2013-04

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レオン・フライシャー(ピアニスト)の23枚組ボックス



   
  
  http://www.hmv.co.jp/news/article/1304130001/   
   
   
 セル/クリーヴランド管とのレコーディングに関しては、ベートーヴェンやブラームスばかりでなく、シューマンやグリーグなどもちゃんと含んでいること、喜ばしい。   
   
 なお、下の画像は過去のものの使いまわし。上段ディスクはゼルキンのもの。下段がフライシャーのブラームス。既発売の商品。   
   

人間万事「裁縫が上手(うま)っ!」。人間 到る処 南青山2丁目あり。花咲か爺さん・小太り爺さん・・・

   
 今回タイトルは、本文と関係が無い。   
   
   
   
 少なくともゴールデンウィーク前半については、親の食事作りはパスさせていただこうと思っていた・・・というのも、この時期は大掃除的な作業もしたいので(寒い年末年始に無理にやりたくない作業もあるし、また、網戸、浴室をはじめ、「別の時期にするのが合理的」と思っているものが幾つもあるのだ)。   
   
 それこそ本当に手が回らない場合には、出前の活用もよいではないか。   
 しかし、「(近日中に)昼食としてラーメンを食べたい」というリクエストなども受け・・・そこまで、あまりにも簡単に過ぎるものであれば、調理作業するもやむなし。   
   
 ついでの話ながら、「麺類を出前で」ということに筆者は抵抗がある・・・麺がのびる・汁/スープが冷めるというのが問題でなく、出前という、食事配達と食器回収とに計2度も足を運んでもらうことが、蕎麦やラーメンなどの場合には大袈裟なこと・店側に対して申し訳ないことと感じられてしまうのだ(しかし、お店の側は全然違う感覚だろう・・・「商売ですからいくらでも足を運びますよ。どこかのお宅にお届けするのと一緒に別のお宅から食器回収するわけで。ちっとも手間ではありません。躊躇などせずにどんどん注文して下さいよ」みたいな)。   
   
 さらにこれも余談だが、筆者自身はラーメンをそれほどには好きでない。ただ、醤油ラーメンならば「好き」と言ってもたぶん差し支えなかろうか。その好き度を100とすると塩ラーメンや味噌ラーメンは60くらい、そして豚骨ラーメンとなるとゼロを飛び越えてマイナス50くらい。福岡県出張の際、「飲むつきあいは気にならない、むしろ嬉しい限りだけど、そのあと豚骨ラーメンを食べさせられないようにしないとなー」と思い、無事にラーメン回避を果たせて安堵したこともある。豚骨ラーメンを苦手とするのは、脂、または脂と誤認させられがちなもの(コラーゲン?)にも理由があろうけど、しかし、あの甘さだなあ(舌の上の問題だけでなく、香りにも甘さが浮かび上がる)・・・その甘さはもちろんストレートだったり角張ったりしていないが、独特のラウンド感と「まとわりつき感」を帯び、じわわーっと、ぬめめーっと、「からめ手」を思わせるようなやさしさを伴って襲って来る・・・そこが大いに苦手なのだ。自分に合わない。   
   
   
 さて・・・さあ、いざラーメンを作るなら・・・商品名を「昔ながらの中華そば」と言ったかな、あれの半生麺みたいなタイプで、横に細長いパッケージで醤油味のもの(パッケージの色合いは赤)を使おうと思っていた。あれを口にしたのはかなり前のことになってしまうが、麺・スープとも「これはいいな」と感じた記憶が残っているので・・・ラーメンにうるさい人だと「麺のちぢれ具合などからするスープのからみ具合が云々」をはじめ様々な意見もお持ちだろうけど、筆者、妥協点はかなり低く、たとえば麺が“はるさめ”でもない限りは、スープのからみはあまり気にならない・・・いや、潔くスープがあまりからまないのもまたよいではないかなどと思ったりする・・・いやいや、そこまではないか(笑)。   
 しかし、あの品は店頭に見当たらなかった。で、乾燥麺タイプの各種商品の中から、「ラ王」にしようか、それとも「正麺」にしようかちょっと迷ったが、後者の、醤油味のものを選んだ(どちらもこれまで自分では食べたことがない)。多めに作って筆者も食したが、出来の良い商品であるように思えた・・・ラーメンはたまにしか食べない筆者がコメントするのも、ちと気が引けるけれども。   
   
