2017-11

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ユージン・金山さん



   
 これまで紹介して来た本 "Shoot the Conductor..." についての追加的な内容紹介を兼ねつつ・・・ムダ話を中心にして書いておきたい。   
   
   
 人の名前には、親その他の、名付けをした人の願い・思い等々が込められていたりするものだ。もちろん、そうでないケースもあろうけど。   
   
 男性の「一郎」という名前の場合、命名の理由の多くは「一番最初に生まれた男の子だから」だろうけど、場合によっては「何かしらの分野で一番・筆頭の存在になれるように」との思いからかも知れない。   
   
 漢数字の「八」は末広がりでめでたいからと長男には「八郎」とつけ、何かの世界で一番になって欲しいからと次男の名前を「一郎」とし、仕事上その他で知り合った立派な人の名前を頂戴して三男には「五郎」と命名する。そして、四男の名前を考えるときに「三人寄れば文殊の知恵、三位一体という言葉があるように、三という数字もまたよろしいな」ということで「三郎」と名付けるとする・・・彼ら男兄弟は上から順番に「八郎」、「一郎」、「五郎」、「三郎」となるわけだが、このようにややこしいケースは果たして世の中にあるだろうか・・・稀ながらもきっとあるには違いないと筆者は思っている。   
   
 「丑松」、「寅二郎」、「辰之助」などだと、これは生まれ年の干支(えと)によっているのだろうな。   
   
 「賢」、「秀」、「優」、「俊」、「敏」、「直」、「忠」、「善」、女性で「桜/さくら」その他の花・植物に関わる文字を持つ名前にあっては大抵、「どういうふう(な人格・容貌・容姿)に育って欲しいか」の思いが込められているのではあるまいか。   
   
 「豊」や「米/ヨネ」を含む名前、また「瑞穂(みずほ)」などは、経済的繁栄や食べるに事欠かないことなども願ってのものなのだろうか・・・粟・稗・麦などの文字を含む名前には出会わないなあ(姓は別として)。   
   
 いまどきの若い女性、いや、ずいぶん前からとも言えそうだが女性の名前には、外国人女性の名前と音が共通するようなものも見受けられる。「まりや」、「まりあ」、「りさ(→リザ/ライザ→エリザベス)」など典型であろうか。これは、将来、本人が海外へ羽ばたいたとき、向こうの人にも親しく接してもらえるように等の思いが込められているのだろう。   
   
 名前には、しかし、不思議なパワーや、因縁・運命を引き寄せる力があると筆者は思っている。たとえば、「奈津美」ほか「奈津」という文字列を含む名前の女性に、いわゆる「しとやかな女性」はいない。と、これはもちろん主観であり、抗議のコメントは勘弁いただきたい(笑)。で、この文字列を含む名前を持つ女性は頭の回転が早いほか、色々な意味で多面的に素晴らしくて周囲を勤勉に、あるいは挑戦的にさせて盛りたててもくれるのであるが、本人はおよそ譲歩というものを知らず、気も強く、仕事でもプライベートでも接する側は大変なのだ。(繰り返すが、これは主観、そして偏見である(笑))。   
 さて、また、伏字にしておかないと傷ついてしまう人がいるかも知れないのでそうするが、「○○」という文字列を含む名前の女性で幸せをつかんだ人を見たことがない・・・これまた筆者の主観、いや、限られたケースであるが。本当に、見事なほどに不運・不幸に出会う・陥るのだ。「これほど聡明で、良識的で、性格もよくて、嫉妬を持つ心もなく、真面目に生きて、それなのに何故?」という人生を歩むケースばかり目にしている。その人その人が耐えられる程度の試練を、神はそれぞれの人に与えているなどという思想・教えがあろうとも、ちっとも神を信じていない筆者としては理不尽と可哀想さばかりを感じてどうにも納得出来ない。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・・   
   
      
 激変する世の中にあって、あるいは移住先の社会を考慮して、姓や名を改めることが必要または有益であるとか、そうしておかないと不利益を被ったり災いを受けかねないというケースもあったりする。   
 ジョージ・セルの父は、元々の姓をちょっとだけ改変して「セル( Szell )」に改姓したのであった。   
 彼の名については、「ジェルジ」から「ゲオルク」へ、その後には英語圏に合わせた「ジョージ」へと変わることになった(ゲオルクからジョージへの変更はセル自身の選択と言えよう)。冒頭の画像でジョルジュとの表記は、これはたぶん本人のあずかり知らぬところでフランス人が勝手に綴りの改変を行なったものであろうけど。   
   
 もしもヴィルヘルム・フルトヴェングラーが活躍の場をアメリカへ移していたとしたら、彼はやはり名を「ウィリアム」に改めたのではないか。「フルトヴェングラー」の部分をどう改めることになるかは難しいが、しかし、「ウィリアム・フルトヴェングラー」とか「ビル・フルトヴェングラー」、「ビリー・フルトヴェングラー」となると、何かその、クラシック音楽関係の巨匠というよりも、ポップス、イージー・リスニング音楽などの関係者のようなイメージになってしまうなあ。   
   
