2012-05

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「あっ、あっ、・・・あーあ」

   
 コンビニで買い物したとき、釣り銭に交じった1円玉をレジ脇の義援金ボックスに投入しようとしたのだが、誤って100円玉も・・・。   
   
 その100円はムダになるわけではないし、「意味あることに使われるのだから、良いことをした」に相違ないのだけれども、でも正直なところ微妙に「不本意」な感覚が・・・。ま、気持ちにケリがつくのは早かったが。   
   
   
   
 最近、電子マネーを使うことが多い。それでポイントが付くのが魅力だと言う人もいるが、現金のやりとりが無いのが一番便利で魅力的なところだと思う。しかし・・・。   
   
 たとえば代金が1,286円だとする。先日、これを電子マネーではなく現金で支払おうとした。こういう場合、いきなり1000円札2枚で支払おうとする人もいようが、筆者は常に「手もとの硬貨の枚数が少なくなるように。財布は平べったいほど好ましい」と考えているものだから、財布のなか、端数の286円ぶんピタリの硬貨を用意できるか覗く。   
 ピタリの用意をできないことはよくあるが、そのかわり例えば1,341円を出せば55円の釣りが貰えて手もとの硬貨枚数が減るわいと考える。   
 先日はその種の、幾らを出して渡すのが自分にとって合理的かという計算がすぐ出来なかった。電子マネーを利用する頻度、またクレジットカードを使う頻度が増えると、人間の頭は悪くなるかも知れないなあ。   
 もちろん、頭は色々なこと、多様なことに使うものである。たとえ計算能力が衰えても、また、ワープロ使用とともに漢字を思い出しにくくなっても、それで悲嘆する必要はなく、ほかのことにもっと頭を働かせればよいとも言えるのだろうけど。   
   

レコードは「まっすぐ置き」が、アサリはあっさりが、よろしいかと



   
 写真の、左のと真ん中のは缶入りの出来合いカクテル飲料。かなり強く冷やし、グラスも冷やし、氷は加えずに飲んだ・・・それぞれに美味いと思えた。   
 真ん中のはモヒート。ラム酒は、種類にかかわらず常温・ストレートで飲むことがほとんどなのだが、この缶入り製品の仕上がりは筆者の好みによく合った。   
   
 右端のは桃のジュース(加糖)。自分でカクテルを作るという「お遊び」に用いたまで。   
   
   
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 「よしよし、元気じゃのぉ。そのうち風呂に入れてやるから・・・いや、違った、サウナで酒も一緒に楽しんでくれ」と、頭のなかで独り言した・・・。   
   
 過日、土曜の昼下がりにアサリ(浅利)その他を買ってから老親のもとへ。   
   
 塩水(塩分濃度はかなりテキトー)を張った鍋にアサリを入れ、新聞紙をかぶせて砂抜きを・・・。しばらくして、新聞紙をちょっとめくってアサリが元気にしている様子を見る・・・こういうのを目にするのは久しぶりのことだが、アサリのあの味を思い浮かべて心が弾んでしまうのは相変わらず・・・ふと、自分は残酷な心の持ち主なのだろうかと思った。   
 アサリは、味噌汁にするのでなく、酒蒸しに。やがて、アサリにしてみれば生涯最初で最後の「酒つきのサウナ風呂」体験ということに相成る。   
   
 アサリの酒蒸しを自分で作るのは初めてであったが、首尾よく作ることが出来た。   
 昔、この料理の作り方を目の前で教えてくれたのは、某社の、一種の研修・保養施設の料理スタッフ責任者の人であった。某社は、その施設内の座敷を利用して、社外の人との会合・接待をすることもあり、筆者がまだ若い頃にも「お前は黙って俺の横で飲んでいればいいから」と言われて、接待される場に同席することが時折あった。   
 偉い人どうしの会話を聞きながら、頷いたりしつつも黙ったまま食べて飲むというのは、案外つらいものがある。それでも、出される料理が「どれもこれも、やたらに美味いな」と感じたから、配膳などしてくださるスタッフの人にそういう感想を漏らしたこともあった。   
 或る晩のこと、やはり同様に飲食していると、「厨房にどうですか?」と声を掛けられ、せっかくだからとそちらへ・・・。その日は別件の接待も行われていて、某社の偉い方はアサリの酒蒸しをお気に入りなのだと聞かされた。それで、この料理を含め、幾つかの料理を目の前で作ってみせてくれた。   
 どうしてあのとき、あの場に呼んでくれたのか、理由は分からない。あれから二十何年経って、こうしてアサリの酒蒸しを自分が作ることになるなどとは予想もしなかったが、不思議な気分と、そして感謝の気持ちとがミックスしたような、ちょっと妙な心持ちになった。   
   
