2018-02

Latest Entries

フィルクシュニー/セルによるモーツァルト/ピアノ協奏曲の、「レコ芸」評



   
 上の写真は以前に紹介したときのものの再掲(再利用)で、上段のものはフィルクシュニー(フィルクスニー)/セル/ケルン放送響によるモーツァルトのピアノ協奏曲第18番を含むCD。   
   
 筆者、長いこと「レコード芸術」誌を購入しなくなっているが、時折は書店で手に取ってパラパラと目を通すことはある・・・で、このほど店頭に登場したばかりの3月号の112-113ページに、上のモーツァルトのCDについての批評が掲載されている・・・関心ある方のための情報として、ここに書きとめておく。   
 (ついでだから「レコ芸」のこの号を買ってくださいとまでは書かない・・・関係者ではないし、また、筆者自身もやはり「感激のあまり/記念のため買った」などということにはなっていないので。)   
   
   
 ・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は先日のこと調理した海老(白海老)とスケソウダラ。   
 前者は「かき揚げ」とし、そして後者は味噌・醤油ベースでの煮付けに。   
   
 モザイクをかけた部分は、スケソウの頭部と白子・・・気味悪がる方もいらっしゃると懸念したので。   
   
   
 スケソウダラとか牡蠣(カキ)を味噌味で煮ることに関しては、「あとで鍋を洗うときに汚れがきれいに落ちにくい、頑張って汚れを落とそうとすると金属タワシなど使うことになり、それでマニキュアやネイルに傷がつく」という不満を持つ女性がいることをしばらく前に知った。   
 ゴム手袋・ビニール手袋を使わないとした場合で考えよう・・・と言うか、筆者自身が調理をするときのことを言えば、金属タワシを使わなくても、アルミホイルを10センチか20センチほど引き出してカットし、それをふわっと丸めてタワシのようにして洗剤を付けて「こすり洗い」すれば鍋は容易にきれいになると思うのだけど・・・金属タワシの場合に比べ、想定外の「爪との接触」は少ないと思われる。(なお、アルミホイルの、カット部分のギザギザをわざわざ内側に丸めこむことは損だと思う・・・せっかくだからそのギザギザ部分の摩擦も活用しなくては!)。   
   


マーラーに関する、意味ナシ・誤解かも知れないメモ


   
 先日のブログにも書いたようにマーラー作品ばかりを連続鑑賞することがあったのだが、ずいぶん昔、マーラーについてはこんなことを空想したことがある:   
   
 1. マーラー自身と同じく姓がMで始まる作曲家のモーツァルト、メンデルスゾーンに対して、何らかの特別な意識を持つこともあったのではないか(もっとも、音楽家の多くが殊にバッハやモーツァルトなどに対しては特別なリスペクト感を持っているだろうけど)。   
   
 2. 上の理由から、マーラーは交響曲第1番第1楽章の最初のほう(冒頭より少しだけ進んだところ)の音型について、モーツァルトの交響曲第25番のあの劇的な冒頭を少し変化させて採用したのではないか。   
   
 3. 交響曲第5番第1楽章の冒頭にあっては、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」の冒頭をヒントに、これを結婚のような「喜び」・「めでたさ」とは反対の、暗い形で導き入れることを思いついたのではないか。   
   
   
 その後、モーツァルトのオペラ「後宮からの逃走/誘拐(個人的には“奪還”と訳すのがよいかなとも思っているが)」を聴くようになって、これの最後のほう、 "Nie werd'ich deine Huld verkennen, ..." 以下に登場するメロディを、マーラーは交響曲第5番最終楽章に採り入れたのではないかとも思うようになった。(Doverから出版されている「後宮」のスコアをお持ちの方は283ページ以降を参照。)   
   
 ま、マーラーの熱心な聴き手でもないため、よく分からぬのだが・・・。   
   
 下のは過去に用いた画像の再掲で、「後宮」のDVDやCD。   
   


作品17の2・・・?




