2011-09

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女心、男心 と 秋の空

   
 ことわざの意味を再確認しておこう・・・。   
   
   
   
女心と秋の空:    
   
 女性の心というものは、秋の空や天気と同様に変わりやすいものだ。   
   
   
   
男心と秋の空:   
   
 秋には空気中の水蒸気が少なくなるから、空は、澄んで、そして高くなったかのように見える。それと同様、男性の心というものは邪心も無くきれいに澄みわたり、志もまた高いものだ。   
   
   
   
 言うまでもなく上には曲解を含む。   
   

「無垢だのぉ」と「 も し ド ラ 」について

   
 運転席のA君が言った:   
   
 「マクドのドライヴ・スルーに寄りますけど、一緒に何か買いますか?」   
   
 あのマクドナルドを略して呼ぶのに、「マクド」と言う人と「マック」と言う人とがいる。   
 筆者個人の感覚では、「マクド」というのはちょっとダサイかなあ、そして音とアクセントが「末路」に似ているのも抵抗を覚える。しかし、「マック」と口にするのは気恥ずかしくもある。マクドナルドの店のポスターを見たら「100円マック」と書かれていたから、マクドナルド側は「マック」のほうを選んでいるのだな。   
   
 そもそもマクドナルド、マッカーサーなどの頭にある "Mac" や "Mc" は "son of" の意味である。 つまり、ドナルドの息子、アーサーの息子ということになる・・・そういう姓がどういう経緯で誕生したのか知らないが、その誕生の折りには「ドナルドの息子なのだからマクドナルドと名乗ることとしよう/名乗れ」などということでもあったのかしら。(←文末は音楽評論家の某氏の真似だ)   
   
 というわけで、「マクドナルド」という姓の意味上の切れ目を示せば「マク/ドナルド」であり、これを意識すれば「マック」と略すことには頷ける・・・しかし、単に「の息子」と呼ぶのも何だかなと感じはするが。   
   
 ちなみに英語では「マク」の部分はアクセント無しに弱く、そして「ムク」みたいな音で発音される。そのすぐ後の「ド」にアクセントが置かれる。「ムクだーノー」という感じになる。しかし、ほんのちょっと濁って「ムグだーノー」と聞こえることもあったなあ。(ブログ記事タイトルには冗談で「無垢だのぉ」と書いたが、このとおり日本語として忠実に発声しても通じるまい・・・音の長さやアクセントが違うから。) もっと違って聞こえるよ、という話も聞いたことがあるが、英語という言語ではアクセントの置かれる部分の音以外はコミュニケーション上での意義がちょっと落ちるせいか、妙なヴァリエーションもあることは珍しくないと思っている。   
   
 さて、筆者はマクドナルドを略して何と呼ぶか・・・略して呼ばないなあ。そもそもマクドナルドという言葉を口にするのは年に2、3回かも知れない。また、パンと同様にハンバーガーのバンズを好まないし、マヨネーズ、タルタルソース、ケチャップ、チーズ、ハンバーグを好まないしなあ。あの店は自分には縁遠い。ウィスキーやビールのつまみ用にとフライドポテトを10年以上ぶりに買ってみたい気もするが・・・。   
   
 チーズで思い出した・・・。   
 ごくたまにオフィスで軽い夕食を摂ろうというときにグループで宅配ピザを注文することがある。トッピングの具の組合せによって色んな名前が付いているようだが、注文時にたとえば「カリフォルニアどうたらこうたらのオニオン抜き」みたいなことを言う例があるが、筆者はむしろこう思うのだ・・・「チーズ抜き」というのを食べたいのだが・・・「ピザ」ではなくなってしまうな。   
   
 話を最初のA君の言葉に戻して・・・。   
 習慣になっているからというのが主な理由ではあろうけど、略さずに「マクドナルド」と呼ぶのは煩わしいのだろうか? 筆者はそれよりも、「ドライヴ・スルー」のほうを「ドラスル」と略したく思うのだが。   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 「マック」や「マクド」だけでなく、あれもこれもと略して短縮する日本人。でも、「たなぼた」だってそうだしな。あまり気にするまい。   
   
