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某“D”レーベル
アメリカの、あのサイトでの商品ラインナップがまた増えているようだ(セルの関係ではないが)。
ht5tp://www.mus5icinthemail.com/clas5sicalconducting/index.html
(↑)混在させてある3つの "5" を削除したものが正しいURLである(以下同様)。
時々は同サイトをチェックしているという人の場合、手っ取り早くは "New!" のサインの付いたものだけ確認しておくのもよいかも知れない。
で、ht5tp://www.musi5cinthemail.com/clas5sicalconducting/700.html のページでは・・・。
ページの下のほう、商品ナンバー729以降を注意深く見てみたい。いずれも指揮者はセルでないが、さて、 "Cleve" とか "Cleveland" とか書かれているものはすべて例外なく「クリーヴランド管弦楽団」なのだろうか? そのへん分からないが、人によっては興味を覚える内容のものがあるかも知れない。
なお、商品ナンバー722以下には5点(計7枚)、オーマンディ関係のものがあって、毛色の変わったプログラムも見受けられる。
次に ht5tp://www.musi5cinthemail.com/clas5sicalconducting/kleiber.html のページであるが、下のほうの商品ナンバー1178はパウル・クレツキの2枚組である。さあ、これは・・・マーラー「巨人」以外はクレツキ指揮クリーヴランド管と考えてよいのだろうか? クレツキ指揮の「なんとかフィルハーモニー」が渡米してクリーヴランドの地で公演したものというのでは参るが。これまたちょっと分からない。ま、興味ある方はチェックするなり照会するなりということで。
なお、筆者は上記サイトとは何らの関係も持っておらず、そして当然、上記商品を「おすすめ」するなどの意図も無い。送金しても商品が送られて来なかった/商品のCD−Rが読み取り不可能だった等の事故が起きても何も責任をとらない。日本の某業者さんが窓口となって日本での注文をとりまとめたりしてくれているようだが、言葉の問題に煩わされるのを回避し、また少しでも容易な決済を望むならばそういう選択もあってよいのではないか。
過去に筆者が購入した商品について書いておくと・・・。どういう音源かは上記サイトに書かれている口上の一端から窺い知ることが出来よう。音質クオリティはマチマチである。商品はCD−R。筆者の手にしたものに限って言えば、一応の一流ブランドのCD−Rが使われていて、また読み取り不良は無かった。しかし、ネット上の情報によればその種の不良を経験した人もいるようではある。レーベル面に印刷はされていないし、ライナーノートどころか収録内容を示した紙っぺらすらも付かない。CD−Rにマジックで商品ナンバーが手書きされ、それが1枚1枚、紙・不織布などのスリーヴに収められ、再利用されたダンボール紙でパッケージされて届く。注文してから1か月以上かかって届いたかなあ、受注が混雑していればもっと時間がかかるやも知れない・・・いっそのこと「忘れた頃に届く」と考えればヤキモキしなくて済むであろうが、しかし、代金は先払いで、そして先方の住所は私書箱だぜ(笑)。商品が届いたら、盤面に手書きされた商品ナンバーを頼りに、あらかじめ上記サイトの商品紹介ページをプリントアウトしたものと照らし合わせつつ鑑賞、整理、バックアップコピー焼きなどすることになろう。
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日曜は室内楽ほか軽いものを聴いていた。

君よ知るやミナミの・・・
アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)のバーナンキ議長。酒飲みである筆者が時々思うのは「酒場で“バー南紀白浜”などというお店があるかも知れんなあ」ということ。似たような連想をする人は少なくないようだ。
