2008-08

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「つけ麺」と「つけペン」を巡るパラドックス/その1

   
 筆記具のことがちょっと気になって調べることがあったが(具体的には、万年筆での利用を想定した顔料インクの商品ラインナップを知ろうとしたのだが)、そのときふと頭をよぎったのは・・・いま、ガラスペンを使う人ってどのくらいいるのかなということ。利用シーンのほぼずべてが趣味的なものだろうけど、一応の手堅い人気はあると言えるのか。   
   
 ガラスペンほか「つけペン」類の、今日的メリット、レゾンデートルのひとつは、好みのインクをとっかえひっかえ楽しみやすいという点であろう。ペン先の洗浄や交換が容易。万年筆では、いったん或るインクを入れてしまうと(カートリッジ式ならばカートリッジをセットしてしまうと)、別のインクを使う前にやはり万年筆の水洗いなどしたいし、そのあと(必要に応じてペン先に紙や布を当てたうえで)ペン先とは別の部分を握りしめ、遠心力で万年筆内の脱水をすべくブルンブルンと振り、それから乾燥させる手間・時間が必要になってしまう(万年筆を数本併用していると話はまた違ってくるが)。   
   
 いまどきのガラスペンは、デザイン的にずいぶん美しいものが多いなあ。   
 筆者が初めてガラスペンを目にしたのは小学生のときだが、のち、中学生・高校生の頃に、機会あるごとにペン軸やペン先をちょっとずつ買い集めた。商品性の面ではもう終末期にあるといった感じで、店によってはうっすらホコリをかぶっており、一部の店では投売り状態・不良在庫処分のごとき扱いにあった・・・記憶はあいまいだが、ペン軸250円、ねじ式のペン先は6個くらいで150円とかもあったように思う。ペン軸にはセルロイドがあしらわれていたりで野暮なデザインという印象を受けるものが多かった。ガラスペンなど常用するわけないと思ったが、あのペン先はすぐにも擦り減ってしまうのではないかと懸念してペン先はずいぶんたくさんストック買いした。脱脂綿を敷き詰めた箱のなかにしまいこんだ。「そうめん」や和菓子の箱に保管したことを覚えているのだけど、実家のどこかに眠ったままだ。   
   
 しかし、ガラスペンを頻繁に手に取る時期も確かにあった。   
 経済学・経営学系では、ゼミのレポートやレジュメ、卒論などは文章以外に数式のオン・パレードだったり、あるいは簿記実習では昔ながらの(いまや古典的と評して良さそうな)帳面に数字を書き入れる練習問題などさせられたのであった。   
 当時はワープロ専用機やパソコンでものを書くなんてことはなく、すべて手書きであった(一部、表彰もの的扱いを受けたりするレポート・論文は教授の研究費かポケットマネーで生協にて活字印刷してもらえる栄誉もあったが、ベースになる原稿はやはり手書き)。ゼミのレジュメなどで文章以外の数式をガラスペンで書くと、(筆者的な感覚では)とても美しい仕上がりを実現できた。文章はシャープペンで、数式はガラスペンでしたためたものを原稿・版下とし、コピーマシンで必要枚数コピーした。あるいは簿記実習などでも小さな数字を、線も細くきれいに書くことができた。ガラスペンは大いに役立ってくれたのである。   
   
 その後は、遊びがてらにたまに取り出すだけで、いつしかガラスペンは使わなくなってしまった。   
   
 まあ今の時代、遊びや趣味の筆記具・・・だろうなあ。   
 しかし・・・ 万年筆であれば、たとえ筆圧が弱くてもペン先は微妙にしなうとみえて、書く文字には味わいが生まれる。それにひきかえ、ガラスペンの文字は線がきわめて細いのに加えて無表情を保つ。これで「どうもありがとう」なんて書いたって、その感謝の気持ちの微塵も文字に浮き出ない・・・と筆者は感じる。夏の、涼しげな暑中見舞や残暑見舞の挨拶を2、3行書くには良さそうなんだけど。   
   (注: 下の写真は過去の使いまわしであり、これはガラスペンではない)   
   