 デジタル・カメラを「デジカメ」と略したと思ったら、そのコンパクト・タイプのものを「コンデジ」と呼んだり・・・。その文字づら・音にはカメラを意味する「カ」すら無い。   
 デジタル・アートの世界が長い歴史を持つようになって、やがてコンテンポラリー・デジタル・アートという「くくり」を設けたい/定義したいとき、その略称もまた「コンデジ」になるか。   
   
 評判になった「 も し ド ラ 」・・・。これは原タイトルを大胆に短縮してしまっている言葉だ。ここでも高校野球、マネージャー、マネジメントなどなどを意味する字づら・音が無い。   
 もし次のようなタイトルの本なりマンガなりテレビ番組なりが作られた場合もまた「 も し ド ラ 」と略されるかな。   
   
 「もし、うちのお婆ちゃんが ド ラ ゴ ン ク エ ス ト に夢中になったら」   
   
 「もし、僕らの町に ド ラ え も ん がやって来たら」   
   
 (「 ド ラ ゴ ン ク エ ス ト 」がどういうものであるか、筆者は実はあまり分かっていない・笑)   
   

夏を秋らめて

   
 サルスベリの樹が花をつけているのを目にするといつも、高校時代の或る日のことを思い出す。   
   
 なぜ「サルスベリ」と呼ぶかといえば、木登りの上手な猿でさえもあのツルツルした幹では滑って落ちるから・・・というのが子供の頃に教わったことだ。   
   
 さて、高校のときのこと・・・。   
 英語科目の夏休みの宿題に「何でもよい、気に入った英語の本を読んで感想文なりレポートなりを提出せよ」というのがあった。友人と一緒に本屋さんに行って、それぞれに本を探した。   
 本のページをパラパラめくっていた友人が声を掛けて来た。   
   
 「サルスベリって、英語なんだね。ほら」   
   
 まさかそんなわけは、と思って彼が指差した単語を見ると、そこには "Salisbury" とあった。その単語が何を意味するのか一瞬では分からなかったが、しかし、英国の地名「ソールズベリー」のことではあるまいかと推理するのは難しいことではなかった。文章からしても、この言葉は地名だろうなと思えた。この勘違いに、二人して涙が出るほどに笑い転げた。   
   
   
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 「アカシヤの雨がやむとき」という古い歌謡曲があるが、この「アカシヤ」はきっとニセアカシヤなのだろうなと思う(もしかしたら間違っているかも知れないが)。   
   
 以下、「アカシヤ」はニセアカシヤである可能性も有りとして書く・・・。   
   
 アカシヤは悲しさ・哀しさ・切なさ・寂しさ・侘しさなどに似合うと言えるのだろうか・・・しかし、そういう感覚は筆者には無いなあ。   
   
 アカシヤは英語でも "acacia" と綴られる(発音は「アけイシャ」)。  
 ドイツ語では "Akazie" とか "Akazienbaum" である。そんな細かいこと、どこかで習ったわけではない。R.シュトラウスの「四つの最後の歌」の第2曲「9月」の歌詞(ヘルマン・ヘッセの詩)に、アカシヤの葉が舞い落ちるシーンが出て来るから知ったまでのことだ。夏の終わりの風情を描いた詩。   
   
   
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 (以下、ちょっと前に書きとめたものなので、今日このごろの気候と微妙にズレがあると思うが・・・。)   
   
 秋の足音が聞こえ出した。しかし、筆者の頭の中ではいつの年も、既に8月が「夏であると同時に秋が始まっている時期」なのだ。にもかかわらず、9月に入ってもすぐには秋らしくならない・・・そのことにじれったさを感じつつ暑さをやり過ごすこととなる。   
 ああ、だけど・・・かつては夏という季節がずいぶん好きだった筈だ。また、子供の頃などは2学期が始まると「体育の授業内容が水泳とされるのはいつまでかな、俺、走ったり跳び箱したり球技したりするよりも水泳のほうが好きだな」みたく思ったり。しかし、今に至っては、夏の暑さのレベルは昔のそれとは違う。   
   