しかし、話は大阪へ。
大阪はミナミの・・・いや、これはミナミ固有なんてことはあるまい、串揚げなどは大阪名物のひとつに数えられるかと思う(東京にもあるにはあるが、あれこれ異なる)。
筆者は東京で生まれ育ったので、ふり返ってみると大阪についての知識はアンバランスに断片的な情報が集積したものであった。大阪へは、せわしく、しかもいつも決まりきったところに出張したことがあるのみでそこに暮らしたことはないし、結局は今だって断片的情報とつまみ喰い的な知識の集積のままである・・・それは仙台についてであれ福岡についてであれ同じことが言える。
東京のことだって 秋 葉 原 あたりのことともなれば台湾あたりの友人のほうが詳しかったりする(笑)
昔々の子供の頃、秋葉原と上野・御徒町などは一日のうちに初体験し、自分の中ではそれがいろいろの混乱を引き起こしたように思える。加えて、秋葉原の何が気に入らないかというと、電車を降りてホームから街へと出ていこうとするときに自分が東西南北のどちらに向かっているのか分からなくなることだ・・・駅の建物からは、いつだってまったく同じ出口に抜け出すのだが、しかし、(駅ビルでも地下街でもどこであれ)そのときそのとき「いま自分が向かっている方角」に確信が持てないと不安になってくる。(しかし、渋谷などでは、どの通路にいようと、どの階段を歩いていようと、方角は常に分かるのだ。)この「方角を頭に入れていなくては落ち着かない」という習性は、どうも女性よりも男に多いと思う。日本人は農耕民族と言われながらも、しかし、男の遺伝子・習性には稲作文化以前の太古の昔に狩猟にたずさわった経験がずっと残っているのではないか。方向オンチが女性に多いというのは、一般論として正しいかどうか分からないが、筆者はやはりそのとおりかと思う。これは女性を馬鹿にしているわけでなく、個人差のほかに性差はやはりあろうと感じる・・・別の能力・感覚などにおいて女性のほうが優れている点があるから、総合ポイントではどっちもどっちだろう。
さて、たとえば「大阪では電車をはじめ自動ドアに貼られているステッカーに“指 づ め 注 意”と書かれているんだぜ」という話は、これは大阪などの人にとっては「当たり前だろ」の話だろうが、昔この件を初めて聞いたときは大笑いしてしまった。これは漫才のネタになったこともあったなあ。東京の人間にとって、このステッカーの文言はまったく違うことを連想させられるのである・・・この違いは今や大阪の人も知っていることであろうが。
串揚げの話に戻って・・・。
かつてテレビで大阪の串揚げが紹介されたとき、それはとても庶民的で気安い感じのお店であったが、レポーターは客のマナー/ルールとして「2度づけ禁止」を説明していた。ソースの入った容器(鍋みたいなもの)は客どうし共用になっている・・・串揚げを最初にソース容器に突っ込んで浸(つ)けるのだが、その串揚げを食べ始めたら「食べかけの串揚げをソース容器に再び突っ込んではいけない」というのである。
おお、そりゃそういうルールが必要だわな。ま、しかし、ルール以前に普通の感覚として、食べかけの串揚げをよもや共用のソース容器に浸けたりはしないだろうと思うわけだが。隣の客がもしもそういう真似をしたりすれば、睨むだけでは気がすまない、やはり何か一言を発してしまうだろうな。それが大阪言葉だとどういう具合のものになるかはちょっと分からない、「アホ、ボケ!」でよいのか、それでは言いすぎになるのか何とも加減・あんばいが分からぬが。
「2度づけ」が許されたら、それはもちろん衛生上の問題を生む。
ああ、しかし、某高級料亭にあっては、客の食べ残しというか下げた料理などを再利用・使い回ししていたと言うし。事例がいくつかあるが、こんなのも: 客が箸をつけたワサビをしょうゆに溶かしてワサビじょうゆとして再び出していた/別の料理の調味料として使っていた、とか。
なんかさあ・・・かなりセコくねえか?