   


雑記



   
 上の写真は、建築関係の雑誌。この業界の仕事をしているわけではないが、・・・(以下、削除)。   
   

セルの新譜

   
 HMV(日本)のこちらのページを参考に:   
   
   http://www.hmv.co.jp/product/detail/2778052   
   
   

雑記20080819



   
 上の写真は過去の使いまわし。右は、セルがザルツブルクで振ったモーツァルトの「後宮」のCDで3年前にORFEOからリリースされたもの。   
   
   
  (以下、略)   
   
   

雑記



   
 ほんとうはもっと前に載せるつもりだったものだが、写真手前はリゲティの作品。   
 鑑賞者サイドからすると "Book I" よりも "Book II" の曲のほうが面白いかな。しかし、大いに気に入るというものでもなかったが。   
   
 ピアニストのイディル・ビレットがナクソスにレコーディングしたショパン作品のCDは持っている人が案外多いのではないかと思うのだけど、筆者は持っていない。ショパン作品は強く惹かれるわけでもないのであれもこれもと買い求める気にはなれない(ここではピアノ作品に限って言っているのであってチェロ・ソナタについてはまたちょっと違う感想もある)。しかし、もちろん嫌いとか飽きやすいとかいうことでもない。筆者の場合、結局、ペルルミュテールのと、ダルレのと、あと意外かも知れないがピヒト=アクセンフェルトが演奏した練習曲集の録音があればいい、なんて思っている。それ以外は要らぬのかと問われると、そんなわけないのはもちろんなのだけど。でも、たとえばリパッティのものやノヴァエスのものは、自分は今後はもう取り出して聴くことはないのではないかと、そんな気がする。   
   
   
   (以下、略)   
   
   

盆と正月と五輪と万博がやって来た?

   
 音楽関係の学業を終えたフリッチャイの、指揮者としてのキャリアはハンガリーのセゲドの街でスタートした。セゲドには、この地ならではのレシピによるグラーシュ(グーラッシュ、グヤーシュ)の料理があるらしい。   
 セゲドは英語アルファベット表記をすると "Szeged" であるが、このグラーシュは "Szegediner Goulash" と呼ばれる。しかしまた、セゲド風グラーシュなどと呼ぶのは的確でなく、むしろ「セケリ風グラーシュ」と呼ぶべきだとの説もあるようだ・・・この「セケリ」とは詩人ヨゼフ・セケリのことを指しているとのことで、それ以上はよく分からないが、独特なところがあるレシピはもともとこの詩人のアイデア・思いつきに依っているということなのではあるまいか。   
   
   
  (中略)   
   
   
  (当ブログ記事ではここで、或る特殊な海外通販CD-R商品について言及しましたが、その後、この商品について発注および送金することの安全性に疑問が生じたことから、商品紹介の記述を削除することにしました。なお、以下の注意書きは、その商品を発注しようとする人のために書いたものでありますが、同様の注意や覚悟は、今後、CDであれ何であれ或るパターンの前払式通販を利用する場合にあてはまることと思いますので、一応、記述を残しておきます。)   
   
 ・・・代金は前払いで、先方の表示住所は私書箱である。   
 CD-R自体やその焼き具合の不良、商品の輸送途上(郵便)の破損、あるいは万一の商品不着だの、送金直後の先方の廃業の可能性などなどの諸リスクに関し、筆者は何も保証しない。   
   
   
   