 ユージン・オーマンディもまた、元々の姓名を改めてこのように名乗ることにした。   
 「オーマンディ」とは、渡米するときに乗った船の名前(ノルマンディ号)にヒントを得たのだと、そんなふうな説明を幾度も目にして来た。   
 しかし、この話はどんなものだろうか・・・首を傾げたりもしたのである。人が「新しい名を名乗ることにしよう」と決意するとき、祖先から引き継ぐ姓をきれいにバッサリと切り捨て(過去とのつながりを遮断して)、あろうことか乗った船の名前をいじって「をしっ、今後はこれを名乗ろう」などと考えるだろうか?   
 元々の姓が持つ意味合いや音であるとかを、痕跡のように残したいと思うのではあるまいか。(また、漢字の国の人々がやはり他の漢字の国へ移住しようとする場合には、元の姓にある漢字、あるいは、姓の「音」と同じ音を持つ他の漢字のどれかを選びつつ新しい姓を考えようとかするものではないのか。)   
 「日本に渡るときに乗った船の名前は“うずしお丸”でした。それにちなんで日本では“潮(うしお)太郎”と名乗ることにしたのです」という発想もありえはしようが、でも、「うーん、ちょっとどうかな、元々の姓を引き継ぎたい気持ちは無かったのかい?」と問いたい気もしてしまうではないか。   
   
  "Shoot the Conductor..." では、「オーマンディ」は船の名前に由来するとする説のほか、オーマンディ自身が口にした説明も紹介している。その内容は:   
   
 フランス人の祖母(あるいは「フランス在住の祖母」くらいに訳すべきなのか)が「ゴルトベルク」という姓をフランス語の「オール・モン」に改めたのであったが、これがオーマンディへと変化した(変化させてそれを名乗り始めたのはオーマンディ自身ではあろうけど)   
   
というものである。   
 ドイツ語の「ゴルト」は英語の「ゴールド」、フランス語では「オール/オル」・・・音楽CDのレーベル「オルフェオ・ドール(ド・オール)」とか、どこだったかのメーカーの女性用化粧品「コフレドール」とかで、おなじみになっている語である。   
 ドイツ語の「ベルク」は「山」の意味で、これは英語ならば「マウント」、フランス語では「モン」・・・ケーキや万年筆の「モン・ブラン」のあの「モン」である。   
   
 「ゴルトベルク」、「オール・モン」・・・日本でなら「金山(かなやま)さん」という姓に相当するであろうか。   
   
   
 祖母は、ゴルトベルク姓を持つ夫(オーマンディの祖父)と結婚してこの姓になり、その後、その夫が先に他界し、何かの機会に「オール・モン」に変えたのだろうか(「モン・オール」または「モン・ドール」といった語順にはしなかったのか)。   
 出自をどうはっきりさせるか、あるいは逆に隠すべきか・虚飾/虚構を使うべきか等についてはデリケートで悩ましい問題を有する場合があるから、上のオーマンディ自身の言葉が真実であるのか、確かに判断には迷う。この本の171ページの脚注の内容もまた、オーマンディの微妙な心理をえぐり、そして他者がその心理をどう見すかしているかを示すものであると言えようか。   
 ただ、父や母の関係であれ、祖母や祖父に関わるものであれ、引き継いで来た、あるいは縁のあった姓に依拠しつつ今後に名乗る新しい姓を思案するということは、人間の性(さが)や発想として実に自然なことのように思えるのだが・・・そして、そのあと「“オール・モン”という言葉・音にどのような一工夫を加えれば、収まりのよい姿の姓になるだろうか」と考える段階でようやく、乗った船の名前はヒントになったのかも知れぬ。  
   
   
 この本を読んでいくと・・・。   
 著者ブラシロウ氏はフィラデルフィア管でコンサートマスターを務める以外に、フィラデルフィア室内管なる楽団を指揮するようになる。オーマンディや、フィラデルフィア管の事務局サイドとしては不愉快にもなりうる・・・場合によっては地域の音楽マーケットで競合するし。ただ、具体的にどう不愉快だったか、どういう邪魔をしようとしたかなど、確証は得られないが。   
 ブラシロウ氏がフィラデルフィア室内管を指揮して「春の祭典」を演奏した晩、当地マスコミの音楽評論家たちは町を離れてしまっていた。その理由は本書で述べられているが、しかし、この時期、氏とこの楽団に注目する人がどれほど多くいたのか等が筆者には分からないため、事をどう理解・評価すればよろしいのか判断に迷う。   
   

コメント

コメントをありがとうございました

 コメント対応が遅くなってしまい、申し訳ありません。   
   
 ブラシロウ氏はオーマンディから「最低でも10年は居てくれ、フィラデルフィアにて指揮活動するようなことはよしてくれ」と言われていながらも、結局、指揮活動の道へ進んでしまったのですね。   
 氏に対してはオーマンディもいろいろ配慮してくれたようですが、人の歩む道を他者がコントロールすることはどの世界でも難しいものかと思いました。

ご無沙汰しております。ブラシロウは素晴らしいコンマスでしたが、フィラ管を退任してからは苦労されたようですね。フィラデルフィア室内管を立ち上げる時にはフィラ管メンバーに頼らなければならなかったようですし、室内管でのレコーディングはフィラ管が録音していないレパートリーしかできなかったと聞いています。あのままコンマスでいてくれたら双方に良かったのかもしれませんが、ブラシロウはどうしても指揮者になりたかったみたいです。
オーマンディの由来はよくわからないですね。オーマンディという人は拘りの少ない人だったと聞いていますので、案外深い意味は無いのかもと思ったりしています。

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