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2022-06

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雑記


   
 下の写真において、左のはビールで、そして右のは、「ビール」には該当しないビール系飲料。   
   



   
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 下の写真の1枚目は、「開き」処理して売られていたアユ(鮎)。1人前としては2尾かそれ以上が目安となろう。塩を振って焼くことで美味しく食べられるが、その他の調理方法もあろう(自宅でさらに「一夜干し」処理してから焼くというパターンとか・・・味わいも濃縮される・深まるだろう)。   
 2枚目の写真は何年も前のもので、これは「アユの開きの一夜干し」を買って来て焼いたものだったと思う・・・ちょっと「焼き過ぎ」にしてしまったもの。   
   



   
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些末な、あまりにもどうでもよいことだろうけど・・・


   
 前回ブログ記事を書くにあたっては、筆者の思考の動きは以下のごとくであった:   
   
   
 「日本語翻訳書に接することによって、若き日のセルが作曲した音楽作品を聴いてみたいと思う人もいるだろう」 → 「セルが作曲した曲については過去のブログ記事で書いたことがあるよなあ、あの記事をコピペしてブログに再投稿/再エントリーしておこうか、意味ないブログだけどさ」 → 「コピペ作業や再投稿作業は明日にすることとして・・・。セルの伝記の日本語版および英語版(原書)それぞれにおいてセルの作曲作品を紹介しているページがどこであるか具体的に示すのがよかろうから、そのページ番号を今とりあえずメモしておこうか」   
   
 こうして前回ブログ記事を書いたわけであるが、日本語版のページをめくっているとき、前後のページにも目をやることになった。   
 その件についてはまた後で書くこととして・・・。   
   
   
 或るとき、日本の或るオーケストラが演奏旅行に出かけた。現代日本のマエストロとも称賛される音楽監督/指揮者のA氏と、副指揮者を務めるB氏もオーケストラと行動を共にしていた。   
 電車での移動中、A氏はB氏に「なんだか、腹が減ったな」と話しかけた。   
 B氏は「僕もですよ。電車が次の駅に止まったら、駅ホームの売店で何か買って来ます」と応じた。   
 そしてB氏は実際にそのようにしたのだが、買い物を終えて席に戻るとこう言った:   
   
 「売り切れのものばかりで。このサンドイッチ1箱しか買えませんでした。どうぞ!」   
   
 A氏は「まあ仕方ないね。君もお腹がすいているんだろ、一緒に食べようよ。こういうのもたまにはいいね」   
   
 サンドイッチを食べながらA氏はこんな昔話をした:   
   
 「太平洋戦争当時にはね、食べ物がほんとうに乏しくて。すいとん、ほうとう・・・そういうものを君は知っているかな? ああいう時代もあったということを、君にもちょっとは知っておいて欲しいな」   
   
   
 ・・・上の、オーケストラおよび指揮者に関わる話、そして2人の指揮者の食事シーンはすべて架空のものであるが、2人がサンドイッチを分かち合いつつ話を交わすシーンは独特のトーンを帯びていると言えよう・・・「お腹いっぱいにはなれなかったという残念な感じ・ほんのちょっとの侘しさ」・「2人の間に生じる、ほのぼの感」など。また、指揮者Aがついつい昔のことを口にしてしまったという展開にも無理はないと言えよう。   
   
   
 さて、話をセルの伝記に戻す。   
 セルの伝記を英語版で読んだ際、或る個所に登場する食事シーンにおいて、上の架空の食事シーンとそれが帯びているトーンのようなものを思い描く時があった。   
 ところが、このたび日本語翻訳でたまたま同じ個所に目をやったら、その食事シーンのイメージやトーンがまた違ったものに感じられた。この相違はどうしてなのか。まあ、そんなこと、どうでもよいことであり、この本を読む目的・楽しみの中心はセルの人生・キャリア・足跡を追うことではあるけど、しかし、何かが気になり、落ち着かなかった。      
   
