2011-10

Latest Entries

雑記



   
 2か月かそこいらくらい前のこと、缶ビール(だったかな)に景品で付いていたアクセサリー・・・「いちご煮」。   
   
 ケータイに何かをぶらさげる趣味は無いのでUSBメモリに・・・。   
   

クラシック音楽を人気沸騰させる手段はあるのか

   
 「AKB84」の企画がスタートしてから1年が過ぎた。プロデューサー役を務めている凸凹レコード産業のトンデモ企画部長(同社 宴会部長を兼務)山尾翔(やまおかける)氏にこの1年を振り返ってもらう。   
   
-女性ばかり84人ものメンバーを集めたオーケストラを思いついたきっかけは?   
   
「わたくしどもの会社ではクラシック音楽は儲からないという常識がはびこっていましてね・・・。しかし、クラシック音楽部門を歩んできた自分としては、クラシック音楽ビジネスを変革して当社の収益の柱に育てたいという思いがありました。以前のこと、 女 子 十 二 楽 坊 というグループが登場したのを見て、あれのフル・オーケストラ版をいつの日かやってみたいと強く思うようになりました。それがようやく現実になりました。」   
   
-凸凹レコード産業といえばJ-POPの分野では最強ですね。社内の反対意見などは?   
   
「そりゃもう反対ばかりでした。四面楚歌でしたよ。最初のアイデアはAKB84でなく、AZB10100だったのですがね。」   
   
-それは何でしょう?   
   
「麻布十番100人娘、という意味です。しかし、なぜに麻布十番なのか、メンバー100人は多すぎて採算に合わないだろうから50人にしろとか、分かってもらえませんでした。」   
   
-50人では中途半端も過ぎますね。   
   
「そうでしょ? でも、クラシック音楽の現状を何とかしたいという思いがありましたから頑張りました。大袈裟ですが、至誠通天(しせいつうてん)ということが本当にあるのですね。」   
   
-至誠通天ですか。偶然ですが、わたくしの座右の銘も同じです。   
   
「いえ、座右の銘ではありません。そういうものはまた別に持っています。」   
   
-話がそれますが、座右の銘をお聞かせいただいてもよろしいですか?   
   
「うーん、4つありますよ。」   
   
-4つもですか?   
   
「ええ、4つ・・・。“善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”、“酔生夢死”、“臥薪嘗胆”、そして“あなたのキスを数えましょう”、以上の4つです。」   
   
-え? トータルな人格が分かりにくいと言いますか、その・・・。それに、最後のは歌のタイトルですよね。   
   
「確かに。しかし、たとえば色即是空と悟ることも出来ず、また煩悩も捨てられないがために時に苦悩もする凡人にとっては、人間の思惟や情念や悔悟そのほか諸々すべてが“生きている”ことの証ではないのかと思え、ひとつの慰めになるのですよ。」   
   
-はあ。・・・えっと、AKB84の話に戻りますが、これまでのところ大成功のようにお見受けしますが。   
   
「まだ採算がとれておりませんので、ビジネスとしてはこれからが勝負です。デビューと言いますか立上げに、またCD制作、販促、そしてコンサート運営など、どれもこれもが想定以上のコストを要しています。コンサートの性格も、公的な助成金を頂戴するようなものとは違いますから、本当に大変ですよ。」   
   
-採算性・収益性などはこれからの課題ですね。今後のアイデアなど何かありますか?   
   
「メンバーが84人ですと、演奏したくても演奏できない曲というのがありまして・・・。今年じゅうにも、予備軍と言いますかエキストラ・メンバー集団を作ろうと思っています。」   
「一般企業から協賛金をいただくという形でなくタイアップ、コラボの対価をいただくようなスタイルで、コンサート会場のロビーで商品の展示会を開いたり、来場者に見本品・サンプルを配布するなどのことは既に始めております。」   
「ファン投票そのほかの方法で、オケのセクション/パート配置を変更する構想もあります。ファンの多くはどうやら木管セクションが一番前、その後ろにティンパニと第2ヴァイオリンを置いてもらいたがっているようですし・・・第1ヴァイオリンは一番奥になるかも知れませんね。」   
   
