2017-05

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解答は、最初には言えぬふぁ

   
 クイズ・・・以下の5つについて、どういう人物かを知っていますか?   
 4問正解なら素晴らしいです。5問すべてを答えられる人は多分いないと思います。   
   
   
 1) イ・ボミ   
   
 2) キム・デジュン   
   
 3) ノ・ムヒョン   
   
 4) ケイ・ウンスク   
   
 5) ム・ツェンスク   
   
   
 解答は省略します。ただ、ブログ記事の末尾に関連話題を載せます。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
    
 以下、いつもながらの「とりとめのない」・「理路整然としない」書き方になっているが・・・。   
   
   
 たとえば中学校時代までの学業成績・素行などを以って、その人のその後について「勉学の出来は? きちんとした行動が出来るか? 人間性のあんばいは?」等々を予測することが可能かと言えば、それは、あまり容易ではなかろうと思っている。高校進学したあとにそれまでとは打って変わって勉強に励んだら見違えるほどに学業成績が伸びるなどということもあるだろうし。   
   
 同様に、高校時代までの状況でその人の将来をどうこう占って何かを決め付けることも難しいものがあろう。   
   
 そしてまた、出身大学のランクやネームヴァリューで人を評価するのもどうかと感じる。   
   
 さらに、社会人/職業人になってしまうと、それまでの「カリキュラムとして存在し規定されたお勉強」の内容とは異なることに対する適応力や好奇心、そこでの成果が求められる・・・すると「学生時代はデキる人だったのに仕事人としてはちょっと」な人も出て来るし、逆に「学業成績は芳しくなかったのに、仕事での挑戦意欲は旺盛で、成果も立派」という人も見受けられるようになる。   
   
   
 或る人物が問題発言をしでかして、それに関して「あの人は○○大学の出身。やっぱり、あの程度の大学の卒業生は大したことない、ダメだな」といった趣旨のことを言った人が身近にいたのであるが、この決め付けもまた適当ではあるまいと感じる。ほぼ誰もが文句をつけることがなかろうと思われる学校歴(学歴というより学校歴)を備えた人物でも問題発言をして世間を騒がせる事例がある。   
   
   
 「Fランク大学」なる言葉を最近知り、また、偏差値40くらいに達していなくても合格・入学が出来てしまう大学が存在することを知ったのもそう昔のことではない。さきほど上で述べたような考え方からすると、「たとえ高校までの学業成績がちっとも振るわなかったとしても大学では伸びることもある」ということとなり、そういう生徒を受け入れる大学もまたあってよろしいと言えそうだ。   
   
 だが、しかし、何か釈然としないものも・・・。   
   
 やがてはサラリーマンとして働くことを思い描く高校生は、そしてその親たちは、次のようなことを念頭に置いているだろう:   
   
 「(どこまでも純粋な職能給制度・歩合給制度・成果主義型報酬制度である場合を別として)本人が就職して組み込まれることとなる給与体系としては“高校卒よりも大学卒のほうが有利で、生涯賃金から見ても同様”というケースが多かろう」   
   
 で、その観点からのみ大学進学を望むことにもなろうけど、これは常に正しい結果につながるものなのだろうか。高校までの成績の如何によらず、大学での学業に意欲を燃やし続けることが出来るのならば喜ばしいと思えるが、もしもそうでないとしたら・・・。   
   
 経済的ゆとりのある家庭の子や、学業とアルバイトとの両立が出来る子、奨学金給付を受けられる子など、つまり、旧来型・従来型の大学進学者である場合には、大学での学業にちっとも熱意を見せないまま何となく卒業に至るというパターンでも構わないのかも知れない。   
   
 しかし、いま議論されている高等教育の無償化が現実のものとなった場合、大学進学者の質・意欲・ポテンシャルが気になるところである・・・大学全入時代とも言える環境下、大学進学者の全員に対して「無償教育を提供する必要があるのか?」という問題が浮かび上がることであろう・・・「この者に、無償教育を敢えて提供すべきなのか」の判断の線引きが必要ではないかという議論が生まれるのではないか。   
 で、「無償化する以上は、そういう議論はやはり必要。そして、線引きは必要だろうな」と、筆者は思ってしまうのである。   
   
 「日本と日本経済を担う人材の育成という点で高等教育は重要である」、「貧困の世代間連鎖を防ぐうえでも、すべての子に無償の高等教育のチャンスを」との考え方もあろうけど、しかし、本人の質・意欲・ポテンシャルを考慮せずに無償教育を提供する、さらには「押し付け」に近い形で大学進学へ誘導するというのも、どうかなあ。   
 また、就きたい職業によっては、大学教育が役立たず(その職業に関係する授業を提供しているわけでもない)、大学時代が「時間のムダ」になるということだってある。   
   
 さらにまた、今ある大学のすべて、そこに設置された学部すべてが存続し続ける必要があるのかとの疑問も筆者にはある。子供の数が減っていく状況下、今後の大学進学希望者の推移にもよるが、大学・学部も少しばかり淘汰されることがあっても仕方あるまいと思うのだ。間違っても、高等教育の無償化の一環として「存続の危機に陥った大学を公費などで支援する」みたいなことがあってはならないように思える。   
   
