2012-09

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人の感覚いろいろ(その4)



   
 (↑)今や、ついに市民権を得たばかりか超有名にもなったイカスミと魚介類を具にしたワンタン。外側が緑色したものはワンタンの皮にニラとターサイが練り込まれている。   
   
   
 ・・・というのはやっぱり嘘で、「生八ッ橋」。   
 八ッ橋の類についてはずっと前のこと、「本家西尾八ッ橋のを食べてみよ」と言われたことあるのだが、いまだに食べる機会を得られずにいる。   
 尤も筆者は甘党でないから、真剣にその機会を見つけようとは思っていないのだけど。   
   
 夜遅くにビールを飲んでいて、つまみに生八ッ橋に手を伸ばしたらミスマッチであった。この場合、組み合わせた自分がいけないのであって、ビールにも菓子にも責任は無い。  
   
 口にしたビールはアサヒの「ザ・エクストラ」350ミリリットル缶。特別限定醸造との表記がされている。   
 麦芽100パーセントのタイプのビールで、缶に印刷された説明には「最高級濃度のコク」、「アルコール度数 6.5 パーセント」、「良質なアロマホップ」等の言葉が見られる。甘い菓子と一緒に飲んでいたのでビールをきちんと味わえたか自分でも心許ないのであるが、このビールの味わいは、ちょっと不思議なものに思えた。   
 こちらとしては、麦芽100パーセントのタイプということで当然のように生じてしまう或る種・或るラインの期待がある・・・しかし、アサヒが提案する風味は大体の場合に於いて筆者の求めるものと違うのだということを失念していたから飲んでみて戸惑った。ホップのせいなのか、アルコール度数のせいなのか、表現しにくい独特のキレ感と清涼感を伴っているように感じたのだが、このキレ感や清涼感が、悪く言えば「ビール全体が水っぽい」ような印象すら与える瞬間が確かにあった・・・筆者個人の感想に過ぎないが。ゆえに不満も感じたわけであるが、しかし、麦芽感はそれなりにあって「悪くないかな」とも。トータルで「何とも不思議なビール」と映った。美味いかどうかと問われれば「美味い」。でも、何か余計な、ケチをつける言葉を発したくなるような、自分を落ち着かない気分にさせるビールである。無条件に「お、美味い!」と言ってしまいたくない気分にさせる何かがある・・・ビールを口にふくむたび、何か心地悪いキャッチボールを繰り返しているような感じがしたのであった。(以上、もちろん個人的な感想である。)   
   
 ビールを飲み終えたあと、今度はお湯割りした麦焼酎に替えたら、うむ、この菓子とわりと合うように感じられた。甘いものをそれほど続けては食べられないので、すぐあとには漬物などをつまんで飲んだが・・・。   
   
   
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 このところ夜はしばしば親世帯に出向き、介護の関係で徹夜または半睡状態で過ごす時間が多い。   
 音楽を聴こうと思えばそれが可能な時間があるにはある・・・でも、気分は音楽鑑賞になかなか向かわない。また、ヘッドホン、インナーホンなどで聴くのを長年にわたって嫌ってきた自分にとっては、それらで音楽鑑賞することは実に心地悪くもあるのだ。しばらく前のこと、夜中にヘッドホンで聴いていたら、親がこちらに声を掛けていることにすぐには気づかなかった・・・気をつけたい(持ち帰り仕事を処理したり、ブログ記事などをしたためているのがどうも向いていそうだ)。   
 パイネマン/セル/クリーヴランド管によるブラームスのコンチェルトのライヴ音源があって、それはエア・チェック音源であるため音質的に残念なものがあるのだが、以前スピーカーで聴いていて「あれ? ひょっとして左右チャンネル音が逆かなあ」と思ったことがある・・・それをヘッドホンで確認しておきたいと思ったのだが、そんなことすら果たせずにいる。   
 グレン・グールドが残したレコーディングを、或る理由から意識的に聴かなくなってしまったのであるが、このほどソニー・レーベルからリリースされた新商品ラインナップを目にしたら我慢できなくなってブラームス、ギボンズ、バッハのものなどを再度(というか3度目かそれ以上かな)買い求めることになった・・・まだ聴き直していない。グールドの、人気も高いモーツァルトについては、昔から好んだり遠ざけてみたりを幾度も繰り返した末に、今現在、あの演奏にはやはり寄り添えないだろうなあ。   
   