-その配置は合理的でない、メチャクチャなように思えますが。   
   
「それは承知のうえです。ファンの方々が、演奏レベルよりもルックスといった臨み方・鑑賞態度でいますからね、仕方ありません。オケのセクションを変な配置にするとどんな不都合があるか、ファンに気づかせたいという気持ちがわたくしにはあります。このAKB84の企画は面白いですよ、これまでクラシック音楽を聴こうとしなかったファンの皆様が、PAを使わないサウンドでありながら音楽から大きな刺激を受けていますし、こちらもやり甲斐がありますね。」   
   
-クラシック音楽全体の人気が高まる、クラシック音楽界に活気が出ると良いですね。   
   
「はい。ただ、わたくしどものコンサートに足を運んでくれるファンの皆様には、よその一般のクラシック音楽のコンサートには行って欲しくありませんね、正直なところ。」   
   
-よそでお金を使ってくれるな、うちのコンサートに足を運び、そしてCDを買ってくれと? 了見が狭くありませんか?  
   
「いえいえ、滅相もない。コンサートの雰囲気やノリがですね、性質も度合いも桁外れなものですから。」   
   
-それはどういうことですか?   
   
「たとえば・・・。いよいよ開演というときにオケ・メンバーがそれぞれの席につきますね? ステージの袖からお気に入りのメンバーの姿が見え始めると、もうファンから歓声が上がります。また、チューニングが終わると、そこで拍手が起きます、これはお約束なのです。」   
   
-お約束ですか?   
   
「ええ。そして、演奏中だって全然違いますよ。贔屓(ひいき)のメンバーが、そうですね、たとえばクラリネットのちょっと長いソロの個所を吹き終えるとですね、聴衆からは歓声と拍手があって、時には指笛も鳴ります。ふつうのコンサートでは許されませんでしょ? それからフライング・ブラボーなど、もう当たり前のことです。ふつうのコンサートに行ってこれと同じことをされては困ります。」   
   
-ええ、それは・・・。   
   
「メンバーの一人がですね、ホルンのパートなのですが、見事にソロを吹ききったときに“いよっ、成田屋っ!”という掛け声が飛んで来たこともありますね。」   
   
-何ですか、それは?   
   
「その子の実家がお店をやっていまして、屋号が成田屋さんというのです。ファンの方はそういうことまで知っているのですよ。あんな掛け声が出るなんて、わたくしも“歌舞伎じゃないんだから”と思いましたよ。」   
「先日は、客演の指揮者を迎えてのコンサートがあったのですが、プログラムの最後はラヴェルのボレロでした。各パートが例のメロディを演奏し終えるたびに聴衆からは拍手と指笛でしてね、指揮者の先生の顔はそのたびにひきつっていました。演奏を終えてステージ裏に戻って来ると、ブチギレしていましたよ。音楽文化というものは聴衆の態度やマナーも含めて成り立ち、育つものだという意味のお説教もいただきました。」   
   
-さぞ、お困りでしたでしょう。   
   
「わたくしがですか? いえ、もう慣れました。」   
   
-こうしてお話を伺っておりますと・・・すみません、その、何だか、クラシック音楽発展の役に立っているのか、いないのか、分からなくなって来たのですが。   
   
「わたくしもです。でも、もう止まりませんしね。どうしましょう。」   
   
   
 以上、フィクション、架空の話である。人名そのほかも架空であり、仮に実在の人物そのほかと同一のものがあっても、当方に何かしらの悪意があってのことではない。   
   

官房長官の必要性について

   
 ガックリと来ることはしばしばある。その一例・・・。   
   
 何かの打合せがあると作られる議事録・・・。そのスタイルは昔のものとはかなり違って来てはいるが、若い人にとっての一種の訓練の意味合いもあって今なお盛んに作られ、会議の翌日や翌々日あたりには出席した者や準オブザーバー役のもとに送りつけられる。   
 そういう議事録を斜め読みするわけだが、「ありゃ、この議事録を書いた彼/彼女は、会議で話された事柄・内容をろくに理解できていないのだなあ。新入社員でなく、すでに入社○年目だろ、大丈夫かいな」と感じることがよくある。期待を寄せていた若手がそういう議事録を書いていると、何かこうガックリ来てしまう。   
   