   
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 「SKE48」という字面を初めて目にしたとき、「このSKEとは何を意味するのだろう」と思ったが、それでも10秒かそこら、たぶん20秒もしないうちに想像がつき、確認するとその想像は当たっていた。べつに想像つかなかったとしても、これは取るに足らぬこと、時流に遅れてしまっているとかのことにならないとは思いつつ、それでもホッとしてしまった。   
   
 で、そのSKEこと「シュターツカペレ・エアランゲン」の件ははさておき・・・(笑)。   
   
 よく知らないのだけど、AKBその他について「アルファベット部分は3文字となる地でないといけない」などのルール/前提/前後するプロジェクトなどあったりするのかな・・・どうでもいいが。仮に「GJHCMN48」とかだと、これはシンプルでもなく、人々を戸惑わせ、ダメなのかな・・・GJHCMNというのは郡上八幡のつもりである。   
   
   
 以前、チェリストの上村昇 氏の名前を初めて目にしたとき「この姓は、うえむら・かみむら、のいずれであろうか」と疑問に思いつつ、それでも調べようとせずにいた。のち、見事な演奏を耳にして、ようやくにして「かみむら」という読み方が自分の頭の中に定着した。   
   
   
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 黒豆を使った納豆を、どういう手法で自製してみようか・・・しばらく前からときどき考えていた・・・納豆ゆえ、「後始末の面倒を思えば使い捨ての出来る容器がよろしいな、それが楽だな」とかも。   
   
 いちばんの不精な方法は・・・。市販の納豆を食器に移したあとの、納豆菌も残ったままのあのポリスチレンか何かの四角い容器に、ほどよい硬さに茹でて水切りも済ませた黒豆を入れたらどうか・・・それを、刺身こんにゃくが入っていた保冷/保温ボックスに収め、一緒に使い捨てカイロもセットしたら・・・。酸素供給をどうする? いちいち温度確認・管理まで出来ないなあ・・・休日・連休中ならいいかな・・・とか。うまくいっても、黒豆納豆の表面に出来る糸はきれいな白でなく、ちょっと茶色っぽいものになるだろうか・・・。   
 いや、待てよ・・・「こればかりは、喜々として食らうのはたぶん俺だけだろうなあ」と思い至って、黒豆納豆作りに挑戦するのはやめた。   
   
 下のは、「納豆づくり遊び」しようとして水に浸してしまった黒豆を、キッチンドリンカー状態の自分のつまみとすべく醤油煮したもの(加えた調味料は塩および醤油だけ)。レシピは「黒豆 醤油煮」などで検索すると見当たるものもあろう。   
   


雑記



   
 ちょっとばかりまとまった量の小カブを頂戴することがあり、感謝しながら煮物と、そして、写真のように浅漬けに。葉も茎もぜひ食べてくれ、との言葉にもしっかり従い・・・。   
 (以前、これまた農家をやっている方からブロッコリーを頂戴した際に「軸も美味しいんですよ」と言われたことがあるのを、今ふと思い出した。あの部分もおいしく食べることが出来るのは承知していることだから(軸まるごとではなく外側は切り落として角棒のようにしたもの)、「茹で過ぎない程度のものに塩を振ると、甘さ・食感とバランスもとれて美味い。熱々だと、あの香りも楽しんでしまう。マヨネーズが苦手なので自分だけはブロッコリーはすべて塩で食べているけど」と答えたらニンマリされた。あの部分は茹ですぎると食感はホクホク感からペチャッ感へとシフトしてしまい、それが冷めればなお悪く、少なくとも筆者の好みには合わない。)   
   
