2012-05

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A thirsty man is of the earth, earthy.



   
 乾麺で売られている蕎麦も、それをぞんざいに選ぶのでなく、出来るだけ「蕎麦粉」の含有割合が大きいものを選びたいものだと筆者は思う・・・しかし、もちろん、「そのように心掛ければ当たり外れが皆無である」とは言い切れないけれども。   
 うちで、「これは(値段が)高めだったから、美味しいかもね」と言われても、さて茹でて食べてみると大したことないこともありはする。ここ最近は、そこそこ納得いくものに巡りあえている感があるのだが、それは何故だろう・・・味の問題は、「石臼びき」どうのこうのも大事だろうけど、当然ながら、原料原産地に於ける、蕎麦の収穫年ごとの出来不出来とその保管コンディションなどに大きくく影響されるのではないか・・・どうかな。   
   
   
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 やがて暑い夏がやって来る。   
   
 暑さの到来は案外と早いかも知れないな。昨夏は、6月に、どこかの学校の運動会で熱中症患者が出たのではなかったか。   
 地球温暖化のせいなのか、梅雨冷え(つゆびえ)みたいなことも稀になって・・・。6月下旬の株主総会ともなれば「傘立て」が足りるかどうかも大事なチェックポイントであるが、しかし、今日、会場の冷房温度のことを考えつつ熱中症患者が出たらどうするかという想定までしていたり・・・。   
   
 それこそ律儀に、マジメ一筋に生きて来た高齢者などが、世を挙げての節電に、まるで「命を賭して」といった具合にまでして冷房利用をガマンする場面も予想される。しかし、人は不死身ではないのだ。   
 おそらくテレビなどはこの夏も「水分や塩分のこまめな摂取」を呼びかけるであろう。だが、「ほどほどで適切な冷房利用」もしっかり呼びかけて欲しいと、筆者は思う・・・そういう冷房利用と引きかえに、熱を遮断するためのカーテンをちゃんと利用しましょうね、観ないテレビは消しましょうね、などと、何かの心掛けや交換条件を訴えれば、冷房利用とともに生じうる「罪悪感」も少し減るのではないか・・・。   
   
 総電力消費、またはピーク時電力消費を抑えるために、「計画停電」ならぬ「計画停波」をNHK、民放の差別なく一斉実施させてもよかろうにと思ったりする(政府からの「要請」という形か)。ただ、「緊急事態・有事に備え、テレビはいつでもつけっぱなしにしていたい」という人もいるだろうし、本当に何かあったときに国はどう責任をとるのかは問題になりうる・・・それならばNHKのみに計画停波を免除し、そのかわり本来「計画停波」とすべき時間中は面白みのある番組は一切禁止としてたとえば新宿高層ビル群の様子の中継映像などだけを認め(緊急事態が生じればニューススタジオからの放映に切替)、と同時に、各民放はそれぞれの判断に応じていつでも放送可能なスタンバイ状態にしてもらうとかではどうか。   
 しかし、民放のコマーシャル収入減となりかねないから、それは難しいかな・・・だが、固定費削減努力などで何とかならぬのか。   
   
 ピーク時電力消費を抑えるべく、高校野球中継は何時間かの時差をつけて、また、さらにはダイジェストにしてのみ放送するとかは不可能なのかなあ。極言すれば、たとえば、追い込まれた打者が粘ってファウルを5本打ったのちにヒットを放つとする・・・結果論としてそのファウル5本ぶんの放送と受信/観戦については「どちらかと言えば」意義は小さくないか? 投手が1累ランナーを牽制したところが、特にアウトに出来たわけでもなく、かと言って暴投したわけでもなく・・・この間のやりとり・時間の価値はどうか? 「そんなこと言って放送カットしたら、ハラハラドキドキの感興が減じる」と叱られるかな。試合を総括して解説者が「実にいい試合でしたね。両者粘っての、これだけの苦しい試合のなか、ピッチャーの○○君、根性が座っていましたね、試合を重ねるごとに一回りずつ大きくなっていく感がありますね」の言葉にも、視聴者の「同感!」の反応はイマイチなものとなるか?    
 ほか、たとえば、攻守交替時の時間の価値は、選手交代時に生じる空白時間の価値はどれほどなのか?   
 選手やその家族・関係者にとって、甲子園出場の意味はとても大きいと思うのであるが、しかし節電が真剣勝負だと本気で言うのなら、一応の検討はされてよい問題ではなかろうか。   
   

A Notorious Note-Taker


   
 ありきたりに過ぎる文房具のひとつ、ノート( notebook )の価値が、社会人の間でも最近また見直されているようで、これは色々な意味で良いことなのだろう、おそらく。   
   
   
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 ノートの思い出・・・。   
 ノートは、小学生のときは常識的にというか、「ほかの人と同じ具合に」使っていた。   
   