 たとえば経理マンの場合。成長していく過程では、いろいろな知識やセンス、調べた上でさらによく考える習慣、税務上で(簡単に言えば税金計算の関係で)疑義が生じる可能性を想像してみる習慣などなどを身につける必要がある。知識についてはここでは何も説明するまいが、センスということでは、一例をあげれば、簿記上で言われるところの、そしてどのテキストでも扱われているであろう「取引」を含め、或る企業行動や事象を会計的にどう認識すべきかということが、わざわざ思考するというよりも体が自然反射するように、漠然とした問題意識としてでもよいからパッと頭の中に浮かんで来なくてはいけないと思うのだ・・・まったく目新しい事象に対しても、たとえば「何かしらの費用と負債が財務諸表に反映されるようにしなくては何だか気持ち悪いよな、正しくないよな」みたいな感覚がすぐさま沸いて来るみたいな。   
 さらには、自社、子会社のA社、企業グループ外のB社、C社などを巻き込んだプロジェクトや取引が進もうとしているとき、自社の会計処理ばかりでなく、その他の会社が採るであろう会計処理や、連結決算でどういう作業が見込まれるかなどもすぐに念頭に浮かばなくてはいけない。また、互いの取引がどういう法律関係にあるか、B社が倒産したらどういう問題が生じてどういう対応が必要になるか等の問題にも考えが及ばねばならない。さらにさらに言えば、これは経理マンの職務範囲でなく通常は文書・法務部門の扱い範囲になろうが、B社がこちらのライバル企業に買収されたときにこちらのビジネスを邪魔される可能性を封じておく必要があるか否かなどにも思いを馳せたいところではある。言わば、高所から眺める、鳥瞰することが自然に出来なくてはならない。そのように成長していくことは、人によっては長い道のりであるかも知れないが、避けて通れない精進の道だろう。しかし、物事を、断片的にでなく全貌を把握しよう・考えよう、先々までを時系列とともに思い描こう・見通していこうなどなどの心がけを持っていれば、いずれはそういう鳥瞰が自然に出来るようになるだろうと期待する。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 駅からの案内図(地図)なんてものがある。   
 JR○○駅の南口を出てからの案内図となると、それは多くの場合、南方向を上にして描かれる(しかし、ごくごく限られた経験から言えば、城下町や門前町などで育った人たちが描く案内図は、駅なんぞよりもまずは地域の主役たる城/城跡、寺を含んだ地域全体を頭の中で展開させるからか、あくまでも北方向を上にして描かれていることも少なくないかも知れない)。   
   
 しかし、筆者は、地図の類は、北方向が上になって描かれていないと嫌なのだ。   
 少なくとも日本ではそれが常識だと言いたいわけではない。「今回の目的地に行くのは、今回これ1回限りだぞ、そこに辿り着いて、そして帰って来れれば、それでいいじゃないか。南が上でもいいじゃないか」と割り切ればまた別の考え方も出来るのだろうけど、しかし、やはり筆者は、目的地が市内のどの辺りに所在するのかで記憶したいと望むのだ。あるいはもっと範囲を広げて、東京都なら東京都のどの鉄道のどちら側にあって、○○駅の南南東のこの辺なのだなと、そういう把握をしたいのだ。そのためには、北方向が上になっている案内図を見せられるのが都合よい。   
   
 方向オンチの人がいる。なぜ方向オンチになるのか分からない。想像するに、地図を(その地図はやはり北方向を上にして描かれているのが良いと思うのだけど)頭の中に描いたうえで自分が今どこに居るのか、どちら方向に進んでいるのかを認識出来ていないのではあるまいか。街で道を尋ねられたときに「ああ、この人は地図を手にしていながらも、ここまで逆方向に歩いて来たのだな。それにしても、真夏でもないのだから、太陽を見上げればおおよそ自分が進んでいる方角も分かろうになあ」と思ったことも何度かある。   
 だが、不思議に思う・・・。思い描いた地図上に自分を置くことをしないのなら、「今、自分はどこにいるのか分からない」という不安に襲われないのだろうか。あるいは、もしかすると、「自分を地図の中に置いたりなんかしないよ。だって自分がこの世界の主役でしょ。このまま進んで行けば景色は変わり、目印となる建物・施設・店が眼前に現れたなら、そのときそれを頼りに地図を眺めなおせばよい」という感覚なのだろうか。   
   