   
 筆者が高校生であったとき、早々に理工系を目指す決意をした友人たちは、研究者の道を選ぼうと考える者はもちろんのこと、そうでなく企業(主にメーカー)の技術系サラリーマンを目指すつもりの者も、漠然と大学院まで進むことを思い描いているように見受けられた・・・「高校を卒業したら大学へ進学。そのあとに大学院」という将来設計(像)ということになる。   
 自分の場合、文系というか社会科学系へ進学することを決めるまでに、あらかじめ大学での講義科目はどういうあんばいになっているかをチェックし、履修を求められる科目とその講義内容を説明する資料(シラバス、講義要綱)に目を通した。   
 しばらく前に目にした新聞記事によれば、ノーベル賞科学者の或る先生は、物理を学びたくて進学した大学において、教養科目として憲法、心理学などなどまで学ばされるのを不満に感じたそうである。(そういう立派な先生と対比するのは失礼なことではあるが)筆者の場合、高校生の段階で「うわっ、大学では教養科目としてこんなものも受講せねばならないのか」と知り、少なからずゲンナリしたのであった・・・その科目とは例えば西洋社会思想とか科学発達史、心理学、また、経済学でも活用されることは無いのではないかと思われるテーマを扱う数学などなど。科目には一定の選択余地・選択幅はあるにしても、しかし、好奇心をそそられない科目も幾つかは選ばざるを得ないことに気持ちが暗くなった。「大学に入っても体育の授業があるのかよ、もう18歳になったら要らないんじゃないか? ほー、音楽の科目もあるのか・・・大学だと、まさか中学時代みたく人前で歌を歌わされるとかリコーダー演奏させられるわけでもなかろうし・・・何? ふむふむ、もしもこの説明のように内容が音楽史と音楽理論ならば悪くないな、ちゃんと単位取得することは可能であろう」などと思ったり・・・。しかし、「専門科目だけを履修するわけにはいかぬのか?」という疑問が浮かび、すると今度は、「高校卒のままで就職することとして、しかし、仕事をしながら、この専門科目の講義科目リストを参考にしつつテキストを揃えて独学を進めていくことでも一定の意義はあるだろう」とも考えた・・・それを担任の先生に話したら学歴社会という現実を理由に「その考え方は間違っているし、親も反対するであろう。普通に大学進学すればよいではないか。そうでないと後悔する」と一蹴されてしまった。もちろん先生の意見は正しかったわけで、高校卒で就職していたならば後悔したことだろうと思う。(とは言え、大学の教養科目で教わったことが役に立っているような気はしないけれども。)   
   
 が、しかし、こうも思うのだ:   
   
 「現在の学歴偏重社会・学校歴社会に修正を及ばすような何らかの力や意識変化があってもよいのではないか。そしてまた、高校卒業者が入学する学校でありながらも、しかし現在の大学の教養科目を削り去って専門科目ばかりをみっちり教えるような機関へのニーズが高まり、そこへの進学希望者がグンと増えるような時代が到来してもよいのではないか」   
   
 専門学校、職業訓練校、ビジネススクール、短期大学などのいずれと対比すればよいのか分からないが、「専門科目教育に特化した学校」は意義深いように思う。3年制くらいにして、大学院レベルの授業内容を少し取り込むのもよいかも知れない。   
   
 「教養科目は重要であり、幅広い教養を身につける必要があるのだ」との反論はあろうけど、「特にエリートを目指したいわけではなく、しかし、ただ、凡人ながらも一定レベル以上の知識や技能を備えた“組織の歯車”ではありたい」と願った昔の自分と同じような若者が現代にもいるのであれば、そのニーズに合致するのではあるまいか。   
   
 それでも「深い教養を備えていないと、AI時代に生き残れるサラリーマンにはなれまい」との反論があったりするやも知れない・・・うーん、もしかするとその通りなのか・・・すると、現状のような大学に進学するのを標準みたいにとらえ、教養科目カリキュラムもまた現状維持(または、更なる拡充)が適当ということになるのか。   
   
 しかし、また、大学には多くの公費が振り向けられている。大学では研究者・教員の人件費も発生する・・・学生にとって単に「教養」の位置づけとなるに過ぎない科目を教える先生の数は、日本全国で相当なものになろう。そういう先生をあっちの大学、こっちの大学も抱え・・・それぞれの大学で教養科目を整理・縮減したり、先生には複数学部の講義を兼務してもらう体制にしたりなどして「人減らし」を図る・人件費圧縮する等のことを進めてもらうことがないままで高等教育の無償化を実施していくことには大きな抵抗感を覚えてしまう。   
   
   
   
   
 ところで・・・。   
   
 子供たちの教育、また子供の養育にかかる経済的負担を社会全体で支えていくことに関し、その範囲や程度をどうすべきかを考えるにあたっては、その親たちにもしっかりと目を向けるべきであろう。   
 子供を持つ親の中で、「中間層」と言えるクラスの収入や家計支出の状況がどうであるかを知らないし、そしてまた、それよりも少し下位レベルだとどんな具合か等も知らない・・・しかしながら、決して貧困層とは呼べないであろう親たちの、その支出・消費行動や、また、貯蓄についての感覚に疑問も感じるのである。   
   
 親自身が衣類その他に、また食生活に、住居やクルマなどに大き過ぎる支出をしていたりせぬか。或いは、子供たちに、高価に過ぎると思われる衣料品・靴などを与えたり、スマホのようなものでも上級モデルを持たせたりしていないか。   
 果たして、そういう親たちの支出行動は適切と言えるのだろうか。(七五三や入学式/入園式などで、子供のために「それなり」以上の衣類など用意する気持ちは理解出来るけど・・・でも、冷めた目で見れば「ほんとうはあまり意味が無いんだけどね」的なことにもなろうけど。)   
 また、遊園地やテーマパークに子供たちを定期的に(毎年1回とかそれ以上とか)連れていく必要がどうしてあるのか。   
 子供のうちから(特に幼いうちから)あちこちへの、宿泊も伴うような旅行に連れて行く必要があるのか・・・子供の年齢にもよるが、彼らにとって「思い出」となってくれるものか怪しかったりもしよう。   
   
 世の中には、持っているカネの使い道が見つからなくて困るというくらいのリッチ層もいると同時に、また、そこまでではなくても豊かに暮らしている人たちが山ほどいる。でも、自身がそうでないならば、それはそれで仕方ないし、ごく常識的に「つつましやかな生活」をすればよい筈なのである。   
 ところが、「リッチな人たちと同じような、あるいは、それに近い消費行動をしたい」との欲求があるせいなのか、過剰な支出行動に出ている親たちが実は少なくないのではないかと想像する。つまりは背伸びをして家計上の無理を生んでおきながら「子育てはカネがかかる、社会全体で支援を」と主張するのであれば、これには賛同することが出来ない。「贅沢をする余裕があったら、それはそれで嬉しいけど、でも、“贅沢しなくちゃいけない”などというルールはこの世に無いし、また、企業がささやく“自分へのご褒美”などという文句に安易にそそのかされての消費行動も慎むのが賢い消費者」と思って生きることが正しかろう。   
 また、ブランドもの買い漁り癖をもつ人や、買いもの依存症の人も世の中にはいるが、それらの真似をするのも馬鹿げていることだ。    
   