   
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 アサリの酒蒸しを作り終えたとき、「日本酒以外の酒を使うこともありえぬことではないよな」、「和食スタイルだけでなく、洋風、中華風、エスニック風にも、多様なヴァリエーションが可能だよなあ」と思った。   
 料理本を見たら、なるほど色々ある。「ああ、でも、料理に深入りするのはやめておこう。それと、やはり、どうも、和食でないものにはどこか気にいらない部分があるな」などと考えた・・・何と言うか「厚塗りの調味」になりそうなことに抵抗を覚えてしまうのかな。   
 ふと、アサリの砂抜きの仕方を説明した個所に目をやると、アサリをガラス製のボウルに入れている写真が載っていた。そして、新聞紙をかぶせるなど薄暗くせよとか、そういうことは書き添えられていない。こういう方法でも大丈夫なのだろうか。疑問に思った。   
   
   
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 「しょうゆしょうゆした味」と、頭の中で表現することがあるのだけど、これは自分だけだろうか。   
   
 しょうゆ味の煮物をつくるときの煮汁・・・しょうゆの量については最初「これだといくぶん少なめかな」といった程度を注ぎ入れ、そこで味見してみてちょっと追加していくということを自分はする。そのように追加するとき、「もうちょっとしょっぱいほうがいい、でも、これ以上しょうゆ風味が強くなるのは何だかイヤだな、食塩を加えることにしてみようか」などと思えば、食塩を煮汁に入れ・・・。   
 しょうゆ風味が強く出すぎているのを、いつの頃からか自分は「しょうゆしょうゆした味」と表現している。佃煮のようなものは、しょうゆの風味が弱すぎると美味くない場合もありはすると思っているが、おでん、うどん、魚の煮付けなどをはじめ多くの料理では、しょうゆ風味が或る程度以上に際立つのを好まない。   
   
 というわけで、しょうゆ・塩は併用/同時使用することのほうがむしろ普通ではあるまいかと思うようになっているのだが、幾つかの料理本をパラパラめくると、あれれ、そういう併用を示したレシピ例が案外と少ないように感じた。   
 いや、でも、しょうゆメーカーや銘柄によって、含まれる塩分も、また、しょっぱさ成分以外の、つまりは、「しょうゆ“ならでは”」の風味要素のあんばいも異なるであろうし、そのへん、料理本の著者などはどう考え、また、それを参考にしながら料理を作る人たちはどう考えているのだろうか。   
 自分自身が「美味い」と感じるものに仕上がるように適宜に加減調整すればよいのだと思っているのだが、それにしても、しょうゆ・塩の併用を示すレシピの少なさはどうも気になる・・・自分の味覚は、どこかで決定的に「おかしい」のかなあ(笑)。   
   

故フィッシャー=ディースカウ氏のご冥福をお祈りします


   
 氏の、セルとの共演レコーディングについては「子供の不思議な角笛」(正規レコーディング)が世間ではよく知られている。   
   
 セルとの共演ライヴ音源としては「さすらう若人の歌」が残っている。これはおそらく1958年の10月30日または11月1日のコンサートに於けるものであろう(なお、下の画像中、ゲザ・アンダのCDは無関係)。   
   


雑記



   
 上のは或る料理本から。   
   
 材料リスト中に見える「あればせり」って何だろう、と一瞬思った。   
   
 「もし有るならば/店頭で見かけるようなことがあれば、(野菜の)セリも使ってね」ということなのだね。   
   

雑記

   
 ふだんは睡眠時間が極端に短く、したがって眠りが深くなるせいだろうか、眠っているあいだに夢を見ない・・・いや、見たとしても目覚めたときにそれを覚えていないだけのことか。   
 ゴールデンウィーク中、睡眠過多になったと思われるときがあって、そうなると何度か繰り返される睡眠サイクルの、その最終回あたりではレム睡眠時の「眠りの浅さ」はさらに浅いものとなるのだろうか、何度か夢を見た。   
   
 仕事や趣味と無関係に「やってみる機会が得られたら嬉しいな」と思っていることといえば、パワーショベルの運転操作、投資信託商品のネーミング・・・などがある。後者の「ネーミング」については、思いっきりダジャレを効かせたものを考えてみたいな。「地図に残る仕事」とは某ゼネコンのキャッチコピーであるが、しかし、仮に何年間かのあいだ一部の人の記憶にとどまるに過ぎないようなネーミングであったとしても、筆者にとっては面白がれると思うのだ。   
   
 テレビ・コマーシャルを作ってみたいという願望も持っていることを、先日見た夢で再認識させられた。   
 この願望に関しても、やはりコマーシャル中にダジャレを活用したい気がする。でも、それだけでもない・・・言葉で説明するのは難しい。たとえば、大東建託の「うち、家具屋っ!」のようなコマーシャル・・・ああいうを作りたいなあ。   
   