   
 「調理終了まであと少し」となったところで、鍋が温まるのを待つ間に撮影。   
   
 左のエビは、こちらは生食用(北陸産)。洗って、ひんやりと食卓へ・・・。   
   
 温かい「おでん風の煮物」としては、前日の余りものとなってしまったタコ、そして野菜、「イワシつみれ」その他で調理・・・。   
   



雑記


   
 アメリカ人をはじめとして外国人が日本語を習得するうえでは様々な点に難しさを感じることと思うが、漢字の読み分けもまたそのひとつであろうか。音読み・訓読みがあるわけだが、そして例えば次のようなものをちゃんと読めるようになるにはそれなり以上の学習・記憶・慣れが必要であろう。   
   
 「米」という字に関して:   
   
 「米国」、「300平米の土地」(これについては度量衡の関係からイメージしにくいという問題も伴うかも)」、「今年収穫のお米」、「おいしい新米の季節」・・・。   
 で、「米 倉 涼 子」を「こめぐらりょうこ」と読んでしまったりすれば日本人の誰かから誤りを指摘され、それを教われば今度は「米 米 ク ラ ブ」を「よねよねくらぶ」と読んでしまったりなんてこともある?    
   
   
 「空」という字に関して:   
   
 「青い空」、「空間」、「駐車場、空きあり」、「箱の中は空っぽ」、「努力がむくわれず、空しい思いをした」、「空ろな気分」など。   
   
   
 ・・・・・・・・・   
   
   
 「三代目 鳥メロ」という店を初めて目にしてからもう随分が経つ・・・。   
 最初は「これはチェーン店ではなさそうだな。ならば、いずれ寄ってみようか」と思いつつ、でも、「看板や店舗外装の雰囲気からするとチェーン店ぽい気配はあるな」とも感じた。その後、これはワタミが展開するチェーンなのだと知った。   
 それはともかくとして、「三代目」という部分に関心が向かうではないか。「鳥メロ」と名乗る店を、「初代」として、「二代目」として経営・切り盛りして来た人がいるに違いない筈で、では、彼らはどんな地で店を構えていたのか、そして、店・料理の評判はどんなであったのかと気になる・・・「三代目」と胸を張っている(?)以上は、相応のバックボーンがあるに相違ない。そして、その屋号・商標/サービスマークの権利・ライセンスをワタミはどのように取得し、調理ノウハウ等をどう吸収し活用しているのかに興味を覚えた。また、初代のときから現在に至るまで一貫して同じジャンル・系統の料理・メニューを供して来たのかも気になる(「三代目」と謳われれば客/消費者はそこに幾らか以上に“老舗”感に近いものを覚えるから、どうしたってメニューの継続性も気になるというものだ)・・・そして焼鳥などのタレの味付けは初代から受け継がれた一種の歴史あるものなのか、それとも、その後の代になって変革を遂げたものなのか等の興味もわく・・・しかしながら、この「三代目」に至る「鳥メロ」の歴史については、面倒くさくてまだ調べていない。いずれにせよ、どれほど美味なものを食べさせてくれるのか、いずれ寄ってみて試すこととしよう。   
   
 その「鳥メロ」の店ではないが、以前、或るチェーン居酒屋で飲んでいたら、そろそろ就職活動を意識し始める時期に差し掛かったと思われる大学生グループの会話が聞こえた。   
 彼らのうちの一人が「そうにち」と言った。どこかの会社名らしいのだが、ちょっとしてそれはどうやら商社の「双日(そうじつ)」を指しているものと窺えた。   
   
 うーん。   
   
 「新日鉄住金」を「しんにってつじゅうきん」と読んでしまう人もいるかに思われるが、それだと、何かその「昔からの名門の新日鉄が、アルミサッシなどの住宅用金物を扱うために設立したグループ企業/子会社」みたいな感じになってしまうではないか。   
   
 ふと思ったのだが、若い人だと「八幡製鉄」を「はちまんせいてつ」と読んでしまうケースもあったりする? ・・・いや、現在でも中学・高校くらいの教科書に登場しているならば、そんなことはあるまいな。   
   