 子育て支援のポイントは、今の子供たちについてなのであって(どういう環境・境遇で育って欲しいか等)、その親たちの贅沢・遊び等は、ま、ちょっと語弊はあるが、とりあえず二の次、三の次でもよろしい筈のものだろうし、いや、「どうでもよろしいこと」なのかも知れない。   
   
   
   
 とんでもなく極端な架空の話として、たとえばこう告白されたとしよう・・・「年収400万円の世帯です。息子を将来は一流の寿司職人か、一流のシェフにしたいと考えています。子供には小さいうちから第一級の料理だけに触れてもらいたいと考えていますから、私たち家族の食卓はいつも豪華ですよ。ほら、ワインをよく知るには一流とされるワインだけを飲むようにしなくてはいけないという言葉もあるそうですから、それと同じことです。家計の支出はハンパではないですよ。だから子育て支援は欠かせない制度ですし、今以上のものを望みます」と。   
 これには返す言葉を見つけられないであろう。繰り返すが、これは極端な、そして架空の話である。でもね・・・それよりずっと低いレベルでありながら、何か「求め過ぎ」なものも世の中にはあるように感じられはする。   
   
   
 「世の中、上を見たらキリが無い・・・それを悟ることが大事。自分よりも上位のクラスの人たちと同じでありたいとの感覚を捨て、自分らしい歩み方をしなくては」と、そう心に言い聞かせることは大事であろうし、常識ではないのか・・・本来であれば青年期くらいからそれが出来ている筈であり、「身の丈に合った」とか「身の程をわきまえて」ということを肝に銘じているべきであろう。   
   
 遊園地やテーマパークなどについては企業が福利厚生の一環として「何とかパスポート」を従業員とその家族のために確保している例は珍しくなかろうし、それを利用する限りはそれほどの負担を伴わずに家族で遊べることになる・・・そういう場合の遊園地行きは、ま、合理的なものと言えそうではある。しかし、そういうものが用意されていない場合には、無理をしてまで子供を連れて遊びに行く必要など無かろうと思うのだ・・・そのように諦める選択を出来れば、それは賢者であることの証とすら言えるのではあるまいか・・・子供からせがまれたら「あんなところ、行ってもつまらないと思うよ、それよりも・・・」と言って違うことを提案するのもよろしかろう。子供の将来の長い人生ではコツコツ長丁場の勉強や研究や仕事にあたるケースもあることを考えれば、しょっちゅう大きなレジャー/気分転換をはさむことが適当なのか甚だ疑問に思う。子供が或る程度の年齢になってからは「遊びよりも勉強をしろ。あんなところに行ってもお前さんが何かの知識を得て賢くなるなどと、お父さんには思えないんだ。お父さんを説得したいならば、どう意味があるのかを教えてくれ。行きたければ、自分で稼ぐようになってからにしなさい、自分のカネで行きなさい」と言うこともアリかなと思う・・・子供の教育の仕方としてこれが適当かどうか、子供がひねくれたりせぬか、それは知らぬが。   
   
 子供が何か、その家庭にとっては贅沢とも言えるようなことを望んだとする。しかし、その望みの内容は、他の家の子供にとっては常識であるとする。でも、他の家の子供と同じであらねばならないこともあるまいと思う。「あんなもの買わなくてもいい」、「あんなところ、行かなくても」、「よそのうちは、よそのうち。うちは、うち。自分は自分でしょ。何かで遊ぶことよりも、自分自身のために勉強しなさい。本を読みたければ、それだけはお小遣いとは別で買ってあげるからね」みたいな対応があっても、それはおかしくないと思う。   
 他の子供と同じでなくては子供が「いじめ」にあうかも・・・そういう不安は確かにあるかも知れない・・・これは重要なことであるにもかかわらず、この問題を回避する名案を筆者は思いつかない・・・申し訳ないことであるが。でも、遊園地行きでも、子連れでの海外旅行でも、高価な子供用衣料品でも、そんなものを、どの親もが求めたうえで「さらなる子育て支援を」などと主張されたら、国民それぞれに、たまったものではないのである。   
 テーマパークなどによってはリピーターが生まれる。そして、子供の頃や若い頃にそこに親しんだ者は、自身が成長し子を持つようになってからも今度はみずからの子供を連れてそこを訪れたりしているようだ・・・キリが無い・・・一般庶民がそういう習性を、遺伝子のように世代を超えて持ってしまってよいのだろうか・・・。   
   
   
   
 今のうちに「子育て支援」やそれに類する表現を廃して、「子育て世代向けレジャー・お遊び支援」等の言葉を用いるようにしたうえで国民に賛否を問う・国会審議するなどしてはどうなのかとも思ったりする・・・以前に野党が「戦争法案」などという言い換えをしたのに比べればずっと穏当なレベルの皮肉に済んでいるであろう。   
   
   
   
 今の時代、クレジットカード利用、割賦購入、カードローンなどについて、人々の抵抗感が薄れていることも気がかりな点である。   
 筆者らの世代だと、わりと、「借金しての買い物は気持ち悪い」とか「支払うべきものは一度にきれいに支払ってしまわないと気持ち悪い」といった感覚が染みついているが、もう少し若い世代から下の世代にはそういう感覚が薄そうに見える。住宅ローンは別として、また、クレジットカード利用についても「預金残高は十分にあるし、現金支払いだって可能だけど、単にポイント目当てでクレジットカード決済にしているだけ」というのならばそれはよろしかろう。しかし、そうでなく、今後の給料・ボーナスを当てにしてクレジットカード利用するということであれば、どこかで「体質改善」がされるべきであろう。   
 親のカードのその家族カードを持たされて育った子はカード利用に慣れっこになってしまうということもあるかも知れない(筆者らの世代だとそういうふうに育っている人はかなり少なかったであろうし、就職して2、3年したあたりになって「海外出張時には必須であるから」ということでクレジットカード申込したような例が多かろうと思うのだ)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   