 夢の中ではなぜか、家電の「ハイアール( Haier )」のコマーシャルのための素案づくりをしていた。「栄(は)えあるハイアール」ほか、記念撮影時の「ハイ、チーズ」を「ハイ、アール」に変えてのシーンづくりなどに頭をひねっていたのだが、良い案が出なくて夢の中で唸っていた。   
   
   
   
  "Haier" というブランドと綴りを初めて目にするフランス人がいたら、どう発音しようとするかなあ。「エー」か「エエー」、「エ」か、それとも「エール」か。   
 「為替リスクをヘッジする」などというとき、フランス語ではどう表現するか知らぬけれども、そういう「ヘッジする」ことを意味する動詞なのではないかと、こちら日本人には思えてしまわぬでもない。   
   
 下のは、カタカナ表記はどうやら「ヘッジス&バトラー」であるらしいスコッチのブレンデッド。しばらく前にも紹介したが、それこそお手頃価格であるのに、好みが合う人にとっては結構魅力的に感じる品。チョコレートとコーヒーキャラメルをミックスしたような味わいも伴っている。それで、ストレートで飲む者にとっては一度に何杯も飲むと飽きる感じもするが、しかし、筆者自身にとって常備しておきたい酒のひとつと感じている。   
 このウィスキーには、ちょっとだけグレンファークラス、あるいはロヤル・ロッホナガーと共通する風味要素があると思う。そのロッホナガーは筆者が寄る酒販店には置いていない。しかし、急にまた飲みたくなり、「ならば、あのパブで飲もう」と思い立ったが、その日そこは運悪く休業していた。「それじゃあ、うーん、そうだ、あそこの店の棚にあったな、あそこで飲もう」と、別の店へ・・・そこは、「おいしい酒・珍しい酒」などを提供することが主眼でなく、女性スタッフとの会話(ただしカウンター超し)を楽しむ客のための店ではあるが、明朗会計であり、なおかつ、普通のパブ・居酒屋と大差ない料金設定なのである。だが、ロッホナガーのボトルは空いてしまっていた。   
 喋りの相手のスタッフは近くの学校に通う女子大生(自称。しかし、たぶん本当だろう)であった。もちろん柔らかい話題が中心であったが、硬い話としては、彼女いわく「英語で、ひとつの文章中に関係代名詞が2つ以上置かれることはない」・・・飲みながらのこういう話題も、悪くはないと筆者は感じる。筆者も確か昔、授業か何かでそういう説明を受けたことがあるのだよなあ。   
 しかし、その説は正しくない・・・店の棚に、おお、ちょうどアーリータイムズのブラウンラベルがあるではないか・・・ボトルを手に取らせてその横面に書かれている英文を読ませると、彼女は驚いていた。「こういう文章をいちいち読むんですか?」と訊かれたが、そりゃもちろん、保険の約款だって、薬の効能書きなどだってちゃんと読むさ・・・ただ、言い回しまで記憶にとどまっているケースは稀だけど。   
 結局その店ではバランタイン17年ほかのウィスキーと、カクテルのブラッディ・メアリを飲んだ・・・ありゃ、ロッホナガーとぜんぜん違う傾向の酒を選んだな。   
   


A thirsty man is of the earth, earthy.



   
 乾麺で売られている蕎麦も、それをぞんざいに選ぶのでなく、出来るだけ「蕎麦粉」の含有割合が大きいものを選びたいものだと筆者は思う・・・しかし、もちろん、「そのように心掛ければ当たり外れが皆無である」とは言い切れないけれども。   
 うちで、「これは(値段が)高めだったから、美味しいかもね」と言われても、さて茹でて食べてみると大したことないこともありはする。ここ最近は、そこそこ納得いくものに巡りあえている感があるのだが、それは何故だろう・・・味の問題は、「石臼びき」どうのこうのも大事だろうけど、当然ながら、原料原産地に於ける、蕎麦の収穫年ごとの出来不出来とその保管コンディションなどに大きくく影響されるのではないか・・・どうかな。   
   
   
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 やがて暑い夏がやって来る。   
   
 暑さの到来は案外と早いかも知れないな。昨夏は、6月に、どこかの学校の運動会で熱中症患者が出たのではなかったか。   
 地球温暖化のせいなのか、梅雨冷え(つゆびえ)みたいなことも稀になって・・・。6月下旬の株主総会ともなれば「傘立て」が足りるかどうかも大事なチェックポイントであるが、しかし、今日、会場の冷房温度のことを考えつつ熱中症患者が出たらどうするかという想定までしていたり・・・。   
   