 写真では分かりにくいが、カブの白い玉の部分は、小さく、かつ薄くカット/スライス・・・歯の悪いほうの親には、どうもそのほうが食べやすいようなので。  
 この、歯の悪い場合の「食べやすさ」・「食べにくさ」の感覚が筆者には想像しにくい。たとえば、カマボコは薄くスライスしてあっても食べにくい、チクワを薄くスライスしたものは食べやすい、ブラックタイガーをはじめとする海老(甘エビ・ボタンエビのようなものは別)は食べにくいらしいのだが、弾力の問題なのだろうか。鶏肉は、上手に柔らかくしたものでないと食べにくいようだが、馬肉やクジラ肉の大和煮の缶詰などは、「これはあまり柔らかいとは言えないかもなあ」と危惧しつつ食べさせても特に何も言わずに食べる。アサリも特に何も言わずに食べる。また、コハダは成長が過ぎて身が厚めになっていても、また、イカの刺身は特に厚手でなければ(イカ・ソーメンにしたりせずとも)何も文句を言わずに食べる・・・一体どこからどこまでが「食べやすい・食べにくいの問題」なのか、それとも「労を労と感じないほどに食べたいという、好き嫌いの問題」なのか、疑問を覚え、「訳わからん」と思うことがある(笑)。   
   
 カブは、あっという間に調理し尽くし、かつ消費され・・・「もっと食べたい」とのリクエストがあって、後日には店で売られているものを買い物する羽目になった。   
   
   

南海ホークス・・・いや、「難解に放句す」みたいな歌詞/詩?



   
 (↑)タイトル中の「南海ホークスって、それ何?」という人も、もしかするといるかも知れないけど、ま、西鉄ライオンズ、国鉄スワローズとか、その種のチーム名である(余計わからなくなってしまうか?)。   
   
   
 さて・・・。   
   
 親の介護をしつつ夜中を過ごすとき、空き時間は実際のところ十分にあるのに、どうも音楽を聴く気分にはなかなか至りにくく(また、ヘッドホンで音楽に集中してしまうと、呼ばれてもすぐ気づきにくいことがありえ、よろしくないし)、「ならば映画鑑賞はどうか?」と思いついた・・・映画だと、筆者の場合、気持ち的に距離をおいて、突き放した感じで向き合える。   
   
 達也・・・じゃなかった、TSUTAYAだな・・・あそこに寄るついでがあるというから「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」と、それと「たんぽぽ」のDVDを借りるように頼んだのだが、前者はレンタル品が用意されていなかったようで、これはとても残念であった。   
 懐かしき「世界の料理ショー」というテレビ番組は販売用のDVD商品が出ているが、しかし、購入したいとまでは思わないためレンタル品があるのか気になっていて、別の日に自分もTSUTAYAに出向いたが、少なくともその店舗には見当たらなかった。これまた残念。   
   
   
 写真を撮りなおす時間が無く、冒頭のは過去の画像の使いまわし(1年以上前の)であるが、コンセルトヘボウ管アンソロジーの1960年代のボックス中「CD10(10枚目)」にはブリテン作曲の「イリュミナシオン」が収録されており、夜中にこれを聴いた・・・指揮が故サー・コリン・デイヴィスであるから・・・「故」と付すことになってしまったのだなあ。   
   
 ピーター・ピアーズ/コリン・デイヴィス/コンセルトヘボウ管による1966年2月のライヴ・・・このときが、このオケのコンサートでのコリン・デイヴィス初登場だったらしい。   
   