 「忖度(そんたく)なんて言葉、知っていましたか?」と訊かれたことがあったけれども、もちろん知っていたし、この言葉を自分で使うこともこれまでの人生で1回か2回くらいはあったように思う。ただ、そうやって使ったときには、「通じにくい言葉であるかも知れない」と、ちらっと思ったような気もする。   
 「勘案する」、「斟酌する」、「おもんぱかる」、「顧慮する」などの語は、「忖度する」に比べればずっとよく知られていると思うが、でも、文章中でなく会話の中で使うと、相手がほんの一瞬だけ「脳内漢字変換」に手間取るような表情・様子になったり・・・。   
   
 以前、A君が、部下の作った連絡文書の原稿をチェックしながら、「この部分、もっと平易な表現に出来ないの? 分かりやすい言葉を使うことが大事だ」と指導していたが、それを聞いて筆者は思った:   
   
 「その“平易”という言葉が、そもそも平易じゃないじゃないか」   
   
 筆者も「平易」という言葉はよく使うけど。ともかく、このときは「自分も言葉選びには注意しないとな」と、プチ反省したのであった。   
   
   
   
 洒落・ダジャレを考えることの好きな人の多くは、何かの言葉に接したとき、無意識にその言葉のアクセントを変えることも含めて「同音異義語」や「近い音の言葉」を探す習性を持っているものと想像する。ほか、言葉を変なところで区切ってみたりということも。   
 で、さきほどの「忖度なんて言葉、知っていましたか?」の問いに対して、筆者は次のように応じたのであった:   
   
 「山田さんのお宅を、山田宅と言ったりするけど、それと同じだねえ・・・ソフトバンクの社長のお宅の意味!」   
   
   
 でも、「忖度」はドイツ語の Sonntag にちょっと似ているし、 Sonnentag にも似ているな・・・先日来、そう思っている。   
   
   
  接待は  ゴルフを所望と  忖度す   
  おぬしも供(とも)せよ  次の Sonntag    
   
 歌意: 当社取引先のあの方は、(宴会などの接待ではなくて)接待ゴルフをご所望であるように思われる。こんどの日曜日ということでスケジュールするつもりであるから、お前も一緒に来てプレーに参加しろよ。   
   
   
 下のは、オペラのDVD。   
   
 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」。この「ムツェンスク」の部分、変な区切り方をして「ム・ツェンスク」と読むと、なにやら韓国の人の名前のように感じられてしまう。   
   
 これらのオペラ2作品、内容/ストーリーには暗いものがあり・・・。特に「ムツェンスク・・・」のほうはあまりにも。テレビドラマ、いや、歌舞伎にも仕立てられそうなストーリーか?   
   


雑記

   
 以下については、食事中の方は、もしかするとお読みにならないほうがよいかも知れません:   
   
   
   
 営業系を歩んで来たのち、最近になってからは事務系でデスクワーク中心の仕事をしているA君の言葉:   
   
 「若い頃、(東京でなく地方都市で、そこを起点・中心にして)クルマで営業していた頃は、トイレにも行きにくかった。ファミリーレストランか、さもなければ駐車スペース付きの喫茶店などを探してトイレを借りることになり、すると当然、何か飲み物や食べ物を注文しないわけにはいかず(それによって、さほど安いわけでもない支払いも生じるし、しばらくするとまたトイレに行きたくなったりも)・・・。そのうちにコンビニの店舗も増え、そしてトイレも気軽に借りられる時代になり・・・もちろん、そのコンビニで何かを買い物しますけどね、選べる品は飲料や食品以外にも色々ありますしね」   
   
 そのとおりであろうなあ。そして、   
   
 「これまでは日中の水分摂取を努めて控えていたが・・・こうしてデスクワーク中心になってから何も気にせず水分摂取するようになると、その摂取量がどんどん増えている。お休みの日と変わらないくらい摂っていて、これで大丈夫かなと、ちょっと不安になる」とのこと。   
   
 こちら、医師でないから何とも返事しようがないが、素人考えする限りでは、健康診断で糖尿病ほか何かの指摘を受けるとか、むくみ症状、胃腸の不調、漢方医学で言われる「冷えに起因する症状」など出て来ないのであれば、特に心配しなくてもよさそうな気はする。ま、水そのものは良質なものがよろしかろうけど。また、清涼飲料水に含まれる糖分のせいで急激な血糖値上昇があった場合のその後の体の反応に関して注意は必要であろう。   
   
   
 ところで・・・。   
   
 健康な成人の場合、1日の排尿量は1.5リットルほどで、排尿回数は1日に3回から5回だとのこと・・・お医者さんが或る本で述べている(ただし、水分摂取量、発汗量、トイレに行く回数による変化はあるとのこと)。   
   
 いやいや、これ、本当か? 自分の排尿量が何リットルか計量・把握した経験は無いけれども、排尿回数がこれで済む人は滅多にいないのではないかと思う。トイレに行くのを、その都度、極限までガマンするとしても、5回ではおさまらないのではないか。   
 たとえば、最低でも次のようなトイレ行動はおかしくなくて普通なのではあるまいか:   
   
 ・起床時   
 ・その後、出勤前の家を出るときまでに1回   
 ・その後、午前中または昼食前に1回   
 ・午後から夕刻までにかけて2回   
 ・帰宅して夕食前までに1回   
 ・夕食後、就寝までに3回   
    
 上を合計すると9回になる。意識して、ガマンの限界までトイレに行かないようにしても、それほど回数を減らせないのではないか。   
 勤務医でなく自宅兼診療所で仕事する開業医さんとか、ほか、自宅兼用の店舗・作業場にて仕事する商店経営者・職人さんなどを別にして、電車通勤・クルマ通勤の人が出掛ける前などにトイレを済まさずにおくのはちょっと抵抗があるというものだろうし。また、長引きそうな会議・打合せの前などもトイレに行っておこうと考えること自然であろう。   
   