 秋が8月にスタートすると見なすのは、二十四節気の「立秋」を意識するからでもあるが、実は主として、8月上旬になれば「秋の味覚」とされるサンマを食べたくなるから(しかし、「はしり」のものより「旬」のものを食すのがいろいろな意味で合理的である)。   
   
 今年は、例年より早くから、そして多くのサンマを食べているなあ。しかし、内臓が溶けかけている場合が多かったのは気になる。鮮度に関して、身を食べる限りでは特に問題があるようには思えなかった。また、こちらの腹具合が悪くなったなんてことも無かったが。   
 震災・津波のせいでサンマ漁に用いられる船が多数被害を受け、また、輸入枠が大幅拡大されたらしいが、漁場、獲ったサンマの保存方法、出荷手筈などに例年とは違う点などあったのだろうか。それとも、サンマが育つまでの間の海水温、口にしてきたエサなどに何か理由を求めることが出来るのか。分からない。   
   
   
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 今回のブログ記事タイトルは、本当は「夏を秋らめて。エ○○カ・セブン。」としようと思った。そうすると、サザン/桑田氏の歌のあれこれをよくご存知の方は、「タイトル後段はあの曲のことかな?」と思い、しかし、ブログを読めば「ああ、何だ、別の話題か」ということになって・・・。そういう「見当はずれ」の妙を狙いたいと思ったが・・・。あの曲の歌詞が歌詞だけに、このプランは控えることとした。   
   
 いわゆる「駅ナカ」にセブンイレブンが入っているケースもあるが、そういう、言うなれば「駅ナカ・セブン」をまだ利用したことがない。   
 駅の改札の内外で、売店または(セブンではない)コンビニ・スタイルの店で飲み物を買うとちょっと割高なことがある。あるいは、雨が降っているためビニール傘を買い求めると、「あれ、普通のコンビニで買うよりも高くないか?/普通のコンビニでこの値段だと60センチでなく65センチの傘が買えるよなー」と思ってしまうことがあったり。小さい問題だけど、そしてそれなりの理由もあるのだろうけど、しかし、こういう価格設定にはどうしても抵抗感がある。かと言って、買い物するのを控えることはしないから結局はこちら側の負け・妥協であるなあ。   
   
 駅弁・・・。   
 内容・ヴォリュームと値段との釣り合いがとれていないと感じるケースは少なくない。そんなわけで、出張のとき電車の中で食事しようと思った場合には、時間が許せば駅ビル商店街や駅近くのデパ地下などで適当なものを買い求める。デパートや大型スーパーの催事で「全国駅弁大集合」みたいなイベントに偶然に出くわすケースもあって、そのときは価格とのバランスがとれていそうな、どこか遠くの地の駅弁を買い求めることがある。ただ、そういう駅弁を電車の中で食べていると、隣席の人にじっと見られることがあるにはある・・・向こうは、「まるで北海道あたりの駅弁みたいだが・・・この人、どこで買ったんだろう?」などと思うのだろうな。   
   
 あ、結局はセブンの話題ではなくなってしまった・・・。しかし、駅ナカのセブンは、おにぎり、弁当、ビール、ビニール傘などなど、街中の普通のセブンと同じ価格設定なのだろうか。   
   

雑記

   
 日本語の使用について、自分自身には「ボキャブラリーが豊かでない」、「慣用句を言い間違えることがある」などなど、自覚していることは幾つかある。また、このブログを書くときはかなり時間を惜しんでいるから、「読み直して推敲する」にもあまり気合を入れていない・・・なので、誤字脱字はたくさんあることだろうなあ。というわけで、他人が話したり書いたりする言葉についてああだこうだと言う資格は無いのだが・・・。(なお、誰がこのブログを書いているのか分かりにくくするため、ふだんの自分の文章スタイルと違えてみたり、「とか」を多用してみたりといった工夫はしている・笑)   
   