 その食事シーンとは、日本語版では38ページの10行目の、2番目の文章以降のところである。   
 この日本文では、セルとルイス・レーンが一緒にサンドイッチを食べた場所が楽屋、コンサートホールのロビーなどであったのか、ホテル内のレストランや喫茶コーナーだったのか、或るいは、オープンカフェっぽい店、ドライブイン、コンビニっぽいドラッグストア等だったのか、何も書かれていない。しかし、大抵の人はそれらの場所のいずれかであったろうと想像するのではないか。また、2人それぞれが注文したサンドイッチを、同じテーブルで食べているシーンを思い描く人が多かろう。そして、サンドイッチの分量は少なかったなどと想像する人は皆無だろう。   
 となれば、この日本語訳を読んだ人は次のようにも想像を膨らませてしまうことがある?   
   
 「セルという人は、普通にサンドイッチを食べながらでも戦時中の(第1次世界大戦中のヨーロッパの)食料事情を話題にしちゃう人だったの? 年下の者・若者から見ればちょっと面倒臭いというか鬱陶しい人?」   
   
 「いや、ルイス・レーンが何か言ったのではないか? たとえば、“このサンドイッチはセコくないですか? ピーナツバターを塗っただけでパンを貼り合わせたサンドイッチなんて! ベーコンとかハム、卵など使ったものを食べたかったですね”みたく。それで、セルは相手をたしなめる意味で昔話を口にしたのではないかな」   
   
 さて、しかし・・・。   
 実は、英語版の文章では、この食事シーンについては "on tour over a shared sandwich on a train" という言葉とともに記述されている。「ツアーの途上、列車内で、分け合ったサンドイッチを食べながら」ということ。   
 サンドイッチはどこで購入されたものか、或るいはセルまたはレーンの家族が持たせたものだったのか等、そういうことは分からない。   
 どのような「分け合い/分かち合い」であったかも分からない。もしかすると2人前が用意されていたトレーまたは紙ボックスを前にして2人で食べたとか、他の人も交えて4人前を4人で分けて食べたのかも知れぬけど、しかし、そうであれば、セルの発言場面を紹介するにあたっていちいち "shared" という言葉を添える必要はあるまいとも思うし、いや、サンドイッチを食べていたとき等の説明すら不要のような気もする。   
 一人分としては少ない量のサンドイッチを口している状況ゆえに、または、食べ物を分け合うという行為にからんで、セルはレーンに向かって昔のベルリンでの食糧事情のことに触れたのだろうと想像するが、さて、どうだろうか。   
   
 先ほどもちょっと言ったように、この伝記を読む意義からすれば食事シーンにこだわる必要性は薄いのだけど、どうにも気になってしまったのだ(戯曲の場面、映画シーン等でもないのに)。   
   
   
 この度の翻訳本の冒頭にある写真コーナーについては、ピアニストのフライシャーの名前がフィッシャーとされていたり、フィルクスニーがファーカンスキーとされていたり、気になるところもあった(人名索引や本文ではちゃんとなっているとは思うけど)。   
 まだ実質的には読み始めていないけど、今後も何か気になる点を見つけてしまうかも知れない。でも、それを指摘することはやめよう・・・なんか、「そういう指摘をするのが趣味なの?」とか「自分で翻訳作業してみろよ、大変だと思うぜ、すぐ挫折しちゃうぜ」などと思われたくない・言われたくないので(笑)。   
   

セルの伝記に関連して


   
 セルの伝記について翻訳書「ジョージ・セル -音楽の生涯-」も登場したことであるし・・・。   
 その31ページから32ページ(英語版では10ページから12ページ)の辺りを読んだ人の一部は、セルが作曲した作品を是非とも聴いてみたいと思うことだろう(他方、亡きセルの側としては「誰かに聴かれること」を望んでいないかも知れないけど)。   
 レコーディングされたものは極めて少ない。ただ、入手しやすい、または、どうにか入手可能なものとして2点のCDがある。それに関して、そしてまたセルの編曲による音楽を聴けるCDに関して、2019年のブログ記事から以下にコピペして紹介(若干の文章修正あり):   
   
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 上の写真2点は・・・セルの作曲作品が収録されているCD商品。   
   