 「日本○○」という社名は多数あるが、「にほん」と読むか「にっぽん」と読むかは、これは社名全体の字面で判別することなど出来ない。覚えるしかないのである・・・しかし、誰かが口にしている読みで覚えようとしても、その人が間違えている可能性も無くはない。「日本電産」、「日本ゼオン」、「日本オラクル」、「日本通運」、「日本ケミコン」・・・このくらいは学生であっても正しく読めることを期待したい。   
   
   
 しかし・・・昔、自分が学生だった頃、友人のひとりは「徳山曹達」を「とくやまそうたつ」と読んだなあ。俵屋宗達じゃないんだけど。正しくは「とくやまソーダ」と読むべきものである。なお、現在は社名が変わって「トクヤマ」となっている。   
 「ソーダとは何か?」の説明は省略。   
 「ソーダニッカ」という会社もある。自分の仕事とは関係ない分野なのでこの社名に接することはごくたまになのであるが、しかし、目にするたび筆者は、ニッカ・ウィスキーを使って作るウィスキー・ソーダ、ハイボールみたいなものを連想してしまうのであるなあ。   
   
 では筆者自身が会社名の読み間違いをしていた経験はあるか? 無いと思うのだ。   
 しかし、現在の「イビデン」が昔、「揖斐川電気」という社名であったとき、先頭の「揖斐川」をどう読めばよいのか分からず戸惑ったことはある(地理などの授業で教わった色々の河川の名前を忘れてしまっていたのかな)。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る飲食店で口にしたランチの「ご飯(コメ)」は凄く不味かった。   
 「これほど不味いご飯を、これまでに食べたことあったっけかな?」と驚いた。変な臭いがするとか変な味を伴っているとかのことはなかったが、「味がしない・何を食べているのか分からない・歯ごたえ・水分含有量などにも何か問題があるやも知れぬ」っぽい感じであった。   
 ひょっとして自分は味覚障害にでもなってしまい、その症状がいま突然にして現れたのかと疑ったほどだ・・・でも、おかずのほうはきちんと味わえ、そちらは至ってマトモな味だった。   
 そして、夕食や翌日以降の食事でも、自分の味覚に異変など感じることはなかった。   
   
 こんなとき、普通の人はどうするのだろう。「もう一度、あの店でご飯つきのメニューを食べてみよう」とは思わないだろうなあ、わざわざ。でも、そういう再チェックを敢えて試みてしまうのが筆者なのだ(笑)。   
   
 問題解決! ・・・その店で再び口にした食事は、やはり「ご飯」だけ、妙に不味かった。自分の健康上の問題ではなかったものと思え、安心したとも言える。   
   
 いまの時代、べつに高級銘柄米などでなくても、ブレンド技術・添加物使用などのおかげで「おいしい」と感じさせることがしやすくなっているとは聞くが、はて、あの店で使っているコメはとんでもなくひどい品なのか、それとも「ブレンドし損じ」または「添加物の使用あんばい失敗」の品だったりするのだろうか。    
   
 あの「不味さ」はちょっとやそっとでは経験しがたい、目を見張るものがあったので、知人に「・・・の辺りに○○という店があるのを知っている? あそこでご飯がセットになっているものを注文して食べてみてよ。ご飯が凄く不味いから、ぜひ試してみて!」と教えたのだが、彼はちっとも試さないのだなあ。うーん。・・・でも、それが普通のことか?(笑)   
   
 しかし・・・ネット上にこの店の評判などあったりせぬかと調べてみたのだが、特に悪い評判が見当たらない(あまり時間をかけて念入りに調べることまではしていないが)。   
   
   
 あともう1件、そちらは蕎麦屋なのだが、「絶対に不味いよなあ」という店が昔あった。ネットでその評をチェックしてみようかと思い、まずは「あそこの店名は何というのだろうか」と、普通におおよその住所/町名も用いて検索し、またグーグル・マップも使って調べたのだが、この店はもう廃業でもしたのか、目当ての店は見つからなかった。いろいろな蕎麦屋を長年にわたって食べ歩いている人のサイトなども覗いてチェックしたのだが、該当しそうなものはナシ・・・いや、もしかすると、その蕎麦屋めぐりする人も「んー、この店だけは紹介するのをやめておこう」と判断したのかも?   
   