 中学生になると、なぜなのか自分でも理由が分からないが、ノートのページに印刷されている罫線を完全無視して、つまり、あたかもそのような罫線は印刷されておらず完全な白紙であるかのように見なして使うようになった。「ノートというものは使い手が主人公なのだ。こういう幅の罫線で良しと考えた文具メーカー企画者の、その考えに従って使用する必要はあるまい」という自我の目覚めであったのだろうか・・・いや、そんな理由・情動では決してなかったと思う。   
   
 ノートのページを白紙と見なして使うとはどういうことか・・・書く文字は罫線の上をまたぐし、罫幅よりもずっと大きな文字で書いたりもした・・・数学の数式では、人は時折それに近いノート利用をする場面もあろうが、筆者の場合は文章でもそんなふうにノートを大胆利用していた。斜めに書くこともよくあったかな。黒板のほうばかりを見て、書く手許をあまり見ていなかったことも原因になったか。文具店には完全無地のノートもあったと思うのだが、でも、そういうものは使わなかった。(英語のための、筆記体で書くことを想定したラインが入ったノートはちゃんと正しく使ったが・・・あれは確か、時々ノート提出させられたし)。   
   
 高校生になった途端、幾つかの教科について「予習ということをしないといけないな。授業であてられても答えられないだろうな」と感じた。そうして「予習」をするようになると、今度は「授業というものは、自分の理解・考え・想像が正しいかどうか、答え合わせする場に過ぎないのだな」と思え、また、ノートをとる必要性を感じなくなってしまった・・・むしろ教科書の余白にちょこっとメモを書き入れるほうが効率的であった・・・不精でもあって、英語でも古文でも、文具の「単語帳」というものを買ったり、記入したりなどしたことがなかった。   
 ノートの利用が劇的に減ったわけだが、ただ、例外的に、日本史・世界史・地理の授業では、教科書の範囲を遥かに超える内容を先生は機関銃のように喋るものだから、それを適宜、頭のなかで要点整理しつつノートに忙しく書いた・・・その書きっぷりも、さきほどのような「罫線を無視して、字は大きく」だったりしたうえ、消しゴムを使って書き直す時間が惜しいからそういうときは抹消線で・・・筆者からノートを借りてコピーした友人はこんなことを言った:   
   
 「文字がデカくて何ページにもわたるノートをコピーすると金がかかる。このページなんか実質4行しか書いてないじゃないか。おまけに字は汚いし、罫線と重なっているとコピーしたときに本当に読みにくい。今度から罫線に合わせて字を書いてくれ」(筆者の世代だと、他人のノートを写す、ましてやコピーマシンで楽チンになど、親がいい顔をしない時代であったから、今日ほどには安くなかったコピー料金を彼は自分の小遣いから出していたであろう。)   
   
 「これ何て書いてあるの? ああ、そうか・・・ひでえ字だなあ。 「ヴェ~体~」って、これ何? ああ、ヴェルサイユ体制ね、なるほど。 これは?  "deprive" ? どうしてわざわざ英語を使うんだよ? 剥奪の“剥”という漢字が書けなかったからぁ? 仮名で書いてくれればこっちも分かりやすいのに。読むのに疲れるノートだなあ」   
   
 ノートはそもそも自分のため。上のように言われても平気の平左であった。   
   
 大学生になっても、ノートはそんな使い方を続けていた。或る修練を思いついて、日本語と英語の混在は増した。それは単語を忘れまいとする気持ちも少しあったが、メインの意図はそれとは違うものであった。動詞だけでも英語を用いると、書く内容はおのずとたとえば「主語・述語・目的語/補語」の順序にしたくなる(受身形の語順になることや、あるいは "It" を主語としてすべて英語になってしまうことも実は少なくなかったが)・・・そういう語順にて物事をとらえる・表現することを身に染み込ませてしまおうとしたのだ。いまの自分がとるメモなどでも、日本語に交じって英語はよく交じる・・・ "depend(s) upon" やら "provided/if/when" やら、また、自分の頭の中に非常にしばしば浮かぶ日本語に対応する "presumably" とか。   
 ただ、いまの若い人たちに、上のような中途半端な英語関係の修練を勧めたいとは思わない。しかるべく上達したいのであれば、やはり、ちゃんとした英語学校・英会話学校に通う、ネット上のサービスを使うなどが適切であろうし、「この表現は硬い、古すぎる、あるいは礼を失する」、「単語・言い回しごとのニュアンスの差」などなどの判断力・知識を得るにも効率的なのではあるまいか。   
   
   
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 で、いま現在、筆者はどんなノート活用をしているか・・・。   
 その前に、寄り道をしたい。   
   
 いわゆる“ To Do リスト”には、どこまで網羅して書き込むべきなのか?    
 それは人それぞれ・・・ルーチンワークがほとんどを占める人、検討案件やプロジェクトを幾つも抱えたり進捗管理対象が多数にのぼる人、いろろであるから。   
   