 筆者の場合、子供の頃から水分(水・白湯・清涼飲料水・茶ほか)をガブ飲みする傾向にあるし。ほか、炭水化物もしっかり摂る、味噌汁・吸い物も飲む、そして酒類(水分を含むし、そして利尿作用もある)も口にする。夕食後から就寝前までのトイレ行きの回数が上よりも多くなる。   
 で、就寝が午前零時前といった、わりと早めの場合、朝の起床時間前のまだ夜中のうちにもトイレに行くことは普通である。これは中高年にありがちな症状というよりも、若い頃から変わらない・・・未成年のときから酒を飲んでいるが(笑)、おそらく、その頃からずっと続いていること。夜中にトイレで目が覚めるのは不愉快でないかと尋ねられたことがあるが、トイレのあと「もう一眠りできる」と考えると、むしろ得したような気分になるのだよなあ・・・それは感覚・考え方が変わっていると思われるかも知れないが、修学旅行や社員旅行のときに「お前はマージャンの音その他で目を覚まされても機嫌が悪くならない不思議なヤツだ」とも言われたことがあるので、ま、そういう習性であり、寝起きもまた常に良好である(仮に自分が消防・救急・自衛隊などの仕事についたとして、仮眠中に起こされても、寝起きの面で叱られる・注意されることは無いのではないかと想像する)。   
   
 以前は健康診断の前日だけは禁酒していた・・・そういうときだけは夜中にトイレに行くことは無かったように記憶する。   
   
 水分摂取量など勘案すれば、おかしくないパターンなのでは、と思っている。健康診断でも、いつも何も問題は指摘されない。   
 もっとも、早め早めにトイレに行く習慣にしていると膀胱センサーが狂って来るなどして頻尿傾向になるとの話も聞くので多少の注意はしている。でも、(オフィスビルなどの)エレベーターに乗る前にはいつも自分の体内の蓄積尿量のあんばいに注意を振り向け、早めにトイレに行くことは心掛けている・・・もしも地震や事故・トラブルでエレベーター内に閉じ込められ、そのまま2時間も3時間もそれ以上も救出されないような事態のときに大変なガマンを強いられたら困るだろうと警戒するからである。   
   

雑記

   
 或る店で、ひとりで酒を口にしていたとき。   
 店には本が置かれていて、そのうちの1冊を手にした。それは占いの本であった・・・正確に言えば、誕生日のほか幾つかの要素をもとにしての性格診断をする本。   
   
 自分は占いのようなもの、また、このテの方式による性格診断というものをろくに信じない。で、その本については、自分の場合にどのように性格診断されるかをチェックし、その「はずれ」具合を笑い飛ばしてみたくなった・・・それはまた、「ほら、このような本はインチキなのだ」と、あらためて納得したいことでもある。   
   
 が、驚いたことに見事に「当たって」いたのである。こんなことがあってよいのか! このような状況は認めたくないものだから、「実は誰にでも当てはまること」を巧みに、読者を引きずりこむように述べているだけではないかと、猜疑心をしっかり働かせて読み返したが、決してそのような内容ではないのであった。   
   
 「それでは」と、今度は身内についてチェックしてみた・・・すると、これがまた、よく言い当てており・・・。   
   
 これほど驚いたことはなかった。凄いことがあるものだと感心した。本のタイトル等は覚えていないので(覚える気も無かったのだが)その本をここで紹介することは出来ないけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 占いと言えば、随分と前のこと、「前世占いをします」という広告チラシが郵便受けに入っていたことがあった。   
 読んでいるうちに笑ってしまうような記載があった・・・どんなだったか覚えていないのだが。今となっては、あのチラシを捨ててしまったのが惜しまれる・・・何かのとき、ひとに見せて話のタネにできたであろうのに。   
   
 前世占いというものはどうやるのだろう・・・相談にやって来た人の前世の身分その他について「あまりにも低いもの(低いとの評価がされがちであるもの)」を言うと、相談者は不愉快になって「料金など払えるか! ふざけんじゃねえ」という反応をしかねないから、少なくともコワモテの相手にはその気分をよくする・その心をくすぐるようなことを言うくらいの注意は必要だろうなあ。   
 ひとりの相談者が、時をおいてもう一度その占い師のもとを訪ねるなどというケースもあるかも知れない。となると、占う側は前回と同じことを言わねばならないから、しっかりと記録をつけておくという習慣も必要であろう。 ・・・と、ここでは、前世占いはインチキとの前提で書いているが、単に「そのつどの口からデマカセ」だけで上手にやれる商売とは言えないのかな。   
   
 「あなたの前世は、ヨーロッパの○○の王様が可愛がっていたネコでした」などと言うのも、ネコ好きのひとにはウケるかも知れないが、しかし、輪廻転生めいたことを信じない人からはその辺についての議論をふっかけられるやも知れない?   
   
 占いも、お気楽なだけではつとまらない稼業なのかも知れない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る店で酒を飲み・・・そこから出たときに知人に会った。   
 知人といっても、仕事の上でとかの知り合いでなく、そこここの店でよく出くわす相手なのだ。訪れる店が共通する・重なるのだ。   
   
 自分がさきほどまで飲んでいた店の経営者とは、子供の頃から顔見知りなのだそうだ・・・これは、後日、別の店でまたもバッタリ一緒になったときに聞かされた。   
 彼からは、「あの店は、というよりも、あの経営者の家族は云々」と、かなりマイナス評価のことを聞かされた。   
   
 話の内容はここでは省略するけれども(そして、話のひとつひとつが真実であるかどうか分からないけれども)、要するに、ま、「親がああだと子供の世代もああなってしまう」、それゆえ子供らも「常識に欠けるところが、子供の頃から色々と見受けられる」、「これこれの場合に大抵の人であればこういう行動をとるのに、その家族はどうかしていて、それができない」、「規範意識・モラルに欠けている」、「デタラメが通用すると思い込んでいるフシがある」等の指摘なのであった。   
   
 この話は合点がいく(まんざら嘘でもないなと思える)ものであった。実は、「ほかの店では当たり前のことがそこではきちんとできていない」、「これではマズイということを自覚して反省すべき機会があったにもかかわらず、それができないとは不思議なことだ」など、また、他のこともあって、簡単に言えば「どうかしているな」と感じてはいたのだ。   
   