 この作品・・・曲や個所によっては「歌手のパートをそっくり取り除いてしまうと、自分はもっと楽しめるのに」と思ってしまうところもありはする・・・筆者自身の、この曲への適性欠如を示すものであろう。しかし、曲全体の、音楽面での7割か8割くらいは機嫌よく楽しめている。   
 しかしまた・・・この作品はランボーの詩によっているのだが、さあ、その詩が難解。いつの日にか、「きっちり、しっくりと」すべてを呑みこみ、すべてに頷き、そして楽しみきることが可能なときはやって来るのだろうか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 たとえばセルのような、既に亡くなっている人の演奏のあれこれを聴こうとする・録音をコレクションすることに関して、「それは決して無意味ではないにせよ、ちょっと寂しい趣味ではないか?」と思う人がいても、やはり不思議でないような気もする。   
   
 いや、実際、1980年前後のあたりとか、また、それ以降にもしばしば、上のように自問自答したことさえある・・・そしてまた、このようにも思い続けて来た:「(こうして生きている自分と)同時代を生きる、今を活躍中の指揮者・演奏家のなかに、かたときも目を離せないような存在を見出すことにもっと真剣になろうではないか」と。個々のアーティストの優劣とかそういう問題ではなく、その演奏を聴いて肌が合う、(コンサートでなく録音の場合には)おのずと幾度も聴き返して向き合おうと思ってしまう」みたいな、そういうアーティストを自分も求めて来た。   
 1980年以降しばらくについては、その候補としては、指揮者であるならばたとえばハイティンク、コリン・デイヴィス、サヴァリッシュ、チェリビダッケなど・・・やはりクラシック音楽を趣味とする親しい友人からは「ショルティが合うのでは? え? 違うの? うーん」と、意外そうな顔をされたことがあるけれども、そう、ショルティではこちらの嗜好に合わなかったりした。   
 再現芸術であるところの「演奏」は、造形・構築・硬柔・生命感・リズム感・歌・気品、その他いろいろがミックスされたその末のものを楽しむものである・・・結果が正反対でも「ハマってしまう」ものはあるし、近似のものであっても「違うんだよ、何かが」と、気持ち悪さを覚えてしまうものがあったりする・・・あらためて言うまでもなく趣味嗜好のマッチングは「難しい」のだ(セルを好みながらもバルビローリを聴きたい晩もあったりするわけだし)・・・その友人は、こちらがハイティンクやコリン・デイヴィスの名をあげたとき、「どうしてそういうパッとしない指揮者を選ぶかなー?」みたいな言葉を発した。しかし・・・あの頃、「パッとしない存在」などでは全然なかった筈だけど・・・。エディト・ピヒト=アクセンフェルト(ピアニスト、チェンバリスト)の或るコンサートで感激したことを次の日に彼に話したら、これまたやはり「どうしてそういう地味なものに足を運ぶんだ?」っぽい言葉が返って来たことも。   
 (なお、チェリビダッケについては、その後、「(このように変化を遂げるに至った)その演奏に対して、もちろん敬意を払うけれども、自分には分りにくい・納得しにくい・楽しめない」みたいな感想を持ってしまって、急速に関心が薄れてしまった。)   
   
 1980年代も中盤以降はバブル経済が進んで仕事量に押し潰されそうになったり、その後もいろいろせわしく過ごしたり・・・思いっきり端折った言い方をすれば、クラシック音楽の趣味のうちオーケストラものに関してはセルを中心に置いて音楽を楽しむことが習慣化してしまったかな。   
   
 しかし、サー・コリン・デイヴィスの演奏については、周回遅れになってもいずれはきちんと聴きこまねばならないものと感じているのである。   
 最後になってしまったが、氏のご冥福をお祈りしたい。   
   

   
 (画像追加)   
 ブログ画像庫にある、過去に使ったものから・・・せっかくなので(↓)   
   

雑記


   
 電子書籍の利便性・長所・メリットについて改めて書いてみても、ま、おもしろくない(笑)。   
   
 情報は、あるいは、読み返したい資料は、紙に定着しているのが喜ばしいと感じる人間もいる・・・筆者のように。   
   
 新聞記事、本や雑誌の切抜き、カタログ、ショップのパンフレット・・・そうした諸々のものを或る方式・ルールのもとにストックしていたりするわけだが、「プリントアウトせずに電子データのまま」のものはそこに一体共存させたくても不可能で、一種の区分管理が迫られる。私生活上では深刻な問題を生じないが、それでも、「気持ちの悪さ」というか、心の中に「おさまりの悪さ」を覚えるだろうなあ・・・「だろうなあ」と書いたのは、筆者、今なお「本格的には」電子書籍を利用していないからである(若干の利用はしているが、しかし、それでも、それらを読むハードウェアはPCである)。   
   