 それこそ律儀に、マジメ一筋に生きて来た高齢者などが、世を挙げての節電に、まるで「命を賭して」といった具合にまでして冷房利用をガマンする場面も予想される。しかし、人は不死身ではないのだ。   
 おそらくテレビなどはこの夏も「水分や塩分のこまめな摂取」を呼びかけるであろう。だが、「ほどほどで適切な冷房利用」もしっかり呼びかけて欲しいと、筆者は思う・・・そういう冷房利用と引きかえに、熱を遮断するためのカーテンをちゃんと利用しましょうね、観ないテレビは消しましょうね、などと、何かの心掛けや交換条件を訴えれば、冷房利用とともに生じうる「罪悪感」も少し減るのではないか・・・。   
   
 総電力消費、またはピーク時電力消費を抑えるために、「計画停電」ならぬ「計画停波」をNHK、民放の差別なく一斉実施させてもよかろうにと思ったりする(政府からの「要請」という形か)。ただ、「緊急事態・有事に備え、テレビはいつでもつけっぱなしにしていたい」という人もいるだろうし、本当に何かあったときに国はどう責任をとるのかは問題になりうる・・・それならばNHKのみに計画停波を免除し、そのかわり本来「計画停波」とすべき時間中は面白みのある番組は一切禁止としてたとえば新宿高層ビル群の様子の中継映像などだけを認め(緊急事態が生じればニューススタジオからの放映に切替)、と同時に、各民放はそれぞれの判断に応じていつでも放送可能なスタンバイ状態にしてもらうとかではどうか。   
 しかし、民放のコマーシャル収入減となりかねないから、それは難しいかな・・・だが、固定費削減努力などで何とかならぬのか。   
   
 ピーク時電力消費を抑えるべく、高校野球中継は何時間かの時差をつけて、また、さらにはダイジェストにしてのみ放送するとかは不可能なのかなあ。極言すれば、たとえば、追い込まれた打者が粘ってファウルを5本打ったのちにヒットを放つとする・・・結果論としてそのファウル5本ぶんの放送と受信/観戦については「どちらかと言えば」意義は小さくないか? 投手が1累ランナーを牽制したところが、特にアウトに出来たわけでもなく、かと言って暴投したわけでもなく・・・この間のやりとり・時間の価値はどうか? 「そんなこと言って放送カットしたら、ハラハラドキドキの感興が減じる」と叱られるかな。試合を総括して解説者が「実にいい試合でしたね。両者粘っての、これだけの苦しい試合のなか、ピッチャーの○○君、根性が座っていましたね、試合を重ねるごとに一回りずつ大きくなっていく感がありますね」の言葉にも、視聴者の「同感!」の反応はイマイチなものとなるか?    
 ほか、たとえば、攻守交替時の時間の価値は、選手交代時に生じる空白時間の価値はどれほどなのか?   
 選手やその家族・関係者にとって、甲子園出場の意味はとても大きいと思うのであるが、しかし節電が真剣勝負だと本気で言うのなら、一応の検討はされてよい問題ではなかろうか。   
   

A Notorious Note-Taker


   
 ありきたりに過ぎる文房具のひとつ、ノート( notebook )の価値が、社会人の間でも最近また見直されているようで、これは色々な意味で良いことなのだろう、おそらく。   
   
   
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 ノートの思い出・・・。   
 ノートは、小学生のときは常識的にというか、「ほかの人と同じ具合に」使っていた。   
   
 中学生になると、なぜなのか自分でも理由が分からないが、ノートのページに印刷されている罫線を完全無視して、つまり、あたかもそのような罫線は印刷されておらず完全な白紙であるかのように見なして使うようになった。「ノートというものは使い手が主人公なのだ。こういう幅の罫線で良しと考えた文具メーカー企画者の、その考えに従って使用する必要はあるまい」という自我の目覚めであったのだろうか・・・いや、そんな理由・情動では決してなかったと思う。   
   
 ノートのページを白紙と見なして使うとはどういうことか・・・書く文字は罫線の上をまたぐし、罫幅よりもずっと大きな文字で書いたりもした・・・数学の数式では、人は時折それに近いノート利用をする場面もあろうが、筆者の場合は文章でもそんなふうにノートを大胆利用していた。斜めに書くこともよくあったかな。黒板のほうばかりを見て、書く手許をあまり見ていなかったことも原因になったか。文具店には完全無地のノートもあったと思うのだが、でも、そういうものは使わなかった。(英語のための、筆記体で書くことを想定したラインが入ったノートはちゃんと正しく使ったが・・・あれは確か、時々ノート提出させられたし)。   
   