 1枚目の写真のうち左上のものには白石光隆氏の演奏でピアノ作品が収録されている(CD収録内容は写真2枚目を参照のこと)。2002年レコーディング。   
 また、1枚目の写真のうち右下のものにはボツシュタインの指揮により「オリジナルの主題による変奏曲」 "Variations on an Original Theme" ( "Variationen uber ein eigenes Thema" ) が収録されている・・・これは1915年に作曲された管弦楽曲・・・セルの伝記と照らし合わせつつ考えると「1915年の、満18歳を迎える前の17歳の時点で作曲され、1918年に楽譜出版された作品」ということになるのかな。ボツシュタイン指揮によるこの録音(2000年にレコーディング)については、以前、ダウンロード購入も出来たかと記憶するのだが、しかし、本当ならばライナーノート/解説文章を読みながら鑑賞いただくのがよろしいと思う。   
    
   
 そして今度は、以下にて、セルが編曲したものを収録しているCDを紹介してみよう。   
   
 まず、下の写真1枚目は、モーツァルト作品をチェロ協奏曲に編曲したものを収めているCD商品2つ。   
 セルは、モーツァルトのフルート協奏曲第2番ニ長調(K.314)をチェロ協奏曲に編曲している。ただ、しかし、その第2楽章についてはディヴェルティメントK.131を引っ張って来る(活用/採用する)こととした・・・というのが筆者の一応の理解ではあるのだが。   
 写真の左側手前/左側下のCDはチョウ・チン(チェロ)ほかの演奏によるもの。ここで演奏されているカデンツァもまたセルの手によるもののようだ。   
 左側奥/左側上のものはソル・ガベッタ(チェロ)ほかの演奏によるもの・・・ここでは、第2楽章も、そしてカデンツァも、 Sergio Ciomei 氏が用意したものが使われているという・・・第2楽章についてはモーツァルトのオーボエ協奏曲に基づいているとのことである。   
 というわけで、セル・ファンとしてはどちらかといえばチョウ・チン盤をひいきしたくもなるわけだが、ともかく、「演奏を聴いて、その演奏をどれくらい楽しめるか/それで豊かな気持ちに浸れるか」という鑑賞本位の点から評価しても、どうもやはりチョウ・チン盤に軍配が上がるように思える。   
 ガベッタ盤(輸入盤、 88697547812)のライナーノート(封入冊子)でモーツァルトの協奏曲についての注記のうち "1. Satz & Kadenzen" とあるのは、正しくは "2. Satz & kadentzen" であろう・・・併記の英語・フランス語からしても、また、解説文からもそのように考えられる。ハイドンの協奏曲についての注記にも同様の、校正ミスかと思われるところがある。    
 ほか、このライナーノートには妙なところがある。ドイツ人と思われる人物が書いたドイツ語の解説文において、モーツァルトのこの「チェロ協奏曲」の第2楽章についてセルやアルフレート・アインシュタインがディヴェルティメントを活用(採用)するに至ったと説明しているにもかかわらず、その英語訳およびフランス語訳にあっては、ディヴェルティメントについて何も言及していないばかりか、「K.470のヴァイオリン協奏曲のアンダンテ」を活用することとした旨が書かれているのである。(なお、ガベッタ盤の第2楽章の演奏内容は先ほど述べたとおりである。) 妙なことだな。ドイツ語の解説を読まずに英語訳またはフランス語訳のみを読んだ人は、「それならば、チョウ・チン盤の第2楽章で演奏されているあのディヴェルティメントは何なんだい? それはセルらのアイデアと無関係なわけ?」との疑問も持ってしまうかも知れない? ちょっと気持ち悪い・収まりの悪い思いをさせられるか。   
   
 下の写真2枚目のうち右手前のものは、スメタナの弦楽四重奏曲「わが生涯より」をセルが管弦楽曲に編曲したものを収録している。指揮もセル。もちろん、これを聴くことの出来るCDはこの商品に限られない。   
   



   
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本が届いた!