夏。そして秋。

   
 「まだ夏」、「夏まっさかり」と思えても、秋は身近に迫りつつあるはず。もう「立秋」になろうとしている。   
   
 誰もが教わったことのある、有名な短歌・・・   
   
   
 亜季 来ぬと   目には さやかに   見えねども   
 かあぞんの音にぞ    驚かれぬる   
   
   
 解釈:   
 亜季ちゃんがやって来たぞと誰かが言うものだから、ついついそちらを見やったが、   
 なるほど、そりゃ、ま、この目には、さやかちゃんでないことは明らかであったが、   
 いやいや、そんなことはどうでもいいのだ、   
 大事なことは、先ほどから耳傾けるクリフォード・カーゾンの奏でるピアノの音色に   
 はっとしてしまったということなのだ。ああ、そんな季節なのであるなあ。   
   
   
 ここで、カーゾンのCDの写真でも付けておきたいところであるが、出先ということもあるし、ブログの画像アーカイヴから探してピックアップするのも意外と面倒なので省略。   
   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   
   

 「変ロ調で歌うような下らん真似して、それが俺に聞こえていないと思ったら、そりゃ残念ながら間違いだよ」   
   
 ・・・まだ戦前のこと、プラハの歌劇場で指揮者をつとめていたセルがハンス・ホッターに対して言った言葉。   
   
 ホッターは「マイスタージンガー」中で ナハティガル(ブリキ職) の役を受け持つことがあって、役柄としては暇なこともあってついつい妙な遊び・いたずらを思いついてしまったようである。リハーサル時、終盤のオケ・独唱陣・合唱全体で演奏し歌う個所でホッターはキーを下げて歌ってみたらしい。リハーサルのあと、出演者たちは舞台監督から指導・注意を受けたりするわけだが、その際ホッターの背後にセルがやって来て上のように言ったという。   
   
 ホッターとしては、そのように歌った犯人がほかでもない「自分」だと聞き分けたセルの耳に驚いたようだ。もっとも、ホッターの声質には特徴的なものもあるし、セルもわりと判別しやすかったのかも知れないが・・・。   
   
   
 詳しくは、グーグルのブック検索で "Hans Hotter" というタイトルの本を検索してその7-10ページを。   
   
   

 ワーグナーものの指揮者と言えば、故ホルスト・シュタイン氏もそのうちのひとりであったが・・・。   
   
 下の写真は(以前にも紹介したことあるが)NHK交響楽団に関係する本。わりと一気に読めてしまう。マタチッチ氏、シュタイン氏ほか、幾人もの人たちについてのエピソードに接することが出来る。   
   


薔薇


 エルンスト・アブラハム・ジョセフソンの詩「黒い薔薇」に、シベリウスは作曲をしている(ほかにディーリアスも作曲しているらしいのだが、そちらの作品については筆者は知らない)。   
 詩はスウェーデン語らしいが、英語やドイツ語に翻訳されたものもCDのライナーノートやネットで目にすることが出来る。   
   
 女心の歌なのか、それとも男の心を歌ったものであるのか、勉強しないと分からない。以下に紹介するように男性歌手が歌い、しかし、フラグスタートほかの女性歌手も歌っていたりするから、「男の心か女の心か、さてどちらであるか?」と無理に決めつける必要はないかも知れない。   
 歌詞には何通りかの英訳例がある。詩の趣旨をぐっと煎じ詰めればおおむね次のような具合か:   
   
 「この悲しい心の中には夜のように黒い薔薇の花々が咲き、その薔薇の木は育っていく。トゲがいっぱいで、わたしを絶えず苦しめる。しかし、その薔薇は、死のように白く血のように赤い宝石を生む。その宝石はどんどん大きくなり、(それに応じて・反比例するように)自分は衰弱していく。薔薇は根をおろしているから自分の心は痛めつけられ、むしばまれていく」   
   
 詩の形式として、たとえば「トゲがわたしを苦しめる、それというのも悲しい心には黒い薔薇を宿しているから」のごとく、都度、「黒い薔薇を宿しているから」というフレーズが付いてまわるところに特徴的なものはあるが、言わんとする全体趣旨は上記のとおりである。   
   