 高校生になった途端、幾つかの教科について「予習ということをしないといけないな。授業であてられても答えられないだろうな」と感じた。そうして「予習」をするようになると、今度は「授業というものは、自分の理解・考え・想像が正しいかどうか、答え合わせする場に過ぎないのだな」と思え、また、ノートをとる必要性を感じなくなってしまった・・・むしろ教科書の余白にちょこっとメモを書き入れるほうが効率的であった・・・不精でもあって、英語でも古文でも、文具の「単語帳」というものを買ったり、記入したりなどしたことがなかった。   
 ノートの利用が劇的に減ったわけだが、ただ、例外的に、日本史・世界史・地理の授業では、教科書の範囲を遥かに超える内容を先生は機関銃のように喋るものだから、それを適宜、頭のなかで要点整理しつつノートに忙しく書いた・・・その書きっぷりも、さきほどのような「罫線を無視して、字は大きく」だったりしたうえ、消しゴムを使って書き直す時間が惜しいからそういうときは抹消線で・・・筆者からノートを借りてコピーした友人はこんなことを言った:   
   
 「文字がデカくて何ページにもわたるノートをコピーすると金がかかる。このページなんか実質4行しか書いてないじゃないか。おまけに字は汚いし、罫線と重なっているとコピーしたときに本当に読みにくい。今度から罫線に合わせて字を書いてくれ」(筆者の世代だと、他人のノートを写す、ましてやコピーマシンで楽チンになど、親がいい顔をしない時代であったから、今日ほどには安くなかったコピー料金を彼は自分の小遣いから出していたであろう。)   
   
 「これ何て書いてあるの? ああ、そうか・・・ひでえ字だなあ。 「ヴェ~体~」って、これ何? ああ、ヴェルサイユ体制ね、なるほど。 これは?  "deprive" ? どうしてわざわざ英語を使うんだよ? 剥奪の“剥”という漢字が書けなかったからぁ? 仮名で書いてくれればこっちも分かりやすいのに。読むのに疲れるノートだなあ」   
   
 ノートはそもそも自分のため。上のように言われても平気の平左であった。   
   
 大学生になっても、ノートはそんな使い方を続けていた。或る修練を思いついて、日本語と英語の混在は増した。それは単語を忘れまいとする気持ちも少しあったが、メインの意図はそれとは違うものであった。動詞だけでも英語を用いると、書く内容はおのずとたとえば「主語・述語・目的語/補語」の順序にしたくなる(受身形の語順になることや、あるいは "It" を主語としてすべて英語になってしまうことも実は少なくなかったが)・・・そういう語順にて物事をとらえる・表現することを身に染み込ませてしまおうとしたのだ。いまの自分がとるメモなどでも、日本語に交じって英語はよく交じる・・・ "depend(s) upon" やら "provided/if/when" やら、また、自分の頭の中に非常にしばしば浮かぶ日本語に対応する "presumably" とか。   
 ただ、いまの若い人たちに、上のような中途半端な英語関係の修練を勧めたいとは思わない。しかるべく上達したいのであれば、やはり、ちゃんとした英語学校・英会話学校に通う、ネット上のサービスを使うなどが適切であろうし、「この表現は硬い、古すぎる、あるいは礼を失する」、「単語・言い回しごとのニュアンスの差」などなどの判断力・知識を得るにも効率的なのではあるまいか。   
   
   
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 で、いま現在、筆者はどんなノート活用をしているか・・・。   
 その前に、寄り道をしたい。   
   
 いわゆる“ To Do リスト”には、どこまで網羅して書き込むべきなのか?    
 それは人それぞれ・・・ルーチンワークがほとんどを占める人、検討案件やプロジェクトを幾つも抱えたり進捗管理対象が多数にのぼる人、いろろであるから。   
   
 筆者の場合、“ To Do リスト”にはそれほど多くを記入する必要が無いように感じている。それはこういう流儀・前提があるから・・・。   
 検討テーマなどのそれぞれに対してひとつずつのクリアフォルダを用意してそこに資料を収める。また、自分で思いついたばかりの、あるいは仰せつかったばかりのテーマで、まだ資料など何も用意できていない案件については白紙にテーマ・タイトルを走り書きして、それを、やはりひとつのクリアフォルダに放り込む。   
 そういう幾つものクリアフォルダを、たとえば朝一番に「今日はこの順番で処理したり、進捗チェックしていこう」と、重ねる順番を考える・・・「この件、電話でプッシュして早めに基本の報告を得ておかないと」と思った案件のフォルダは上(手前)に置いたり、並べ置いたりする。   
   