 電子書籍は困る。   
 紙媒体の専門書などについてはわりと書き込みメモをするし、また、当然、線を引いたりすることも多い。電子書籍においてそれらの行為が能率的に出来るような機能が付加されるなら、自分にとって魅力は増すであろう・・・だが、メモ書きや線引きなどを、ペンでするのでなくキーボード打ちや、マウスによるドラッグ、ディスプレイへの指タッチなどでするほうが能率的だなどとはちっとも予想できない。      
 或るテーマに関して専門書でチェックするという場合、この本、あの本の関連記述個所にポストイットを貼って、著者/論者の見解を比較するということもある・・・そういう、マルチタスクならぬマルチウィンドウ的な表示による支援が電子書籍リーダーで快適に実現可能なのか。   
   
 また、自分の頭の構造・習性のせいなのか困ったことがある。紙媒体の本だと、「あの件は確かこの辺りに書いてあったよな」という記憶が、そこまでに読んだ(めくった)ページの厚みの記憶とリンクしていることが実に多い。また、「あの件は、見開きで左側のページの中段くらいに書かれていたんだよな」と思いながらページをパラパラめくって「おお、あった、あった、これこれ」とヒットすることも多い。電子書籍で読んだものは、この種の記憶を伴ってくれにくい。もちろん、単語を指定しての電子書籍内検索機能などで解決可能となろうけど、そういう手順・インタフェースが自分にとって心地よいかどうか・・・。   
   
   
   
 上で「雑誌の切抜き」でなく「本や雑誌の切抜き」と書いたが、本(単行本・文庫本)の或るページ・章だけを切り取って保存しておくことは珍しくない。   
 学生時代は、読んだあと特に「手もとに置き続けたい」と思わなかった本については古本屋さんに持って行くことも多かった。その後はそれが面倒になり、不要な本がたまると古本屋さんに引き取りに来てもらうこともあったが、そのようにして「来てもらう」というのは普通は「もっとたくさんの本」を処分する人のすることかなと、いくぶん申し訳ないように思え、かつ、やって来る時間が約束どおりでなかったことに苛立ち、さらにまた、古本屋さんがつける値段の安さにも呆れたので、やがて、不要な本は資源ゴミとしたり、電車の中で読み終えものであれば駅ホームのゴミ箱に投じるようになった・・・このときに、「ここだけは切り取って保存しておこう」というページがあれば、本の見開き角度を270度とかそれ以上にして(当然、背表紙にはシワが寄るし、ホットメルト製本であれば糊にも亀裂が入る)、目当てのページだけを確保する。   
 平成7年頃には、或ることがきっかけとなって駅からはゴミ箱が失せてしまった。そんなことがあっても、通勤の往路で読み終えた本は職場のゴミ置場に、また、帰路で読み終えた本は帰宅途上でコンビニに寄る場合にはそのゴミ箱、そういう寄り道をしない場合は自宅から出すことになる資源ゴミに、というパターンに変化しただけのことである。   
   
 本を、そのように粗末に扱ってよいのかという疑問を覚える向きもあろう。有形物たる本/書籍と、そして、「得るべきものは知識・情報」という発想との関係・・・この話は、気が向いたらいずれ書くことになろうか。   
   


雑記


   
 一度はこの手で作ってみようと思っていたもののひとつがアジ(鯵)の梅煮である。   
   
 調理する前に親たちの意向を確認したところ、父は、おそらくというか、やはりと言うべきか「アジを、塩焼きするでも刺身にするでもなく煮るとは!」と思ったであろう・・・驚いたような、「俺は遠慮しておくわい」っぽい表情を浮かべた。   
 母は「食べる」と言った。   
   