   
 それにしても、こういう場合のこの家族の各メンバーについて、多数出版されている占い・性格診断の本は言い当てることができるのだろうか・・・。「氏より育ち」ならぬ「生年月日/干支/星座/血液型より育ち」?   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 子供の頃というか、高校生までの同級生のことを思えば「色々なタイプの人間がいたよなあ」と感じる。そういう感想は誰しも同じであろう。   
   
 となると、日本のそれぞれの都道府県ごとに、いわゆる「県民性」などというものが果たして見受けられるのかという疑問を覚える人も多くいるのではないか。つまり、「どこそこの土地で育ったから/親がどこそこの地の出身だから、その人の性格・性分・考え方はこういう傾向にあるなどと言い切れるものではない」と。   
   
 が、筆者の個人的な感想からすると、県民性というものはやはり感じられるのである。確かに人それぞれ多様な個性を持ち合わせてはいるけれども、出身都道府県ごとに、公約数的なもの、共通項的な部分というものが、人にはわりとよく備わっているように思う。   
   
 県民性というものに興味を持ったのは大学時代のこと。日本各地出身の友人に出会ったからである。ただ、その頃は、そういうテーマの本まで読むようなことはなかった。平成の時代に入ってしばらくした頃になってようやく、機会があればそういう本を買い求めるようになった。   
 人づきあい、その他のうえで、県民性というものは侮れないものではないかと思ったりする。   
   
 下の写真のうち、上段にあるのは手持ちの県民性関係の本のうちのひとつ。   
   
 下段は、しばらく前に出た本。   
 かねてより「中国人(本土の)は、人として備えているべき最低限の徳性その他がなぜ多く欠落しているのか」、「韓国人の場合、そこまでのことはないにしても、しかし、何か、ひねくれて育ったようなところがあってそこが問題」などと思い続けていて(しかし、いずれの地にも「立派と思えるような人たち」も勿論いるので、一般大衆をひとくくりにしたうえでさらに大雑把に見た感想ということになる。なお、日本人の欠点は棚に上げてしまったうえでの言い分)、それらを解説してみせる本のあれこれを興味深く読むことは時々あった。   
 写真の本は、現代でなく、昔々に焦点をあてたもの。これで「現代の隣国の人々の特徴」についてすんなり納得・理解できるものではないが、しかし、興味深い史実に接することができる。理系出身の人がこういうものを著すというのは意外な気もするが、ともかく面白い。   
   


雑記

   
 前回のブログ記事のための写真ではハルサイのCDとともに美術関係の文庫本を写し入れたが、このとき、別の本を紹介しようかどうかを迷った。   
   
 ちくま文庫から少し前に出た「その他の外国語 エトセトラ」というエッセイ集を紹介しようかなとも思ったのだ。   
 この本がどう面白いかは説明しにくい。諸々の外国語や、また外国をめぐる、とりとめのない話題で、どこがどう役立つかという点もまた説明しにくい。人それぞれに、興味をひかれるかどうか、何らかのヒントを得て「なるほど」と得した気分になれそうかどうかは、店頭でパラパラ読んでみて判断いただくしかあるまいか。   
   
 163ページ以下では、大学生の授業で、英語の同音異義語/同音異綴語を学生に挙げさせる話が出て来る。 meet と meat がその例である。   
   
 で、英語の同音異義語となると、筆者にとってはそこに「ハルサイつながり」が生じる・・・。   
 昔、高校の英語の授業で、ライト(先頭がL音でなくR音のほう)と発音されるもの4つを、「いっぺんにセットで覚えておきましょう」と言われて、そうしたのであった。   
 中学生でも知っているのが right と write であるが、ほかに rite や wright の語がある。   
  rite は結婚・葬儀その他の「儀式・典礼」の意味で、ハルサイの英語表記でも「祭典」についてはこの語が採用されているのである。   
  wright は「職人・大工」の意味で、この語を覚えておきつつ同時にたとえば playwright (演劇関係の職人=劇作家)などの語も覚えておくことになる・・・確か、「シェイクスピアは playwright であった」みたいな文例を示されたように記憶する。   
   
 順番が前後するが121ページに於いて、今の若者(学生)のリスニング能力や発音について、それ以前の世代と比べて特に優れているように思えないと述べ、そしてさらに話が進む。が、このエッセイ編の末尾にて、「外国語の音」を真似する能力の高さも認めている。   
 この、いまどきの若者のリスニング能力や発音が中高年世代と大差ないという点、同感なのである。   
 中学・高校での授業では、依然として「読む・書く」にばかり力点が置かれているせいなのだろうか・・・筆者は教育者ではないから何とも言えない。しかし、「読む・書く」という面の鍛錬を甘くしてもよいとは思えないからこれを減らすことはせず、それと同時に「聴く・話す」の鍛錬をさらに増量したり工夫したりする必要があるのかも知れない・・・漫然と聴く・話すのでなく、「音やアクセントやイントネーションのあんばい・違い」に対して、如何にしっかりと注意を振り向けさせるかが大切なのではないか、どうだろう。   
   
 筆者の場合、英語をあまり話したがらない。発音、アクセント、イントネーションなどなど悪くないとの自信はあるけど、いくぶんボソボソというか、何かこう、つまらなそうな話しぶり、快活でない話しぶり、相手を説得したり巻き込んだりする意欲に乏しいような、いかにも非・営業畑出身を思わせる中年オヤジの喋り方になる・・・その点が自分で気に入らなくて、英語を喋ることは好きでない。かと言って、芝居を打つような話し方や表情をする気にもなれない。   
 しかし、会議の場で、日本語を理解できない出席者が一人でも交じっているときは日本語禁止、英語で進めるというルールが続いている。通訳者を呼ぶこともあって、そのときは日本語で話してよいことになっているからホッとするけど(笑)。   
 ま、日本語を理解できない人の前で、この人には無関係な内容であっても日本人同士が日本語で喋ればそこで不審なもの等を感じさせてしまうかも知れないので、上のようなルールは納得いくものである。物事を説明したり、理解を求めたり等、そういうときに英語を喋るのは、それでもまだマシなのであるが、しかし、しばしば、変なところで変な気分を味わうこともある・・・たとえば同じ日本人の中山さんに向かって、「中山さんの方から説明してくれる?」みたいな促しの言葉ですらも "Mr. Nakayama-san, would you..." との言葉を発するその気恥ずかしさ・・・日本人が日本人に向かって英語で話しかけるという滑稽さを中心としつつ、それにプラスアルファした別種の違和感もまた感じられるのだ。   
   