 こんな具合にクリアフォルダを利用していれば、場合によっては「“ To Do リスト”など不要」ということにもなりうる。ただ、案件によっては帰宅途上や自宅でも想を練りたいものもあるから、そういうものだけは“ To Do リスト”や、さもなければダイアリーのどこかにメモするのが適当だと考える・・・風呂に入っているとき、酒を飲んでいるときなどに、何かを「ひらめく」とか、「そうか、あの人が意味深げに言っていたのはこういうことか」と「気づき」が訪れることがあるから、オフタイムにおける思考・思索はバカに出来ない。   
   
 事務系職の場合、自分がこなした業務/実績を整理して日報・週報など作ることが求められていないというケースもまだまだ珍しくないと想像するが、それだとたとえば賞与査定や昇格査定に向けて自己アピール(実績や自分の成長を並べてアピール)するときなどに「俺は/わたしは、この半年/この3年間にどんなことを処理し、やり遂げたっけ?」と困惑する場合も無くはないだろう・・・そのために、常日頃“ To Do リスト”にはしっかり網羅記入したうえ、それをすぐに捨てるのでなく保管し続けるのも意味はあろうか。(筆者の勤務先にあっては、あの「3.11」のあとは混乱も続き、「俺は/わたしは、言われるままに色々なことでやたら忙しかったことだけは覚えていますが、その内容が何だったのか、何に達成感/満足感を覚えたのか、記憶があまり無くて」と報告する若手が何人もいたようだ・・・しかし、それでは各部門長は査定書・評価書を完成できないから、「彼/彼女に何をしてもらい、何が滞りなく進んだか」を思い返して手を差し伸べなくてはならないという事態も生じた。)   
   
 さて、いま現在のノートの活用方法であるが・・・。   
 普通のノートは普通にしか使っていないが、むしろ、「それほどには活躍させていない」と言うべきか。   
 ノートよりも有効活用しているのは、コピーマシンやプリンターの脇から持ってくる未使用の白紙。これにパンチ穴をあけてからクリアフォルダにストックしておく。その紙に何を書くかといえば、普通ならばノートに書き入れるようなアイデアや会議の要約メモ、或る結論に至るまでの根拠データ、根拠法令、会計論理、税務解釈、それらをもととした判断の筋道、また、自分の思考整理のためや誰かに説明するための図解・・・。複数枚にわたるときは手書きでページを打つ(1/5、2/5・・・みたく)。   
 ミシン目入りノートというものもありはするが、上のような白紙だと、ミシン目から切り取る手間が要らず、書いたそばから書類保管ファイルに収めることが出来る(そのままきっちりA4なのも都合よい)。また、誰かにコピーさせるにも、ノートの場合のように「ほかのページはめくられたくないな」などと気にする必要が無い(社内でも、こっそり秘密裏に進行していく案件などはあるものだ・・・何かの間違い・出来心でインサイダー取引のようなことが生じてしまう可能性を警戒しなくてはいけない)。   
   
 こういうブログの気楽な文章と違って、文章骨格、論の展開によく気を配りながら文章を書こうとするとき、あるいは何か喋ろうとするときの準備には、ノートでなく、やはり上のように白紙を利用することが多い。   
 内容の大項目や小項目をポストイット(付箋)1枚1枚に書き出す。それを白紙の上に貼っていき、記述順序、叙述順序を考えて確定し、それをコピーするか完全透明なクリアフォルダに収める。そうしてからワープロ打ちしたり、あるいは、プレゼン/講義めいた「喋り」に備える場合には時間配分など考えつつ話に加える具体的事例、エピソード、余談内容などを手書きで追加メモする。   
 かつてのことであるが、他人にパワポで資料を作り始めてもらったものの、しかし、その資料とするべき一部データの入手が間に合いそうもないということがあった。結局パワポ資料の順番入れ替えは大幅になり、ほか内容変更も生じた・・・同時にこちらはポストイットの貼り付け順を変更するなどしたわけだが、特に混乱を覚えることもなく「喋り」を進めることが出来た。   
   

雑記



   
 ギフト選びはやはりデパート・百貨店で、との固定観念に縛られる筆者なのであるが、コンビニが扱う中元・歳暮用商品の中にはいわゆる「B級グルメ」っぽい商品もけっこう見受けられるのでそのカタログを見るのは楽しくもある・・・ただ、しかし、これはあくまで筆者の個人的感覚に過ぎないのだけど、「富士宮やきそば」、「シロコロホルモン」、「冷や汁の素」、「鶏の手羽焼き」みたいなものを目上の方に贈る勇気はなかなか出ないなあ。   
   