   
   
 セルの伝記の翻訳書(日本語版)が届いた。   
   
 前回ブログ記事で書いた、1969年秋からのクリーヴランド管コンサートに関する件は、この翻訳書では453ページの最終行のところである。   
   
   

あの翻訳書、早く届かないかなー


   
 昨21日、或る本屋さんでセルの伝記の翻訳書(日本語版)を目にし、そして手に取った。   
 この店で買うわけにもいかないのであった・・・なぜなら、別途、通販で注文しているからだ・・・敢えてダブリ購入しても扱いに困るしなあ・・・しかし、通販業者は昨日までにはまだ出荷してくれていない・・・尤も、いま届いても仕事が一段落するまでは(株主総会が終わるまでは)読んでいる時間があまり無い。   
   
 店頭で実物を目にして思ったこと・・・。表紙もガッチリ厚い、しっかり目な造本を予想していたのだが、そうではなかったな。まあ、次から次へと飛ぶように売れていく分野の本ではないだろうし、製本にコストを掛け過ぎることは避けたのだろうか。もちろん、大事なのは内容である。   
   
 ページをパラパラとめくり、一部を読んで気づいたこと・思ったことは:   
   
   
 セル晩年期の状況は誰もが特に気になるところではあろうが、クリーヴランド管の1969年秋から1970年初夏にかけてのシーズンでは、最初のほうから見ていくとセルは下記のような日程でクリーヴランド管のコンサートに登場している・・・カギカッコ「 」でくくったのはそれらのプログラム(演奏曲目)が同一・共通という意味である:   
   
 1969年9月「26・27日」   
 同10月「2・4・5日」、「9・11・16日」、「17・18日」、「23・25日」   
   
   
 これらのコンサートが済んだあと、セルはクリーヴランド管を指揮することをしばらく休んでいる・・・11月にはニューヨーク・フィルハーモニックの指揮を12公演こなし、翌12月の上旬にも同オケの5公演を指揮している。12月中旬になると今度は渡欧してウィーン・フィルとともにあの「エグモントの音楽」をレコーディング。   
 年が替わって1970年1月8日からまたクリーヴランド管のコンサートに登場するようになった。   
   
 さて、上のような状況があったことを受けて、セルの伝記の英語版では、その279ページの最後から2行目以降において、おおよそ次のような趣旨のことが書かれている:   
   
 「10月の終わり(というか、10月度コンサート・シリーズの最後)にあった、このシーズン5本目プログラムのコンサートは、翌1970年の新年を迎えるまでの間では、セルがクリーヴランド管とともに姿を見せた最後の機会となった。そして、この5本目のプログラムの内容はと言えば・・・」   
   
 ・・・敢えてしつこく訳してみたが、サラッとした日本語にするのが実は難しそうではある。   
 さて、この部分がこの度の翻訳書ではどう訳出されているかといえば・・・残念ながら適切には翻訳されておらず、意味不明な日本語になっていると同時に、セルが11月も12月もクリーヴランド管を指揮していたかのように受け止められそうな文章になっている。   
 かなり熱心なセル・ファンでなければコンサート日程を把握していないのも不思議でなく、仕方ないことのようにも思える。また、翻訳作業にあたって大いに悩んだ部分ではないかとも想像する・・・そのため、英語の "his last" の "last" について強引な訳し方をしたのだろうか。     
   
   
 ・・・なお、以上に関しては、むしろ当方こそが誤読しているかも知れないけど。   
    
 しかし、いずれにせよ、容易には手出ししにくい翻訳作業であったことは間違いなく、精力的に翻訳にあたられたこと、そして、出版にこぎつけたことに対して敬意を覚えている。   
   

その曲名表記は間違っていないか?・・・「注目の、不思議な役人」・「かかし玉子」・交響詩「小舅(小姑)」


   
 新型コロナ対応関連の給付金を詐取した経産省の役人にも呆れたが、国税局/税務署の職員についてここしばらく報じられて来た大小諸々の不祥事にも嘆かわしいものを感じる・・・中でも一番は、やはり給付金詐欺に関わったというケースだな・・・ちょっとした「不品行・悪ノリ」レベルの話ではないぞよ。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・   
   
   
 或る居酒屋の店主(40代半ばかな)がこう言った: 「客の入りが以前のようには戻らなくて経営が苦しいので、ちょっと前にあれもこれもと値上げしたんですよ。そうしたら常連客からさっそく“値上げしたのか、ここには夕食のために寄っていたので値上げは痛いよ”と言われ、他の客からも“こんなお通しに500円も出せるか、以前のように300円で十分だろ”とか色々と批判されたので、大半のメニューの値段をまた元に戻したんですよ。なんか・・・(店の経営を)やっていくのが難しいような、そんな気持ちです」   
   
 国民は、値上げ・物価上昇を受け入れる気持ちにはなかなかなれないのだろうな・・・日銀総裁はどう思うか?   
   