 恋心を歌ったものであるとすれば大層な表現であるなあと(日本人的には)思ってしまうのであるが、しかし実は、全然違う種類の悲痛や傷心を歌ったものだったりするのだろうか。やはり勉強せねば・・・。   
   
   
 メロディも伴奏もやすやすとは記憶に残りにくいように思うし、たまたま聴いた他のシベリウスの歌曲作品のほうこそ直後には「良いな」と感じたりするのだが、この「黒い薔薇」の歌詞内容が気になっているうちに次第にどうもこの曲が魅力的なものに見えつつある。  
   
   
 かつて紹介したこともあったオランダ・フェスティヴァルの音源中にトム・クラウゼが歌ったライヴ録音があるが、ほかに、下の写真の下段のものはビョルリンクがカーネギー・ホールで歌ったもののライヴ。   
 写真上段はクリスタ・ルートヴィヒ/ヴァンデルノート/フィルハーモニア管によるマーラーの「さすらう若人の歌」収録のCD・・・その第3曲は、薔薇については歌っていないが、「俺の胸の中には真っ赤に焼けたナイフが刺さっていて、ああ苦しいぜ」みたいな歌。上の「黒い薔薇」はこれと共通点もあれば相違点もあると思うが、それにしても暑苦しいというか何というか・・・しかし、本当に厭うべきは現実の、夏という季節のこの暑さ。   
   


ピストンの作品から




   
 またまたアメリカ作品で、ピストン作曲のヴァイオリン協奏曲などを収めたナクソス盤。曲は、ちょい面白いかな。   
   
 ちなみに、ヴァイオリン独奏のジェームス・オリヴァー・バスウェルは過去、セル/クリーヴランド管のコンサートに何度か登場して共演を果たしている(メンデルスゾーン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフほかの協奏曲)。   
   


フランス作品も歌って“おった”

   
 とりあえず更新しておこう。   
   
 フォン・オッターがレコーディングしたフランス系作品。   
   
 ヴェルレーヌのわりと有名な詩にフォーレが曲を付けたものも収録されていて、ライナーノートには英独仏語で歌詞が示されている。しかし、日本語歌詞が欲しいという方もいらっしゃると思う・・・その気になれば堀口大学の詩集・著作集にあたってそれを参照しつつ鑑賞するテもある。堀口氏はこの作曲対象となった詩/ほぼ同範囲の詩を少なくとも二度以上にわたって訳詩しているのであるが、そのうちの「ヴェルレーヌ詩集」という表題のもと「やさしい歌」という題で訳詩しているものを参照するとよい。堀口氏の訳において「んー、この訳は適切かどうか」と首をひねるところも皆無ではない。が、しかし、鑑賞の手助けにはなってくれるはず。   
   
   
 CD収録のこのフォーレ作品の曲順に対応する堀口氏訳のタイトルは下記のとおりである:   
   
 1(トラック18)- 後光の中の   
   
 2(トラック19)- 黎明がひろがり   
   
 3(トラック20)- 白き月かげ   
   
 4(トラック21)- つれない世路を   
   
 5(トラック22)- 本当を言えば   
   
 6(トラック23)- 消え行く前に   
   
 7(トラック24)- それは夏の明るい・・・・・・   
   
 8(トラック25)- そうしましょうね?   
   
 9(トラック26)- 冬は終りに   
   
   

 このCDのジャケットは写真をモノクロ化したものが利用されているが、コントラスト加減もあってか何だか微妙に気味が悪い(これはもちろん筆者の個人的感想)。モノクロなのに、木の葉っぱを見ていると、なぜか田中一村(たなか いっそん)の絵を思い出してしまう。   
   
   
 写真左上の小野リサのCDは、こちらは歌曲でなくいわゆる「シャンソン」(ポピュラーの)をこの人ならではの形でアレンジして歌ったものだが、これについてはまたいずれ。   
   


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