2013-04

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雑記



   
 ちょっとばかりまとまった量の小カブを頂戴することがあり、感謝しながら煮物と、そして、写真のように浅漬けに。葉も茎もぜひ食べてくれ、との言葉にもしっかり従い・・・。   
 (以前、これまた農家をやっている方からブロッコリーを頂戴した際に「軸も美味しいんですよ」と言われたことがあるのを、今ふと思い出した。あの部分もおいしく食べることが出来るのは承知していることだから(軸まるごとではなく外側は切り落として角棒のようにしたもの)、「茹で過ぎない程度のものに塩を振ると、甘さ・食感とバランスもとれて美味い。熱々だと、あの香りも楽しんでしまう。マヨネーズが苦手なので自分だけはブロッコリーはすべて塩で食べているけど」と答えたらニンマリされた。あの部分は茹ですぎると食感はホクホク感からペチャッ感へとシフトしてしまい、それが冷めればなお悪く、少なくとも筆者の好みには合わない。)   
   
 写真では分かりにくいが、カブの白い玉の部分は、小さく、かつ薄くカット/スライス・・・歯の悪いほうの親には、どうもそのほうが食べやすいようなので。  
 この、歯の悪い場合の「食べやすさ」・「食べにくさ」の感覚が筆者には想像しにくい。たとえば、カマボコは薄くスライスしてあっても食べにくい、チクワを薄くスライスしたものは食べやすい、ブラックタイガーをはじめとする海老(甘エビ・ボタンエビのようなものは別)は食べにくいらしいのだが、弾力の問題なのだろうか。鶏肉は、上手に柔らかくしたものでないと食べにくいようだが、馬肉やクジラ肉の大和煮の缶詰などは、「これはあまり柔らかいとは言えないかもなあ」と危惧しつつ食べさせても特に何も言わずに食べる。アサリも特に何も言わずに食べる。また、コハダは成長が過ぎて身が厚めになっていても、また、イカの刺身は特に厚手でなければ(イカ・ソーメンにしたりせずとも)何も文句を言わずに食べる・・・一体どこからどこまでが「食べやすい・食べにくいの問題」なのか、それとも「労を労と感じないほどに食べたいという、好き嫌いの問題」なのか、疑問を覚え、「訳わからん」と思うことがある(笑)。   
   
 カブは、あっという間に調理し尽くし、かつ消費され・・・「もっと食べたい」とのリクエストがあって、後日には店で売られているものを買い物する羽目になった。   
   
   

南海ホークス・・・いや、「難解に放句す」みたいな歌詞/詩?



   
 (↑)タイトル中の「南海ホークスって、それ何?」という人も、もしかするといるかも知れないけど、ま、西鉄ライオンズ、国鉄スワローズとか、その種のチーム名である(余計わからなくなってしまうか?)。   
   
   
 さて・・・。   
   
 親の介護をしつつ夜中を過ごすとき、空き時間は実際のところ十分にあるのに、どうも音楽を聴く気分にはなかなか至りにくく(また、ヘッドホンで音楽に集中してしまうと、呼ばれてもすぐ気づきにくいことがありえ、よろしくないし)、「ならば映画鑑賞はどうか?」と思いついた・・・映画だと、筆者の場合、気持ち的に距離をおいて、突き放した感じで向き合える。   
   
 達也・・・じゃなかった、TSUTAYAだな・・・あそこに寄るついでがあるというから「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」と、それと「たんぽぽ」のDVDを借りるように頼んだのだが、前者はレンタル品が用意されていなかったようで、これはとても残念であった。   
 懐かしき「世界の料理ショー」というテレビ番組は販売用のDVD商品が出ているが、しかし、購入したいとまでは思わないためレンタル品があるのか気になっていて、別の日に自分もTSUTAYAに出向いたが、少なくともその店舗には見当たらなかった。これまた残念。   
   
   
 写真を撮りなおす時間が無く、冒頭のは過去の画像の使いまわし(1年以上前の)であるが、コンセルトヘボウ管アンソロジーの1960年代のボックス中「CD10(10枚目)」にはブリテン作曲の「イリュミナシオン」が収録されており、夜中にこれを聴いた・・・指揮が故サー・コリン・デイヴィスであるから・・・「故」と付すことになってしまったのだなあ。   
   