 この店主はこうも言った: 「コロナで打撃を受けた飲食店などを対象に、うちの店くらいの小さい店でもあともう1千万円くらい給付金を出してくれないかなって思うんですよ。そんな虫のいい話があるわけないですけどね。コロナ前にはあった貯金も無くなって、借金は増えちゃって。借金を返し終わるのはいつになるんだろうかと。居酒屋チェーンやファミレスなどでも正社員ならば厚生年金加入しているんですよね? 退職金も出ますよね? やっぱりサラリーマンが勝ち組ですよねー」   
   
 うむ・・・しかし、自身が逆境のときに「勝ち組・負け組」などということを考えれば気持ちが沈むばかりというものだろう。また、「勝ち組・負け組」という区分が流行って久しいが、他者と相対比較を始めたらキリがない、上を見ればキリがない。また、経済的成功の状況を基準にして自分が優位と感じたら他者を見下すなどということがあればそれは醜い。   
 「昨日の自分、昨年の自分よりも今日の自分は成長している、スキルアップしていること」を以って「自分に負けてはいないぞ、明日からもさらに頑張ろう」と考える等、そういうときに勝ち・負けを考えるというのは、これは間違いではないと思うが。   
 また、コロナ禍が始まってまだ2年ちょっとである・・・つまり、実は、借金を抱えるようになってから(または、借金が増大してから)それほど長く経っているわけではない。住宅ローンを組み、そして長年にわたって返済していくケースと比べて考えれば、早々に絶望し嘆くのはどうかな。世の中、たぶん、計画的自己破産のケースも増えているだろうと想像するが、「息長く頑張るなんて出来ない、頑張りはほどほどに、さっさと諦めて自己破産し、身軽になっちゃおう、生活保護を受けるテもありかな」的なモラル低下も懸念されるな。大半のサラリーマンには定年退職があるが、しかし、飲食店経営者の場合には生涯現役を目指しやすいのではないか。80歳を過ぎてまで借金返済が続くようなことがあればそれは面白くないかも知れないが、しかし、もともと「このコロナ禍もいつかは終わる、コロナ禍があっても飲食店経営の道を進み続けるぞ」との決断・選択をしたそのリスクは自分で負うべきものだろう。   
   
 しかし・・・。   
 ずいぶん前、もちろん新型コロナなどまだ問題にもなっていなかった頃、別の、どこだったかの居酒屋の店主はこう言っていたけどな・・・「自営業者こそ勝ち組。イヤな上司に顎で使われなくて済むし、自分の実力次第で稼げるし、収める税金の額もけっこう調整できちゃうし」と。この言葉の最後の部分が意味することは、おそらく、いわゆる売上げ除外(売上げの一部を「無かったこと」とする=売上げ伝票を捨てる・書き改めるのと同時に対応する額のカネをレジから抜いて隠し財産とする)、本人・従業員の福利厚生・慰労その他の名目で様々な支出を経費扱いにすること等だろうなあ(後者については、個人所得税の場合にはわりと甘い扱いとなっているのかな、よく知らぬが)。   
 新型コロナが飲食店をはじめとする事業者の経営を苦しめるようになってから、持続化給付金、店舗家賃支援金、雇用調整助成金などで対応策もとられたし、また、飲食店についてはさらに時短営業・休業に関わる協力金もあり、これはとても恵まれた支援だったと言えるのではないか・・・過去において、社会状況の変化によって経営不振に陥り、そして廃業を余儀なくされた、街の本屋さん・文房具店・畳屋さん・金物屋さん・豆腐屋さん等々はこのような支援を受けることは無かったわけで。コロナ禍にあれやこれやのカネを手に出来た飲食店は、実は一種の「勝ち組」・「延命措置ゲット組」とも見なせるのでは?   
   