 入社3年目の若い社員が書き上げた英文書類(商品紹介に近い仕様書のようなもの)を添削したときのこと(その日は彼女の監督役上司が休暇をとっていたので急遽こちらが書類に目を通す羽目になった)・・・。   
 修正個所は幾つもあったのだが、そのひとつに "XXX with an wooden XXX" (木製の○○が付いた○○)という部分があった。この場合の冠詞は "an" でなく "a" とすべきだからそのように直させたら(無冠詞でも誤解は生じにくい例ではあったが)、彼女は「これ、本当に "a" ですか?」と訊いて来たから、こちらが驚いた。英文を書く力はわりとあるのになあ(そしてまた、助動詞の使いこなしとか、あるいはまた副詞/副詞句が先頭に来たときの倒置法といった文法事項に至るまで、知識はしっかりしていることが窺えるのに)。   
   
 「もしや?」と思い、 "a woman" と "an woman" のどちらが正しいかを問うたら後者が正しかろうとの返事。   
   
 うーん・・・。   
  "wooden" や "woman" はカタカナで書き表そうとすれば「ウドゥン」「ウーマン」とせざるをえないだろうけど、しかし本当はW音で始まっている。母音で始まっていないからこれに不定冠詞を付すときは "a" の筈だ。   
   
 このW音も、それからLとRの音の違いの問題も、日本人はちょっと苦手だったりする。   
   
   
 それで思い出したのだが・・・世界じゅうの言語は石器時代のアフリカ言語がもとになっているとする説がある。そして、アフリカの言語では音素の数が相当に多いのに、アフリカから遠くの地になればなるほどそこで使われる言語の音素数は少なくなるというのだ:   
   
  http://rocketnews24.com/?p=88817   
   
   
 上のは言わば「距離」の問題であるが、果たして「時間」も何か影響するであろうか・・・すなわち、同じ言語圏のなかにあっても時の経過とともに音素の数は増えたり減ったりするだろうか?   
 ずいぶん昔に読んだ本を思い出した:   
   
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/510_2729.html   
   
   
 ああ、人類は進化するのか退化するのか・・・。   
   

雑記

   
 サントリーの「絹の贅沢」が店頭に登場したので今年も飲んだ。   
 泡も含めて、独特の口当たりの優しさは魅力的であるものの、しかし、味の要素には好きになれないものがほんの少し潜んでいるなあ・・・もちろん、好みは人それぞれであるが。   
   
 「琥珀の贅沢」をこそ今年もぜひ飲みたい。10月くらいになれば登場するのだろうか。   
   
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 お墓参りを考えていらっしゃる方に見ていただきたいページ:   
   
  http://rosoku.kameyama.co.jp/senmonten_rousoku/koubutsu.html  
   
   

雑感

   
 ベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の或る個所から、童謡「森のくまさん」の或る個所へとつなげていくことは可能なように思える。あるいは童謡「ピクニック」の或る個所へも。   
   
 そしてまた、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番の或る個所から、テレサ・テンの「つぐない」へとつなげていくことも可能だと思うのだ。   
   
 以上、もちろん移調が必要だったりするだろうけど、しかし大事なことは、そういう遊びの音声を動画投稿サイトにアップロードするなどのことは著作権侵害、同一性保持権侵害となるであろうことに注意せねばなるまい。  
 内輪の宴会芸として楽しむぶんには、事実上、どこからもクレームは来るまいが、そんな宴会芸をが通用するのは例えばどこかのオケとかレコード会社クラシック担当部署の忘年会など、ケースは限られよう。   
   
 テレサ・テンといえば、先日カラオケで「恋におちて」を聴きながら思ったこと。   
 この歌は将来もきっと長いこと歌い継がれるであろう。しかし、あの歌のなかに登場する電話はダイヤル式なのだなあ。若い人のなかには「ダイヤルを回すというのは何を意味するのか? 金庫の錠を開けることなのか? 意味わかんねー」などと思う人もいるのだろうな。   
 ずいぶん昔の曲で、フィンガー5の「恋のダイヤル6700」でも同様の困惑を生じさせる可能性はある。ただ、歌詞中に「テレフォン・ナンバー」という言葉が出て来るから「恋におちて」の場合よりも理解しやすかろう。   
   