 結局、アジを、1尾は塩焼き、そして、もうひとつは、頭・尾・内臓など取り除いて煮付け。   
   
 鍋に入れたところで「身に包丁で切れ込みを入れておけばよかったかな」と思ったが、「ええい、もういいや」で進行。   
   
 アジの旬・漁獲最盛期がどうこうはさておき・・・薄味の煮汁(「だし」は昆布だし)と、そこに乗る梅干の風味(梅干には箸またはフォークでズブズブ穴をあけておく)とが「初夏前後にふさわしい」と、いつの頃からかそのように思っている。   
   
 どちらかと言えばマイナー料理だろう。   
 「味なことやる マ ッ ク 」のお店が、いつの日かこれを商品に加える日は・・・と、ダジャレっぽい連想をしてみたが、そのような日が訪れることはきっと無いのだろうな。では、アジフライ・バーガーなどは? ・・・それもやっぱり登場するまいなあ。   
   


久々に、レコ芸のコレは気になる・・・かな


   
 音楽之友社のURL設定の仕方からすると日数の経過とともに下記ページの記載内容は変わってしまいそうに思えるが、ともかく、レコ芸6月号の特集は50-60年代のアメオケがらみのようだ:   
   
  http://www.ongakunotomo.co.jp/catalog_nomenu/detail.php?Magazine=2   
   
   

雑記

   
 過日のこと、「ウナギが少し安くなって来ているらしいね」と言われ、つまり親たちからはそういう夕食メニューの希望があり、それだと調理というほどのこともせずに済むから「これ幸い」と喜んだ・・・蒲焼されて売られているものは、電子レンジおよびオーブントースターの併用で温め直すのが一番美味しいなどのノウハウがあれこれあるようだが、しかし、オーブントースターのみを利用して、あれの扉に割り箸など挟んで少し隙間を開けて加熱すれば、ま、それで普通に美味しく仕上がるものとずっと以前から思っている(なお、同じことをして扉の開閉機能などに故障が出ても、あるいは箸から火が出たりしても、筆者は責任を持てない・・・酒をちょいと振りかけての“にんにくホイル焼き”などは、同様にして自分で楽しんで来たことしばしばである)。   
   
 が、ウナギは、今なお「安くなって来た」とは言いにくい価格水準であったなあ・・・筆者の感覚では、の話だけど。   
 率直な感想としては、「これを買うくらいなら、カツオ刺身をもりもり食べるほうがいいだろ、あるいは、飽きるくらいにホタルイカをつまんだほうが」みたいな・・・。   
   
 で、しばし考え・・・ウナギと、いささかなりとも「手作り・調理」を感じとってもらえそうな赤魚の焼き物とを、メインの2つの料理とした。「ウナギはそんなにたくさんは要らない」という父には赤魚を多めに。   
   
 最近、赤魚は、粕漬けにされたもの/既に酒粕が塗られてしまったものばかりが売られていて、粕漬けを嫌う両親のために買い求めるには不都合で困っていた。この日は運よく、単純な干物状態のものに出会えた(当然ながら、アメリカ産・冷凍もの)。  
   
 塩味が付いた赤魚であれば、もちろんそのまま焼いて良し(少量の酒をふりかけておくとなお良い)。同じものを煮付ける場合、ちょい多目かなという感じの砂糖と、ほかに酒だけでしばし煮たあと、その煮汁にテキトーに控えめの量の醤油、また、みりんも加えてさらに煮続けるのも美味である(調味料投入の、いわゆる「さしすせそ」を忠実に守るような感じ)・・・好みの多数派はたぶん「こってりとした汁での甘辛煮」であろうけど、しかし筆者の好みとしては、醤油に関してははそれこそ「醤油の風味を赤魚の身にちょっとだけ移らせる」くらいの気持ちで煮たもの。「(べつに無意味に強火にするという意味では全然なくて)ちょい長めの時間にわたって煮すぎ」なくらいにしてもまた美味しさがある。   
   