   
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 「埼玉」、「名古屋」、「卓球」。   

 ・・・相互に無関係であるかに見えて、しかし、共通点がある。タレントのタモリ氏によってマイナス・イメージが与えられてしまったであろう過去。これは、過日のロンドン・オリンピックでの卓球の試合を見ていて思ったこと。   
   
   
 昔、筆者は愛知とか名古屋とかについては「両口屋是清」の和菓子から勝手に膨らめてしまった独特のイメージを持っていた・・・それは「憧れ」などとはちっとも違うのだけれども、しかし、かなり良いイメージ。   
   
 それが、タモリ氏の言葉によってイメージは変化し、自分のなかの「名古屋」像は歪み、きしんでしまった。   
 今だって、拠点責任者会議の場などに名古屋の、わりと素敵な女性が参加して来ると、「この人も自宅などでは“海老フリャア”などと喋っているのかなあ」と、どうでもいいようなことをついつい考えてしまうのである・・・もちろん、そんなことなど当人の人間性とは関係も無いのだけど・・・こういう雑念をどうすればいいのかな。   
   
 「尾張小牧」ナンバーのクルマを目にすると「何かいいよな」と思う。「尾張」に風格がある一方、「小牧」という地名が帯びる「音」的な軽み・・・そのコンビネーションがよいと、筆者は感じるのだ。これは勿論、関東育ちの自分が感じることであり、でも、しかし、小牧については仕事上そのほかで全く縁が無いわけでもない。筆者とはまったく異なる意見があるかも知れないが、でも、「尾張小牧」というのは、何か、よいのだよなあ。   
   


人の感覚いろいろ(その3)

   
 子供の頃も、そして今だって、買い物を頼まれれば時間が許す限り、あるいは「出歩くついでに」の感覚で気安く応じる。   
   
 売り場をめぐるスピードは自分にとっては大切なこと。ゆえに、買い物すべきものの内容から「こういう買い物なら、やはりあのスーパーが良かろう」と決まってしまう場合において(買い物する品に鮮魚が含まれるならばあの店が良かろう、雑貨類はあの店は概して割高な記憶があるよなあ等、それぞれの店には特徴があるものだ)、買い物すべき品のメモが、行こうとする店の「売り場スペースの順」と一致していない場合はほんのちょっとだけ憂鬱になる。   
 たとえば、売り場コーナーの並び順が「魚類-肉類-食肉加工品・・・」となっている店で買い物しようとする場合、買い物メモに「ハム、ブリかサワラか何かの切り身の魚、豚肩ロース肉」と並んでいればメモを添削する・・・普通に文章添削する場合の「語順入れ替え」と同様の記号を書き加えるわけだ。   
   
 また、パッパッパッと売り場をめぐるためには、魚でも肉でも「どのトレー/パッケージを選ぶか」の決定を素早くしたい。それでも、しかし、たとえば豚ロース肉薄切りを買い求める場合であるならこんなことをサッと考えて買い物する:   
   
 「このへん一帯が300グラム前後のトレーなんだな。ん、手前のこのあたり、賞味期限が向こうより1日早いな・・・昨日の売れ残りか・・・ならば、あのへんは・・・よしよし、あのへんから選ぶか。俺は脂身部分が少ないものを好むからこれなんかがよいと思うのだけど、ほかの人にとってはこれは少ないと感じるだろうからな・・・ならば、よし、これにしておこうか、それが世の標準感覚なんだろうな」みたく・・・。   
   
 野菜・果物は価格変動が大きく、したがって「このくらいの値段なら、ま、適切な値段だな」との判断も加えつつ品物の点検・選択を素早く進める:   
   
 レタス: しっかり持ち重りがして、ついつい「お値打ち」という言葉が思い浮かぶ品   
 グレープフルーツ: 手のひら上でポンポンと弾ませたくなるような軽さを感じる品   
 ニラ: 下端の切り口に段差が見受けられる品   
 ナス: ヘタの切り口が茶色・黒色をしている品   
   
 ・・・などなどはなるべく、あるいは絶対に避けるようにしている(でも、ひょっとすると誤解もあるかも知れないが)。   
   
 で、プラスチック製の網に載ったナスの全体を観察しつつも切り口の色合いなどチェックしていると、すぐ脇でやはりナスを買おうとしているどこかの奥さんがこちらの様子を不思議そうに見ていることがあるのだよな・・・そして首をひねりながら同じように切り口をチェックしようとナスを転がす。こちらが神経質に過ぎる、割り切った買い物が出来ない、そんな少数派なのだろうかと、ときどき思うこともある。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 しかし、最近は、そんなにせわしなく買い物しなくなっているかな。自分以外にも中年オヤジの姿を発見することはちっとも珍しくないので、何というか「家庭の、所帯じみた買い物するのは気恥ずかしい」的な感覚が薄れてしまったとも言える。   
 で、どこかの棚の前でちょいノンビリしたりすると、70歳くらいのオバサマに声を掛けられたりもする:   
   