雑記

   
 高齢者の多い世の中になった。そして、高齢者は何か話しかけられるときはゆっくりしたスピードであるほうが聞き取りやすいらしいが・・・。   
   
 最近かかって来るセールスの電話では、こちらが高齢者世帯である可能性も踏まえてか、実にもうノロノロとした口調であることが少なくない。おまけに、社名・店名などをまず名乗ることもせずに「先行きの不透明感が増している時代ですが云々」などと喋り出したりする。   
 相手の話が進むのを待っていられないから「あー、いま忙しいので、そんな悠長な喋られ方をされては堪らない。何にせよ、うちは興味ありませんので」などと言って電話を切る。   
   
 ちょっと前にもそんな電話があった。しかし、疲れていたので、もう単に「興味ありませんので」と言おうとした。が、実際に口から出てきた言葉は:   
   
  「興味ござらん」   
   
であった。どうやら向こうは固まってしまったようだ・・・電話口から確かにその気配が伝わって来た。   
   

若き日のセルのレコーディングから


   
 セルの若き日のレコーディングとしては、オペラ・アリアのオケ伴奏や、「レオノーレ」序曲第3番などなどあることはこれまでにも触れた。   
 上の写真の雑誌「クラシックプレス」2001年秋号(8号)には付録CDが付いていたのだが、そのCDにはセル指揮による「魔笛」序曲が収録されている。1924年、セル27歳のときのもの。 Odeon のSP盤からの復刻。   
   
 当時のレコーディング技術というよりもレコーディングの仕方のせいなのか、それはよく分からないし、またモノラルであるせいも手伝ってか、何となく小規模な「弦楽プラス管楽のアンサンブル、そして打楽器つき」みたく聞こえぬでもない。楽器の音色も「クセ有り」と感じてしまう・・・それにより「音程・ピッチが変かな」と錯覚させられぬではないが、しかし、ピッチは合っているかな(だが、筆者に 絶 対 音 感 は無いのだ・笑)。ま、ともかく、演奏スタイル全般は後年のセルと変わらないという印象。   
 金管と木管との重奏部分のその重奏具合など、この作品について「通常はこうだよな」と記憶にあるものと相違する個所があるのだけれど、いま確認している時間は無い。   
   
 この付録CDは全10トラックあって、たとえばアーベントロートによる「フィンランディア」などは個人的には独特の魅力を持つ演奏表情・仕立て上がりで面白いと感じられるし、また、メンゲルベルクによるマーラー「第5番」のアダージェットのなまめかしさなども楽しめる。   
   
 この雑誌のこの号、中古CD店や古本屋さんで雑誌本体だけはときどき目にすることはあっても、しかし、付録CDが「無し・欠落」の場合が多い。買い求めるときは注意が必要だ。   
   

暑さ寒さも“ひがむ”まで

   
 (↑)新しく生まれようとしている「ことわざ」。   
   
 その意味は・・・。  
 電力事情ゆえの計画停電が仮に真夏や真冬などに実施されると、職場でも個人宅でも例えばこんな不満が出て来る可能性がある: (真冬の場合)「同じ電力会社の管内なのに、この地域は計画停電の対象になり、でも、あっちの地域は対象にならないみたいだし・・・。いやー、それにしてもクソ寒いなあ。道路ひとつ隔てた向こうは、うちらのオフィス/工場/家と違って、きっと暖房ぬくぬくなんだろうなあ。不公平じゃないの? おかしくない? どうして?」などと・・・。   
   
 今度の冬、電力事情について「乗り切れる」との見方があるが、さて大丈夫か。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・    
   
   
 今年の「中秋の名月」は9月12日だそうだ。   
   
 月といえば、有名なこの俳句:   
   
   名月を 撮ってくれろと 泣く子かな   
   
  (意味)いつもながらケータイ/デジカメを持ち歩きながら我が子を連れて歩いていると、我が子は、空にかかる月を指差しながら「あの美しい月を写真におさめてくれ」と泣いて求めるのであった。   
   
 乗り物・電車に興味を持つ子は珍しくないが、名古屋方面ではこんな句も知られている:   
   