 上の写真のはサークルKサンクスに寄ったときに得た「夏の贈りもの」と題されたカタログの29ページから。ここにある「液体だし」の3本セットはB級グルメ商品には当たらないだろう。そのセット中に「本かつおの香りポン酢」というものが含まれているのだが、カタログの説明では鰹節・丸鶏・真鯛の合わせ出汁を使用しているとのこと。   
 「ポン酢」の状態にする前の、合わせ出汁の段階で、あるいはそれと醤油などをミックスした段階で、どんな風味なのかなあ・・・いささか興味がそそられぬでもない。待てよ、鰹出汁を張った鍋に醤油を落とし、そこに鶏肉、鯛の切身や頭など入れて煮ていったときのスープの味みたいなことになるか・・・想像しにくいかなあ。はて、真鯛からの旨味は十分に活きるのか? でも、たぶん美味しいのだろうな。このポン酢、ごく普通に活用すればよいのか? ・・・そんな疑問が浮かんだ。   
   
   
 職場にて、主婦業もしている人と料理のことを話すことがあって、自分は固形コンソメ・スープを利用しようなどと思うことが無かったなと、気づいた。ま、トライしてみようと思う料理や献立において、コンソメ・スープの利用シーンはありそうにないのだけど。   
   
   
 ふと、出汁、出涸らし、出し殻の関係を考えた。そして、コーヒー、茶のことも思った。   
   
 出汁をとり終えたあとの鰹節、昆布、干しシイタケ、煮干、鶏ガラ、豚骨などなどは、飲み物をつくり終えたあとの茶葉、コーヒー豆の粉などと同じようなものと受け止めることも出来なくはないか。   
 そしてまた・・・コーヒーや茶を飲むということは出汁をすすることなのか? とすれば、喫茶店というのは或る意味、「プロが選んだ素材をもとにプロの手で仕上げた出汁を味わってもらう空間」であるのか?   
   
 ところで、しかし、出汁のために使い終えた昆布やシイタケなどは、たとえばその出汁と、そして、みりん、酒、砂糖、醤油などを適宜ミックスした汁の中に浸しつつ食すと美味かったりもする。  
   
 小学校のとき、先生が「味噌汁を作るときに捨ててしまうことが多い煮干にもカルシウムは多く含まれたままだから食べなければ勿体ない」と言った。それで、自分もそういう煮干を食べることにすると言ったら母はとても嫌な顔をした。しかし、あれは、栄養価はともかくとして、美味くはないのだよなあ。   
   
 やはり子供の頃のこと、家で母が乾蕎麦を茹でるとき、「蕎麦つゆ」をつくるための出汁はほぼ毎回「干しシイタケ」でとっていたことを思い出した。そのように利用し終えた干しシイタケを、出来上がった「蕎麦つゆ」でしばらく煮てから食べるのは、これはこれで美味いと感じたものだ。今頃になって、なぜ干しシイタケで出汁をとったのだろうと疑問に思え、母に尋ねたら、中元・歳暮で頂戴する干しシイタケを煮物料理だけでは使い切れなかったので、という返事であった・・・何だ、それだけの理由か。   
   
 もっと後のことだが、近所の蕎麦屋には「サバ節」も納品されているのをたまたま目にしたことがある。   
   
 今では、蕎麦屋を紹介するムック本などもパラパラめくることがあるから、鰹節(本鰹、宗田鰹)、サバ節、昆布、干しシイタケなどのうちから選んで出汁がとられるものなのだなと、そんな理解でいるが。蕎麦を煮干出汁で食べさせる店もあると聞くが、では、アゴでとった出汁で「蕎麦つゆ」を作る店はあったりするのだろうか。   
   
   
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 以前のこと、或る方が退職にあたって宴席で挨拶をされることがあった。いつものように名調子となるであろうと思えたから、A君に言ってケータイのヴォイス・メモで録音することにした・・・あとで本人に許可をとってCD-Rに焼いたものを配布したらどうかと思いついたので。   
   
 けっこう良い具合に録音できたようであり、後日に本人の許可も得たので、A君にCD-R焼きするように言った。   
   
 職場にて・・・。遠方でA君が同僚とやりとりしているのが耳に入った。   
 「ケータイのイヤホン・プラグから、PCのここにある普通のプラグに変換するケーブルなんて、あるのかなあ」   
   
 周囲も「ショップで探せばあるかも知れないね」などと答え、何かのカタログをめくり始めた。そういう「アナログ音声の伝送」と「PC側での再録音」による方法を考えている様子であった。   
   
 普通ならばむしろ、ケータイの中に生成された音声ファイルを、USBケーブル、赤外線通信、メール添付送信などのどれか可能な(あるいはファイル・サイズなどの点からして適切な)手段を選んでPCに取り入れることを考えないか?   
   
