「モロヘイヤです」   
   
   
 なお、これは架空の話で、「全国ズッキーニ生産農家連絡協議会」なる組織も、筆者の知る限りにおいては存在しない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 渋滞や信号待ちのとき、後続車の車内の様子をルームミラーでついつい見てしまうということは誰にもあろう。化粧直ししている女性、また、おそらくはカーオーディオから流れる音楽に合わせているのであろう何かを歌っている人・・・などなどの様子を目にするのは昔からで、ま、見飽きてしまって面白くない。スマホ、ケータイに見入ったり、それらを操作している人の様子も今は非常に目立つが、これも特に面白くはない。   
   
 車内で何かを食べている様子を目にすることが、以前に比べて多くなったように感じられる・・・スナック菓子だったり、肉まんか何かだったり・・・。   
   
 先日は・・・ドライバーは袈裟を着たお坊さんであったが、スナック菓子らしきものを、ちょっとだけ悠長な感じで(しかし、何度も繰り返し)つまんで、そして頬張っている様子を見てしまった。とても不似合いであるように感じた。    
   
 別の日には・・・カップ焼きそばを頬張っている若い男性がいた。渋滞時、こちらがクルマをちょい進める都度、この後続車の男性は食べるのを中段してカップと箸を脇に置き、ちゃんと両手をハンドルに添えてクルマを前へと進めるのであった。車間距離を詰めきると再び食事に戻り・・・。同じことが何度か繰り返された、あまりに律儀・几帳面なように見受けられた。   
 筆者は車内で決してものを食べたりしないが(飲み物を飲むことはある)、しかし、もしも彼のように食事をするとなれば、あの状況・あの速度という場合、ハンドルに手を置かずに、つまりカップ焼きそばを手に持ちながらクルマを前進させるだろうなあ・・・いや、もちろん、彼の仕方のほうが安全度は高かろう。   
   

雑記



   
 上のは、トマトの含め煮。   
   
 この時期のトマト・・・ハウス栽培だろうけど、生で普通に食べたところ「甘みも乏しく、あまり美味しくなかった」らしく、それならばと思って、まだ何個も手つかずであったものを筆者は含め煮としてみた。   
   
 トマトは皮を湯むき。ヘタ部分をカット。素人のテキトーな思いつきでまず皿に砂糖を、次に、その上にトマトのヘタがあった切り口を下にして置き、さらにトマトの上方からも砂糖を振り、そしてしばらく放置(ラップで包んだほうが良かったかも知れないが)。そのあとに煮た。ただ、この砂糖の効果が如何ほどであったかは分からない、ともかく、美味しくは出来上がった。   
 トマトの他には、余っていた野菜を思いつくままに選んで組み合わせた・・・エノキダケとレタス。レタスは加熱調理しても、好みが合うならば美味と感じられることであろう(よく知られているのは「炒める」ケースか)。   
   
 ちょい苦労したのは・・・調理完了して鍋から「おたま」ですくったトマトを、食器に移し入れようとしたとき・・・あとちょっと大き目の皿やカップなどを選べば楽だったな・・・結局はトマトを手づかみすることになり、写真では分からないが、トマト表面には指で出来た「へこみ」が生じた(笑)。   
   
 以前のこと(昨年のクリスマスの少し前あたりであったか)日経新聞土曜版にて紹介されていたレシピではトマトの他にはカイワレダイコンが用いられていた。また、別のレシピで目にした例ではオクラなどが・・・。   
   

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