 今ふと思い浮かんだのは歌川広重の「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」という浮世絵である。そこに飛ぶ鷲のようにして、街を、地域を観望するようなもう一人の自分を、必ずしもすべての人が持っているわけではないのかも知れないなあ。   
   
 ・・・などと思う自分にも苦手なことがある。   
 初めての場所にクルマで出掛ける場合、事前に地図帳(ロード・アトラス)を眺め、道路がどんな具合に走り巡っているかを把握することは普通のことだ。そして、「ああ、こう走って、この交差点を左折して・・・」みたくルートを記憶にとどめる。   
 さて、いざ出掛けて行って・・・。途中、カーナビに目をやったりすると妙な感覚を味わうことがある(これは社用車の場合であって、自家用車にはカーナビは不要と思っているから付けていない)。基本として進行方向を上にして道路などを表示させるのがカーナビの目的にかなっていると思うのだけど、しかし、そういう画面に目をやると、あらかじめ眺めておいた地図の記憶がグシャグシャに壊れてしまいそうな不安を覚える。   
   
 そういえば、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本があった。読んでみようと思いながら、結局はまだ読んでいないなあ。   
   
   
 さて、今回ブログ記事タイトルとは無関係なことを書いているように思われるだろうけど、タイトルを打つときに誤変換などあったようだ。   
 正しくは「観望・鳥瞰の必要性について」であった。   
   

世界のオザワ、政界の小沢。

   
 今夏のサイトウ・キネン・フェスティヴァルの「青ひげ公の城」公演では、小沢征爾氏が健康上の理由から指揮台に立てなかった日もあったようだが、早く健康を取り戻し、さらなる活躍を(しかし、体調に注意しながら)と願う。   
   
 民主党元代表の小沢一郎氏の立場がちょっとアレな状況になって来たが、しかし、うむ、支持しているわけでもないし、余計なことを書いてもナニなので、ま、何も書くまい。   
   

雑記

   
 同じ経験をし、かつまた同じことを思った音楽ファンもいらっしゃると思うが・・・。   
   
 高校の英語の授業にて、 "corps" と "corpse" という2つの単語を示され、前者の発音は「コー」、後者のは「コープス」であり、これらの発音については入試問題に出たりするから覚えておくようにと教わった。で、これらの語の意味は前者が「軍団、部隊」などであり、後者が「死体」などである。   
   
 さて、学生時代はとうの昔のこととなり・・・。   
 社会に出て、上の知識は仕事上で役に立っているかというと、答えはノーだ。もしも自衛隊に入っていて米軍との合同演習に参加したりということになれば、ひょっとしたら前者の "corps" という語に出くわしたり、これを口にしたりする機会があるやも知れぬが。   
   
 さて、しかし、中学校や高校で教わる英語は役に立たないのかという議論になれば、筆者は「役に立つ」との立場をとりたい。ただ、「実際にこのような言い方をしたら相手に無礼で、時にはケンカを売るに等しいことになる」とか「ガキっぽく、あるいはバカっぽく思われてしまう」みたいな文章を叩き込まれていることもあるので、社会に出る前のどこかで、または社会に出てからの早い段階で、知識の補充や修正は必要になる。しかし、それでも、文法をはじめとする多くの基礎知識を授かるという意味で、学校における英語教育はちゃんとした、そして大きな意味を持っていると思うのだ。   
   
 再び "corps" と "corpse" について。   
 面白いのは、これら2つの単語はともに、語源をたどればラテン語の "corpus" (「身体」)に行き着くことだ。このラテン語が元になってまずフランス語の言葉が、時代を異にして2つ生まれ、それぞれがともに英語の世界に入った・・・こうして "corps" と "corpse" という、綴りも発音も異なり、おまけに意味まで異なる2つの英単語が存在するに至った。(なお、英語の "corpse" の元になった古いフランス語 "cors" が果たして現代フランス語のなかにも登場することがあるか否かは知らない。)   
   