それに、良くねえよ絶対。自分の店ですりおろした風味豊かなワサビなのか知らないが、そしてそれゆえに惜しかったとか徹底したコスト意識が働いたとか、あるいは時間・手間を惜しんだのかも知れぬが、しかし、諸々のコストやロスや労などを織り込んだうえで客から高い料金をもらっているのではないのか? ワサビ自体に殺菌効果もあるとはいえ、どんな細菌やウィルスなどにも対抗できるのか? 肝炎そのほか客どうしでの諸々の病気感染とか心配無用なのか? たとえ安全でも気分悪いし、高級料亭のすることではないだろう。
料亭経営する前に、少し基本的修行も必要なんじゃないか? たとえば「2度づけ禁止」を体で覚えるとかの・・・。
うーん、結局、タイトルと関係ない話題になってしまった・・・。
雑記

先日の話題はベルクがらみというかミトロプーロスがらみでもあったのだが、あのあとミトロプーロス指揮ミネアポリス響によるラフマニノフの「死の島」(1945年3月2日にレコーディング)なども聴いたのでった。
この曲(作品)は、筆者にとっては「たまに聴けばいいや」といった感じのものかなあ。べつに気分を暗鬱なものとさせられるでなし、不吉と呼べるほどのものを感じるわけでなし・・・聴くのを避けたいなどと思うわけではない。異論もあろうとは思うが、音楽の抑制感や漂泊感などにおいてメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」と共通するものがあるように感じるし、また、全体的トーンとしても両者は真っ向から対立しない程度の近似性はあろうと思えもするのだ。
ラフマニノフのこの作品を嫌う気持ちは無いが、しかし、そこそこに魅せられるにとどまる。でも、「ものすごく好きだ」という人がいても不思議はない気もする・・・「確かな形の魅力」が宿っていることは明白なので。
ラフマニノフのこの曲の録音として、クーセヴィツキー指揮ボストン響のレコーディングなんていうのもある(写真上段の2枚組CDには1945年4月23日レコーディングのものが収録されている)。この演奏には豊かさ・横溢するものがあるなあ・・・しかし、その態様・内容が適切なものであるのかどうかは意見が割れそうにも思える。けれどもしかし(ラフマニノフが作曲するきっかけとなった絵画の問題からいったん離れて「独立の音楽としてどうか」のみで考えたときには)強い魅力が打ち出されているように思える。
このクーセヴィツキーのCDにはまたアメリカの作曲家ロイ・ハリス(1898年−1979年)の交響曲第3番も収録されている(1939年11月8日レコーディング)。この作品は1つの楽章から成っており、そのひとつの楽章の中が幾つかの部分に区切られている。
この曲の、アメリカにおける作曲史のうえでの意義という問題はおいておくとして(重要なもののひとつであるらしいのだが)、聴いてみての感想は複雑だ。聴きにくいところの無い音楽である。また、素人の耳をもってして、曲の構造とか進展に集中して聴いた場合に面白さを実感する。ところが、筆者にとっては決定的問題があって、この音楽が実にこう、こちらの心に何もアピールして来ないというか、たとえば勢い・弾みなどある個所に来てもこちらの心は躍ったり揺さぶられたり惹きつけられたりしない・・・そして、何だか「聴いてもうれしくない」のだ。空虚ではないのだが、堪能するものを手に出来ない。もどかしく、そして悔しいなあ・・・ま、この「惹かれない度」は筆者だけのことかも知れない。
同交響曲についてはバーンスタイン/NYPのライヴもあるが(1957年1月27日。写真下段)、こちらの演奏には洒脱めいた指向が窺えたり、上手な仕上がり・流れを感じる。多少つきあいやすい。が、やはりどうしても曲としての魅力に限界を感じてしまう。筆者にとって相性の悪い音楽なのであろう。
お知らせ
勤務先における内規の関係から、このブログのようなものであっても、ネット上で個人として意見発信するのを控え慎しむのが適当かと思えますため、もうしばらく先のことになりますが、「ブログ形式か一般サイト形式か」、「内容を客観的事実やディスコグラフィのみとするかどうか」など検討のうえ、新しい方式・内容に移行したいと思います。
これに伴い、来月(6月)くらいまでには、現状の当ブログにつきまして「全記事の抹消」または「ブログ自体・ブログURLの登録抹消」を行わせていただきます。これまでお寄せいただきましたコメントなども消えてしまいますこと、申し訳ございません。また、当方ブログに向けてリンク設定いただいている皆様にはご面倒をおかけすることになりますが、ご容赦のほどお願い申し上げます。