 英語を小学生のうちから学ばせることは正解であるとか、いや、もっと幼いときから学ばせないと・・・等々、考え方は分かれる・・・筆者などは「まず国語=日本語をしっかりと。日本語を理解する・操る能力、日本語の語彙力などが或る水準まで行ってから外国語学習を始めればよいのではないか」という考えであるが、しかし、これに対し、たとえばグローバル化した現代を見据えての反論が寄せられたとき、そこで生じる議論に勝てる自信も無い。(以前、冗談で、「複素平面と対数とを理解していないと企業の給与制度の設計が出来ないのと同様に、平家物語を読み込んでいないと冷蔵庫のモーターの性能向上研究ができないであろう・・・学校で学ぶことには一切のムダは無いのだ」と言ったことがあるけど、ま、それはどうでもよい。)   
   
 ただ、外国語の音の聞き分けだけは、早期に始める工夫があってもよいのかも知れない。文章や、やたらと多くの単語を使う必要は無さそうに思うのだが、音の種類に敏感になってもらうことは意義があるのではないか・・・これは幼児期(の一時期)に限らず、継続性も必要なのかな、どうだろうか。   
   
 昔、中学生のとき、「水曜日の Wednesday は、こう綴っても発音はウェドネスデイではありません。綴りを覚えること、そして、その綴りのとおりにはなっていない発音を覚えること・・・二つのことを頭の中に埋め込んでいく必要がよくあります」と教わった。「大変かも知れませんが、それをしないと英語を聞いり喋ったりができなくなります」と。   
 恥ずかしがらずにしっかりと音真似するように、とも言われた。   
   
 この、恥ずかしがらずに音真似する鍛錬が、実は多くの人に不足してしまうのではないか。   
 たとえば above とか、あるいは heart などに含まれる「アの音」または「アっぽい音」の類は、恥ずかしがらずに発声練習しやすいけれども、しかし、apple ・ angry ・ hat などに含まれる「アの音」を発声することは、少なくとも筆者が中学生だった頃は最初はとても気恥ずかしかったし、その音も好きでなかった。しかし、その気恥ずかしさはいつのまにか克服できた。   
   
   
 「オバマ大統領の英語は聞きとりにくかったけど、トランプ大統領の英語は分かりやすい。共和党の人の話す英語のほうが聞きやすいのかなあ・・・喋りっぷりがまた魅力的で・・・ "axis of evil" なんてね」   
   
 ・・・と、これは先日のこと筆者が口にしたセリフであるが、この axis の「アの音」を恥ずかしがらずに、そして "axis of evil" をカタカナ読み・棒読みせずに口にすることができたのも、音真似の気恥ずかしさを克服できているからであること、間違いあるまい。(なお、オバマ大統領が喋る英語には、その出身地からしたクセも垣間見える等の説明も聞いたりするが、ここでは話を省略する。しかし、筆者、キッシンジャー氏の英語も聞き取りやすいと感じるなあ。)   
   
 或る時、若手社員が「農業・食糧に関連する事業/ビジネス」というのを英語で説明しているときに「あれれ」と思ったのは、 "agriculture" や "agricultural" の発音であった。「そういう音で発音すると、もちろんコンテクスト/文脈からはちゃんと意味が通じる筈ではあるが、しかし、相手は一瞬 "ugly culture" とは何ぞやと思うのではないか」ということであった。先頭の「アの音」を、学生時代のうちから恥ずかしがらずに練習していたなら、そして、幾つかある「アの音」のヴァリエーションを聞き分ける・使い分けることに興味を持っていたならば、彼はまた違った発音、つまり、より正確な発音に近づけたのではなかろうか。   
  "ugly culture" とは何か・・・「有機肥料のみ使用し、無農薬の栽培」を謳いながら、実はそれがウソであるようなビジネス風土?(農家は不真面目・不誠実だと言っているのではない。流通段階で虚偽表示が行なわれる可能性を否定できないものと、消費者は漠然とした不安を拭えずにいる・・・べつに、ここで何かを非難するつもりはない、「不安感がある」ということだけを言いたい。なお、筆者個人的には、無農薬栽培でなくとも構わないと思っている・・・農薬大量使用とか、ちゃんと洗わずに食べるとか、そういうことはイヤであるけど。)   
  "agriculture"の発音は、アメリカ英語の場合の発音は「胡坐(あぐら)カルチャ」に近い。これは意味深長なことである。というのも・・・アメリカがTPP(交渉)離脱を決めたこと等から、少しばかりホッとした農家が、胡坐をかいてしまって効率性/生産性/コスト・品質などの向上、他の農家や地域との差別化、品種選択・収穫/出荷時期の工夫などなどを怠れば、それはその農家の将来、そして日本や特定地域の農業の将来にとってマイナスになりうるとの暗示がこの "agriculture" に含まれているのではないか。   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
 (追記)  
   
 今までのところ、トランプ大統領に感謝している。そして、このたび、マクロン氏にも感謝・・・。   
 日本の株式市場は値を上げ、8日と9日にわたって自分は約3分の2ほどを売却して利益確定させた。「売りのタイミングが早いのではないか、もう少しすればさらに上値を追えるであろう、大勝負に出られない臆病者!」との見方もあろうけど、だがしかし、「優良企業なのにまだ十分に割安」な銘柄と、あと、自分の勤務先の銘柄とを残し、ともかく堅く堅く稼ぐこと・・・筆者の場合は子供がいない等の理由から、ひと様より安い給料・高い税負担にガマンし続けて来ており、コツコツ間違いなく利益を得ていくことこそが大事という感覚にある。   
 いずれまた、市場が値を下げる場面はやって来る。そのときにまた買うであろうから、しばらく銘柄チョイスに時間を割くこととなる。   
   