 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(このコルプスがラテン語の "corpus" )などという音楽のタイトルや歌詞に接すると、こう思う:   
   
 「ああ、英語の "corps" や "corpse" を教わっても役には立っていないけど、コルプスという語にスッと接することが出来る/馴染みを感じるということは、これはこれで(趣味との関わりでは)意義あることを教わったよなあ」と。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 古代ギリシャ語には「フィロス」という語があったそうだが( "philos" )、この言葉は「愛好する」などの意味を持つ。   
 「哲学」を英語でフィロソフィというが、この語の成り立ちを古代ギリシャ語に求めれば「熟練を愛好する」、そして「学問を愛好する」ということになるようだ。   
   
 英語やドイツ語の「フィルハーモニック」、「フィルハーモニー」などなどの語は、「音楽愛好家」、「音楽協会」、そして「楽団」、あるいはそれらの形容詞形の意味を持っている。 "phil" の綴りが見られる場合には、全部が全部に当てはまるわけではないけれども、「愛好」・「愛」の意味があったりする。   
   
 米国のフィラデルフィアは「兄弟愛の市」を意味する(造語して命名された)。もしもフィラデルフィア管でなく「フィラデルフィア・フィルハーモニック」というオケがあったら、そこにはもう「愛」が満ち満ちていると言えよう。(←文末は評論家の某氏の真似)   
   
 オーディオファイル( "audiophile" )といえばこれは「オーディオ愛好家」である。この接尾辞の "phile" にはやはり「愛好する人」などの意味がある。   
   
 何かを愛好するのは結構なことと思うが、愛好家、マニア、ヲタクという言葉から普通にイメージするレベルをさらに超えてしまって、「ちょっとアレじゃない?」、「尋常ではないな、病的じゃない?」という程度になったとき、その状態を指すにあたっては "phile" でなく "philia" という接尾辞を使った言葉が生まれるのではないかなと思っている。   
   
 「聴く時間が無い」とか「聴こうにも、気乗りしない状態が続いている」などと分かっていながら次々とCDを買うのはビョーキなのだろうか?   
 人によっては「買い物依存症」の状態にあるかも知れない。しかし、未聴盤が山ほどで、チョモランマならぬミチョランマを築いている人の多くは、例えばこんなことを思って次々とCDを買い続けているのではないか:   
   
 1)「あ、この作曲家の名前、最近ときどき目にするなあ。そんなに魅力的な作品を書いているのかな。聴いてみたいな」   
 2)「(当然この曲は知っているけど)この人はどんな演奏をするだろう。聴きたいな」   
 3)「このセットでこんなに安いのか。これをゲットしないテは無いよな」   
 4)「これ、たくさんの人が買うだろうな。それなら俺も持っておきたい」   
 5)「こういうマイナー・レーベルのものはいずれ入手不可になるかもな。いま買っておこう」   
   
 かくて、ミチョランマはますます立派に成長を続けて・・・。しかし、上のような動機でCDを買うことがビョーキであるとは思えない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 人間はどのように音楽と関わりを持ち、また向き合っているのか。世の中には、奇妙だったり、驚いてしまうようなケースがある・・・。   
 下の写真は、オリヴァー・サックス氏の本(氏は精神科医で多数の著書があり、日本にもファンは多いと思う)。   
 タイトルの "Musicophilia" はどう訳すのが適切か悩まぬではないが、邦訳本も出ていてそのタイトルには「音楽嗜好症」という言葉が用いられている(早川書房が出版)。だが、本書に含まれる数々の話題は、音楽を愛好するとか音楽にとりつかれるとかのケースに全然とどまらない。実に多岐にわたる、興味深い話ばかりだ。   
 この本の内容は・・・新聞に載った、邦訳本についての書評を参照していただくのが良いかな。グーグルにて「サックス」、「音楽嗜好症」、「日経新聞」の3語で検索すると同紙サイト中の該当ページがすぐに見つかる。
 本書は、日経新聞ばかりでなく、内外のたくさんの新聞・雑誌などで紹介されて来た。   
   


«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。