 「ソースはどの製品を使っていますか? おいしいのが無くて」   
   
 うーん・・・棚をパッと見渡すと、自分のうちで使っているのと同じ銘柄のものが見当たらない。「うちでは○○のを使っていますが、ここには無いようですね・・・近所だと確か××には置いていたような気が・・・。お口に合うかどうかは分かりませんが、わたしは好みが今風でないものだからあれなら許せるという感じで嫌いではないです」などと会話することになる。   
   
 「自分は背が低くて届かないから・・・」ということで、棚の高い位置にあるナントカいう香辛料を取ってくれと、上品このうえないお婆さまから声を掛けられたこともある。手前のと奥のと2本を取り、「ああ、やっぱり奥のものが品が新しいですね」と言いながら渡してあげたことがある(商品の先入先出が徹底していないと手前側が新しいこともある)。しかし、あの人は、きっと筆者が口にしたことないような料理をこしらえるのだろうなあ。  
   
   
 買い物している奥様方には面白い人がいたりする。   
   
 かなり前のこと、イワシがとても安いことがあった。全体サイズも体の膨らみ具合も、そして頭部・眼の透明感や体の色合い、尻の部分からちょっとだけ覗ける内臓の色合い・しっかり感といい、ラップの上から腹を指で押さえてみる必要もない、ちゃんとしたイワシが3尾で200円くらいだったかな。(イワシは、鮮度がよくてそれなりのサイズなら塩焼きが、また、鮮度がイマイチだったり、あるいは鮮度に拘わらずサイズ的に寂しいものは煮付け(煮汁に梅干を落とすも良し)が好ましいと思っている・・・イワシの刺身も美味いけれども家庭でそれを手際よく実践できているケースは実際のところ少ないのではないかと想像する。)   
 ま、ともかく、身も大きくて美味そうなイワシが安かったわけである。どこかのリッチそうな夫婦がそれを前にして、その奥様らしき人は一言、「あら、イワシ・・・高いわね」と言った。   
 驚いた。この人たちは一体・・・姿格好に似つかわしくない不思議な金銭感覚を持っているなと思えた。   
   
 では、あの人たちは何を幾らくらいの値段なら買うというのだろう・・・。   
   
 その答えはすぐ明らかになった。   
   
 イワシが置かれたコーナーのすぐ向こうへと移動した彼らは、買い物カゴにカニを入れた。   
   
 思うに・・・彼らが育った時代ななどの感覚で「イワシなんぞにこの値段は高すぎる」という意味で「高いわね」と言い放ったのではあるまいか。   
 いずれにせよ、筆者はイワシの塩焼きが好きだ。    
   
   
 スーパーで買い物していて、70歳前くらいの女性に声を掛けられた。手にしている商品にはシールが貼られていて「レジにて(表示価格より)30パーセント引き」と書かれている。女性は「これは、この値段から30パーセント値引きしてくれるという意味ですか?」と筆者に尋ねた。   
 筆者は、「そういう意味だと思いますよ。今日の日付が○○日でしょ、この品は加工日が昨日で賞味期限が明日に迫っているのでそういうサービスなんですね、きっと」と答えた。   
 女性は、「あら、いやだ!」と言って、商品を棚に放り投げた(文字通り、放り投げるようにして元の位置に戻したのであった)。値段のことはおいておくとして、出来るだけ新鮮なものを求めたいという感覚はよく理解できるし同感である・・・しかし、この女性のこの反応・所作には驚いた。   
   
   
 「あら、いやだ!」と言えば・・・。   
 やはりスーパーにて・・・。   
 「さつまあげ」がバラ売りされているコーナーがあった。客は、トング(パンその他を挟むのに使う金属製の道具)で買いたいだけポリ袋に入れる。   
 或るオバチャンが、さつまあげを袋に入れようとしたところで誤って一つを床に落としてしまった。   
 オバチャンは「あら、いやだ!」と声をあげ、落ちた品を手でつまんでそれを商品ケースに戻した・・・事情を知らぬ他の客が買っていくことになるわけだなあ。ずっと昔に読んだ向田邦子女史(故人)のエッセイにあった「見ぬもの、清し」だったかの言葉が頭をよぎった。   
   

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