   
 新入社員研修の日程/講義スケジュールの中には「従業員持株会の説明」などというものもあるが、筆者個人的にはこれに限らず、株式投資全般の講義もあってよいように思っている。これは以前、会社に出入りしている証券会社の社員にも話したことがあり、彼は「いいですね、喜んで講師派遣しますよ」と言ったのであるが、研修はこちらの管轄外のことであるからして、話はそれきりになってしまった。   
 人事部は、メインバンクの銀行の担当者がやって来て新規の、給与振込に使わせる口座を新入社員に作らせる手伝いばかりしていないで、若い人に証券投資へ目を向けさせる努力をしてもバチは当たらないのではないか・・・しかし、株式投資はギャンブルとの偏見を持っている場合、そのようなものを研修のなかに含める気にはなれないかな・・・勿論、投資は自己責任であることを強調する必要があるが。   
 ほか、「生命保険・損害保険・共済などで自分にとって必要なもの・必要な範囲を見極める、不利・ムダにならないためにはどういう判断が必要か」というテーマの講義もあってよいのではないかと考える。繰り返しになるが、新入社員研修の内容は管轄外であるけど・・・ただ、昔と違って、こういうテーマは最近では新聞でもよく取り上げられるし、ネット上でもFPその他の人たちが解説をしてくれているから、判断のための環境はずっとよくなっていると言えようか。   
   

雑記



   
 ピエール・ブレーズ(ブーレーズ)の指揮者としての経歴や、この人への注目の集まり方などなどは、もしもセルやクリーヴランド管との接点が無かったら少しは違ったものになっていたであろうと思う。もちろん、そのような出会い・関わりが無くても大きな功績を残せたであろうことは間違いなかろうけど。   
   
 ブレーズというと近現代の作品ばかりを指揮して来たように見えて、しかし、思い返せば、セッション・レコーディングやライヴ音源として「水上の音楽」、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、ベートーヴェンの交響曲第5番や「皇帝」なども残っているし、残された録音がある限りはまだ色々と聴いてみたい気がする。   
 仮に演奏実績と録音があるとすれば、ハイドンやシューベルトの作品など、あるいはフォーレとか、どんなあんばいに演奏してくれたことであろうか。   
 ベートーヴェンの「田園」とか、ウィンナ・ワルツ、シューマン、ドヴォルザーク、チャイコフスキーなどの作品については、それらの演奏がどういうものになったろうかを想像するのがとても難しい・・・ように感じる。本人にとってちっとも興味が無かったとか、また、もしかすると愉悦感や熱気を帯びさせることを嫌ったかも知れないか。   
   
 冒頭の写真のCDは、1991年レコーディングのほうの「春の祭典」など。   
   
   
 一緒に写し入れたのは「ちくま文庫」のもの。気軽に接しやすく、ゆえに一気に読めてしまう。   
 図版、つまり紹介されている絵画の「サイズ」を最初は残念に感じた・・・文庫なので仕方ないけど。しかし、これらの本としては「絵画と向き合って、その世界・美しさに浸りましょう」というのとは違って、絵画中のモチーフその他が意味する・示唆するものが何であるかの解説に意義がある。読み進むうちに、絵画のサイズはこれで構わないと思えた。もちろん、気に入った作品でもっと大きなサイズで観たいものがあれば別途の書籍・画集やネットなどを利用すればよいのであり・・・。   
   
 「モチーフで・・・」の本の、その目次のすぐあとの6ページで紹介されているジェイムズ・ホール著「西洋美術解読事典」は長らく手もとにあるが、事典形式であり、「最初から順を追って読み進む」という付き合い方をしにくく、かと言って、「ランダムにページをめくってどこかの項目を読んでみる」という気にもなれなくて、結局はあまり目を通さぬままになっている。この本が登場してしばらくした頃だろうか、日経新聞の「私の履歴書」の記事に添えられた写真には「天秤(てんびん)」の含意を示す参考例ともなるようなものがあって、その後は美術作品(絵画に限らぬ)のモチーフに関わる資料を気の向くまま集めたりもしたのであるが、いつの間にかそういう習慣も無くなってしまった。   
   
 ま、それはともかく、面白く読むことの出来た文庫である。   
   

雑記



   
 海上保安庁であったか水産庁であったか、そこに所属する或る船では、航海中に乗員が曜日感覚を保持しやすいよう、毎週、何曜日だかの昼食をカレーライスに決めてあるらしい。また、たぶん年中無休に近いかたちで営業しているのであろう某レストランの賄いランチも、スタッフの曜日感覚を保てるように土曜のランチはカレーライスというルールになっているとのことである。これは以前、NHKの「サラメシ」という番組その他で知ったこと。   
   
 となると、(勤務シフトにもよるが)月に4、5回もカレーライスを食べさせられるわけで、カレー好きとは言えない筆者にしてみるとこれはかなわないなあ。あ、いや、カレー以外のメニューを選べないとなれば、そのカレーを乗せずに白いご飯だけを求めればよい話だな、そういう選択が許されるならば大丈夫だな。   
   
   
 暑気あたりっぽいときや二日酔いのときに食べやすいのはカレーライスやマーボー豆腐、という人もいて、筆者にしてみると「本当かよ?」と思ってしまう。   
   
 ところで、唐辛子、なんばん味噌漬け、コショウ、カレーなど、口にすると顔面や頭部に発汗する食材・料理があるが、口にするものによって、どうも汗の出る部位(皮膚の位置)が違うように思えるのだ。あと、発汗してもなお体が火照る感覚が持続するものと、そうでなく、発汗してしばらくすると今度は体熱が下がるように感じられるものとがあるように思える。   
   
 これから夏になって、食欲減退というほどではないにしても「ご飯を、あともうちょいしっかりと食べたいけれども、ビミョーに食欲が伸びない」などと感じるとき、山椒(さんしょう)の醤油煮/佃煮があると問題解決する。「ちりめん山椒」などと称するものもまたよろしい。   
   
 山椒の佃煮は自分でも作れるが、出来て売られているものを買い求めるほうが楽ではあるなあ。   
 冒頭の写真は、そういう、売られていた品。「和楽」という雑誌の最新号でもこの品を紹介している。わりと有名なのだなあ。  
   
 下のは、何年か前の写真の使いまわし。   
   


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