 「こんなこと、何で俺がいちいち口出ししなきゃならんのかな」とは思ったが、時間浪費させるわけにもいかず・・・結局、A君は赤外線でPCに転送したのかな。   
   
 そうしたら今度は、「この "amr" ファイル(そういう拡張子の付いた音声ファイル)を "wave" 化するにはどうすればいいか?」と悩んでいる様子になり・・・。   
   
 こちらは「あ、そっか。彼が最初から思いついた方法のほうが素直で良かったかな」と思いつつも、「PC上で "QuickTime Player" で再生しながら同時に例えば "SoundEngine Free" で録音して "wave" ファイルを作ればいいのでは? 録音の音量設定には注意し、波形にゼロ・デシベルを超える部分が出来ないように作業して」と指示した。   
   
 その後、気になる音域やノイズを減衰する処理を施すことにもなりはしたが、めでたくCD-R焼きもその配布も済んだ。しかし、音声や映像などのメディアの取り扱いなどは、若い人ほど得意で「どんなパターンの対応でも朝飯前にスラスラと出来てしまうのだろう」と思い続けていた筆者には意外なことであった。いや、彼らは動画投稿サイトにある動画の取扱いや、各種動画のDVD化などが得意なのであって、純粋に「音声」のみであるファイルなどは、彼らにとって関心テーマでもなく完全に「時代遅れのもの」なのかも知れないな。   
   


" 麺 shall not leave bread alone"


   
 総務省による家計調査によれば、2011年において、一般家庭がパンに対して支出した金額はコメに対するものを上回ったという。振り返ればコメの消費“量”が減少し続けて来たし、驚かないけど。   
   
 コメよ頑張れ。   
   
 そして・・・こういう状況になったら、あれだな、日本においてこれまたパンより長く親しまれて来た幾つかの種類の麺類にもまた頑張って欲しい・・・パン食文化がはびこらないように、また、パンが、誰もが認める「日本の標準的な主食」として幅をきかせたりする時代が来ないように。   
 コメを援護射撃して欲しい、いや違う、パン食文化を抑えこむことにおいて、コメと張り合うくらいに頑張って欲しいかなあ。   
   
 俺は何でこんなこと書くのかな・・・パンが好きでないからだな。   
   

雑記



   
 遠い昔の学生時代とは違って、何かの音楽をCD-R(昔ならばカセットテープだが)にコピーして知人・友人に渡すなどということは、自分用にCD-R焼きするときの「ついで」で余分に焼いて譲るくらいのことしか無い。   
   
 しかし、しばらく前のこと・・・。或る人が「繰り返し聴いているんだ」と言ってカー・オーディオで聴かせてくれた「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲の演奏は、筆者には様々な点で「酷い」としか感じられないものであった。ふつうであれば、そういうものを耳にしても何もわざわざケチつけたりしないけど、「これは耐え難い、どう考え直してもやっぱり耐え難い」というくらいの演奏だった(オーディオの音バランス等々の問題ではない、演奏の「ひきずり」、「優柔不断ぽくもあるリズム・強勢感」、「曇って通りの悪い楽音」などが複合的に酷い音楽を作り出していた)。   
   
 ふと、「ピエール・ブレーズ(ブーレーズ)のあの演奏(ソニー)に耳を傾けていただくのもよいのではないか」と思ったのではあるが、でもやはりセルのもの(クリーヴランド管との正規録音)をCD-Rにコピーして渡すことにした。当然ながら余白に何か収めなくてはもったいない・・・「カップリングの選曲として、ちょっとどうかなあ」と思いはしたが、ゲザ・アンダ/セル/クリーヴランド管によるモーツァルトのピアノ・コンチェルト第21番(ライヴ)も収めた。   
 このコンチェルトなども気に入ってもらえたようであるが、何よりも嬉しかったのは、おそらく色々な演奏の聞き比べなどしていないであろう筈なのにCD-Rに焼かれた音楽(演奏)から「音楽が息づいている」ことの意味を分かってもらえたことだ。   
 「ライヴ・レコーディング(って)、全然いいよね」という感想も聞かされた・・・それは、ポピュラー音楽方面を楽しんできた延長上にある感想かも知れないが、でも筆者もやはり「うーん、そうですね、いろいろな意味で“全然いい”」と、改めて思ったのであった。演奏ミス、聴衆の咳、音質の問題などを理由に「ライヴ音源は聴きたくないや」とか「ライヴ音源だと集中して聴けない」と考える人もいるけれども、そして、その気持ちも分かるのだけれども、でも、「それらの問題」をきっぱりと押しやってしまう魅力がライヴ音源にはあると、筆者は思う。   
   
 下の写真は、過去に "Virtuoso" レーベルから出た3種類のCD3枚組商品で、セル/クリーヴランド管のライヴを収録している。   
 写し入れるのを忘れたが、同レーベルからは他にマーラー第6番のライヴも出た(ソニーからリリースされているものとは別の日の演奏)。   
   


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クラシカルな某

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