   
 ネット上、「不味い店ランキング」みたいな企画をやっているところは無いのかなと思い、調べてみたのだが・・・どうも、その種のものでそれなりに運営されているものは見当たらず。   
 そうだろう、仕方ないか。多数の飲食店を紹介するサイト/サービスでコメントを自由に書き込めるような場合でも、「この店が出す○○は激マズ」とか、「注文をとってから30分以上も待たせたのに詫びの言葉ひとつも無かった」みたいなことを書いてはいけないっぽい雰囲気も世の中にはあるしなあ。   
   
 世の中にはコンサート評、レコード/CD評があって、そこでは批判もまた可能であるように、飲食店に関連して「不味いものを不味いと評する自由」というものもあろうと思うのだけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 下の写真は、過日、「そばがき」を自分でこしらえたときに用いた蕎麦粉・・・。   
   
 えっと・・・上の話題とは違って、ちゃんと美味なる品であった。   
   


雑記



   
 久しぶりにマーラーを、そして連続鑑賞で・・・。   
    
   

   
   ・・・・・・・・・   
   
   
 ほか、クラシックでないものも交じってはいるが・・・。(中段のものはスヴェトラーノフの「新世界」ほかライヴ。)   
   


小学生の制服/標準服に、そんな高価なものは必要あるまいーに

   
 うーむ、日本の子供のためのものならば、なにもイタリア・ブランドでなく「イッセ○ミヤケ」、「タケ○キクチ」などなど日本人デザイナーのものにせよ・・・という指摘はマト外れなのでヤメておくとして・・・。   
   
 公立小学校であるにもかかわらず、他校一般の場合と比べて親に求められる負担が大きめ・・・これでよろしいのか?(また、負担を強く感じるなら、文句があるなら、よその学校を選べばいいじゃないかとの排除にもつながりうる?)   
 卒業までに、この標準服・制服は通算すると「何揃い」が必要になることか。   
   
 問題となっている標準服・制服は登下校のときのみ着用で、それ以外の時間帯は別の服・体操着などに替えさせて過ごさせるのだろうか。そうでないと、小学生の着ているものなどすぐに傷むからなあ・・・子供たちは休み時間・昼食後・放課後などに(自発的に)鉄棒を練習したり、ほか、跳び箱練習したり、また、走り幅跳びを競ったり・・・そして、ドッジボール、サッカー、鬼ごっこ、ジャングルジム遊びをしたり、野球ごっこでスライディングぽいことも・・・ま、(上着は脱いでいても)少なくともズボンなどすぐ擦り切れるであろう。   
 ほか、授業中に絵の具や墨で服を汚すことだってあるし、昼食の最中に飲食物(牛乳ほか)をこぼして服を派手に汚してしまう子もいるであろう。   
   
 でも、心配しなくてもいいのかな?・・・「体育の時間以外は、たとえ休み時間でも体をつかった遊びはしないように。 “うんてい”くらいにしておきなさい・・・そのときは上着を脱いでしなさい」みたいな指導をするかも知れない?   
   
   
 筆者の場合、中学生時代だけは制服というものを経験させられた。そのことはどうでもよいが、休み時間に変な遊びが流行った時期がある・・・「鬼ごっこ」っぽいものではあったのだが、追いかけてタッチするかわりに、掃除に使う「ぞうきん」を投げつけるというもの・・・そして、この遊びは変化し、「ぞうきん」でなく「黒板消し」を誰かの背中・洋服めがけて命中させるという遊びになった。   
 何度も「黒板消し」に当たったりすれば、学生服の布地にはチョークの白い粉が埋まり、はたいたり拭いたりしても完全にはきれいにならず、着ているものにはいつまでも白っぽさが・・・。この遊びは、けっこう皆、真剣勝負で戦っていた・・なぜ、ああも熱くなったのかなあ。   
 こんな遊びが流行っていることを知った先生は、「君たち、いったい何歳になるんだ? そんな遊びをして、情けない!」と言った。でも、その言葉であの遊びが終わることはなかった。・・・やがては、何が理由ということもなく自然とこの遊びは終わってしまったけれども。   
 ・・・と、上のようなことを書くと、「公立中学校って、そういう下らない事して遊ぶ子供もいて、それがイヤなのよね。だから、うちの子たちには遅くとも中学校からは私立の名門に入れさせたいのよ」という親が増えてしまうかなあ。   
   