 筆者の場合、“ To Do リスト”にはそれほど多くを記入する必要が無いように感じている。それはこういう流儀・前提があるから・・・。   
 検討テーマなどのそれぞれに対してひとつずつのクリアフォルダを用意してそこに資料を収める。また、自分で思いついたばかりの、あるいは仰せつかったばかりのテーマで、まだ資料など何も用意できていない案件については白紙にテーマ・タイトルを走り書きして、それを、やはりひとつのクリアフォルダに放り込む。   
 そういう幾つものクリアフォルダを、たとえば朝一番に「今日はこの順番で処理したり、進捗チェックしていこう」と、重ねる順番を考える・・・「この件、電話でプッシュして早めに基本の報告を得ておかないと」と思った案件のフォルダは上(手前)に置いたり、並べ置いたりする。   
   
 こんな具合にクリアフォルダを利用していれば、場合によっては「“ To Do リスト”など不要」ということにもなりうる。ただ、案件によっては帰宅途上や自宅でも想を練りたいものもあるから、そういうものだけは“ To Do リスト”や、さもなければダイアリーのどこかにメモするのが適当だと考える・・・風呂に入っているとき、酒を飲んでいるときなどに、何かを「ひらめく」とか、「そうか、あの人が意味深げに言っていたのはこういうことか」と「気づき」が訪れることがあるから、オフタイムにおける思考・思索はバカに出来ない。   
   
 事務系職の場合、自分がこなした業務/実績を整理して日報・週報など作ることが求められていないというケースもまだまだ珍しくないと想像するが、それだとたとえば賞与査定や昇格査定に向けて自己アピール(実績や自分の成長を並べてアピール)するときなどに「俺は/わたしは、この半年/この3年間にどんなことを処理し、やり遂げたっけ?」と困惑する場合も無くはないだろう・・・そのために、常日頃“ To Do リスト”にはしっかり網羅記入したうえ、それをすぐに捨てるのでなく保管し続けるのも意味はあろうか。(筆者の勤務先にあっては、あの「3.11」のあとは混乱も続き、「俺は/わたしは、言われるままに色々なことでやたら忙しかったことだけは覚えていますが、その内容が何だったのか、何に達成感/満足感を覚えたのか、記憶があまり無くて」と報告する若手が何人もいたようだ・・・しかし、それでは各部門長は査定書・評価書を完成できないから、「彼/彼女に何をしてもらい、何が滞りなく進んだか」を思い返して手を差し伸べなくてはならないという事態も生じた。)   
   
 さて、いま現在のノートの活用方法であるが・・・。   
 普通のノートは普通にしか使っていないが、むしろ、「それほどには活躍させていない」と言うべきか。   
 ノートよりも有効活用しているのは、コピーマシンやプリンターの脇から持ってくる未使用の白紙。これにパンチ穴をあけてからクリアフォルダにストックしておく。その紙に何を書くかといえば、普通ならばノートに書き入れるようなアイデアや会議の要約メモ、或る結論に至るまでの根拠データ、根拠法令、会計論理、税務解釈、それらをもととした判断の筋道、また、自分の思考整理のためや誰かに説明するための図解・・・。複数枚にわたるときは手書きでページを打つ(1/5、2/5・・・みたく)。   
 ミシン目入りノートというものもありはするが、上のような白紙だと、ミシン目から切り取る手間が要らず、書いたそばから書類保管ファイルに収めることが出来る(そのままきっちりA4なのも都合よい)。また、誰かにコピーさせるにも、ノートの場合のように「ほかのページはめくられたくないな」などと気にする必要が無い(社内でも、こっそり秘密裏に進行していく案件などはあるものだ・・・何かの間違い・出来心でインサイダー取引のようなことが生じてしまう可能性を警戒しなくてはいけない)。   
   
 こういうブログの気楽な文章と違って、文章骨格、論の展開によく気を配りながら文章を書こうとするとき、あるいは何か喋ろうとするときの準備には、ノートでなく、やはり上のように白紙を利用することが多い。   
 内容の大項目や小項目をポストイット(付箋)1枚1枚に書き出す。それを白紙の上に貼っていき、記述順序、叙述順序を考えて確定し、それをコピーするか完全透明なクリアフォルダに収める。そうしてからワープロ打ちしたり、あるいは、プレゼン/講義めいた「喋り」に備える場合には時間配分など考えつつ話に加える具体的事例、エピソード、余談内容などを手書きで追加メモする。   
 かつてのことであるが、他人にパワポで資料を作り始めてもらったものの、しかし、その資料とするべき一部データの入手が間に合いそうもないということがあった。結局パワポ資料の順番入れ替えは大幅になり、ほか内容変更も生じた・・・同時にこちらはポストイットの貼り付け順を変更するなどしたわけだが、特に混乱を覚えることもなく「喋り」を進めることが出来た。   
   

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クラシカルな某

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