 飲食店の経営はまだまだ苦しさが続くかな。食材の値上がりがどうなるか。また、これからの夏場にはエアコンもフル稼働させる必要があろうけど、電力料金は上昇していくだろうし。人々の、夜の外食のための支出はかつてほどには盛んでなくなっているだろうし、リモートワーク浸透によって昼夜ともに人出が減ってしまった街というのもあろう。「忘年会」という言葉が死語になってしまう時代も近づいている?   
 それでも、繁盛する店はちゃんとある・・・淘汰というものだろう。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
 何年か前のこと。   
 或る居酒屋で、筆者が立ち寄る前に店主と常連客との間でこんなやりとりがあったようだ:   
   
   
 客: 「(本日のおすすめとして掲示されている)この“柳ガレイ干物”って何?」   
   
 店主: 「鰈(カレイ)の仲間でそういうのがあるんですよ、それの干物。ああ、今日、○○さん、来ないかな。あの人なら注文すると思うんだけど」   
   
 ・・・上の○○さんというのは筆者を指してのこと。そのあとに筆者がこの店に寄り、そしてこんな具合にオーダーしたと思う:   
   
 「えーっと・・・柳ガレイの干物と、揚げ出し豆腐をとりあえず。あと、日本酒を常温で」   
   
 すると、常連客数名から笑いが漏れた。筆者は「?」と思ったのだが、こちらが入店する前に先ほどのようなやりとりがあって店主の想像が当たったのだと聞かされた。   
   
 しかし、注文の品が筆者の前に運ばれて来たとき、顔見知りの常連客からこう言われた:   
   
 「それが柳ガレイですか? それであの値段ですかあ(注:確かにそれほどのヴォリューム感があるものではなかった)・・・高いなあ。俺ならチキンカツとハンバーグを選んじゃう、それでもお釣りが来る」   
   
 うーむ。筆者はこう応じた:   
   
 「これがまた美味いんですよ、値段だけの価値はあって。柳ガレイの干物はいつでも手に入るものではないし」(店の利益分も乗っているから魚屋さん・スーパーなどで買うよりはずっと高くなってはしまうけど。なお、土地によっては「ありふれたもの」かも知れぬ)。   
   
 相手は、肉料理や揚げ物が大好きなのだな。食べっぷりも豪快。ただ、それゆえにか健康上の問題も抱えているようだった。   
   
 そして、つい最近、筆者がこの店に寄ったとき、ふと「あの××さんという人は最近も来ていますか?」と店主に尋ねたら、「あの人、糖尿病の具合がいよいよ悪くなって、酒もやめて、食事も外では摂らずに奥さんの手作りのものを口にしているようです」とのことであった。   
 まあ、筆者も塩を用いた食べ物を摂り過ぎる傾向にはあるから、その点など気をつけねば・・・しかし、一応は現在まで血圧関係も含めて健康上の問題は無さそうだけど。   
   
   
 ・・・・・・・・・・・・・・   
   
   
   
  名鉄を  撮ってくれろと  奈津子・佳奈   
   
  解釈: ふたりの幼い娘、奈津子と佳奈を連れて散歩に出たとき、向こうに見える線路を電車が走って来た。その際、娘たちから「あれを写真に撮って!」とせがまれたというもの。なお、この句に季語は無い。   
   
   
   
  あしひきの  山かけ蕎麦を  すすりつつ   
  トスカニーニの  「ハルサイ」を聴く   
   
  解釈・解説は特に不要だろう。いや、この短歌の後半はおかしくて(デタラメで)、トスカニーニには「春の祭典」のレコーディングは無いと思う。ただ、先日、トスカニーニが指揮したらどんな感じになったろうと思うことがあったので。「ハルサイ」でなく例えば「イタリア」(メンデルスゾーンの交響曲)などとすれば、ま、問題は無かろう・・・でも、短歌全体としては珍妙に過ぎるな。   
   

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