 ま、それでも、そしていずれにせよ、筆者はこう言いたい・・・若き日に、そして、子供たちに「高価な制服なんて」と。   
   
   
(追記)   
 でも、この小学校をめぐる今回の件は、騒ぐべき問題ではないのかも知れない:   
   
  http://news.livedoor.com/article/detail/14296333/   
   
   
 「新1年生の保護者は全員賛成」ということらしく、それならば結構、めでたしめでたしで、自分もこの話題は忘れよう。   
   
   
 ところで・・・。   
 下の写真の左側、黄色い表紙の本は、しばらく前に講談社プラスアルファ新書のシリーズから出たもの。面白く読める本だ。   
 新書の類を「一般的に肩が凝る読みもの」との先入観をもって避けてしまう人・構えて接してしまう人も少なくないように見受けるが、しかし、この本は(著者には叱られるかも知れないが)「着るもののチョイスに関わるエッセイ集」のつもりで向き合うと、誰もが楽しめると思うのだ。   
 ただ、日本人男性の多くは「洋服選び・着こなしでキメ過ぎること」について、照れ・はにかみを持ってしまうことも多かろう・・・筆者もまたそうだ・・・しかも、この感覚は、少なくとも日本国内においてはわりと大切で正解だったりする・・・自分だけバリッとピシッとだと、おかしくなってしまうのだ。装いの「ルール」を一応は承知していても、しかし、自分が実際にする「装い・着こなし」では微妙なところでわざと無頓着さ・不徹底さ・抜けも残しておきたい・・・日本人どうしの場合には、「いいものを着ていても、ともかく仕事の出来ない人間、中身の無い人間、気配りの出来ない人間、まごころの無い人間ならば意味ないじゃん。格好よりも中身が大事。おしゃれにエネルギーを使いすぎる人も何だかなあ」みたいな評価もあったりするし、つまり、外側(衣服だの腕時計だの靴だの)に神経を使うほど自分に対する評価が下がっていく可能性に警戒する必要がある・・・勿論、それぞれが属する社会によって感覚は様々だろうし、ハイエンドのレベル、社長さんレベルにもなると状況は異なって来ようけど。   
   
 あと、たとえば、ひとくちに「アメリカ人の、衣服に対する感覚」と言っても、アメリカ人には東海岸の人もいれば西海岸の人、シリコンバレーなどの人、テキサスの人などなどもいるし、また、エスタブリッシュメントの人、オープンマインドでカジュアル・ファッション志向のエンジニアの人、エグゼクティヴの人、高度専門職、アカデミズムの世界の人、ホワイトカラー職、ブルーカラー職など、当然ながら色々だ・・・接する相手それぞれに「受け入れられやすい服装、腹を割って話し合いやすくなる服装」というものがあると筆者は考える・・・そういうことを念頭に置き続けることは大切な筈と思う。但し、やはり同時に、ベーシックな、旧来的な服装選びの常識・感覚を再確認する意味で、この本は読んでタメになる・参考になると言えるだろう。   
 昔々、故・高橋義孝氏が、革靴であっても靴紐ナシで、足をすべらせて脱ぎ履きできてしまうタイプのものをエッセイの中で笑っていたことがあるが、この感覚を今なお我々は心にとめおくことが必要であろう。その方面のこともこの本では触れられているし、よいことである。(とは言え、日本では宴会ともなると和室で行なわれることが多いから、偉い人が先にその場を去って帰宅する際など、見送る側は靴を速やかに履けることも大事・・・すると、簡単に履けてしまう靴を選ぶとか、宴会の前に靴を脱いだときに靴紐を穴1つぶんか2つぶん外して縛っておいて後で速やかに履けるよう準備しておくのもひとつのテではある。)   
   
 一緒に写し入れたのは、手もとに残っている古い新聞記事から。   
   
 

«  | HOME |  »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

クラシカルな某

クラシカルな某

クラシック音楽好きです。