 赤魚は、胴切りとかでなく三枚おろしのごとくになっている状態のものでは、焼いたり煮たりしているうち、肉(身の内側になっていた側)を外にしてピョロッと反りかえる。それを防ごうとして皮に十文字とかアスタリスクのように切れ目を入れても、やはり少しばかりは反る。じゃあ、隠し包丁のようなことは無駄な抵抗なのか?・・・分からない・・・ただ、最初から「反るもの」と覚悟しておくと、心も落ち着く(笑)。また、買い求めるときは「反っても格好よく、かえってヴォリューム感すら出るように、ほんの少しでも身の厚いもの」を求めるのがよろしかろうと、筆者は思っている。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る店でのウナギ蒲焼のパッケージの仕方は・・・。   
   
 トレーに、まずはタレや山椒のアルミ・パックだけが載せられ、その上からラップ包装。   
   
 このラップ包装の上にウナギ蒲焼が載り、その上からまたラップ包装。   
   
 買い物した客は(消費者は)、箸を片手にしつつ上手にラップを剥がしていけば、ウナギの身でも、タレ・山椒のパックでも、それらによって手を汚すことが無い。   
 若干ながらも「ラップ使用に伴う資源のムダ」と指摘する向きもあるやも知れないが、「気が利いてるな」と思った。   
   

Oh! Monday!



   
 「このところ」以上の長きにわたって、心底から「おっ、これ欲しい/聴きたい」というものに出会いにくい状況が続いてしまっている。   
   
 一応以上にしっかりとクラシック音楽を扱っている某CDショップにあってはフルトヴェングラー、クレンペラー、カラヤン、テンシュテット、チェリビダッケ、アルヘリッチらのセットもの・ボックスものなどを「お安くなってます、どうですか?」っぽく目立つように置いていたりするが、今の筆者は、しかし、それらのいずれにもそそられない。   
   
 先日はそれでも、ユリア・フィッシャー、アンドレ・ナヴァラ、アンナー・ビルスマのもので買い足したいものが思い浮かび、ディスクを探したが商品棚に無く・・・。  
   
 「うーん」と唸りつつ立ち去ろうとし・・・最後に、何を探し求めるでもなく、そして目の焦点距離を何に合わせようとするでもなく見渡すと・・・オーマンディ指揮による20世紀音楽作品セットが何かを訴えかけて来た。ソニーの12枚組商品であった・・・上の写真の右側(HMVでもアマゾンでも "ormandy" で検索すればわりと上位の順番で紹介される品なので、ここでは収録曲紹介などは省略させていただく)。   
   
 これだけの曲目/内容を、一揃いのセットで気軽に買えてしまうのが嬉しい・・・。   
   
 が、「さて、どれから聞こうかな」と大いに迷ってしまうのだ・・・「こういう迷いは、何だか久しぶりのことだな」と心も躍る。少しずつ聴いていこう。   
   
   
   
 写真の左のはサントリーの缶ビール。同じ名称のものが以前にもあってそれは自分の好みによく合うと感じた筈だが、いま売られているものも、あやふやな記憶と比較すれば個性が少し控えめになったかに感じられるが、とても美味いと思えた。   
   


雑記



   
 親たちの昼食として、ご飯ものでなく、一方には蕎麦を、もう一方には「うどん」を。   
 夜は、悪天候が予想されるも既に外食の予約(ショップ・オーナーは若く、料理の量が多い)をしてしまっていたので、昼食は軽めにした。   
   
 蕎麦・うどん、両者とも温かく・・・。具はワカメ・ネギのほかに、蕎麦については生玉子を、うどんについては湯にて白身・黄身ともきちんと固まらせた玉子を。   
 たとえ乾麺であっても、自分が美味いと感じる、また蕎麦粉含有率も高いものを使った・・・蕎麦粉は長野県産とのこと。   
   

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