 ピーター・ピアーズ/コリン・デイヴィス/コンセルトヘボウ管による1966年2月のライヴ・・・このときが、このオケのコンサートでのコリン・デイヴィス初登場だったらしい。   
   
 この作品・・・曲や個所によっては「歌手のパートをそっくり取り除いてしまうと、自分はもっと楽しめるのに」と思ってしまうところもありはする・・・筆者自身の、この曲への適性欠如を示すものであろう。しかし、曲全体の、音楽面での7割か8割くらいは機嫌よく楽しめている。   
 しかしまた・・・この作品はランボーの詩によっているのだが、さあ、その詩が難解。いつの日にか、「きっちり、しっくりと」すべてを呑みこみ、すべてに頷き、そして楽しみきることが可能なときはやって来るのだろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 たとえばセルのような、既に亡くなっている人の演奏のあれこれを聴こうとする・録音をコレクションすることに関して、「それは決して無意味ではないにせよ、ちょっと寂しい趣味ではないか?」と思う人がいても、やはり不思議でないような気もする。   
   
 いや、実際、1980年前後のあたりとか、また、それ以降にもしばしば、上のように自問自答したことさえある・・・そしてまた、このようにも思い続けて来た:「(こうして生きている自分と)同時代を生きる、今を活躍中の指揮者・演奏家のなかに、かたときも目を離せないような存在を見出すことにもっと真剣になろうではないか」と。個々のアーティストの優劣とかそういう問題ではなく、その演奏を聴いて肌が合う、(コンサートでなく録音の場合には)おのずと幾度も聴き返して向き合おうと思ってしまう」みたいな、そういうアーティストを自分も求めて来た。   
 1980年以降しばらくについては、その候補としては、指揮者であるならばたとえばハイティンク、コリン・デイヴィス、サヴァリッシュ、チェリビダッケなど・・・やはりクラシック音楽を趣味とする親しい友人からは「ショルティが合うのでは? え? 違うの? うーん」と、意外そうな顔をされたことがあるけれども、そう、ショルティではこちらの嗜好に合わなかったりした。   
 再現芸術であるところの「演奏」は、造形・構築・硬柔・生命感・リズム感・歌・気品、その他いろいろがミックスされたその末のものを楽しむものである・・・結果が正反対でも「ハマってしまう」ものはあるし、近似のものであっても「違うんだよ、何かが」と、気持ち悪さを覚えてしまうものがあったりする・・・あらためて言うまでもなく趣味嗜好のマッチングは「難しい」のだ(セルを好みながらもバルビローリを聴きたい晩もあったりするわけだし)・・・その友人は、こちらがハイティンクやコリン・デイヴィスの名をあげたとき、「どうしてそういうパッとしない指揮者を選ぶかなー?」みたいな言葉を発した。しかし・・・あの頃、「パッとしない存在」などでは全然なかった筈だけど・・・。エディト・ピヒト=アクセンフェルト(ピアニスト、チェンバリスト)の或るコンサートで感激したことを次の日に彼に話したら、これまたやはり「どうしてそういう地味なものに足を運ぶんだ?」っぽい言葉が返って来たことも。   
 (なお、チェリビダッケについては、その後、「(このように変化を遂げるに至った)その演奏に対して、もちろん敬意を払うけれども、自分には分りにくい・納得しにくい・楽しめない」みたいな感想を持ってしまって、急速に関心が薄れてしまった。)   
   
 1980年代も中盤以降はバブル経済が進んで仕事量に押し潰されそうになったり、その後もいろいろせわしく過ごしたり・・・思いっきり端折った言い方をすれば、クラシック音楽の趣味のうちオーケストラものに関してはセルを中心に置いて音楽を楽しむことが習慣化してしまったかな。   
   
 しかし、サー・コリン・デイヴィスの演奏については、周回遅れになってもいずれはきちんと聴きこまねばならないものと感じているのである。   
 最後になってしまったが、氏のご冥福をお祈りしたい。   
   

   
 (画像追加)   
 ブログ画像庫にある、過去に使ったものから・・・せっかくなので(↓)   
   

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クラシカルな某

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