   名鉄を 撮ってくれろと 泣く子かな   
   
 ただ、しかし、この句は季語を欠いているのである。   
   

雑記

   
 テレビのニュースで、アナウンサーが「東京電力」と言い出した途端、こちらの頭の中は「「東京電力福島第一原子力発電所」と先回りする。そして、こんなことを思ったりする・・・東京電力なのだから「東京電力東京第一原子力発電所」みたいなものが存在してもおかしくないのにな、と。   
   
 「東京都内にあるダムや貯水池の数は少なく、北関東のダムなどにお世話になっている」と、子供の頃に先生から聞かされた。そういう、他県のお世話になっているという感覚は大人になってもそのままで、原発に関しても当然、いや、ダムのこと以上に強くある。   
 原発が立地する地では、交付金・税収が得られること、雇用が創出されること、原発があるからこその商売・ビジネスが生まれうること等々のメリットがあろうけど、しかし、それらメリットに関わりを持たない人も多数いるわけで、そういう人々が原発の不安を抱えながら日常を送っていることについては申し訳ないなという感覚が、少なくとも筆者にはある。   
   
 原発は海に面した地に設けることが都合よいとか、そういう稼動・運転上のあれこれは筆者の知識範囲を超えるものであるから措いておくとして、しかし、ともかく、東京・神奈川・千葉・埼玉あたりに原発を作ることにはどんな問題があるだろうか。   
 多くの問題をあげることが出来ようが、とりわけ大きな問題は、原発事故が起きたときに避難を要する人の数があまりにも膨大になること、国政のストップや経済活動の大規模な混乱・停滞という事態に至りうること、だろうか。事故が起ころうが起こるまいが、立地が決定する段階で地価下落の幅がきわめて大きくなることの経済的影響もまた無視できまい。   
   
 だから、やはり、首都圏に原発を設けることは適当でないように思える。   
   
 しかし・・・放射能汚染された「がれき」の最終処分場をどこに設けるかという今後の課題に関しては、首都圏各地は「処分場はうちで」と名乗りをあげることがあってもよいのではないか・・・そうすることで、多少なりとも原発関連の痛みを分かち合えるではないか。   
   
   
 ところで・・・。   
 「いますぐにすべての原発を廃止するのでなく、少しずつ減らしていくのが望ましい」という意見の人が、国民のなかでおそらくは一番多数を占めるだろうと想像するのだけど、もちろん「いますぐ全廃を」という意見の人も決して少なくはあるまい。   
 それに対して、「各地の原発のうち安全面で不安のあるものは運転停止・廃止すべきである。そのかわり、世界で最も安全な原発を新たに作っていこうじゃないか」という、そんな意見を目にしないのがちょっと不思議に思える・・・モノ作りに長けた日本なのに。   
   
 しかし、その「最も安全な原発」はどのくらい安全なものになるだろうか?   
 たとえば超耐震・超免震とでも呼びたくなるような画期的技術を導入して巨大地震にも耐えられる原発を作ったとしてもなお不安が残る。原発が他国からミサイル攻撃を受けたらどうなるか・・・世界的に核兵器廃絶を目指すのと平行して、「戦争のときでも他国の原発などを攻撃しない」との国際条約・協定のようなものが整えば少しだけ安心できるかも知れない。だが、 テ ロ への警戒態勢は常に必要だろう。そしてまた、飛行機などが墜落して来ないような措置も必要。隕石が落ちて来ないような措置もまた必要(え? できるんかい)。   
   
 ああ、しかし・・・。   
 安価な料金で電気をジャンジャン使える環境というものを、あるいはせめて電力不足への不安が無い環境を、産業界は求めている(個人でも同様の感覚の人は少なくないはずだ)。   
 経済オンリー、効率オンリーの世の中は寂しい。だが、円滑な経済活動、そして経済的豊かさというものは人々の幸福のベースとして必要なはずだ。   
   
 原発を、今後のエネルギー政策をどう考えるべきか。筆者にとっては難しすぎる問題だ。いや、それを考えることが仕事の人がいて、また、原発問題に詳しい人たちがいるわけだから、うむ、この問題については筆者は考えることを放棄しよう・・・。   
   

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